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2話

 これは夢だ。そう気付いたのは、この世界に身を置いて数十秒後の出来事。

 ひたすらに理不尽な殺戮が、ここでは繰り返されている。死んだのは女の子だった。それも、まだ年端も行かない子ども。目を眼球が飛び出すんじゃないかという勢いで見開きながら、嗚咽交じりの悲鳴と咆哮を撒き散らす。悲鳴、と言うには少し相違が発生するかもしれない。響く高音は女性の嬌声とも似ている。身体が血を噴出す。それも彼女の声だとでも言うのか。そして、夢の世界の視界を操作できない私は、それをひたすらに直視する。

 知っている。私はこの光景を知っている。

 『こわれたにんげんの、こわれたせかい』。この本の第一章を飾るシーンと一致している。女の子がひたすらに死ぬ世界。彼女の流した、涙か血かそれ以外の何かかで染められた真っ赤な鮮血世界。読んでいた時も気持ちの良いものでは無かったが、実際に音と映像を合わせられると、気が狂ってしまいそうだった。

「――」

 ふと、女の子の声が止んだ。グギギギギ、と機械が擦れるような音を立てながらこちらを向いた。真っ赤に染まった女の子の顔は、やはり真っ赤だ。しかし、引ん剥いた白目だけはしっかりとした色を主張し、私を貫くような視線で見ている。きっと洗い流してやれば、整った顔立ちで男子生徒にもてはやされたに違いない。傷ついた黒髪は、きっと愛しい人に撫でられるためにあったに違いない。

「ねえ、飽きちゃったよ」

 初めて聞いたその子の声は、驚くほど澄みわたっていた。一体この声が出せる喉のどこから先ほど上げていた咆哮が唸っているのか、想像もつかないような綺麗な声だった。

「もう、死ぬのに飽きちゃったよ。新しい遊びを探さなきゃ」

 ぴちゃぴちゃ。もはや小さな池と化してしまった足場を女の子は手で探り始める。何もあるわけない。文字通り水を掴むような絶望感しかない。見ていてやりきれなくなってくる。でも、夢の世界の私は肉体が無く、彼女に手を差し伸べてやることが出来ない。彼女の虚しい一人ごっこを止めてやることが出来ない。

「あなたが、憎いの」

 私のことを言われたのかと思って身体を一瞬震わせたが、彼女の視線は依然として血の池に向いている。水面に写った自分の姿に向かって言っているらしい。

「わたしも、あなたが憎い。いらないのに、どうしているの?」

「だって最初からいたんだもの。あなただってどうしてここにいるの?」

「わたしだって最初からここにいたの。早くいなくなってよ」

「あなたこそいなくなってよ。いらないじゃない」

「あなただっていらないじゃない」

 繰り返される自虐。いや違う。実際に彼女は、水面に写る自分の存在を必要としていないように見える。女の子は拳を作り、勢い良く水面に振り落とした。血が弾け、形となっていた彼女がぐらぐらと揺れる。そうして揺れが収まった頃、一人の彼女は消えていた。

「――なんだ、わたしもいらないじゃない」

 そうして殺戮が再び繰り返される。目の前で彼女が笑う。笑いながら死んでいく。まるで、自分が死んでしまうことがこの上なく嬉しいことかのように、怖いくらいの満面の笑みで死ぬ。

 狂気と狂喜は何が違うのだろう。

 こういうものを見ると、私はそんなことを思うことがある。辞書で調べてみれば、「狂気」とは気が狂っていること。また、異常をきたした精神状態のことを言うらしく、「狂喜」とは異常なまでに喜ぶことだと言う。でも、狂喜とは狂うと言う言葉が使われているように、やはりどこか普遍的でない部分が存在するのだろうと思う。そしてそれは狂気ではないのだろうかと。

 彼女が喜んでいようがいまいが、どちらにせよ狂っている。

 そして、それを目を逸らさず見届けることが出来る私も、きっとどこか――。


  *


 夢見が最悪だったので、結局病院についたのは昼過ぎだった。そもそも起きたのが十時過ぎだ。普段なら休日でも八時には起きる私が、二時間以上の寝坊をした。風邪気味とは言え、どこかたるんでいるのかもしれない。

 病院の名前は『森野医院』といって、名前の通り鬱蒼とした森林の中にある病院だ。空気が良いとかリラクゼーション効果があるだとか、適当な理由をつけて院長が建設を依頼したらしい。院内のデザインも院長の趣味で統一されている。そのせいだかなんだか知らないが、安らぎの空間だとかありがちな謳い文句をつけられて市の名所として雑誌に紹介されたことがある。

