隠蔽工作と政争
「陸海軍査問会議の報告をひっくり返す証拠を探し出せ」
スチムソン陸軍長官から命令されたクラウゼン中佐が活動を開始したのは一九四五年(昭和二十)一月です。クラウゼン中佐は、世界中を飛び回り、ウインド・メッセージに関わったと証言した証人に面会しました。実に奇妙なことですが、クラウゼン中佐に面会した証人たちは次々と証言を変えていきました。
「これまでの証言と食い違うかも知れません。しかし、正確にいうと、ウインド・メッセージを見ておりません」
「ウインド・メッセージについて協議したことはありません」
「ウインド・メッセージに関して報告を受けたことはありません」
証人たちは陸海軍査問会議での証言をひるがえし、否定していきました。そして、出世していきました。クラウゼン中佐は、こうした工作活動を九月まで継続します。
一九四五年(昭和二十)三月末、暗号関係の情報公開を禁じる法案が上院に提出されました。これはフォレスタル海軍長官とスチムソン陸軍長官の要請に民主党が応えたものです。この動きに気づいたキンメル大将はワシントンへ向かい、ワシントン・ポスト紙の社長に面会し、事情を訴えました。
「ルーズベルト大統領は真珠湾の事実を隠蔽しようとしている」
ワシントン・ポスト紙は、民主党の暗号情報公開禁止法案を批判する記事を掲載し、世論を喚起しました。ワシントン・ポスト紙は四月十二日にも真珠湾事件を隠蔽しようとする民主党を弾劾する記事を掲載しました。
「暗号情報公開禁止法案に関する審議はたった一度で、しかも秘密会だった。真珠湾の敗北という歴史的事件は、秘密のベールに包まれる」
世論は民主党を非難しました。この日、同法案は上院では再審理、下院では否決となり、不成立が確定しました。
そして、同日午後、ルーズベルト大統領急逝のニュースが伝わり、人々を驚かせました。
ルーズベルト大統領が死んでも隠蔽の謀略は続きます。フォレスタル海軍長官はヒューイット大将に命じ、真珠湾事件の再検証を命じました。また、マーシャル参謀総長はクラーク大佐に命じ、やはり真珠湾事件の再調査を命じました。
ヒューイット機関とクラーク機関は、いずれも陸海軍査問会議の結論をくつがえすために設立されたものです。すでにクラウゼン中佐の工作によって証言を翻した証人たちに再度の尋問を行い、陸海軍査問会議の証言をくつがえしていきました。具体的には、ウインド・メッセージを傍受し、解読し、伝達したという事実をすべて隠蔽していったのです。
証人たちが次々と証言を変更していく中、ただひとり証言を変えなかったのはサフォード大佐です。サフォード大佐がヒューイット機関の予備尋問に召喚されたとき、露骨で執拗な誘導尋問に曝されました。
「ウインド・メッセージを見たというのは君だけなんだがなあ」
「日本近海でさえキャッチできなかったウインド・メッセージを、なぜ遙か遠いワシントンでキャッチできたのかね」
「ウインド・メッセージがあったということ自体が疑わしいのだ」
「いま証言を変えても、君の人格が疑われることはない。安心したまえ」
「君の言う証人たちは全員がウインド・メッセージの存在を否定しているよ」
「君は何もムキになってキンメル提督のお先棒をかつがなくてもいいんだよ」
サフォード大佐は、こうした誘導尋問をかわし、真実を訴え続けました。サフォード大佐の証言は、ヒューイット機関の公式尋問でも同じでした。しかし、それ以外のすべて証人たちは、ある者は保身のため、ある者は誘導尋問に引っかかって証言を変えていきました。結果、真実を訴え続けたサフォード大佐は孤立無援となり、まるで嘘つきのように扱われるようになりました。
ヒューイット機関の怪しげな活動を知ったキンメル大将は、自ら尋問を受けたいと申し出ました。すると、ヒューイット機関はこれを拒絶しました。逃げたのです。
ヒューイット機関の調査は七月十一日に終了しました。その報告書はウインド・メッセージの存在そのものを否定しています。
「真珠湾奇襲前にアメリカとの関係を指す暗号をふくむメッセージは傍受されなかった」
一方、キンメル大将については、その責任を免責しました。
「太平洋艦隊を戦争に備えて精力的かつ十全の配慮をもって整備した」
じつに奇妙な玉虫色の結論です。
