忘れ去られた名
薄暗い階段を降りて行き着いた場所は、とても開けた所だった。
壁は木の洞そのもので、所々に光るキノコが生えている。その傍らにも光る鉱石のような物まで所々に鎮座されていて、とても幻想的な光景が広がっている。
中央にはアウストルほどの大きなを誇る獣化した白虎が四人いた。
大きな絨毯の上に寝そべっている白虎たちは、ほとんど寝て過ごしているようだ。
『おや、じゃじゃ馬が来たね』
『我らの女王もいらっしゃるじゃないか』
ゆっくりと、そしてのんびりと白虎が身を起こす。緩慢なその動きに、もしや身体が満足に動かせないのではないかと気付いた。
「あらあら、寝ていて構わないわよ。気にしないで頂戴な」
オリジンの言葉で白虎達は頭を下げ、またゆっくりと寝そべった。
アウストルが親達は上の階層にいると言っていたが、さすがにこの歳になると空を飛ぶのも難しいのだろう。
精霊も歳を取ると、人化も転移も難しくなると聞いた事がある。現に白虎の中にはすでに目が見えていない者もいるようだ。
オリジンが直接創造した大精霊達こそ永久の時を生きると言えるが、精霊同士から産まれた者はどうしても寿命が付きまとう。
それでも数百年から数千年と充分長いのだが、他属性同士の大規模な争いごとがない限り、基本的に精霊の出生数は少ない。
だからこそ、精霊達にとってエレンやヴァンの存在が愛おしくてたまらないのだ。
「すまねえな。じーさんばーさん達はもう歳でよ」
『じゃじゃ馬に歳と言われる日が来るとはねぇ』
白虎の一人がほっほっほっと笑う。四人の見た目は全く同じで、エレンには見分けが付かなかった。
「紹介するわね、娘のエレンとその婚約者のガディエルよ」
オリジンの紹介から始まり、エレン達は各々自己紹介をした。
『初めましてじゃな。新たな女神の誕生を目にすることができて嬉しいのう』
『そうじゃな。これでもう、思い残すことなど……』
「おいおい、今すぐくたばりそうなこと言ってんじゃねーぞ」
アウストルの言葉で白虎達が笑う。もうすぐ魔素へと還るのが分かっているかのようなそぶりだったが、その表情はとても穏やかだった。
『じゃじゃ馬、今日は曾孫はいないのかえ?』
「あいつは別の任務だ。後で顔を出すように言っといてやるよ」
『そうかい。ありがたいねぇ。姫さん、曾孫を宜しくお願いしますじゃ』
「こちらこそヴァン君をとっても頼りにしてます!」
エレンの返事を聞いて嬉しそうな白虎達。
穏やかな空気が流れている中、白虎の一人がこちらに聞いてきた。
『それで、今日は一体どうしたんだい? なにやら外が騒がしかったようじゃが……』
「あー、風の竜が逃げ出したらしいんだよ。それでアンタ等に話を聞きたいんだ」
『風の御方が…逃げ出した?』
ざわりと空気が揺れる。白虎達の動揺が伝わってきた。
「それで風の子の世話をしていた頃の貴方達の話を聞きたいのよ。彼女がどこに行っちゃったか分からなくて困ってるの。好きな場所とか、そんな話を聞いていないかしら?」
オリジンがそう白虎達に伝えたが、エレンはその中に新情報を聞いた気がした。
「……母様、彼女とは誰の事ですか?」
エレンの質問にオリジンは、あら? と首を傾げた。
「…………言ってなかったかしら? ああ、そういえば思い出したのはついさっきね!」
オリジンの返事にたっぷり間があった。
創世の竜とか風の竜などと言っていたので、てっきりそういう名前かと思い込んでいたことに気付く。
「思い出したのはついさっき……? いえ、そもそも風の竜ってお名前があるんですか?」
「あるわよぉ。でも久しく呼んでいないから……なんだったかしら?」
首を傾げるオリジンの態度に、エレンは「ええ……?」と困惑した。どうにも会話がかみ合っていない。
アウストルに風の竜の名前を聞いても、「知らねぇなぁ」としか返ってこなかった。
「竜達の管理は別の者に任せてしまったから……そういえば他の子も全く名前を聞かないわねぇ」
そう言って首を傾げるオリジンに、エレンは背筋が凍る思いがした。
(え…待って……この世界の管理を手伝っている者の名を忘れる……?)
オリジンが名前を覚えないのはいつものことだが、この創世の竜はオリジンが創造しているはずである。
その名すら忘れ去られてしまうというのは、異常事態ではないだろうか?