 だが、私がそこに行くまでに一つ問題がある。

 森の中というだけあって、その道のりが普通と比べると険しい。病人に対して安らぎの前の試練とでも言いたいのか、全く持って皮肉な場所に建てたものだと思う。

 険しいというのは、一般的に見れば『道路が舗装されていない』ということを言うのだろうが、私にとっては何よりも『森』という存在自体が険しい。

 優等生を気取りたい私にとって、最も自虐すべき弱点がある。それが『虫』だ。

 六本足の昆虫だろうが、それ以外の害虫だろうが、あの小さなフォルムに収まるグロテスクさといったら、言葉にしたら四百字詰め原稿用紙十枚は書けそうなほど。無数の網状の眼球に葉脈のような羽といい、何故あんなにも醜い形に神様は創造してしまったのか、敵ながら同情したい。

 そんな悪魔の形相を浮かべる未知の生命体が蠢く森林。季節は春先で、ちょうど活動を始めた虫たちが空をひらひらと舞っている頃だ。私に死ねとでも言うのか。むしろ、何故近場にこの病院しかないんだ。救急車とか入れないだろうここ。

 頭の中で無限の愚痴をこぼしていると、目先に白い建物が現れた。清潔感漂うとは言い切れないツタの伸びた看板に『森野医院』と乱雑な筆書きで記されていた。この病院が名高いと言ってしまうのならば、大学病院には神でも住み着いていそうだ。

 カランカランと引き戸の上に取り付けられた来客を知らせる鈴が鳴る。まるで風鈴のような音で、ここに来るといつも季節を間違えそうになる。

 中はとんでもなく殺風景かつ自然的で、ログハウスと名付けるのが良いのではないだろうかと思う。だが、客足はちらほらと見え、伊達に雑誌で紹介されただけではないようだ。

 医師の適当な診察と「風邪ですね」という定型化された言葉を頂戴し、診察はつつがなく終了。薬だけ貰った方が安上がりで良いと思うが、何故か毎回診察を受けてしまうのはどういう人間の性だろうか。

 病院を出ると、昼間の温かな日差しがいやらしく迎えてくれた。眩しい。一度背伸びして、さあ帰ろうかと思った瞬間だった。

「先輩っ! おはようございまっす!」

「……」

 ……誰? というかもう昼だ。おはようございますじゃないだろう。

 目の前に現れた少女は、後ろに一つ結びをするストレートポニーテールを揺らしてこちらに近づいてきた。服装は随分とラフなワンピースを着ている。手には小さなハンドバッグが握られており、今からデートにでも出かけるんじゃないかと思わせる風貌だった。

 そして、この子にはどこか見覚えがあった。先輩、と呼ばれたからには間違いなく後輩なのだろうけれど、『先輩』と私を呼ぶ生徒は覚えきれないほどにいる。顔合わせしたことは間違い無さそうだが、流石の私でも覚えていない。

「えっと……どちら様?」

 なるべく失礼の無いように、下手に出つつそう訊いた。

「忘れちゃったんですか? ほら、昨日に購買部でサンドイッチを分けて貰った貧困民ですよ。財布の中身がいつも千円以下しか無いことに定評のあるあたしですよ!」

「いや、そんなことは知らないわよ……」

 が、なんだか記憶の靄がかかっていた部分が鮮明になってきた。昨日と言えば、私が『神』を自称する痛い子と出会った日だが、そのきっかけがこの少女だったかもしれない。第一印象、五月蝿い。

「あ、その顔は思い出してくれましたか? いやー、あたしも自分のことなんで薄々勘付いてはいたんですが、結構影薄いっすよね。別に前髪垂らしてるわけでも背後霊背負ってるわけでもないのに、あんまり人から気にされないんですよねこれが。社交性とかもへその緒と一緒に切り取っちゃったのか微塵もありませんし、あ! だからなんですね、あたしが友達少ないの。因果ですね因果」

 訂正は無い。第一印象は五月蝿いで不動の位置である。

 それでもまだ彼女は止まらない。後ろから差している日差しよりも明るいんじゃないかと思うくらい眩しい笑顔を輝かせて言葉は続く。

「あ、ちょっと引いてます? 何だこのマシンガンみたいに話す奴は、超きめえとか思ってます? すいません、あたし普段人と話すことがあんまり無いもんですから、いざ話し始めると背中の緊急停止ボタンでも押してもらわない限り止まれない超特急列車なんですよ。いや自分でも自重したいなーとか思ってるんですけど、なんだか止まったら死ぬような気がして。マグロかっつうのマジで。あ、不感症じゃないっす」

 一人で突っ込んでいた。そしてそんなことは聞いてない。

 昨日の昼休みに見た時も相当危ない子だとは思ったが、まさかここまで舌がぐるぐる回る子だとは思わなかった。マシンガンみたいに話す奴というのは、存外的を射ているかもしれない。

「ま、待って。少し落ち着きなさい。まず名前を教えてくれない?」

 すると、私の注文が意外だったのか、一瞬呆けてからニコッと笑って応えた。

白椿菊乃しらつばききくのっていうんですよあたし。マジで不吉だと思いませんこれ。『椿』は首落ちでお見舞いにタブーだし、『菊』は習慣的に葬式にタブーですよこれ。文字面だけ見れば時代劇みたいで格好良いんですけどね、椿あるところに菊あり、みたいな感じで。意味も無いしむっちゃどうでもいいですけど」

