1話
私は優等生だ。
こう言うとまるで私がナルシストのように思えてくるかもしれないけど、実際そうなのだから他に言葉の表しようがない。成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗……かどうかは他人の評価なので分からないが、そこまで酷い外見ではないことは自負しているし、それなりに身だしなみは整える。加えて学校では人徳もあり、今年度二年四組に属した私は委員長として推薦された。交流関係も悪くない証拠だ。
全ては毎日の努力の賜物だ。生まれて持った才能やその手の類のものと勘違いしてもらっては困る。これは神童のような天才的なものとは違う。私は自ら努力によって得た地位であり、能力だ。
私が優等生であればあるほど、悦を手に入れることが出来る。両親に褒められて、友人に尊敬され、先生から好評を貰う。誰しもが望むことを私は実践しているだけの話だが、これを完遂できている人物は、少なくとも私のクラスにはいない。
何故なら、私はそれを遂行するために様々な努力をするからだ。ほかの人は、それをしない。
毎朝のランニングは欠かさない。早寝早起きは勿論のこと、自主学習など毎日の日課であり、予習復習は至極是当然の行い。親孝行のためにも、余った時間はバイトに費やす。非常に充実した生活と言えるだろう。不満は無い。
それは誰にだって出来ること。だけど、これを実際に遂行できる人間は本当に一握りしかいない。私はたまに疑問に思う。難しいことじゃないのに、どうして皆出来ないのだろうか、と。
例えば私の前の席に座る女の子。教科書で正面を隠しているが、明らかに寝ている。こちらまで微かな寝息が聞こえてくるのだ。そんなに眠いなら夜早く眠れば良い。話に興味が無いなら勉強して興味を持てば良いのだ。こんな簡単なことなのに、誰も出来やしない。いや、だからこそ私は優等生なのだろうけれど。
そんなことを考えながら過ごしていると、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。一斉に教科書類を鞄に入れる摩擦音が聞こえてくる。何かがぶつんっ、と途切れたように生徒たちの話し声が立ちこめ、先ほどの静寂はどこかへ行ってしまった。
私の周りにも数人の生徒が集まってきた。
「やっと終わったよ。あの先生の話、聞いててホント詰まんない」
「だよねー。あたしなんか半分以上寝てた気がする」
「机寄せといてよ。購買行ってくる」
一人がそう言って教室から駆け出して行ったのを見送った。
学校は嫌いじゃない。人付き合いも嫌いじゃない。こういう、普段何も考えて無さそうな人も嫌いじゃない。むしろ、私が嫌いなのは先ほど授業をした社会科の教師のような、グダグダと自分の理論や見解を述べて、こっちが聞いてもいないようなことを唐突に語り出す奴だ。真面目に聞いて良いのか聞かなくて良いのか分かったものじゃない。
さて、私もお弁当を取り出そう……と思って手を突っ込んだ鞄の中には、その感触が無い。
「まさかね……」
鞄ごと机の上に出すと、周りの子たちが何事かとこちらを見てきたが、無視して中身を漁る。しかしそこにあるのは無駄に色とりどりの教科書と、先ほどしまった筆箱だけ。毎朝母親が水色の巾着に詰めてくれる弁当箱が無い。
「うっそー。もしかして委員長、弁当忘れたの?」
「あたし、一年の頃からクラス一緒だけど、委員長が忘れ物してるところなんか初めてみた……」
実際初めてだ。目というか手を疑いたくなる。でも目で見てもその姿を確認出来ないところ、本当に忘れたらしい。今頃は母親の腹の中か。
「信じられないけど、忘れたみたい。私も購買部に行ってくるから待っててもらって良い?」
「良いよ別に。売り切れになってるかもしれないから早く行ってきな」
「ありがとう」
表情を綻ばせて礼を言い、教室をなるべく早足で飛び出した。
二年の教室から購買部までは三階から一階に降りる必要があるので、地味に面倒臭い。途中で何人の生徒からか挨拶を貰ったり、私が弁当を忘れたことを珍しく見られたりしながら購買部に辿り着く。生徒がごった返しているかと思ったが、意外と空いていた。
