1.行き倒れ
今にして思えば。
"その時"まで、わたしは世界を知らなかったのだろう。
夢の中、本当は有るはずもないお花畑で。
現を知らず、汚れを知らず、私はただ、笑っていた。
笑い、無知のままに、視界に映っている分だけの世界を謳っていた。
世界は素晴らしいと。穏やかで、暖かくて、きれいだと。
本気で、思っていたのだ。"その時"までは。
――初めて世界を知ったのは、痛みからだった。
その少女が目覚めたのは、背中に感じた鋭い痛みによるものだった。
次いで感じたのは、自身が横たわっている場所の固い感触で、身じろぎすると、じゃりじゃりとした形状の粗い無数の粒をかき分ける感触がある。
「んっ……?」
ねばつくように重たい瞼を押し上げる。
見えたのは、一面を薄汚れた雲で覆い隠された空であり、自分が屋根もない場所で眠っていたことを思い出す。
「……やっぱり、夢じゃありませんでしたか」
起き上がり、辺りを見回しながら彼女が口にしたのは、どうしようもない諦観だった。
そこは、何もない荒野だ。
生物はいない。少なくとも見える範囲、地上を闊歩するモノはいない。
植物にしても、ほんの僅かだ。土の性質によるものか、見える地表は赤褐色の乾いた土や砂利が大半を占めていて、そこにしがみつくように生えているものがぽつぽつと見える程度。
今は砂塵を孕む風のせいでよく見えないが、晴れれば遥か先の地平まで遮るものなく見渡すことができるだろう。
少なくとも、少女が眠りにつく前がそうだったから。
何もない。
正確に言えば、地形以外に特筆すべきものがなにもない。
そんな、光景。
そしてそれは、少女が目を閉じる前に見ていたそれと何の変りもないものだった。
――とりあえず、歩きますか。
惰性にまみれた決意の後、少女はぐぐっと伸びをして凝り固まった体をほぐしながら、寝床にしていた場所――荒地の中で偶然見つけた、自分の体が収まる形に窪んでいただけの地面から立ち上がる。
あ、と自分が眠っていた場所を見て、少女が声を上げる。
視線の先にあるのは、横たわっていた少女のちょうど背中に当たる部分であり、彼女が起きるきっかけとなった痛みを感じた個所でもあった。
「石……」
そこは、周りが乾いた土の中で唯一、尖った石が露出していた。
恐る恐る少女が背中に手を這わせると、痛みを感じた個所は、そこを覆っていたはずの衣服の布地こそ破れているものの、血が出ているとか、目立つ傷ができている感触はない。
衣服にしても、少女のそれは所々が裂け、ほつれ、布地の模様などは土ぼこりにまみれて面影もない状態であったため、大して気に病む様子もなかった。
「えっと……わたしが眠っていたのが、この向きだったから……」
自分が眠っていた場所と、そこにたどり着いた時の方向から大まかに方向を割り出すと、少女は眠るときに気休め程度に体にかけていたボロボロの布切れを回収し、寝床を発つ。
それからは、ただ、歩いた。
と言っても、少女に明確な行き先があるわけではない。
大まかにアタリをつけて、先へ、先へと歩くだけであり、そこに明確な意味はない。
少女は知らない。
自分が、どこを歩いているのかも。
歩いた先に、何が待っているのかも。
いや、そもそも、待っている"何か"というものが存在するのかどうかすらも。
少女は何も知らないまま、歩き続けている。
――どれくらい、歩いたんだろう。
ぼんやりとそう考える少女の時間の感覚は、とっくに消え失せていた。
歩いて、歩いて、疲れたら風を少しでも凌げそうな場所を探し、拾ったぼろきれを被って眠り、起きたらまた歩く。
少女が歩いていくと決めた瞬間から、彼女の成したことはただそれだけだった。
――疲れた。
ごつごつした地面に身を横たえても、まともに休めた気がしない。
思考は曖昧で、細かいことを――自分がどうして歩いているのかとか、行き着いた先に何があるのか、何をするかとかを――考えようとすると、同じ部分を延々と繰り返すように要領を得ない。
荒れた大地には食物の類もなく、飲まず食わずでただ歩き続けているが、不思議と飢えも乾きも感じなかった。
歩いて、眠って、また歩いて。
それだけを繰り返している。
眠りながら起きているような、起きながら眠っているような、定まらない頭はただ地を踏んで前へと歩くことだけを促す。
自分が生きているのか、それすらもわからなくなりそうだった。
「あっ……」
どれほど歩いたろうか、踏みしめていた地面の感触が消えた。
それが、自分が何もない平地で、ただ足をもつれさせたのだと気づいた時にはすでに遅く。
「ぇぶっ」
転んだ。
辛うじて顔を腕でかばっただけの雑な受け身で、粗い砂利の地面に倒れる。
「っつう……」
ろくに力の入らない体では、やせ細った筋肉をふるふると震わせながら寝返りを打ち、うつ伏せから仰向けに体勢を変えるので精いっぱいだった。
「っ……はぁ」
大きく息を吐き、全身の力を抜きながら、少女は自分の状態を確かめる。
もともと歩みが遅かったのが幸いしたのか、転倒による衝撃は軽く、どこか骨が折れて動かせないとかいうこともない。
ただ、地面に擦れた箇所が、焼けるように痛いだけで、また歩く分には支障は無さそうだ。
行こうと思えば、すぐにでも立ち上がり、歩きだせるだろう。
だけど。
――起き上が、れない?