 自己紹介すらも長い。物凄く楽しそうだが、聞いているこっちは話半分が限界だ。

「そんな豆知識はどうでもいいんだけど、病院に行くならさっさと行ったほうが良いわよ。そろそろ混み始めるだろうし」

「ああいえいえ、本日は診察とかに来たわけじゃなくて、先輩に会いに来たんですよ」

「私に? どうして? っていうか、どうやって私がここにいるって知ったの?」

「いやぁ、一度ご自宅にお伺いしたんですがね、不在だったもんで親御さんに行き先を聞いたらここだって言うもんですから」

「私の家はどうやって知ったのよ」

「え? いやそりゃぁほら、あの日にストーキング……じゃなかった。お礼を言おうと思ってこっそりと後を付けていたんですよ」

「貴女、それ訂正する意味が無いわよ」

「おぅっと! 失態ですね。あたしも何でしたっけ、ケーワイ? なんか猥談みたいで嫌ですねこの呼び名。まぁそんな感じの奴になりたくなかったもんで。ほら、先輩昨日の帰り、男性の方と親しげに歩いていたもんですから」

 その言葉に私は顔をしかめた。あの豪雨の放課後、灰田と共に帰宅していたところをこの白椿さんに見られたらしい。どうやら深読みはしていないみたいだが、あまり私としては放っておける事態でもなかった。何せ、『親しげに』って。本気でぶっ殺すとまで言ってしまった奴に対して使う言葉じゃない。

「白椿さん……で、いいのよね。それは誤解よ。あいつとは昨日会ったばかりで、知り合いでも何でもないわ」

「ほー、そうなんですか。彼氏さんじゃないんですか」

「彼氏? あれが彼氏だったら今頃私は棺桶の中にいるわ。生涯を死後の世界まで悔いてると思うわ。白椿さんも見たなら、なんだか彼おかしいように見えなかった?」

「やー、あたしそこまで視力良くないんで。千里眼とか持ってたらきっと鼻の穴の細部まで見られたんでしょうけど。あの灰色の方と面識があるならまだしも、遠くから見ているだけで人を判断できたら、今頃あたしは聖徳太子ですよー」

「聖徳太子は別にそんな能力持ってないわよ……」

「あはは、そうですよねー」

 頬を掻いて、恥ずかしそうに笑った。

 口が回るから頭が良いのかと思ったが、そうでもないようだ。というか良く分からない発言をする子だ。

「……それで、私に用があるんじゃないの?」

「ああっ、そうでした! お礼をしに来たんですよ。ちょうど財布の中身も親からの支給によって持ち直したことですし、何か奢りますよ先輩」

「いえ、申し出はありがたいんだけど、私今日風邪気味なのよ。だから外食はちょっと……」

「おうっと、これは気が回らなくてすいません。冷静に考えれば病院にいるんですから体調が悪いんですよね。先輩と会うことを意識しすぎていたせいで失念していました。因果ですね因果」

「ああ……うん、分かってくれたなら良いんだけど」

 素直に頭を下げてくる点、礼儀正しいようだ。多少、いや相当五月蝿い点を除けば良い子なのかもしれない。そう考えると、なんだか折角外出用の服も着てきてくれたのに、申し訳無くなってくる。このまま返してしまうのは酷というものだろうか。

「じゃあ、明日遊びましょう先輩!」

 私の手をぎゅっと握って、相変わらず目には星を携えながらそう言ってきた。前言撤回、どうやら随分と図々しいらしい。

「えっと、風邪が治ってたらなら良いわよ」

 多分予定は無いはずだ。灰田との一件以来携帯をチェックしていないので何とも言えないが、何か連絡があったとしてもこちらを優先してやろう。

「マジすか! 明日先輩の風邪が完治する確率は百パーセントなので何の問題も無いですね。あたしが無駄に祈祷とかしておきます。やべっ、雨乞いの儀式と間違えちゃった! とかやらないんで安心してください」

「雨降ったら完治しててもちょっと厳しいわよ……」

「おおぅ……ますます気合が入りますね」

 身体をわなわなと震わせながら、手の平を何かの形に作ろうとしている。いや、印とか関係ないと思う。馬鹿なのだろうか。それともわざとなのだろうか。出来れば前者であって欲しい。

「じゃあ、明日連絡するんで、ケータイの番号とメアド教えてもらって良いですか?」

「ええ、別に構わないけど……」

 ポケットの中からケータイを取り出して、白椿さんのものに赤外線送信する。白椿さんはうへへっ、と奇妙な笑い声を上げて、画面を舐めるよう見ていた。なんだか気持ちが悪い。