良い感じに貫禄の入った皺を作った購買のおばさんの前まで来て、ちらりと一瞥だけでメニューを確認した。
「すいません。この苺サンドとツナサンドを一つ」
人気のありそうなメニューだ。しかし意外にもガラスの向こうには、売れ残り確定だろうサンドイッチが静かに佇んでいる。買う人物が少ないのか他に人気商品があるのかは知らないが、最悪ショーケースの端に追いやられた青汁ジュースよりは売れているようだった。
「あら珍しいじゃない、あなたが購買利用するなんて。はい、四百円ね」
言われた分の小銭を彼女の皺だらけの掌に乗せた。私の手から硬貨四枚分の重量が消え去った代わり、サンドイッチ四枚分の重量が加算された。重くはないが、持つのに苦労する。財布をポケットにしまうのに少しだけ手こずった。
さて、早く帰ったほうがいいだろう。あの子たちを待たせたら申し訳ない。
そうして購買を背にした瞬間、真正面に女の子が立っていた。
「……っと」
ぶつかってしまいそうになるのを堪え、なんとか身体を横にずらした。随分と気配を感じさせない子だ。かなり長いだろうロングヘアーをポニーテールにして一つに纏められている。が、一切揺れない。身体が微動だにしていない。穴が開くほど購買の方を見つめているだけで、おばさんに声をかけたりはしない。実に奇妙な光景だ。
「苺サンドとツナサンドは一見して人気商品のように見えますけど実はそんなことはないんです。何せ一つ二百円もするもんですから、だったら一個百円の焼きそばパンとかおにぎりを買った方がお腹にもお財布にも経済的です。貧民学生の心理が良く表れたショーケースの中身ですねこれは。因果ですよ因果」
なんか変なことを呟いていた。
「いやしかしですね、恐ろしいことにもう残っているのはその苺とツナサンドのほぼ二つしか残されていないという現実ですよ。一個二百円ですよ? あたしの財布の中身を氷河期にでもする気なんですか? でも選択肢なんて一つしかない。マジっすか」
しかも続けていた。そして一人で突っ込んでいた。第一印象は五月蝿いで決まりだろうか。
財布の中身とショーケースの中を見比べて百面相みたいに表情をころころ変えて悩んでいる。見ていてなんだか吹き出しそうになるが、微妙に怖い。鬼気迫らんとする眼力で見比べているものだから、その視線を浴びている購買のおばさんが冷や汗を浮かべていた。
女の子の欲しがっているものは私が持っているものとまさに一致する。あの子の真似じゃないが、彼女とサンドイッチを見比べて、一つくらいあげようかどうか悩んだ。人間関係の好感度上昇イベントには全く関係ないだろうが、このままだとあの子の昼ごはんは無いだろう。経済面の圧迫は稀に空腹をも凌駕することを苦学生は知っている。
仕方ない、一つ分けてあげるか。そう思って一歩を踏み出した時、私の傍を何かが横切った。
――目を疑った。
後姿は月の女神でも光臨したような後光を放っていてもおかしくないほどの美麗さ。男子生徒の服装が不似合いで、その無造作に流れる灰色の髪の毛が一層ギャップを増していた。私の学校では髪の毛を染めるのは禁則だ。ということは、地毛なのだろうか。それとも何らかの原因で脱色? どちらにせよ奇妙な風貌をしている。
あまりに整いすぎた顔立ちには悪寒さえ覚えるほど。しなやかな指先と腕は、女子と見間違えても責められない。
浮いている。私の見ている全ての色形が平面になり、彼のいるそこだけ立体になっているような存在感。臭いがする。空気が彼の纏うものに汚染され、私の鼻腔にその存在を知らせてくる。千本の針を突き刺されたかのような強烈な痛みを伴う香り。そんなの気のせいだって分かっているのに、思わず鼻を摘まんだ。
「……」
立ち止まった。理由は無いはずだ。
「何か……匂うのかい?」
微笑している。背中を向けているのに分かる。良いものじゃない。品定めされ舐めまわされる様な視線を感じる。吸っていた空気が突然ヘドロになったような気がした。上手く呼吸が出来ないからだ。泥沼にでも嵌ったか。
「いいえ。少し鼻の調子がおかしかったから、押さえていただけよ」
