3.特に悪気はない
テンポが悪くて申し訳ない……世界観の説明とかもうちょっと先で
「え……?」
少女には、分からなかった。
なぜ、どうして、と。
理解してくれたような態度で、拒絶されたことに、少女は衝撃を受けていた。
その様子を察したのか、言葉が足りなかったなと男はつぶやく。
『少なくとも、今はまだ、だめだ。
俺は、あんたの求める"答え"を知ってる。
あんたが納得できる……納得させられる"答え"を、持ってる』
だが、と。
『それを話すのは、少なくとも今じゃない。
もっと、落ち着ける場所で話すつもりだ』
「それは、どうしてですか?」
口にして、恨みがましいようなその口調から、少女は初めて自分が憤っていることに気づく。
知りたかった。
聞かせてほしかった。
彼は知っている。
少女が知りたいことを、彼は知っていて、話すことができる。
だけど、それをしない。
今にも崩れ落ちそうな闇の淵に立っているような不安を、少しでも和らげたかった。
それを、ただ話してくれるだけのことを渋っていることに、少女は憎悪さえ覚えていた。
『落ち着ける場所……少なくとも、屋根があって、腰を据えられる場所で、ゆっくり話したいし、聞いてほしいんだ。
そのくらい、長くなるし、傷つくこともあり得る話なんだよ。
……一応、あんたのためでもあるんだがな』
「……何を言われても、受け止めます。
そのくらいの覚悟は、ありますよ」
だから、早く話してほしい。
そう言わんばかりに、少女の口調が強くなる。
目覚めたときにあった遠慮や感謝は残っていたが、真実がすぐ傍にある現実が、少女を焦燥へと駆り立てる。
『知ってるよ』
少女の態度など気にしないかのように、男は淡々と答えた。
『知ってる。理解できる。
あんたが今、どれだけ不安で、真実に焦がれているか』
「……どういう、ことですか?」
『先に言っておくと、あんたみたいなのは、別に初めてじゃない。
こうして行き倒れてるのを拾って走るのも、話をするのも』
「だから、すべてわかる、と?」
自分のようなヒトが他にもいた。
おそらく、今と同じく、そのヒトを助け、話をしたのだろう。
だから、男は理解できている。
自分のような状態になったヒトの感情や、真実への渇望。
だから、男は知っているのだろう。
――真実を知ったヒトが、どのような末路を辿るのかを。
「……わかりました」
小さく、少女は降参を口にする。
『物分かりがよくて、助かる』
「勘違いしないでください」
拗ねた顔をしている少女は、見えない相手の代わりに後方の彼方を睨むように見据えながら、語調を強める。
「別に、怖くなったとかじゃありません。
今、あなたに話す気はなくて、だけどずっと話さないわけでもない。
だから、話を聞けるまで待つ。それだけです」
『それだけでも、十分だ』
砂利を跳ね除けて進む騒音の中、男の声はどこまでも平坦だ。
引き下がった少女に対してもどう思っているのか、通信機越しにはわからない。
「……あ」
ふと、少女は思ったことを口にする。
「理由が、もう一つありました」
『それだけ、なんじゃなかったのか?』
「大したものでもないですから」
何でもないことのように、少女は応える。
事実としてそれは、本当にどうでもいい理由だった。
なんとなく。
そう言い換えてもいいようなもの。
『よかったら、きかせてくれる?』
それまで黙っていた女の声も、興味を持ったのか尋ねてきた。
男がそうしたように黙っていてやろうか、といういたずら心が過ったが、それで得られるものもないかと少女は口を開く。
「それはですね、」
少女が二人と話していて、本当になんとなく、思ったこと。
「あなたたちは悪いヒトじゃない。
そう、思ったからです」
『………』
『………』
しばし、沈黙が続いた。
『……はぁ』
それから少女が聞いたのは、男の深いため息。
呆れたような、疲れたようなそれに、少女が首をかしげる。
「……? どうか、しましたか?」
ここにきてようやく感情のある声を聞いたな、と少女は呑気に思いながら、尋ねる。
『ううん、別に、なんでもないの』
男の代わりに応える女声は、それまでにはなかった感情――困ったような笑みを滲ませていた。
『……名前』
「え?」
『あなたの、名前。
聞かせてもらっていい?』
「あ……はい。
私の名前は、」
私の、名前は。
――あれ?
少女は、応えようとして。
――私の名前、なんだっけ?
できなかった。
少女は、問いに応えることができなかった。
『……どうしたの?』
「あっ……いえ、なんでもないです」
――自分の名前なんて、忘れるはずがない。
――覚えている。覚えている、はずなの。
自分を呼ぶ名の、欠落。
それを、少女は否定する。
そして、記憶を探っているうちに、少女は気づいた。
――ううん、違う。
――忘れている……のとは、違う。
自分の名前なんていう、日頃から傍にある情報を度忘れしたのとは異なるモノだ。
いまひとつはっきりしない、混濁した脳の中で、ここしばらく使われることの無かったモノを見つけ出す感覚に近い。
――えっと、
――私の、名前は、
記憶を探り。
積り重なった情報の砂丘を掻き分け、
『よし、決めた』
ふと、少女の頭の中で"声"がした。
それはあどけない、女の子の声だ。
聞くだけで心が安らぐような、親しみに満ちた声。
『あなたの名前を、決めたよ。
あなたが、あなたの人生を彩る名前』
いつ、聞いたのだったか。
どこで、聞いたのだったか。
覚えていない。
生まれた時の、母の腕の中で呼びかけられただったか。
乳母車を覗き笑いかけてくる父母の会話を聞いたのだったか。
覚えていない。
だけど、その口調も、息遣いも、はっきりと思い出せる。
『あなたの名前はね、』
そうだ――私は。
『忘れたのか?
まぁ、あんたみたいなやつには、珍しいことじゃ』
「いえ」
忘れてはいない、と。
固い意志で、男の声を遮る。
「覚えてます」
私の、名前を。
私は、覚えている。
「私の名前は、――"アイリス"です」
アイリス。
それが、私の名前だ。
『……そう』
しばしの沈黙ののち、応えたのは少女の声だった。
『それが、あなたの名前なのね……いい、名前』
唐突に褒められて、少女――アイリスは、戸惑いながら、しかし内心でほっとしていた。
覚えている。
私は、私の名前を覚えている。
知らないことは多いけれど、ただそれだけで、不思議と安心できた。
「あ、ありがとうございま……ふ?」
返事の語尾が濁ったのは、押し寄せてきた疲れのものなのか、欠伸が混ざったためであり。
続いて、ふあぁ、と小さく漏らしたモノを聞きつけたのか、男が言う。
『<都市>には日のあるうちにつく予定だが、もう少しかかる。今のうちに寝ておくといい』
「ふあぁぁい……わかりました」
もはや隠し切れない欠伸を混ぜた了承を返しながら、アイリスは目を閉じる。
まだ、知らないことは多いけれど。
特にこれと言える自信は、根拠はないけれど。
それでも、頑張っていけそうだ。
風の音と、荒々しい振動を感じながら。
迷子の少女は口元に微かな笑みを浮かべ、眠りについた。