「じゃ、じゃああたしは儀式の準備をしに家へ引き上げます。先輩はしっかりと滋養なさって下さい。調子がちょっと良くなったからってゲームとかやっちゃ駄目ですよ。意外とああいうのってぶり返すらしいですから」

「子どもじゃないんだからそんなことしないわよ。ゲームなんか持ってないし」

「なら本とか読まないで下さいよ。あ、そういうの防止するために、あたしが先輩の家まで着いていって寝るまで見張るってのはどうでしょう。お粥くらいなら作れますよ。クソ不味いですけど」

 不味いのか。せめて美味しいのなら考えたのに。

「い、いや、気持ちだけありがたく受け取っておくわ。貴女は早く帰ってその儀式とやらの準備をしたほうがきっと人生楽しく過ごせると思うの。私も」

「そうですよね! じゃあ、明日楽しみにしてます!」

 ビシッと敬礼すると、マシンガンこと白椿さんはロケットのように走り去って行った。

 

  *


 翌日、白椿さんの名前はマシンガンやロケットに加えて、ブラックホールという異名をつけざるを得なくなった。兵器から宇宙まで昇華していた。

 地元にあるファストフード店に昼頃入った私たちは、微妙に客が込み合っていたのでそれぞれ違うレジで注文と会計を済ませたのだが、私の目の前に置かれた食料はどう見ても二人分では無かった。私は簡単に四百円程度で済ませられるものを頼んだというのに、白椿さんは暴飲暴食という言葉が帽子を投げて逃げ出す量を机の上に陳列させている。何気にサラダも忘れていないところに謙遜が感じられるが、正直見ていてこっちが吐き気を催してくる。

「そ、そんなに頼んで食べきれるの?」

 彼女は目をキラキラさせながら頷いた。

「余裕ですよこんなの。腹八分目ってやつです。まあ、こんな頼んでるから財布の中が万年氷河期なんでしょうけど」

「そう……お腹壊さないの?」

「大丈夫です。あたしの胃袋は基本的に全ての食物が別腹別腹、まるでゴミの分別みたいですけどそんな感じに果てしない銀河系が広がってるんですよこれが。俺の胃袋は宇宙だ、なんて屁でもないですよ」

「なら本物の胃袋には何が入るのよ」

「酸素ですね」

 それは肺だろうにと突っ込みたかったが、きっと不毛に終わるだろうと推測してやめた。

 白椿さんが一つ目のハンバーガーに口をつけながら、上目遣いに言った。

「それにしても先輩も貧欲ですよねー。折角あたしが奢りますよーって言ってるのに、そんなセットメニューだけなんて。あ、今からアイスクリーム一品追加頼んでおきましょうか? いや、太るのを懸念しているのなら大丈夫ですって。先輩スタイル良いですし、運動していれば万事解決ですよ。っていうか、毎朝ランニングとかしちゃってるんじゃないんですかその肉体美。服の上からでも分かりますよ。因果ですね因果」

 食べている時すらも口の減らない娘だ。

 私も話していては食が進まないと、ハンバーガーに口をつける。ジャンクフードはあまり好きな類ではないが、味が良いというのは保証できる。かなり久々に食べたけど、中々悪くない。

 私が口をつけるのと同時に、白椿さんの手からハンバーガーの姿が消え、代わりにストローを吸っていた。左手にはテリヤキがある。口がべたべたになるのを怖がっているのか、どこから食べようか迷っているように見える。

「ところで……貴女のその『因果ですね因果』って口癖、随分と特殊だけど、何かの真似?」

「あたしのですかぁ? いや、別に誰の真似でも無くオリジナルなんですけどね。これでも自分で変だなぁとは思ってるんですよこれが。まず高校生の分際で因果なんて言葉やたらと使う時点でおかしいじゃないですか。まぁ、簡単に言ってしまうとあたし、運命って言葉がむっちゃ嫌いなんですよ。それに、やっぱあたしには乙女チックなものは合わないなぁと思って。ほら、ちょっと背伸びし始めた素人作家が『概念』とか『観念』とかやたらと使って格好よさアピールしちゃってるのと同じようなもんですよ。だからあたしも『因果』とか使っちゃってるんです。実はあんま意味分かってないんですけどね」

「まぁたまに聞くわねそれ。中高生とかがやるって」

「ですよねー。こう、『ハンバーガーが二段であることを誰が決め付けた。それは観念だ』とか言ってメガマック生み出したみたいな。あ、こんな話してたらメガマック食べたくなってきません? 因果ですね因果」