「そうか、それは良かったよ。ところで、そのサンドイッチ、彼女にあげないのかい?」
「え?」
見透かされている。私の被ったペルソナが、まるでガラスの仮面かのように見透かされている。
「人の親切はまるで割に合わないくじ引きみたいだと思わないかい?」
灰色の男は突然そんなことを語りだした。
「その親切が相手にとって良いものなのか悪いものなのか、実際に行動に移してみるまでは僕らには分からない。いざくじ引きを引いてみれば外れだったり当たりだったりするのと同じだ。ただ、くじ引きは作る側の趣向によって稀に『異端』が存在している場合がある」
「貴方、何を言ってるの?」
「ふふっ。君はスカを引くのか、それとも景品番号の書いていないクジを引いてしまうのか。そんなことを想像しながら過ごす一日も悪くない」
今度は認識できるほどの小さな苦笑を漏らすと、彼は靴音だけ残して去っていった。
コツ、コツ、コツ。
思わず生唾を飲み込んだ。一足遅れて悪寒が背すじを走る。自分の触れられたくない部分に、自分が最も嫌う奴が撫で上げてきたような生理的な嫌悪感。吐き気すら催す。
だがしかし、一体何がおかしかった? 何故私はこんなにも気持ち悪がってる? 彼の言動一つ一つに温度が感じられなかった、なんて理論もへったくれもない意見は自問自答の時点で封じ込める。もう一度、もう一度だけ彼のほうへ振り向けば答えが分かったかもしれない。けれど、その勇気も無ければ、意味も感じられなかった。
乱れた思考を掻き消すために首を大きく左右に振る。正面に向き直れば、ポニーテールの少女がまだぶつぶつと何か呟いていた。手に持っているサンドイッチを見る。私はこれを彼女にあげる。そう、それでいい。何も他に考えることなんて無い。
そちらへもう一歩踏み出して言った。
「貴女、そんなに欲しいならこれ」
硬くなった頬を精一杯引き上げて、持てる最大限の笑顔で彼女にサンドイッチを一つ差し出した。それを見た彼女は、瞳に星を輝かせて手を取った。
「ままままマジっすか? いえ、お心が変わらぬうちに頂戴しますっ! ひゃっほう! これで今月の昼食代が二百円浮いた! 日頃の行いが良いからですかね、因果ですね因果」
半ば私から奪い取るようにしてサンドイッチをかっぱらった。とんでもなく図々しい少女だと、第二印象で決め付けた。
どうやらくじ引きは吉と出たようだ。先ほどの灰色の男の言葉に惑わされているようで癪だが、彼女が喜んでくれたのだから別に良いとしよう。
そんな勘違いを、まず私はしていた。
*
気付けば緑雨。若葉は灰色の雲から降りしきる雨に濡らされて芽吹く。開花した花は赤く、まるで花弁の中心から鮮血が噴出しているよう。つうっ、と水滴が視線を横切るたびに、意味も無くそんなことを考える。
曇り空は滔々(とうとう)と雨を地に流し込む。傘を叩きつける水玉の音は激しく、持っている手に振動機付きの傘でも持っているかのような錯覚を覚えさせるほどの震えを作っていた。路面は鮮やかな灰色とはかけ離れた色に変色し、今や空の色よりも黒い。ザーッと排水溝に雨が流れ込む音が五月蝿かった。
登下校は普段、独りですることにしている。普段というのは、何かの誘いなどがあった場合はそのまま付いていくこともあるということだ。
集団行動というものが私は好きではない。いや、好きではないというよりも『そうしたい』という感情があまり芽生えたことが無いと言った方が適切だろう。誰かが私を必要としてくれているならばすぐに駆けつけるが、私自身が他人を必要とすることは滅多に無い。一人で何でも出来たほうが良い。その訓練をしておけば、いざという時色々と便利だと思う。
だから、靴のが濡れたアスファルトを蹴る音は一つで十分。隣を歩く人の音は私には必要が無い。
なのに……何故彼は私の隣を笑って歩いているのか。
ちらり、と私よりも背の高い彼の顔を横目に見上げる。相変わらず直視出来ない顔の造りをしている。微妙に悔しい。
すると彼は、私が見上げているのに気付いたのか、晴れ渡る空のような綺麗な笑顔を広げて「何?」と聞いてきた。
「それは私が問いたいわ……。一人で帰りたいんだけど、どうしてついてきたの」