クラーク中佐の調査も八月に終了しました。その結論は、ヒューイット機関のものと同様です。
日本がポツダム宣言を受諾して第二世界大戦の戦闘がすべて終了していた八月二十九日、トルーマン政権首脳は、真珠湾事件の調査結果をいかに公表するかを議論しました。アメリカ国民に何を知らせ、何を知らせないか、判断の難しいところです。本来ならば、真実を知らせれば良いだけですが、民主党政権はあくまでもルーズベルト大統領の無謬性を守ろうとしました。
最終的にトルーマン大統領は、陸海軍査問会議の報告書を公開することにしました。ただし、陸海軍長官の意見書を付すことにしました。その意見書にはヒューイット機関とクラーク機関による調査結果が盛り込まれます。
数日後、トルーマン政権は陸海軍査問会議報告と陸海軍長官意見書を同時に公表しました。マスコミも世論も困惑しました。それは当然です。異なる結論のふたつの文書を同時に見せられたのです。一方ではウインド・メッセージがあったとされ、他方ではなかったとされています。一方は政府首脳に責任ありとし、他方は政府首脳に責任なしとしています。また、一方はキンメル大将の責任を追及し、他方は同大将をよくやったと評価しています。世論は混乱しました。
「いったい真相はどっちなんだ」
このため民主党政権に対する批判が巻き起こりました。トルーマン大統領は中途半端だったといえるでしょう。正直者と嘘つきを同時に演じたのです。ルーズベルト大統領であったなら徹頭徹尾の大嘘をつき通したでしょう。
九月中旬、すべての工作を終えたクラウゼン中佐がスチムソン陸軍長官に報告しました。
「事実上、査問会議の結論はひっくり返りました。ワシントンには一切の落ち度はありません」
しかし、すでに世論は沸騰し、連邦議会が動いていました。連邦議会は「完全にして公平な審議」を行うと宣言し、そのための動議を提出し、上下両院合同委員会の開催を決めました。
真珠湾攻撃に関する上下院合同委員会が始まったのは一九四五年(昭和二十)十一月十五日です。キンメル大将とショート中将にとっては、待ちに待った公開での審議です。しかしながら、連邦議会であるだけに、民主党と共和党の政争からは逃れられません。十名の委員の内、六名が民主党議員、四名が共和党議員です。
元国務長官のハルが高齢と病身を推して出廷したのは十一月二十二日です。ハルは、真珠湾攻撃について事前に知るところは何もなかったと証言しました。明らかな虚偽ですが、それを落ち着き払って言えるところが政治家というものです。そんなハルが感情を露わにしたのは、ハル・ノートに触れられたときです。
「ハル・ノートこそ戦争のボタンを押した最後通牒だった」
ひとりの委員が陸軍査問会議報告の一節を読み上げたとき、ハルは激怒しました。
「なんという見当違いの指摘か。その恥知らずの指摘をわたしは既に何ヶ月ものあいだ受けてきたのだ。ジャップが太平洋を征服しようと着々手を打っていたのは、みんな知っていることじゃないか。ジャップは、やつらはすでに侵略を開始していた。それなのに知らん顔をしていた奴らがしゃしゃり出て、なぜ戦争を回避しなかったか、などとほざく」
これは本音だったのでしょう。アメリカ政府の外交責任者がこのような頑固な偏見の持ち主だった以上、日本政府がいかに譲歩しても戦争を回避することは不可能だったでしょう。
マーシャル参謀総長は十二月七日に出廷しました。
「十二月六日の夜どこにいたか思い出すことができません」
あいかわらずの証言です。十二月八日、共和党委員に追及されたマーシャルは次の事項を認めさせられてしまいます。ショート中将に対する指揮権はマーシャル参謀総長にあったこと。そして、ハワイのショート中将に警告しなかった責任はマーシャル参謀総長にあったことです。マーシャル参謀総長に対する追及は数日間にわたってつづき、ついにマーシャル参謀総長は責任を認めます。
「あなたは真珠湾の敗北についてご自分の責任を認めますか」
「充分な警戒態勢をとっていなかったことを察知できなかった責任を認める」
年末から年始にかけては元海軍作戦部長のスタークが出廷しました。スタークは真珠湾攻撃の直前に何をしていたかを問われました。
「十二月六日の夜、どこにいたか記憶にありませんか。あなたとマーシャル参謀総長が会っていた可能性はないですか」