「ならないわよ……。特に、今の貴女の状況を見てたらね」

「あははー」

 申し訳無さそうに頭をかいて、テリヤキマックバーガーを胃袋に放り込む。ちなみに三つ目である。同時に頼んであるジュースが、ずずずずっ、と音を立て始めていた。

「先輩って、運命とか信じちゃうタイプ……なわけないですよねー」

 言葉の尻を切らせて、何故か嬉々としていた表情が沈み込んだ。そして、私が何か答える前に、どこか遠くを見るような目で語り始める。

「いや分かってるんですよ。最近の女子コーセーってやつも随分とませちゃったもんで、運命を感じちゃったのっ! とか言ってみて下さいよ。周りの人たちにクソみたいに笑われますよ。先輩もどちらかというと運命なんてクソ食らえって感じですかね。いやあたしも運命なんか信じちゃいないんですけどね。原因も何も無いのに、そうなる運命だったなんて。あまりに理不尽すぎてアイスティー吹いちゃいますよホント」

 この白椿菊乃という娘、もしかしたら物凄い子なのかもしれない。一見してどこにでもいそうなギャルのような雰囲気をかもしだしているにも関わらず、何か深いものを感じる。それが何なのかは定かではないが、恐らくは『因果』という言葉を覚えた、『運命』という言葉を乱用するようになった原因があるのだろう。ニコニコと笑ってはいるが、そのくせ腹の中で何を抱えているのか検討も付かない。ある意味では灰田と同じく掴めない少女だ。

 とは言え、金曜日の下らないことに律儀にお礼をしてくれるというのは素直に嬉しい話で、私は相手に失礼な念を抱いたな、と思って彼女の話に微笑んでおいた。

「あー、笑ったってことは図星ですか煮干ですか一番星ですか。いいんですよー、あたしも先輩も同類、『夢見ない乙女軍団』ってチーム就任ですよ。あれですかね、今流行のノンレム睡眠ってやつですかね。あー、別に関係ないですけどね。ところで、先輩、箸……じゃないや、手が進んでませんね。あれですか、ダイエット中ですか?」

 しかし本当に口の止まらない少女である。これだけ一斉射撃を受け続けていれば手を動かすタイミングも見逃してしまうというものだ。こちらはハンバーガーセットしか頼んでいないというのに、白椿さんに完食のタイミングを越されそうである。

「手が進んでいないんじゃなくて貴女が早すぎるだけよ。もっと良く噛まないと消化に悪いわよ? ……というか貴女、噛んでる?」

「いやですねー先輩、そんな早食い選手権に出るわけじゃないんですから。最悪ご飯の旨みが口内全体に広がる程度にはしてますよ。あー、考えてみるとあれって微妙じゃないですか? 糖がデンプンに変わるんでしたっけ? 逆でしたっけ。まあどちらでもいいんですけど、なんかそんなのをくちゃくちゃ噛んでるって正直あまり気分が良いものじゃないですよ、いえあたし的にですけど」

「気持ち分からないでもないけれど、それを言ったら貴女が今食べてるそのジャンクフードだって変わらないじゃない」

「これは別物です。ああやって『ご飯は噛んだ方が良い』なんてことを植えつけてくれやがりましたからに、こんなことを思ってしまうませませさんになっちゃってるんですよあたしは。因果ですね因果」

 最後のサラダに手を付け始めながら、得意の口癖を披露する。私もちょうど最後の一口を放り込んだところだが……白椿さんのサラダを見て不覚にも釘付けになる。菜食主義ではないが、あの類のサラダセットというのはどうにも魅力がある。緑黄色野菜とはよく言ったものだ。……赤も混じってはいるが。

「あー、なんですかその視線は。エロいっすね先輩。なんかこう、王の座を虎視眈々と狙うあまり王女を快楽の底に引きずりこんで拉致監禁調教して奈落の底に叩き落そうとしているどっかの鬼畜の目ですよそれは。サラダが欲しいならそう言ってくれればいいじゃないですかー。奢りがいがあるってもんです」

「…………私が今まで生きてきた中で嫌な表現ランキング一位をぶっちぎりで冠したわ」

「えへへ、お褒めの言葉光栄です」

 不名誉過ぎて非常に遺憾だ。というかただの変態じゃないそれ。そして褒めてない。色々言いたい事はあったが、本人が嬉しそうにするので黙っておいた。

「じゃあ強情な先輩のために一個だけ質問しますから、それに答えてくれたらサラダ奢ります。ちなみにサラダいらないから質問に答えないっていうのは却下の方向で」

「というよりもさっきから質問攻め……に、あっているわけではないのよね……。なんだか貴女と話していると混乱するわ」

「それはご愛嬌ってことで妥協してくだせぇ先輩。……で、質問なんですけど」

 白椿さんは財布を持って立ち上がる。中々に中身が入ってそうなその分厚さに目を囚われた、その時だった。

 視線を、眼球丸ごとと一緒に持ってかれた。その先には白椿さんの視線。二つが一本の鉄線によって繋がれたかのように動かせない。その間に雫が垂れるのを待っている。

 何が起きたという問いに対して、何も起きていないと答える。誰がという問いに対して、白椿菊乃と答える。何処だという問いに対して、ファストフード店と答える。なら、何がおかしいのかという問いに対しては、全てと答えるだろう。