わざと突き放すような冷たい口調で言うが、対する彼は全く気にも留めていないようだ。私から視線を外して、遠くの空を見るように前を向いた。
「あの子に……結局サンドイッチはあげちゃったのかい?」
そんなことを聞くためにいちいちここまでついてきたのだろうか。もしそうだとしたら、頬に一発お見舞いしてやってもいいくらい迷惑だ。
「あげたわよ。勿論全部じゃないけど」
刹那だった。
彼の表情が一変し、瞬き一つ無い間に瞳がこちらにずいっと向けられた。何も思考していないような、無垢で残酷な黒い色をしている。口元は筆で一文字を引いたように閉ざされて、どうやら私の言葉に驚いた様子だったが、度合いが異常だった。ホラー映画のワンシーンのような静寂が辺りを包み込み、化物と私だけの狂気の空間を作り出した。フィルムが回らない。どうにかしてくれ。こんなモノと真正面から向き合ったままなんて、正気じゃいられない。
しかし、私はその瞳から杭で打たれたように目が離せない。自発的じゃない、相手が無理矢理杭を打ち込んできたという意の強迫観念に似た硬直が私を襲っていた。
「僕は」
異形の化物からとは思えない澄んだ声が彼の口から発せられた。瞬間、私は映画のフィルムから解放された。
「僕はてっきり全部あげちゃったのかと思ったよ。君はとても良い人のように見えたから」
優しげに笑う。まるで明日ゲームソフトを買って貰えることを楽しみにしているような子どもの笑顔だ。
「幾らなんでもそこまでお人よしなわけないでしょ……」
「そうなのか。いや、そうだね。良く考えてみればそうだった」
本当にそんな下らないことで驚いたのか? 甚だ疑問だったが、あえて何も言わなかった。
彼は軽快な笑い声を上げて、私の一歩先を行った。顔がしかめっ面になっているのを感じながら、私も彼の後を付いていく。別段彼に用があるわけじゃない。私の行く道の先に彼がいるから、というなんともベタな理由だが、実際そうなのだからどうにかしろとか言われてもどうしようもない。
雨脚が強くなってきた。傘から伝わる振動がより一層強くなり、少しだけ傘を持つ手に疲れが溜まってきた。心なしか、靴にまで染み込んだか、足の指先が冷たい気がする。激しい雨は肉眼で粒を見分けられるようになり、路上駐車している車のフロントガラスに突き刺さるようにして直滑降に滑って行っている。天からの警告かもしれない。
「そういえば、まだ自己紹介をしていなかったね」
前を歩く彼が立ち止まり、こちらを振り返った。何度見ても綺麗な顔が、ほんの少し水に濡れて更に良い男になっていた。それが無性に腹立たしかったのは秘密だ。
「私は――」
「ああいや、君の名前は良いんだ。僕は君のことを良く知っている。君に自己紹介されて、そのイメージを壊したくない。名前ってやつはどうにも人のイメージやその意味を左右するからね」
「面倒臭いわね。だったら早く名乗りなさい」
このタイプの人間は苦手だ。ため息をついて、ほんの少しだけ視線をずらした。
――そうして、彼は姿を消した。
「……え?」
気付けば自分のものとは思えないほど間抜けな声を漏らしていた。目の前に広がったのは真っ直ぐで先の見えないコンクリートの一本道。自分の眼球が合わせる遠近感がおかしくなってしまったのかと錯覚させるほどの一直線。端にある建造物はデッドスポットであることを抜きにしても、気配すらも感じられないほどの永久道路。その上には、黒猫一匹すら見当たらない。
誰もいなくなった。
「自己紹介をしよう。僕の名前は灰田純一。とある世界の、神さまだ」
背後から声がして、勢い良く振り返る。しかし、そこにも彼の姿は無い。
一体何が起きたのか、ほとんどシェイク状態にある脳みそで判断するのが難しかった代わり、視覚が捉えた光景をそのまま認識することが答えになるのだと理解した。
記憶と現実の中での間違い探し。二枚の絵を見比べて、私は相違点を探す。
言わなくたって分かるだろう。一枚目の絵には一本道の上に男子生徒がいたのに対して、二枚目にはいない。誰だって見間違えようの無い答えだ。
それは、ありえることなのか?
