2.知らない中で
『―――、――を――』
『――から、―――――と――』
「ん……?」
耳元を掠める微かな音に少女は目を覚ます。
それを"声"だと、自身のそれ以外には久しく聞いていなかったものだと理解するのに、しばらくかかった。
――ここ、は……?
まずわかるのは、自分が厚く、ごわごわした重い何かをまとっていることと、硬い何かに腰掛けながら、その何かによって移動していること。
ゴトンゴトン、ガタガタと荒く大地を走る音に反して、纏っているモノを通して尻に伝わる振動は小刻みで、控えめなものだ。
うっすらと目を開けると、外套か何かなのか、頭からすっぽりと全身を覆っている布と思しきモノの隙間からは地面が見え、手前にあるそれが一瞬の後には彼方へと去っていくことから、進行方向に対して逆向きに座っていることを知る。
もっとよく周りを見ようと体を動かすことを試みるが、軽く起き上がったところで腹部を押される感覚とともに阻まれる。見下ろせば、落ちるのを防ぐためだろうか、外套の上から帯で固定されていた。
『起きた?』
ふいに、声がした。
前後とも左右ともわからない、すぐ耳元から聞こえたそれは、少女よりも幼いような女声であり、自分へと向けられたものだと気づくのに一拍の間があった。
返答を試みるが、何日も潤いを得ずにいた少女の喉からは、ヒューヒューと乾いた呼気が漏れるだけだった。
『ちょっと待って。今、お水あげるから』
少女の所作に声の主は状態を悟ったのか、そう言うと、少しの間をおいて後ろから厚い外套を纏った腕がのびてくる。
その手にあるのは、栓がされた円筒状の物体であり、受け取るとチャポンと内容物が揺れる音がした。
『飲み方、分かる?』
"声"に対して、首を横に振って否定を示す。
すぐに、分かった、と"声"はかえってきて、
『まず、上に押し金があるから、押してみて……管が折りたたまれてるから、手で伸ばしてあげる……そう、そこに口をつけて、吸うの』
"声"に従い、筒の蓋を開け、伸ばした管に少女は口をつけ、中身をそっと吸って、
――あ
直後。
"それ"は、きた。
筒に入っていた液体は、吸い込むことで口の中いっぱいに広がり、嚥下すると喉を伝い、空っぽの臓腑に流れ込む。
潤う。
それは日常的にあったはずで、しかし乾き枯れた身には生まれて初めてのように思えるほど、鮮烈な刺激だった。
味は、わからない。匂いなど嗅ぐ余裕もない。
そもそも、流れ込む快感の前には、些末な問題に過ぎなかった。
全身がむせび泣くようにその感動に打ち震えているのだけが、少女が唯一理解できたことだった。
ただ、飲む。
口に含み、嚥下し、流し込み、体に取り込む。
それだけを、半ば無意識に、中身が尽きるまで繰り返す。
「ぇっ……げほっ、こほっ」
途中で、噎せた。
けど、止まらない。
押し寄せる快感のままに、もっと、もっとと本能が駆り立てる勢いのままに筒の中身を吸ったせいなのだが、それは少女の行為を止める理由にはならない。
『慌てないで、ゆっくり飲んで。……体が、びっくりしちゃうから』
落ち着くよう促す"声"は頭に入らず、結局、筒の中身を粗方飲み尽くし、吸う液体に空気が混ざってジュゾゾゾゾと品のない音が出るまで、少女は管から口を離さなかった。
『落ち着いた?』
しばらくして、"声"が問いかけてくる。
ありがとう、と少女は伝えようと、"声"の主――飲み物をくれた手の方向からして背後――を振り返ろうとして遮られ、そこで自分の腹部と背後を結ぶロープに気づく。
どうやら、自分は後ろ向きで括り付けられた状態でのせられているようだった。
『動かないで。無理に姿勢を変えようとすると、バランスを崩すから……それに、そのままでも、話はできる』
「どう、やって?」
久しぶりに人と話す緊張からか、ややつっかえながらも疑問を口に出す。
果たしてこれが伝わるのだろうかと少女は思ったが、返答はすぐに来た。
『今やっているみたいに、そのまま話してくれればいい。あなたの外套の口元に、通信機をつけてある。耳に、その受信機も』
恐る恐る耳に触れると、自分の体とは異なる固い感触があった。