 ――いや待て。何もおかしくなんてない。ただ見つめられているだけじゃない。落ち着け、頭を必死に冷やせ、疑心暗鬼になるな。相手はそう、白椿さんじゃない。

 繋がれた鉄線に雫が落ちた途端、周りの喧騒が激しく耳になだれ込んできた。今までそれを失っていたことに気付き、思わず生唾を飲み込んだ。しかし、対する彼女は依然としてニコニコと笑みを浮かべたままだ。そう、何も起きてはいない。風邪のせいだろうか。胸奥にヘドロが詰まったかのように呼吸がし辛い。吐き出したいと胃の辺りが喚いている。黙っていろ、私は白椿さんと話をしているんだ。

「――彼と、何時何処で何経由でどんな状況でどういった理由で何で放課後に何を話しながらどんな感じに帰ったんですか?」

「……は?」

 私が話しているのは、白椿さん?

 質問が破綻している。どう答えろというのか。

 何時何処で何経由でどんな状況でどういった理由で何で放課後に何を話しながらどんな感じに。並べ立てられた言葉が暴力のように襲い掛かり、私はその拳を姿として認識出来ない。一語一語が思考を殴り、ガクガクと揺さぶられる脳味噌に三半規管が悲鳴を上げる。混乱じゃない。破綻だ。

「……うっ」

 急激な吐き気を催した。急いで口に手を当て、嘔吐感を押さえ込んだ。

「先輩? 先輩! ど、どうしたんですか、物凄い顔が青いですよ。何かハンバーガーの中におかしなものが入ってましたか? ちょ、何か飲み物貰ってきます!」

 視界から白椿さんの姿が消える。

 何故消えたのか。いや、そんなことを問うている暇など無いはずだ。

 問題は、『何故私はこんな風になっているのか』にある。それ以外に興味を持つな。彼女の質問が破綻していたことなんて眼中に置かず、私がそれについて過剰な疑問を持ったことも眼中に置かず、冷静になれ。何故、こんなことを考えている。

 私の中で何かが破綻した。積み上げた積み木が誰かに蹴飛ばされたように思考が纏まらない。あと一つか二つ積み木の欠片が足りない。私はそれを必死になって暗中模索している。暗い場所にいるわけじゃない。ただ、偽物のピースが多すぎてどれが本物なのか分からない。誰だ、知らない間に形の合わない別物を入れたのは。向かい先の無い苛立ちが無意味に重なり、一つの積み木を形成しようとしていた。

 そのうち白椿さんが店員から貰っただろう水の入ったコップを持って戻ってきた。最初それが何なのか分からなかったが、やっとのことでそちらに意識を向けて飲んだ。冷たい感覚が喉を嚥下していく。体中の細胞に伝わり、ようやくクールダウンした。

 白椿さんは私の背をさすりながら、心配そうな顔でこちらを覗き込んできた。

「せ、先輩。やっぱり病みあがりだから調子がまだ……」

「いえ、大丈夫よ……なんとか持ち直したから。ごめんなさいね、折角誘って貰ったのに。一応熱も下がったし身体の調子も戻ったと思ったのだけれど、油断したわ」

「そうですよね、因果ですね因果。無理して誘ったあたしが言うのも何ですけど、早く帰って薬を飲んだほうがいいかもしれません」

「ええ。でも、風邪薬くらい常備していれば良かったわ……」

 そう思って視線を落とすと、視界が少し暗くなった。それが人の影だと気付いて見上げると、そいつはそこにいた。

「――薬ならここにあるぞ」

 黒い巨塔とでも言うべきだろうか。

「名乗りが必要そうな顔をしているな。俺の名は黒住儀軋くろずみぎきし。何、薬を持っているというのは嘘じゃない。俺は嘘が無期懲役の次に嫌いだし、嘘つきは泥棒になる前に殺してしまいたいくらい嫌いだ。――無論これに嘘は無いが、主に悪意で出来ている」

 そこには圧倒的な高さと、圧倒的な悪意を持った黒ずくめの男が無表情に笑っていた。


  *


 目の前に差し出されたカプセルを見た。

 私が昨日森野医院で貰ってきた薬と外見は完全に一致する。しかし、カプセル薬なんてものは見た目どれもこれも同じだ。信用するためには残り九十九パーセントは足りない。

 黒住という男はこう続けていた。

「俺は薬剤師の免許を持っているわけでもないし、医者でもない。だが、貴様が何故そのように苦しんでいるのか、その理由は分かる。これに嘘は無い。もう一度言おう、これら全てに虚言は含まれていないが、主に悪意で出来ている。故に現在貴様には俺を信用するか否かの選択の余地があり、俺はどちらに転んでもそれは結果なのだと見過ごそう。無論、これにも嘘は無い」