スタークは次のように答えました。
「当時、そのような謀議はなかったと思います。絶対とは言いませんが、マーシャル参謀総長には会わなかったと思います」
スタークが「謀議」という言葉を唐突に使ったので会場がざわめきました。
キンメル大将が出廷したのは一九四六年(昭和二十一)一月十五日です。待ちに待った公開の場における審議です。真珠湾攻撃の日以来、キンメル大将はずっとこの日を待っていました。キンメル大将は、まず、二万五千語におよぶ冒頭陳述を朗読しました。
「情報さえ与えられていたら、日本軍を壊滅させることができた」
翌十六日、スターク作戦部長との関係についてキンメル大将は問われました。
「真珠湾以前はスタークと親密だったか?」
「スタークは尊敬する同僚だった。彼を信じ、友情を信じていた。しかし、事実を忘れることはできない。情報さえ与えられていたら、そう思うと残念でならない。わたしは傍受電報を見たかった。それが最大の関心だった。情報さえ与えられていたら、わたしは太平洋艦隊を失うことはなかった。われわれは何も知らされていなかった」
十八日、キンメル大将は次のように述べて証言を終えました。
「当時、わたしは階級と地位にふさわしい高度な判断をしていました。査問会議の報告もそうなっています」
証言を終えたキンメルは実弟に手紙を書き、その心情を吐露しました。
「証拠はごく一部が採用されただけだが、わたしはやっと真珠湾について全容を語る機会を与えられた。このささやかな恵みに感謝する。公開の場で話し得たことがわたしの憂悶を晴らしてくれた。大いに血圧が下がったよ」
翌十九日にはショート中将が証言しました。
「わたしは敗北の責任を一人で負う身代わりヤギとして見せしめにされました。陸軍参謀本部が奇襲を予知できなかったことを正直に認めてくれさえすれば、長い目で見れば、国民は納得したであろうし、当時でさえ理解できたはずです。しかし、参謀本部はわたしに責任をなすりつけたのです。わたしは今日はじめて公開の席で陳述を許されるまで沈黙を強いられてきました」
四日目の証言でショート中将は次のようにロバーツ報告の衝撃を語りました。
「一九四二年一月二十五日、新聞でロバーツ報告を読んでわたしは言葉を失いました。四十年ものあいだ忠誠を誓って軍務を果たしてきたすえに職務怠慢で責められるとは。だから、マーシャル参謀総長に電話をしたのです。マーシャル参謀総長はロバーツ報告を読んでいないと言いました。わたしはどうすべきか、退役すべきかと尋ねました。マーシャル参謀総長は、ジッとしておれ、といいました。わたしは、マーシャル参謀総長の判断に我が身を委ねようと思いました。ところが翌日、マーシャル参謀総長はスチムソン陸軍長官に書簡を送り、ショート中将から退役の申し出があったので許可したいと伝えていたのです。マーシャル参謀総長は秘密裏にわたしを退役処分にしたのです」
二月一日、サフォード大佐が証言台に立ちました。サフォード大佐は、ウインド・メッセージに関する冒頭陳述書を朗読しました。そして、ウインド・メッセージがモールス符号だったことや、東海岸のM局が傍受したことなどを明らかにしました。また、真珠湾奇襲から一週間もたたない頃、海軍省が真珠湾関係の個人メモを全部破棄せよと命じたことを証言しました。
翌二日、サフォード大佐は、ヒューイット機関で働いていたソネット大佐を名指して、ソネット大佐こそがウインド・メッセージの存在を隠蔽しようとした男だと非難しました。
「ソネット大佐の目的は、ワシントン首脳部に不利な証言に論駁し、証言をくつがえすことでした。くつがえせないとわかったときには疑問をぶつけることで証言を無効化しようとしました。最後には、幻を見たに違いないとわたしに言いました」
さらにサフォード大佐は、ウインド・メッセージの受信用紙がすべてなくなったこと、海軍情報部の金庫にあったコピーもないことを証言しました。サフォード大佐は真実を訴えましたが、まさにそれ故に厳しい追及に曝されます。
「ちょっとまってください。ホワイトハウスから陸海軍省、それに海軍情報部解読班までが、いっしょになって陰謀を働いたというのですか」
首席法律顧問の意地悪な質問です。サフォード大佐はとっさにかわしました。
「わたしはホワイトハウスには言及していません」
