a 某所、歩く者たち 1
青年の視界は、何もかもが壊れていた。
広大な平地には見渡す限りの瓦礫の山と、時折その隙間から覗く炎の燻り。
"それ"は、かつて街であったはずのモノで、今ではその形を、意義を失った死骸だ。
建造物の群れはそのほとんどが破壊により原型を留めておらず、所々に倒れ伏した人影、もしくは埋もれた中から僅かに伸びた手足が見えるが、いづれも微動だにしない。
濁りきった空から無数に降り注ぐのは、不自然なまでに明るい緑青色の光の粒であり、それらは地上に残された生命の痕跡に舞い降りては積もり、覆い、侵していく。
その場所に、生気は無かった。
体裁を保つべき建物も、住民も失い、緑青に呑まれるそこには、もはや生の営みと呼べるモノは、何一つとして残されてはいなかった。
終わった街だ、と青年は思う。
これまでにも何度か目にしてきた、かつては栄え、しかし破滅と共に消えていったそれらと同じだ、と。
青年が立つのは瓦礫の街から幾分かの距離を置いた地点、切り立つ崖の上であり、見下ろす表情は喜怒哀楽のどれともつかない。
艶のない黒髪や緩めた外套が、風に混ざる黄褐色の砂や塵に塗れるのも構わずに眺めている、ただそれだけだった。
「――どう?」
ふいに投げられた言葉は問いかけで、青年のすぐ近くからのものだ。
応えの動作として、青年は視界――拡大した街の光景を覗いていた遠視鏡から目を離し、傍らを見る。
そこにいるのは、青年と同じく表情の乏しい小柄な少女だ。
薄手ながら要所に防弾・防刃素材を織り込んだ武骨な服を纏い、青年と同じく砂塵で濁った白銀の髪を一つにまとめている彼女は、感情の欠けた目を青年へと向けていた。
「<都市>は全壊、汚染はおそらく全域に及んでる。生き残りはざっと見た限りは皆無――抗争は同士討ち、任された"仕事"もやる前からご破算だな」
少女の問いに否定で返す青年の声に、しかし失望の色は無い。むしろ、さも当然のことのような、実際に見る前から結末を知っていたかのような口ぶりだった。
「誰か、まだ生きてるヒトがいるかもしれない。行ってみる?」
「いいや、無理だ」
首を横に振りながら、青年は即答する。
「既に、相当な量の"粒子"が降ってる。仮に生き残りがいたとしても、手遅れだろう」
連れ出せたとしても1日持つか持たないかの差でしかない、と。
淡々と事実だけを口にしながら、青年は眼下、少し前まで見ていた街の死骸を一瞥し、すぐに逸らした。
着崩していた外套を羽織りなおしながら向いた後方は、砂塵除けの幌を被った影が鎮座している。
幌を、まだそこにいてからさほどの時間も経過していないに関わらず既に厚くかぶっている砂ごと落としながら取り払うと、そこにあるのは前部に2輪、後部に1輪の計3輪を持つ自動走行車だ。
黒色で機動性と安定性を両立させる形状、前後に二人分の座席を持ち、車体の両脇には長距離航行用の装備を携えている。
「行くぞ。じきにここにも<粒子>が来る」
「……ん、分かった」
車体の前方、操舵席に当る箇所に跨りながら言った青年に、こくりと少女も頷いて後部に乗り込む。
目と耳に保護具を、口元に浄化機を内蔵するマスクを、それぞれ少女が装着するのを見届けると、青年もまた同種のものを身に着け、前を向く。
それから、方向操作用の左右1対の握りの中間、幾つも並んだ計器に手甲を纏った右手を掲げ、青年はぼそりと短い言葉を口にする。
「――重力駆動」
直後、青年と機体に変化が訪れる。
まず、青年が掲げる手に淡い光が生じた。街に降り注いでいた光の粒子とは異なる青白いそれは、彼が纏う手甲ではなく、その内側、彼の生身から発せられるものだ。次いで、いくつかの計器が起動の光を灯し、それぞれに計測した値を表示し、応じた内部処理の駆動の音が大気をわずかに震わせる。
そして、鈍重な外観、多少力を込めたとしてもびくともしないはずの車体が不安げに揺れ――僅かながらの浮遊を果たす。
後部に少女が乗り込んだことで重心の変化に車体が揺らぎ、すぐに安定を取り戻したのを走行への了承と捉えた青年は、再度計器を確認した後、車体を発進させた。
舞う塵は止まない。むしろ、ここに着いた時より密度は増しているようにすら青年には感じられたし、おまけに風も強くなってきた。
「――か、できたのかな」
「ん?」