 言葉遊びのメリーゴーランドに乗っているような気分だった。嘘は無いと繰り返す癖に、悪意だ悪意だと強調する。やけに大人びたピエロが同席しているようだ。

 黒住儀軋。苗字の方はいいとして、とんでもなくネーミングセンスを疑う名前の男。とにかく服装が黒一色で統一されており、ミラーサングラスをかけて髪の毛をガチガチに固めていた。年齢は声と態度から察するに私より少し、いや大分年上なのかもしれないが、おじさんと呼ぶにはまだ若々しい部分があった。そして何よりも、この身長。私も低い方ではないが、勿論男性には劣る。とは言え、ここまで見下されるとあまり良い気分はしない。百八十五は間違いなくある。私は何だか負けたような気分になって、無理矢理気丈に振舞った。

「医者でもない、薬剤師でもない。……突然の親切を無下にしてしまうようで悪いんですが、拾ったものは食べない主義の人間なので」

「聡明な判断だな。人の偽善は受け取っても、人の悪意は受け取らないのが人間の面白いところだ。まあ、元より俺も貴様がこれを手に取るとは毛ほども思ってなかった」

 笑っている。口元は一文字に引かれたままだが、私には分かる。こいつは私が薬を手に取らなかったことを、子どもみたいに楽しんでいる。

 ――これが、悪意ね。

 劣悪ではない。そういった卑劣猥劣と呼ばれる不純の悪ではなく、子どもがカエルに爆竹を仕込むような純粋な悪意。私がこの薬を受け取った姿を想像して『そのまま突然化学反応が起きて死ねば良い』とか『喉に詰まらせてむせないだろうか』とか『私が薬を受け取ってすぐ捨てたりしないだろうか』のような、まるで悪意の無い純粋な悪意がそこに介在していたように思える。最悪でも、親切心なんていうのはまるで無かった。半ば好奇心に似たようなもので動いたと表現するのが最も型にはまる。

 多分、目の前の薬は本物だろう。信用は出来ないが分かる。だって、嘘は無いらしいんだから。

「これは単なる口実だ。俺はそこの娘に用事がある」

 そう言って白椿さんのほうを値踏みするような視線で見る。先ほどもそうだったが、身長が高いために軽く見下されているような気分になる。それもサングラスをかけているために効力が倍増。さながら感じの悪いヤクザといったところか。

 白椿さんはそれに気圧されることもなく、いつもの調子でそれに答える。

「あたしにですか? どーでもいいですけど、先輩が苦しんでるタイミングで話しかけてくるってのも嫌なおじさんですね。狙ったんですか? これはいやらしい因果ですね」

「何、突然俺みたいな人間が話しかけてきても貴様等は変質者か何かと勘違いして、会談は終了。俺の行動原理は常に悪意が主だが、それでも自分に不利な状況に働くことなどそうしない。それは貴様も承知だろう? 白椿」

 黒住が白椿さんの名前を呼んだ。瞬間、白椿さんの形相が歪む。何故かは分からないが、今にも爆発しそうな言葉の溜め方をしているので、横槍程度に彼女に助け舟を出すとしよう。

「貴方、白椿さんとはどういった関係で?」

 するとあの嫌な視線がこちらへ向く。

「どういった関係でもない。というより、貴様にはそもそも語る必要が……」

 ミラーサングラスの奥が見えるんじゃないかというほど強く睨まれる。気持ちが悪い。どうしてこうも、私の周りにはこういう奴が集まり始めたのか……。

 黒住は考え込むようにふむ、と息を鳴らした。どこか灰田に似ているのかもしれない。だから気持ち悪いのか。納得がいった。

「撤回だ。こいつと俺に因果関係は無い。つまり、知り合いではない。俺が一方的に知っているだけだ」

「……ストーカー?」

「あのような下劣、屑同然と同様に扱うな。ストーカーなら、こんなにのこのこと姿を現すわけが無いだろう」

「確かに無いわね。そうね……貴方はどちらかといえばストーカーを追うような立場に近い雰囲気があるわ。不動、炯眼、無関心、追求、そして何かの悟り。警察に近いのかしら?」

「ふん。それは買い被り過ぎだ。それを言うなら貴様のほうが余程に危険な眼をしている。『値踏みしている人間を値踏みする』など、正気の沙汰ではあるまい」

「……」

 睨みつけられたら睨み返すのは正気の沙汰だろう。それが私だ。

 ミラーサングラスの奥、全くこちらからは窺えない眼光が微かに光った気がした。それがこちらに向けられている間、白椿さんがため息と同時に言葉を吐く。

「それで、そのストーカーさんがあたしに何の用ですか? 生憎あたしたち暇じゃないんですけど。先輩を家へ帰さないといけないんで」

 白椿さんがこの男から逃げようとしている。声の質から一目瞭然、本当に微かだが揺れている。何故なのかはやっぱり私には分からないが、息を荒げるのを必死に抑えている。緊張感や、焦りからくるものだ。そして黒住は恐らくそれに気付いている。

