4.壁の中で
次にアイリスが目を覚ました時、眠る前に聞こえていた風の音は消えていた。
尻に感じていた振動もなくなっていて、アイリスは背もたれに体を預けていたまま眠っていた姿勢だ。
どうやらどこかに止まっているようだった。
声が聞こえる。
自分がいる場所とは少し離れているように距離を感じているが、会話しているそれは通信機を介さない肉声で、片方は通信機で聞いていた男のようだが、もう片方は知らないものだ。
談笑しているような親しげなそれを聞きながら、アイリスは少しずつ目を開けて、
「えっ……?」
見えたものに、驚いた。
そこは、荒野ではなかった。
あるのは、周囲を囲む一面の壁だ。
なんらかの石だろうか、アイリスにはよく分からなかったが無機質な素材で積み上げられ精緻に組み上げられ、重く存在を主張する壁と天井に囲まれた、広大な空間。
アイリスと、彼女を乗せたモノはその隅の壁際に留められていた。
話し声の主は、視界にはいなかった。
――すごい。
少し落ち着いてからまず抱いたのは、驚嘆。
しかしそれは、眠る前とは全く違う光景への驚きだけではなかった。
――すごい。
――私がいた場所には、こんなのは無かった。
――キの洞や、幹の上なんかで、ツタやハでつくるものだと思ってた。
――こんなの"王"様のところくらいしか……
――待って?
――こういうの、見たことある。
――暗くて、硬くて、生きてる気配がしない……
――そうだ。
――あの場所だ。
――私が、起きた場所だ。
――何もわからなくて、追われて、逃げた、暗くて、冷たい、
「起きた?」
「え……あっ」
思考の最中、無警戒な意識に差し込まれるような声に、遮られる。
その声は、荒野で聞いた女性のそれでありながら、しかし通信機ごしではなく、すぐそば――自分の真後ろからのもので
「あっ、えっと、その……」
わたわたと慌てふためきながら、アイリスは背後に振り向こうとするが、胴を固定されている現状を思い出し、躊躇う。
「……ちょっと待って。今、解くから」
声の後、ごそごそと背後で固定しているベルトをいじられているような感覚が続き、
「……できた」
はらりと、胴を縛っていたベルトが緩み、膝の上に落ちた。
戒めが解かれると同時、重心が不安定になったことで腰掛けていたモノからずり落ちそうになるが、それをどうにかバランスをとってこらえつつ、アイリスはようやく後ろを向く。
そこにいたのは、一人の少女だ。
どうやら背中合わせの状態で座っていたらしい、思っていたよりすぐそばにいるその少女は、アイリスよりもいくぶんか幼い風貌をしていた。
布地自体は薄手に見えるが、板状のものを何枚も仕込んでいるのかごてごてとした服を纏っており、砂塵除け以外に何らかの機能を持っているのか、アイリスにはよくわからない装備がいくつも施された顔どころか頭部をすっぽり覆えるような大きな面を両手に抱えていた。
それを被りながら荒地を走っていたせいだろうか、白銀の髪は頭部に近いほどきれいな状態で、先端に行くにつれ砂塵を浴びてくすんだ色をしていた。
「こうして面と向かって話をするのは、初めてね」
「そ、そうですね」
通信機で話していた時と変わらず淡々と話す少女は、その相貌も同じくひどく冷めた無表情そのもので、加えてじっとアイリスを見つめてくる。
喜怒哀楽のどれともとれない表情にアイリスは気圧されるものの、
――せめて、お礼は言わないと。助けてくれたんだし。
よしっ、と内心で自分に活を入れ、少女に向かい合う。
「改めて、私は、アイリスといいます。
えっと……助けてくれて、ありがとうございます」
「……そう言えば、わたしたちは名乗ってなかったっけ。
わたしは、ルイ。ルイ・ミゼレーレ。
それと、一緒に乗ってたのがもう一人……」
言いながら、ルイと名乗る少女はアイリスから視線を外し、別の方向――先ほどから聞こえていた会話のする方を向く。
一拍遅れてアイリスもそちらを見ると、その先には片や淡々と話す青年、片や親しげに言葉を交わす中年の二人組がいた。
どうやら男たちも視線に気づいたらしく、話をやめてアイリスらを見ると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「起きたのか」