しかし、追及は止みません。
「受信用紙を破棄するために陸海軍が協力したというのですか」
「そうとしか思えません」
「その陰謀に加担したのは誰と誰ですか」
「実際に見たわけではないので、わかりません」
「疑っているだけですね」
「いえ、単なる疑惑ではありません。なぜ受信用紙がないのか保管者も知らない、持ち出した記録、破棄した命令文書、どれもない。何度探してもないのです。通信保安課ではオリジナルを永久保存するのが不文律です。M局にもベインブリッジ島の無電局にもない。痕跡ゼロです。ウインド・メッセージだけでなく、関連するものすべてがないのです」
「しかし、ウインド・メッセージに関する証言は、すべてが聞いたことも見たこともないと全員一致しています」
「違います。見たという証言もたくさんあります」
「だれかがウインド・メッセージを隠したとすれば、動機は何ですか」
「失敗を隠そうとするのは強い動機です」
「失敗とは何ですか」
「警告をハワイに送らなかったことです。送ろうとしたにもかかわらず、偉い人の命令でとりやめになったことです。それが失敗です」
「つまり、ウインド・メッセージは陸海軍にも大統領にも届いた。しかし、だれも警報をださなかったと」
「警報を送らなかった理由は、わたしの知らないことです」
「警報を送らなかったのではなく、そもそもウインド・メッセージがなかったのではないですか」
「そうは思いません」
ヒューイット機関の尋問以来、再三の誘導尋問に曝され続けてきたサフォード大佐はうんざりしていました。
「主席法律顧問は、わたしの証言をねじ曲げようとしている。これまでと同じ手口だ」
サフォード大佐に対する非情にして辛辣な尋問は二月六日まで続きます。
「サフォード大佐、あなたは十二月七日午後二時二十分、パジャマ姿で朝食をとっていた。それは本当ですか」
真珠湾攻撃の日は、サフォード大佐にとって非番の日曜日でした。だから遅い朝食をとっていました。民主党議員は、そこを追及します。サフォード大佐は正直に「はい」と答えました。すると、民主党議員は得たとばかりに責め立てます。
「午後二時にパジャマ姿で?戦争が始まることを知りながら家にいた。パジャマ姿で朝食をたべていた。戦争が始まることを知っていたのに。あなたには責任感がないのですか」
これはもはや当てこすりの屁理屈です。サフォード大佐は答えます。
「わたしの責任ではありません」
それでも追及は止みません。
「あなたの行動を問題にしているのです」
「その点は、確かにそうです」
そう答えてしまったサフォード大佐は、あわれにも敵の術中にはまってしまったといえます。
真珠湾攻撃に関する上下院合同委員会は、およそ三ヶ月の間に公開訊問七十回を開催し、二十九人の証人から証言を収集しました。その証言記録は一万四千ページに及びます。
報告書は五月末日に公開されました。多数意見と少数意見が両論併記されており、曖昧模糊とした結論です。しかし、ウインド・メッセージは無かったこととされ、ウインド・メッセージの存在を一貫して主張したサフォード大佐は幻を追った男とされました。そして、真珠湾の責任はキンメル大将とショート中将にあるとされ、ワシントンにいたルーズベルト大統領、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長は最善の努力を払っていたとされました。
これまでの九度にわたる調査にもかかわらず、証言の逆転、隠蔽工作、捏造、偽証などにより真珠湾の真実は歪められたままとなりました。膨大な時間と労力を使って収集された記録の中には、真実の断片も存在しています。しかし、数多くの虚偽によって真実は膨大な記録のなかに埋もれてしまいました。というより、真実を虚偽で埋葬することこそが真珠湾事件調査の真の目的だったのです。
こうした事情は、そのころすでに東京で始まっていた極東軍事裁判についても同じです。真実を隠蔽し、虚偽を真実とし、無実のスケープ・ゴートたちを有罪にするおぞましい陰謀です。アメリカにあっては裁判とは政治の一環です。三権分立など口先だけの妄言に過ぎません。
ともかく民主党政権の壮大な努力によって参戦の陰謀と、その陰謀を隠すための真珠湾調査は成功裏に終わりました。




