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短編 楽譜の中の王子と姫

作者: 間の開く男

『私は、私の耳が嫌い』

 初めて人に伝えた言葉は今でも覚えている。

 お母さんはそれを見て、とても悲しい顔をしながらこう応えた。

『ごめんね』

 四文字だけの返事。

 短くてもその顔を見ればちゃんと伝わったし、なんで自分でもそう伝えてしまったのか分からない。

 声を上げて泣いてしまって、背中をさすってくれたお母さんの優しさが嬉しかった。

 

 音が無い世界が不便じゃないかって聞かれるけれど、全然そんな事は無い。

 聞こえて当たり前の世界では不自然な存在かもしれないけれど、最初から聞いた事がなければ、それが私の当たり前。

 学校帰りに、ある道を通るまではそう考えていた。

 

「音楽教室」

 ガラスにはそう書かれていて、ガラスの中では何人もの生徒が、演奏している生徒に注目してた。

 指が激しく動いて、椅子から立ち上がって、みんなにお辞儀して。きっとみんなが拍手している。

 

 先生らしき男の人が、こっちにおいでと手招きしてくれたのは見えたけれど、その輪の中に入る勇気はなかった。

 

 

『お母さん、ピアノってどういう音なの?』

『とても優しい音だけれど、どうして聞くの?』

『なんでもない』

 きっと、その音を聞きたいって言っても無理だし、困らせてしまうだけだって分かってる。

 

 

 学校帰りにこの道を通るのが日課みたいになっていた。

 いつもなら生徒がいっぱいいる筈の教室には、その先生しか居なかった。

 

 ガラス越しに目が合って、こっちに手招きして。

 手を振って、バイバイ。

 今日もそのつもりだったのに、いつもとは違った。

 

 椅子から立ち上がってそのまま部屋を出ていってしまった。

 何か悪いことをしちゃったのかな、と考えていたら、左肩をトントン、と叩かれて。

 振り向いたら、さっきまでガラスの中に居た先生が、横に立っていた。

 

「――――――――」

 何かを喋ってくれているのに、聞こえない。

 鞄から手帳を取り出して、ペンで書いたものを見せると、一瞬困ったような表情になった。

 ゆっくりと口を開いたりして何かを伝えようとしているのは分かる。

 

「ぺ ん お か し て」

「ペンを貸して?」

 首を細かく縦に振って、そうだよと唇の形で教えてくれた。

 

「君、耳が聞こえないのかい?」


 荒々しい文字だけれどちゃんと読める。


「はい、聞こえません」

「それでもうちの前でずっと見てたよね。なんでかな?」

「ピアノの音が聞いてみたくって」

 先生はしばらく考えた後に、こう書き加えた。

 

「ついておいで」

 ほら、早く。

 笑顔を浮かべながら、いつもの手招きをしてくれた。

 

 譜面台から何枚かを引っこ抜いて裏返して。

「手帳が勿体ないから、こっちに書こうか」

「はい」

 

「ここを触っていてごらん」

 ピアノの上の部分を左手で指差しながら、そう書いてくれた。

 言われた通りに手を当てると、先生がピアノを弾き出した。

 指に振動が伝わって、音は聞こえないけれど、弾いているのはちゃんと分かる。

 

 振動が止まって、先生が立ち上がる。

「ほら。次は君の番だ」

 椅子の高さを調節してくれて、その椅子の上に座った。白と黒が並んだ上に、私の指を添えて、押した。

「これでいいんですか?」

「うまく弾けてるよ」

 たった一つの鍵盤を押して鳴らしただけなのに、褒めてくれた。

 

 音は聞こえないけれど、ちゃんと先生の声が聞けたような気がして。

 一つずつ、振動を確かめながら、先生の顔を見ながら。

 

 

 

「ド、レ、ミ、ド、ミ、ド、ミ」

 先生が手拍子してくれる。伸ばす所は手を大きく離して。

 

「レ、ミ、ファ、ファ、ミ、レ、ファ」

 合っているのか、さっきより笑顔で頷いてくれている。

 

「ミ、ファ、ソ、ミ、ソ、ミ、ソ」

 一つだけ短かった筈なのに、そのまま続けてくれる。

 

「ファ、ソ、ラ、ラ、ソ、ファ、ラ」

 楽譜の裏へ書かれた通り、鍵盤を押すだけなのに。

 

「ソ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」

 なんで、こんなにも音を聞きたいんだろう。

 

「ラ、レ、ミ、ファ♯、ソ、ラ、シ」

 きっと、手拍子で応援してくれてるんだ。


 

「シ、ミ、ファ♯、ソ♯、ラ、シ、ド」

 先生が、私の弾いた音を聞いて。


「シ、シ♭、ラ、ファ、ミ、レ、ド」

 私は、先生の(おと)を、聞きたい。

 

 

 手拍子から、拍手に変わったのが分かる。

 椅子に座っていた先生が立ち上がって、テンポなんて関係なく、力強く手を打っているのが見えたから。

 

 

「よく弾けたね。今のがドレミの歌だよ」

「先生が手拍子してくれたから」

「そんなことはないよ。ちゃんと教えた通りに弾けてた」

「先生。先生の声を、聞いてみたいです」

 その音を、どの音よりも聞きたい。


 さっきガラスの外で悩んだように、また考え込んで。

 先生はしゃがみこんで、私の手を優しく掴んでから。

 その喉に手を当てさせた。

 

「よ・く・で・き・ま・し・た」

 口の動きなんか見なくても、ちゃんと伝わったよ、先生。

 

 教室から出る時に、もう書く所が無くなった楽譜に最後に書き足した。

「この楽譜、貰ってもいいでしょうか」

「いいけれど、どうするの?」

「宝物」

 大きく頷いてくれるのは、分かってる。

 

 

 冬に変わりつつある夕焼け空に、楽譜を透かしながら。

 先生と私の言葉が、五線譜の上を踊ってるみたいに見える。

 

 聞こえなくても聞こえてくる、ガラスの中でのおとぎ話。




 舞台袖の先生へ、小さく手を振る。

「が・ん・ば・っ・て」

 言わなくても、ちゃんと聞こえてるよ、先生。

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