始めに話しかけてきたのは、淡々と話していた方の男だ。
ルイのものと似た材質に見える外套を羽織っており、伸ばしっぱなしにしているような黒髪から覗くひどく冷たい、感情の欠けたような目はまっすぐアイリスに向けられている。
「……この人が、オルビス。
あなたとわたしが乗ってるこの"シトロン"を、運転してた」
「アイリス、です。助けてくれて、ありがとうございます」
「名前は、聞こえていた。
それと、助けたかどうかは……まあ、いい」
オルビスと呼ばれた男は何か言いたげであったもののため息で誤魔化し、それっきり何も言わずにアイリスとルイが乗っているモノ――"シトロン"というらしい――の前部にある席に跨ると、機器をいじり始める。
「災難だったねえ、お嬢ちゃん」
オルビスの作業中にアイリスに話しかけていたのは、オルビスと話していた男だ。
長く屋内にいるのか、動きやすさと見栄えを両立させた服はオルビスやルイほどには砂塵にまみれておらず、撫でつけられた茶色の髪などの身だしなみにも手入れが行き届いているのがわかる。
「聞いたよ。
【ハゼマ荒野】で倒れてたんだって?」
「は、はい……」
男の口調は陽気で、愛想がいい。
なんとか荒野、というのが自分がいた場所なのだろうか。
アイリスにはよくわからなかったが、どうやら自分を気遣ってくれているようで、曖昧に相槌を打って頷く。
「なんにせよ、生きてたんならよかったよ。死んじまったら何にもならないからな。
知ってるか?
"こっち"に来た<来訪者>の大半の死因は、【ハゼマ荒野】で野垂れ時ぬか、徘徊獣に出くわして食われちまうかなんだ」
「そうなんですか?」
「だから、おたくは幸運てこった。
まぁ、こっから先もそうだとは限らねえけどな、ははっ」
「あは、はっ……」
何がおかしいか、よく分からない。
よく分からないが、つられてアイリスも笑う。
「この<都市>に来たのも運がいい。
おたくみたいな<来訪者>もそれなりにいるし、ちとコツはいるが、食い扶持を探すのだって難しくねえ。
それに、」
「少し黙れ、ガルド」
不愛想な、やや不機嫌そうな色を滲ませた声が遮る。
見れば、機器から顔を上げたオルビスが男――ガルドを睨んでいた。
「なんだよ、オレはそこのお嬢ちゃんと世間話をしてただけだぜ?
"こっち"に来たばっかの<来訪者>に、やさぁしく、なぁ?」
「えっ? あ、……はい」
ガルドに同意を求めるような目で見られ、アイリスは慌ててこくこくと頷く。
アイリスにとって、この男は初めて自分に笑いかけてくれた男でもある。勢いや話の調子にはややついていきづらいところもあるが、彼女としては大して悪い気もしなかった。
「お前の話し方がうるさいんだよ。
それと、こいつにはまだ"こっち側"の話はしてない。
いきなりペラペラと情報を並べられても後で説明に困る」
オルビスの言い分に、ガルドは驚いたように目を丸くする。
「なんだ、まだ話してなかったのか?
ここに来るまで時間もあったろうに」
「……こっちにはこっちのやり方があるんだよ」
「また、いつもの"受け止められるように"ってやつか」
「悪いか?」
「いいや。毎度ご苦労なことで、ってな」
へへ、とおどけて笑うガルドと対照的に、オルビスの睨む目は鋭さを増す。
「どうせ、適合できなきゃ同じことだろうに。
そのまま捨てとくのと、大して変わらねえだろ」
「……黙れ」
「ここの市民コードどころか、他所の<都市>の身分証すら無い奴に通行許可を出すこっちの身にもなってほしいもんだ。
そのくせ、"適合"できない時ときたら――」
轟音。
鼓膜を叩くそれと同時に、壁と、扉に囲まれた部屋に、アイリスは吹くはずもない風が頬を掠めるのを感じ。
次いで見たのは――ガルドの傍らにあった壁に、まるで巨人の手でえぐり取られたような空白が生まれた光景だった。
静寂の中、ヒッ、とアイリスが小さく上げた声がやけに大きく響く。
その悲鳴を除けば、誰も、何も言わなかった。重い壁に阻まれているのか、外の物音すら入らない中では、なおさらその声は痛いほどに際立っていた。