絵の中なら可能でも、ここは三次元だ。逃げ出す場所も無ければ、まさか消されたなんてことは無いだろう。例え百メートルを十秒以下で走れたところでこの現象は説明が付かない。ユニークでも利かせてマンホールの中に落ちたとでも思えば良いのか? そんな馬鹿げた答えなんて誰も必要としていない。
彼の笑い声は微かな響きすら残さずに雨に溶け、彼の姿は陽炎のような余韻すら残さずに消え去った。密室殺人は完了したとでも言うべきなのだろうか。
冷や汗が玉になって吹き出し、首筋を伝っていった感触が自我を取り戻し、私を現実に引き戻す。
現実? 現実って何だ。私がいたはずの日常なのか、それとも今みたいな非日常なのか。水と油は交わらないはずなのに、交わってしまった瞬間のことを現実と呼ぶのだろうか?
灰色に濁った雨粒が睫毛の上から滴る。知らない間に傘を落としていた。あまりにも呆然とする出来事に我を失っていた。今ここで何が起こったのか、たった一つでも絶対を持って説明出来るだろうか。少なくとも私には出来ない。
ただ、一つだけ覚えていて確かなことがある。
「灰田、純一……」
彼の名前。
自分のことを『とある世界の神』と名乗った、痛々しい野郎。今どき、アニメに影響された中学生だってそんなこと言いやしないっていうのに、灰田は自分に与えられた称号を誇るかのように、そう名乗った。
*
雨は止まない。窓を叩きつける雨音もそろそろ風流に感じつつあるが、室内にいると幾分か雨は憂鬱にさせてくれる。若葉の緑雨と言えどもここまで攻撃的に降られては参ってしまうだろう。恵みの雨も用法用量を守らないと毒になりそうだった。
帰宅後、私は自室で教科書を広げたまま、集中することも出来ずにぼーっと窓の外を眺めていた。リズム感の無い曇り空のオーケストラも、こうして聴いてみれば中々に素晴らしい。……そう感じるのは、気分がどうにももやもやしているからだろう。ただの現実逃避の手段でしか有り得ない。
「なんなのよ、あいつ……」
全ての原因はあの灰色の男、灰田純一にある。これはどうあがいても否定しようの無い事実だ。意識の外側に置こうとしても、怪奇現象のようにすぐに戻ってくる。彼に恨みも無ければ特別な感情だって無い。胸のうちに根を張るこのもやもや感が恋心だというのなら可愛いものだが、残念ながら対極に位置していると言っても過言じゃない感情だということは分かる。
苛立ちをどうすることも出来ずに、私はついに教科書をしまってベッドの中に飛び込んだ。さっきまで座っていたからか、生温い温度が手の平から伝わった。
埋めた顔の中身、脳内はやはり落ち着かない。これほどに勉強に手がつかなかった日があっただろうか。青春を謳歌する学生たちが今だけ羨ましく感じる。私の悩みは正体不明かつ、下らなさすぎた。
まず何だあの灰色の髪の毛は。灰色の地毛なんて聞いたことが無い。茶髪金髪、許せて赤っぽい髪や白髪くらいはある。しかし、微妙に黒の残滓を感じさせる灰色なんて初めて見た。言えば光沢の無い銀髪なのだ彼は。地毛じゃない、という可能性もあるが、学校がそれを許しているとは思えない。まだ四月だから大目に見ているのだろうか。
それに『とある世界の神さま』という格好悪すぎる捨て台詞。思い出すだけで二の腕辺りがむず痒くなってくる。そして、そんな下らないものだと分かっているのに気になって仕方が無い自分に一番腹が立つ。これじゃあまるで、ヒーローになりたいと将来を語った子どもの台詞を真に受けて、そわそわしている阿呆みたいだ。
「くしゅんっ」
……風邪でも引いたかしら。そう思い始めたら最後、だんだん体がだるくなってきた。たかだか数分雨に晒されたくらいで風邪を引くなんて、随分と貧弱になったものだ。早めに寝た方が良いかもしれない。
とりあえず適当にお風呂だけ済ませてしまおう。そう思ってベッドを立った時、唐突に携帯電話が鳴った。三秒のバイブレーション、メールだ。クラスの子だろうか。明日は土曜日だから、遊ぼうという旨のメールかもしれない。ピンク色の携帯を手にとって親指だけで画面を開いた。
――『灰田純一』
……何? 何でこいつからメールが?