丘を後にし、しばらく走ったあたりで、青年は周囲への警戒の中に紛れ込む声を聞き取った。
耳元を覆う保護具に内蔵した短距離通信機を通して聞こえたそれは、後部に座る少女のものだ。
「どうした?」
「……べつに、ただの独り言。なんでも」
なんでもない、と口にしかけた言葉を彼女は自身で遮り、ううん、と否定する。
「なにか、できたのかもしれない。ここからでも、今からでも」
それは、後悔だった。
丘の上、淡く光る粒子に包まれながら死んでいく街を遠目に眺めながら抱いた感情。
既に手遅れ、取り返しのつかないと、有りもしない希望であると知っていてなお、抱くことのできている後悔だ。
しかし青年は、少女のそれを気にする様子でもなく、計器と周囲への注意が逸れることは無い。
ただ、少し経ってから、無理だ、と青年は口にした。
「さっきも言っただろう。連中はもう、終わっていた……終わっていたんだよ」
終わっていた、と強調しながら語る青年の口調は、主張するわけでも教え諭すわけでもなく、ただ、事実を並べていくような淡々としたものだった。
「抗争が始まる前なら、その"なにか"とやらはできたのかもしれない。それが気休めの延命処置だとしてもな。……だが、俺たちが"依頼"を受けたのはそれが決定的になった後だった。だから」
「分かってる」
言葉を並べる青年を、少女の一言が遮った。
「分かってる……ちょっと、言ってみただけ」
呟き、後部の座席で少女は青年の背中に顔をうずめるように寄りかかる。
緩まぬ警戒の中、自身にかかる重さとマスクの硬いフレームが当たるのを背に感じながら、青年は機体を走らせる。
「……また、街が消えた」
微かな駆動音を除けば音を生まない機体の上、轟々と吹き荒れる風の中で、少女が言う。
「これから、どうなるのかな」
「いきなり、どうした?」
風は強いが、装甲車はその影響を受けていないかのように揺らぎもせずに走る。
「いろんな事が、どんどんおかしくなってきてる。最近は、ずっとそう」
薄汚れた空を、地を、砂塵に閉ざされた、しかし向こう側には広がっているであろう彼方を少女は見る。
「あの<都市>だけじゃない、もっとずっと大きな、世界そのものがおかしくなってる」
青年は砂に光を遮られた薄暗がりで目を凝らし、計器の反応を頼りに走りながら、少女は過ぎていく光景を無機質に眺めながら、話す。
「この世界は終わりかけてるんだって、聞いたことがある」
「世界が?」
交わす言葉は、短い。
砂塵は視界を塞ぎ、内燃機関の漏らす微かな駆動音を風が擦り潰していく。
「<大戦>が始まって、どこもかしこも壊れて、戦争ができないくらいになったあたりから、終わりが始まったんだって。<ゲート>ができたのも、その<ゲート>から<訪問者>がやってくるのも、<軍>が見張ってるのも、それが理由みたい」
「生き延びるために身を寄せ合った<都市>で殺し合ってるのも、それが理由だと?」
「そうだと思う……ただ、思いたいだけかもしれないけど」
僅かな間を置きながら交わされる、ともすればノイズの欠片とも思われるようなやり取りは、砂と風が埋めるだけの空白を恐れるように、細々と続く。
「嘘だと思ってる?」
「さあ、どうだかな」
風はまだ、止まない。
「国と呼べるモノが軒並み潰れて、ある日突然得体のしれないモノができたり、余所からやってきたりするご時世を、偶然で片づけられるほど楽天的じゃない。だが、それへの答えを、俺は知らん」
話の中身なんて、何でもよかった。
数日前の話題の繰り返しでも、立ち寄った宿の食堂で耳に挟んだくだらない冗句でも。
僅かでも気を抜けばそのまま消えてしまいそうな意識を繋ぎとめるためだったから。
「……何なんだろうね」
「何なんだろうな」
機体は、地に轍を刻まない。
浮かび、航行する重力機構により地に触れず、ただ内燃機関によって生み出される推力が僅かに跡を生むことはあっても、それは積もる砂ですぐに埋まる程度には浅いものだ。
「……そろそろだ」
"それ"を青年が感じ取ったのは、僅かな感覚の差異からだった。
計測機器による数値の変化ではない、気のせいだと吐き捨てられればそのまま受け入れてしまいそうな、ほんの僅かな差異。
「なに?」
尋ねる少女の声もまた、単なる疑問ではなく、自身の感覚を確かめるような確認のそれだった。
「そろそろ――抜けるぞ」
応えの直後、視界が変わった。