体は、動かなかった。
正確には、体を動かそうと、起き上がろうとすることができなかった。
どうして、と思う。
ここには何もない。ただじっとしているだけでは、どうにもならない。
ならば、別の場所へ、何かある場所へと向かわねばならないのは、当然だ。
なのに。
――動かす気に、なれない。
澱みのように溜まる疲労。
活力などとうに尽き、目的地の希望も何も見えず、進む先にはただ砂嵐と、地平線ばかり。
盲目的に歩き続けるにも心身ともに限界があり、今、それが訪れたという、ただそれだけの理屈だった。
――死んじゃうのかな。
悟ったのは、一つの結末。
もとより、飲まず食わず、というより飲む物も食う物もなく歩き続けた身だ、そうなるのに大した時間もかからないだろう。
望んでいるわけではないが、今の少女に死を避ける術はなく、避けようとする気概も、とうに失せていたのだ。
――ああ……何も、いいことなんて無かったな。
湧き上がる疲労に促されて目を閉じれば、いくつもの光景が瞼の裏に押し寄せてくる。
一つ一つが連続しない、ぶつ切りにされた映像を並べたようなそれらは、ここしばらくの間、自身が歩いていた無人の荒野ではない。
ある時は、極彩の草花に囲まれていて。
ある時は、透き通る清らかな水辺を駆けていて。
ある時は、深く澄み渡る青空を、寝転びながら見上げていて。
閉ざした視界を目まぐるしく彩るそれらは、少女がかつていた場所だった。
かつて暮らしていた場所。生まれ、育った場所。
荒涼とした、何もかもが枯れたこの地とは全く異なる場所。
そして、――少女が"とある理由"で離れ、もう戻れない、戻ることのできない場所だ。
――このまま、死ぬのかな。
知らぬ地で。
ぼんやりと歩いて、飢えて乾いて、疲れ果てて。
そうして野垂れ死ぬことは、今の自分の境遇としては、当然の終わり方なのだろう。
じわりと、乾いた紙に水が浸みていくように、眠気がやってくる。
それが、すぐそばまでやってきた"死"なのだと、少女は悟った。
少女は拒まない。動きもせず、ただ、身を任せる。
拒むことにも疲れたから。
死なないために、生きるために、生きて何かを為すために歩くのは、もう限界だった。
――もう、死ぬんだ。
少女には、分かっている。
どうにもならないことを。できないことを。
わかっているのだ。
――だけど、
それでも、
――いやだ。
まだ、死にたくない。
惜しんでいた。
――何もできないまま、この世界に来て、何もできていないまま死ぬのは、いやだ。
それは悔しさか、もどかしさか。別の何かか。
しかし現実は感情とは真逆に、意識を眠気に侵し、暗闇に沈めていく。
ただ暗く、冷たいぬかるみが、足掻く少女を嘲笑うように飲み込んでいく。
――いやだ。
死にたくない、生きたい、いやだ、暗い、冷たい、
えない、足りない、こわい、動 ない、
終わり ない、止まっ う、い だ、感覚が い、
眠い、 りた い、起きたい、 て い、
まだ、 、ま 、
何も感じない。
何もわからない。
ただ、薄れていく意識の中、それでもはっきりと残る恐怖のままに叫び続ける。
だから。
少女は、気づかなかった。
厚い雲に妨げられながらも、少女を照らしていた光が遮られたことに。
それまで風の音しかしなかった空間を低く、重く打つ無機物の鼓動があることに。
いつからいたのか、二つの人影が、少女の傍に佇んでいることに。
それらは、装甲や収納ポケットを仕込んだ大柄の服をまとっており、顔は視界確保のためのゴーグルと一体化した吸気浄化用のマスクで全体を覆っていた。
汚染された土の、風の影響を最小限に抑えるそれは生身の輪郭を隠し、性別や年齢の判別も難しい。
ただ、片方は小柄で、もう片方は淡く光る手甲を嵌めているのが特徴的だった。
そんな二人のうち、小柄な方が、横たわる少女に近寄る。
そして、僅かに上下する腹部、微かに震わせながら、しかし僅かな声も漏れぬ唇に視線をやりながら、マスクを介したくぐもった声で、話しかける。
『大丈夫? 生きてる?――あなたに生きる意志は、ある?』