同じく外套を探ると、口元を覆っている部分にも布とは異なるものを見つけ、これか、と気づく。
それから少しばかり迷った末、少女は最初に伝えたかった言葉を口にする。
「あり、がとう。助けて、くれて」
『……別に。たまたま見かけたから、拾っただけ。大したことじゃない』
返ってくる"声"は、素っ気ない。
少女は思っていたものとは異なる反応に戸惑いながら、それでも、と伝える。
「それでも、わたしは、助かりました。……あなたたちが、来てくれなかったら、たぶん、あのまま死んでましたから」
言葉を話す感覚を確かめるように、自分を助けてくれた相手へとの向き合っていくように、次第に少女は詰まらずに口にできるようになっていく。
「だから、ありがとう、と。助けてくれて、生きることができて、うれしいって、思えたから」
そこに、嘘はない。
一時は諦めた生を再び手にできたことが、ただただ嬉しかったから。
飢えて、乾いて、誰もいない荒地で朽ちる終わりから、救い出してくれたから。
『――本当に、そうか?』
返ってきたのは、やや高めの男声だった。
「っ……どういう、ことですか?」
それまで自分が話している相手が少女のものだけで、当然、自分と一緒にいるのがその一人だけだと思っていた少女は驚き、しかしすぐに持ち直して男声に問いかける。
『言葉通りだ。気を悪くしたなら、謝る』
謝罪する男の声は、ひどく淡々としたものだった。
少女に話しかけるもう一方の声と同じく、尽きようとしていたところを救った命に、大した感慨も抱いていないかのような機械的な受け答え。
『まあ、結局は、自分がどう思うかだからな。……あんたが「救われた」と、そう思ってくれているなら、それはそれで構わない』
「はぁ……」
曖昧な返事を返しながら、しかしこの時の少女には、男の言っている意味がよく分からなかった。
行き倒れ、ただ死を待つだけだった自分を助けてくれて、水まで分けてくれたのだ。
その事実だけで、少女の胸の中は感謝で埋まり、他の感情が存在する余地はなかった。
『俺たちは今、近くにある<都市>に向かっている。あんたがどこに向かおうとしていたのか知らないが、とりあえず一緒に行ってもらうぞ』
「はい。それで、構いません」
男の出した方針に、少女は迷うことなく肯定を返す。
もとより、行く当てなどなく歩き続けていた彼女にとって、名を知らなくても人が集まっている場所に行くことができるということは、願ってもないことだったから。
「あ……ひとつ、いいですか?」
恐る恐る、少女が口にする。
『なんだ?』
男の声は、ひどく不愛想だ。
あまりに平坦なそれは、ただ話しているだけでは感情をうまく読み取れず、捉え方次第では不機嫌なようにも、威圧しているようにも聞こえる。
事実として、少女がこうして話しているだけでもいっぱいいっぱいで、おそらく正面で向かい合っていたら、切り出せなかっただろう。
そう考えると、荷物扱いで後ろ向きでいるのも悪くないかな、と頭の片隅で少女は思った。
「いろいろと、教えてもらいたいことがあるんです。……その、助けてもらったうえで、図々しいのは、わたしも分かってるんですけど」
通り過ぎた道が、地面がはるか後方へ――後ろ向きの少女には視界の奥へと消えていくのを眺めながら、口元の通信機に話しかける。
「わたし、何も知らないんです。
自分がいた場所も、今、どうなっているのかも」
事実である。
ただ、知りたい。
それだけを、絞り出すように少女は語る。
「気づいたら、誰もいない街にいて。
何もわからないまま逃げて。
何もわからないまま、何もないところを、ずっと歩いてて……だから、知りたいんです」
『何をだ?』
「全部……でなくても、いいです。
ただ、ここがどこか、とか。ここで生きていく方法、とか、です」
『……わかった』
わずかに思考の間をおいて、男は言葉を返す。
やった。教えてもらえる。
何も知らない、無知の暗闇に閉ざされた中で、一筋の希望の光を見出した少女は、うつむきがちだった顔を上げ、
『だが、だめだ』
しかし、あっさりと。
短い言葉で、呆気なく、青年は彼女の頼みを断った。