無論、教えた覚えは記憶の片隅に散らばる残骸の欠片の一部分、なんていう遠い親戚の話をするような言葉を並べても見当たらない。間違いなく言った覚えはないし、携帯を見られたことすら無ければ、灰田は今日知り合ったばかりの男なのだ。少し気味が悪い。
メールを返して問いただしてやろうかと迷ったが、ここで送り返せば相手の思う壺かもしれない。子どもみたいだが、せめてもの抵抗で無視を決め込むことにした。そも、明日は土曜で休日。せっかくの休みをみすみす訳の分からない男のために費やす必要も無い。
しかし。
ヴーヴー。バイブレーターの音は定期的にやってくる。見なくても分かる。灰田だ。何のつもりか知らないが、五分おきくらいにメールを連発してくる。悪戯のつもりだとしたら、風邪気味の私にはかなり性質の悪いものだ。流石に腹が立ってきて、メールを開いた。
『今、君の家の前にいる』
ぞくり、と悪い意味で鳥肌が立った。メリーさんの電話の文章。こんな典型的なホラータイプの悪戯に、どうしようもないくらい寒気を感じた。瞬間、部屋にある全てのものに目があるような気がしてきた。生きている。笑っている。どいつだ、どいつが私にこんなメールを送ってきているんだ。
メールの履歴は全てメリーさんの電話と同じ内容。『今、学校の前にいる』から始まり『今、タバコ屋の角のところにいる』が一通前のメール。タバコ屋は自宅から二分もしないところにある。
それよりも家の前にいるだって? ふざけて貰っては困る。私の部屋のベランダから玄関は直接見下ろせる位置にある。今すぐにカーテンを開けて、本当に灰田がいるか確かめてやる。そしてもしもいなかったら、電話番号を聞きだして罵声を浴びせてやる。
そう思っているのに、足は一歩も動かない。恐怖の茨に縛られて足が動かせない。少しでも足を上げれば、茨の棘に刺される。我慢すれば良いんだ、我慢すればすぐに済む話。頭では分かっていても、身体は命令を聞いてはくれない。
再三のメールの着信音。辛うじて指は動かせる。これは幸運じゃない、むしろ不幸だ。私にはそのメールを確かめる権利が与えられている。そしてこの状況で、私がそれを開かない道理も無ければ理由も無い。
『今、君の真正面にいる』
「――っ!」
首を思いっきり上に向けた。
「……そう、よね」
結果から言って、そこに灰田の姿は無かった。いつもの私の部屋が、静かに佇んでいるだけ。興奮していたのは私だけで、家具には目なんてついていないし、生きてもいない。メールを送ったのは灰田だ。今頃どこかで、私がこうしてうろたえている姿を想像して楽しんでいるのだろう。
こんなことに反応してしまうのは風邪気味だからだろう。高熱は幻覚や幻聴を発症させるとも言うし、少し危うい状態なのかもしれない。いつの間にか私を縛っていた茨は消え、自由になった足でベッドまで戻る。うつ伏せで布団の上に飛び込み、脱力した。今夜はお風呂にも入らないほうがいいかもしれない。明日朝一で病院へ行こう。
「やあ、グッドイブニング」
なんて、現実逃避できるほど、薄い存在じゃなかった。
「……ふざけないでよ」
「ふざける? 僕はいつだって至って真面目さ。まあ性格上、僕が相手を馬鹿にしているような、まるで道化みたいな人間だとは言われたことはあるけれどね。否定はしないが心外だ。僕は――」
「黙りなさい!」
灰田の言葉を遮って、私は怒鳴り声を上げた。
「あたしは幽霊とかUMAとか、あと神様とか、そういうオカルティックな存在はあまり好きじゃないの。今、あんたがどうやってこの部屋に入ってきたのか、詳細な説明を求めるわ」
「それは、常識的に考えてってことかい?」
「当たり前でしょ」
灰田は笑う。心底おかしいことを聞いたかのように、堪えられない笑いを漏らす。