『彼女、とは風の御方の事ですぞ。尊きその御方の名はヴァリマリア。今では忘れ去られた名ですじゃ』
「……忘れ去られた、名?」
『竜の名には制約が結ばれており……忘却の精霊が関わっておりましてな。勝手に名を言うことが許されておりませぬ』
「忘却の精霊!?」
「ああ! そうだったわ。世界の情報を集めているのが知れ渡ると厄介だったから、皆から名を忘れさせたのよ!」
「どうして母様まで忘れているんですか……?」
「だあってぇ~もう……何千年? と会ってないんだもの~」
「…………」
それはさすがに忘れても仕方ない気はしたが、ある事にも気付いてしまった。
「え、まさかヴィント達も忘れているって事ですか?」
「そうじゃないかしら? 竜の子達の名前は管理している者達以外は忘れるようにお願いしてあるの」
「どうしてですか?」
「嘘の情報をばら蒔かれて困ったからよ」
「……嘘の、情報?」
エレン達が首を傾げると、オリジンも苦笑していた。
「わたくしに構って欲しいって、嘘の情報を蒔く子達がいたのよ。当時は……何だったかしら? 山が崩れたとか津波が起きて地形が変わったとか、魔素が吹き荒れているとか……とんでもない事を吹聴する子とかね。すっかり忘れていたわ」
「うわあ……」
『我々は覚えておりますが、現在管理している竜共もその名を呼んでいなければ教えてもらえておらぬのでしょう』
「なるほど……」
そんな迷惑行為を行う者がいれば規制されても仕方がない。親の関心が欲しくなって迷惑行動を起こすというのは、子の生まれ持った性なのかもしれない。
「じゃあ、その名に制約が結ばれているというのは?」
『この名を口にできるのは、ヴァリマリア様の許可が必要なのですじゃ』
「じゃあ、私も言えないのかな?」
エレンがわくわくしながらその名を呼んでみようとするが、次の瞬間にはエレンは何が起きたのか分からなかった。
「……あれ?」
「なるほど……そういう事か。エレン、大丈夫かい?」
「父様、どうしたんですか?」
「エレンは風の竜の名を呼ぼうとしたんだよ。何と呼んだか覚えているかい?」
「…………あれれ?」
全く思い出せない事態に、エレンは混乱した。
「言おうとすると、まるっと忘れちゃうから気をつけて!」
「オーリ、後出しはダメだろう……」
「わたくしもすっかり忘れてたのよぉ!」
『ほっほっほっ。面白半分にヴァリマリア様の名は言ってはいかんぞ? ちなみに紙に書こうとしてもダメじゃぞ?』
「は~い……ごめんなさい」
面白半分で挑戦して痛い目を見たエレンはしゅんと反省する。
忘却の精霊はその名に魔法をかけているので、許可がないと名が呼べないらしい。
「だから風の竜とか、創世の竜って呼んでるんですね」
『創世の竜か、なんとも粋な名を付けるのお』
『そういう御方には程遠そうじゃが』と、気になる発言をしながら、当時を思い出している白虎達は笑っていた。
『では、あの御方の名を呼べるワシがお話しましょうぞ。何を聞きたいのですかな?』
オリジンとロヴェルに促され、エレンは頷いて一歩前に出た。
*
ヴァンは己の気配を消して聞こえてくる声に近付いた。自分より上位の精霊になると気配を消しても察知されてしまうが、泣いている精霊はまだ十代と若そうだ。
その証拠に泣いている精霊の周囲には風が渦巻き、己の力さえもうまくコントロールできていなかった。
(…………)
久方ぶりに祖父と再会したヴァンだったが、何も思うことはなかった。
両親と揉めている姿を見ていたせいなのか、昔、己に向けられた嫌悪を覚えているからなのか。
(我だけではなく、他者にもあの態度なのか……)
上に立つ者として、どうしてもヴェントスとエレンを比べてしまう。
己の主は、とても優しくて穏やかだ。いつも労いの言葉をかけてくれ、もふもふと甘えてくれる姿に初めて会った時から魅了されている。
精霊にとって、女神の役に立てることは至上の喜びだ。それなのに、女王にすらあのような傲慢な態度を取る者が身内にいるなどと恥ずかしくてたまらない。
精霊の中にもイタズラ好きや自由奔放、野心家など様々な性格の者がいる。人間に限った事ではないというわけではなく、そもそも人間のひな形となったのが精霊なのだ。
人間と違うところがあるとすれば、力があるがゆえにあまり群れないという所くらいだろう。
ふと、ここで他者の気配がしてヴァンは隠れた。
「お前、いつまで泣いているの!」
「す、すみません……」
「せっかく女王が来ていらっしゃったのに、あの態度は何!? お陰でわたくし達は女王からのけ者にされたのよ!」
「ごめんなさい……」
「お前のせいで風上様がお逃げになられたというのに!! さっさとお前を霊牙に引き渡せば良かったわ!」
罵詈雑言を浴びせられている精霊を遠目で確認しながらも、ヴァンは先ほどの言葉が引っかかった。
(お前のせいで……?)
泣いている精霊は逃げた現場に遭遇していると言っていた。その場に居合わせていたのは分かるが、手助けもしていたということだろうか?
(待て……風の竜は逃げる時に精霊達を尾でなぎ払ったと言っていたな……)
確かにヴェントスは『精霊達』と発言している。
その場に数人居合わせていたならば、風の竜が逃げた時に立ち会わせていた者は少なくとも数人はいただろう。
どうしてこの泣いている精霊だけがその場を目撃し言葉を聞いていたのか。そして逃げた原因とされているのかヴァンには理解できなかった。
(この場に姫様がいらっしゃれば……)
きっと何か摑めたのかもしれないが、自分はそれほど頭が回る方ではない。
ありのままを報告すれば、きっと何か導いて下さるだろう。
「風上様を逃がした責任は全てお前が背負うのよ! わたくし達に迷惑かけないでちょうだい!」
そう言い捨てて精霊の気配が消える。残った静けさの中、またすんすんと泣き出した精霊に、ヴァンは思わず溜息がこぼれた。