 黒住は彼女を凝視する。先ほど私を値踏みしたような汚らしい目、それでいてどこか諦観していて、なのに出来損ないのアヒルの子がいつか更正するのを待ちわびている親のような目。複雑だった。

 気付けば店内の人たちが皆してこちらを遠目に見ていた。自分だけはそこに関ってはいけないという危険信号を細胞が出しているのに、そこから目を離せない。人間の怖いもの見たさという性か。しかし、向けられている側としてはあまり良いものじゃない。奇異の目、まるで自分たちと違うものを見ている彼ら。その標的となっている私は、吐き気が出るほどの嫌悪感に晒される。オレンジジュースをこっそりと飲み干して、一息つく。

 黙殺されている。ここは一体何処だっただろうか、とそんなもの思考するまでも無い。だが、だだっ広い草原の中心にでも立たされたかのようにここは静かだった。誰も話さない、黙殺する。

 勿論それを破ったのは黒住だった。

「……つまらないな。こうして出会えた偶然には感謝したいが、期待した俺が馬鹿だったようだ。最悪怯えては悪いと思ってミラーサングラスまで用意したというのにこの体たらく。見るに耐えないな。そちらのだるそうな娘のほうが『それらしい』というものだ」

「……っ!?」

 それらしい? 私がどのようにそれらしいのだろう。

 がたん、と激しい音を立てて白椿さんが立ち上がった。私が『そう』言われたことが心外だというように黒住を睨みつけた。

「あんた、何なんですか? 小娘だからって馬鹿にしてるんですか? 誰だか知らないけど、あんた何かにあたしのことをどうのこうの言われる筋合いとか無いんですけど」

「怒るな。怒声は好かない。そこには不純な悪意しか含まれていないからな」

「悪意悪意うっさいですね。あんたに向けるものが悪意だろうが善だろうが関係ないっすね。突然現れて何なんですか? 人に言うだけ言って、謝るつもりもないんですか。最低ですね」

 啖呵を切ったように、白椿さんの怒声が飛ぶ。止まらない、完全に白椿さんは怒っているようだ。

 それを見て小さく舌打ちした。この男、また楽しんでいる。白椿さんの口からはどこからそんなレパートリーが出てくるんだってほどに悪口が飛び出し、もはや相手の容貌など関係の無いところまで及び、黒住はそれを何食わぬ顔で聞き流している。既に彼女には興味が失せたのか、視界に収めてもいなかった。

 とりあえず彼女を止めるために、会話に割って入る。

「少し落ち着きなさい白椿さん。この男には何を言っても無駄よ。冷静になりなさい」

 出来る限り冷たく言い放つ。案の定、白椿さんはビクッと親に叱られた子どものように身を縮こまらせ、しぶしぶといった様子で椅子に座りなおした。

「申し訳ない。怒りに狂った人間をあやすスキルは備わっていないものでな」

「別に構いやしないわ。今の貴方とは違った種類の威圧だから、やってることは変わらないもの」

「ほう、嫌味か。風邪で体力を失っているはずなのに、大した度胸だ。どうだ、俺と共に世界に蔓延る屑共を片っ端から豚箱に叩き込んでみないか?」

「そのためには貴方をまず叩き込まないといけなさそうね。でも、難易度が高そうだから止めておくわ。というわけで、お断りよ」

「それは残念だ。勿論これに嘘は無いが、主に悪意で出来ている」

 つまりは残念なんじゃない。馬鹿らしい。

 ふっ、と何かの糸が切れる。次第に視線の人だかりが疎らになり、そのうち全く感じなくなった。日常に戻ってきた、らしい。いつ違う場所に飛ばされたのかは分からないが、少なくとも『ここ』じゃなかったのだろう。今はこの喧騒すらも温かみを感じる。しっかりとした日常に包まれている安心感がある。ようやく肩の力を抜いて、私はジュースのカップに残った溶けた氷を啜った。

「……温いな」

 突然、黒住がそんなことを言う。いつまでも立っていて疲れないのだろうかと思いながら、私はそれに返す言葉を考えていたが、先に白椿さんに越された。

「良いじゃないですか、温くて。あたしはこっちのほうが好きです」

「そうか。いや、そうだろうな」

 何か疎外されたような気分。温いって何がだろう。私が感じた喧騒の温度を、白椿さんたちも感じたのだろうか。だとしたらとんでもない感性だ。まともじゃない。

「さて――」

 黒住がサングラスの向こうから一度だけ私を一瞥したような気がした。

「目的も果たしたことだ。俺はこの辺りでお暇させて貰おうか。この場、黒住儀軋が拝借。再び縁が訪れないことをお互い祈ろうではないか」

 黒い巨塔は静かな地響きを起こしながら身を翻し、私たちが何かを言う前に去って行った。

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