「君はそれを知ってどうするんだい? どうせ都合の良い答えしか受け入れられない癖に、わざわざ相手に喋らすのも面倒なもんだろう。今僕がここにいる、それだけにしか意味は無いんだよ」
「なら質問を変えるわ。――これは一体どういうこと」
ふむ、と灰田は息を鳴らした。私の椅子に勝手に座り、足を組んだ。
「初めて君を見たときから、君は他人のような気がしなかった」
「……何、告白でも始めるつもり?」
「そうだな、そこにある種の天才がいたとしよう」
全く関係の無い話をし始めた。私の問いに答えるつもりどころか、聞く気も無いらしい。長くなりそうな予感がしたので、ベッドの上に背すじを伸ばして座った。
「天才とは常に万人の尊敬と憧憬の対象であり、そうであれと望まれるものだ。そして、それを目指す人間が無謀にもこの世界には溢れている。自分もああいう風になってみたい、ああいう風に尊敬されてみたい、と。息子が父の背中を追いかけるのとは根本的に次元の違うものだと理解していながら努力をして、そしてふと気付いた時には諦めているものだ。そう、憧憬とは常に『憧れ』でしかなく、それを目指してみようとは思っても『再現する』とはまた異なるものだ。そう思わないかい?」
「……何、言ってるの?」
耳の右から入って左に抜けるとは、意識していても起きることらしい。
「例えば年間に五十本のホームランを打つ選手がいたとして、ある男の子がそれをキラキラとした眼差しで、ほんとうに無垢で純粋な気持ちでそれを目指し始める。だが、努力をして気付くことがある。五十本のホームランとは既に『天才』の領域であって、自分が目指すものではないことに。再現できる範囲のものではないことに。すると、男の子は次いで三十本のホームランを打とうと頑張り始める。それでも、野球選手としては結果として十二分なものだ。ただ、それは優秀な選手であって『天才』とは違う。本当に、優秀なんだけどね」
「だから何よ。何の関係があってその話をしてるのよ?」
「――君、五十本のホームランを打てると思わないか?」
そんなの、想像に容易い話だ。
「打てるわけ無いでしょ。たとえあたしが男の身体だったとしても、無理よ」
「……」
灰田はその返答にまたもや笑った。冷たい、切っ先の尖った氷みたいな表情で笑った。何か、自分の失態を嘲笑されたみたいで酷く気分を害した。ぶん殴ってやろうかと考えた矢先、灰田は言った。
「じゃあ、三十本は?」
三十本。野球は良く分からないが、灰田が『優秀』と呼んでいるのだから、結果としては申し分の無い数字なのだろう。だから私は、こう答えた。
「打てる」
「へえ、打てるんだ。三十本は優秀な選手がようやく出せる数字だよ?」
「でも打てるわ。そのくらいなら、努力すれば出来る」
「努力、ねえ……」
試すような目。無謀だと思っているのかもしれないが、優等生の私に言わせれば前言を撤回する必要は無い。私は努力の塊で出来ている。そのことを高く持ち上げるつもりは無いが、相手の前で謙遜してしまうほど低く扱うつもりもない。俗に『優秀』と呼ばれる人物が出来ることなら、私はなんだって出来ると信じている。いや、実際にやってみせる。
そんな自信満々な私を確認してか、灰田は腰掛けていた椅子から立ち上がり、大袈裟っぽくため息をつく。一つ一つの動作がどうにも道化じみている。演じているというか、むしろ雰囲気を演出しているような、ゆっくりとした、相手を焦らさせる一挙一動。
「ははっ、いやぁ、今日君に会いに来て良かった。本当に良かったよ。この瞬間を逃してしまったら、君は君じゃなくなっていたかもしれないしね」
「私が、私じゃない?」
舞台上。演劇の舞台に無理矢理つれてこられた私は、慣れてもいないダンスを踊らされ、結果として醜態を晒す。
「君は……僕のことを気持ちが悪い人間だと思うかい?」
「当たり前でしょ。勝手に意味の分からない方法で人の家に上がりこんできて、仕舞いには訳の分からない話をし始めて。私が警察を呼んでいないことがむしろ疑問に思えてくるわ」
「それはそうだね。君が僕を不快に思うのは当然の摂理。自分の領域の中に不適合因子が入り込めば嫌悪する。そんなのは飼いならされた熱帯魚だって同じ。まあ、最も彼らの場合は嫌悪どころか生死に関りそうだけど」
「同じ種族でも食い合うような連中と一緒にしないで」
「――人間がそうではないと言い切れない、なんてね。そうやって危険な発言をする君が楽しいよ」
そうして再び妙に濡れた笑い声を漏らす。
とてつもなく嫌な話だが、灰田は私との会話を心底楽しんでいるように思える。ふと技術士が作ったような酷く整った顔を見上げる。壊れたフランス人形を彷彿させる。心が無い無機物が何を見ているのか分からない。だけど、確かに何かを見ている。生まれてすぐの綺麗な身体だった頃よりもっと欲望的に変貌した瞳。不気味だった。
「気持ち悪いなあ……」
私の考えていたことを代弁するように、灰田がそう口にした。
「君は実に気持ち悪い人間だ」
「なっ……」
その台詞を目の前の人間に言われることだけは、私自身が許せなかった。
「貴方、それは鏡で自分の姿を見てから発言して欲しいものね」
「そっくりそのまま返すよ、優等生さん」
「ふざけないで。私は……」
「君の本質が、気持ち悪くて堪らない」
こいつは、本当に――。
気付いてしまったら最後、喉奥から湧き上がる猛烈な嘔吐感に身を屈めた。口内に滲みこむように酸味が広がる。舌の奥と喉が大きく口を開ける。いらない、いらないと駄々を捏ねる子どものように胃袋からものを吐き出そうとする。思いっきり歯を食いしばった。
「僕は……君が欲しい。惚れたよ、どうしようもないくらい」
「ぶっ殺すわよ」
会ってまだ一日も経っていない相手に惚れただって。こんな訳の分からない野郎に好かれた私の気持ちも分かって欲しい。本気だろうが嘘だろうが、身の毛がよだつ。そこら辺の野良犬にでも食わせたい気分だ。
灰田は残念そうに肩を落とした。なんという嘘臭い演技。
「まあ、今すぐにとは言わないさ。君にだって心の準備が必要だろうし、僕にだって君を受け入れる準備が必要だ。もうほんの少しだけ戯れてから、答えを出してくれ」
「答えなんて今直ぐ言ってやるわ。帰って。そして二度と私の目の前に姿を現さないで」
「ははっ、風邪は万病の元だから、早めに治すと良いよ」
私の言うことなんて全く聞いていない。都合の良い奴だ。
それに私が言葉を返す前に、灰田はベランダの窓を開け放ち、そこからジャンプして飛び降りた。二階と言ってもそこまで高くは無いから大きな怪我はしないだろうが、心臓に悪い。朝起きたら庭に男の死体があった、なんてことはないでしょうね。
窓に駆け寄って外を見る。知らない間に雨は止んでいた。濡れたテラスに乗らないように、首だけ外に出してみる。勿論、灰田はそこにはいなかった。昼間、私の目の前から突然消えた時のように、そこにいた痕跡や空気させ残さぬまま、姿を消した。
――外れクジだ。
しかも、私がクジの方で。クジは掴んでくれる主を選べない。主にとっては最高の当たりクジだったらしいが、当の私からすれば、史上最悪の手の平に乗ったと言っても過言じゃない。しかも、その当たりクジをマゾだかなんだか知らないが、大事に持っておいている。さっさと景品と交換して捨ててくれれば良いのに、なんて考えるのは、明らかに風邪のせいだ。
「……むかつく」
鼻を啜ってベッドの中に入る。今日はあまり眠れそうに無い。