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対ソ支援

 武器貸与法案をめぐってアメリカ連邦議会は賛否両論に割れました。それでも武器貸与法は、一九四一年(昭和十六)三月に成立しました。共和党のフーバー前大統領らは強く反対し、いくつかの修正を成し遂げました。おかげで宣戦布告の権限はあくまでも連邦議会のものとされました。しかし、アメリカ海軍の艦艇は輸送船の護衛をして紛争地帯に進入することが認められました。

(イギリスを助けるための法律だろう)

 というのが一般のアメリカ国民の認識であり、この法律の危険性に気づいた人々は少数でした。警鐘を鳴らしたのはフーバー前大統領です。

「アメリカ国民は見事にだまされた。これは戦争を可能にする法律だ。国民の九十五パーセントは、イギリスを支援するだけの法律だと信じている。この法律の施行で、結局は戦争不可避という世論が形成されていくだろう。イギリスによるプロパガンダ、イギリスに同情する気運、ナチスに対する怒りと恐怖の念、こうした要因が重なって軍事行動容認の心の準備が出来上がっていく」

 しかし、アメリカ社会にフーバーの意見は浸透しませんでした。


 アメリカ政府は、この間も対日禁輸措置の範囲を拡大し、日本を圧迫し続けています。しかし、ソビエト連邦に対する禁輸措置だけは解除していました。きわめて露骨な差別待遇です。いっこうに改善しない日米関係に業を煮やした松岡洋右外相は、三月、外交団を率いて訪欧の旅に出ました。ドイツとイタリアを表敬訪問するのが表向きの目的でしたが、真の目的は別のところにありました。欧州への行き帰りにモスクワに立ち寄り、スターリンやモロトフと会談して日ソ間に条約を結び、ユーラシア四国協商体制を完成させるのです。

 同じ頃、アメリカのハル国務長官は駐米日本大使の野村吉三郎に接触して秘密裏に会談し、日米交渉の開始を提案していました。そして、交渉の基礎となる日米諒解案という文書が作成されました。ハルと野村の会談は、松岡外相の知らないところで行われていました。典型的な二重外交であり、アメリカ政府の悪意が如実に現れています。その策謀にまんまと乗ってしまった野村大使の外交的無能にも責任があったといえるでしょう。

 そうとは知らない松岡洋右外相は、独伊での日程を終え、モスクワに滞在しました。松岡外相は、スターリンやモロトフと交渉し、電撃的に日ソ中立条約を成立させました。これにより不完全ながらもユーラシア四国協商体制が完成しました。

(これで日米交渉が始まるかも知れぬ)

 松岡外相は意気揚々と帰国の途につきました。しかし、実のところヒトラー総統に一杯食わされていました。ヒトラー総統はすでに対ソ開戦を決心していたのです。ユーラシア四国協商構想はすでに破綻していました。

 松岡外相は、それらの事情を知らないわけではありませんでした。しかし、いまさら外交方針を変えるわけにもいきませんでした。とにもかくにも松岡外交のユーラシア四国協商構想は一応の完成を見たのです。アメリカ政府から何らかの反応があることを期待しつつ、松岡外相は帰国しました。そこにアメリカ政府から届けられたのが日米諒解案です。これを一読した松岡外相は大いに失望します。期待していた内容とは似ても似つかぬ代物だったからです。また、野村駐米大使が松岡外相に無断でハル国務長官と秘密裏に会談していた事実を知り、不興を催しました。

「こんなものは信用できない」

 松岡外相はアメリカ政府の底意を疑いました。しかし、松岡外相以外の閣僚たちは、近衛総理をはじめとして日米諒解案による日米交渉を望みました。内閣ばかりでなく、陸海軍統帥部までが日米諒解案を了としました。このため松岡外相だけが孤立するかたちとなりました。日米交渉による和平にだれもが多大な期待を寄せていただけに、政府統帥部のだれもが前のめりになったのです。

 ひとり外交通の松岡外相だけが、日米諒解案に潜む怪しげな外連味(けれんみ)に気づき、警戒したのです。松岡外相の直感は正確でしたが、残念ながら、閣内のだれからも理解されませんでした。

 日米諒解案を発出したハル国務長官は、当初から日米交渉による妥結など考えていませんでした。要するに、日本政府と外交交渉をやっていたというアリバイだけが欲しかったのです。ルーズベルト政権はもはや戦争に向けて驀進していたのです。

 この後、日米の間で日米諒解案をめぐって不毛なやりとりが長く続きますが、なにひとつ交渉は進展しません。そして、その間もアメリカによる対日経済制裁は強化されていきました。

 対日交渉のかたわらアメリカは、グリーンランド、スコットランド、北アイルランド、支那大陸へ軍隊を派遣しました。支那へ派遣されたのは空軍部隊でした。彼らはフライング・タイガース社社員に偽装していましたが、歴とした空軍パイロットです。そして、支那大陸の上空で日本軍の航空隊と空中戦を戦いました。アメリカは、もはや実質的に対日参戦していたのです。


 一九四一年(昭和十六)六月二十二日、ドイツ軍がソ連領へ侵攻し、独ソ戦争が始まりました。ここにおいて松岡洋右外相のユーラシア四国協商体制は完全に破綻しました。松岡外相は立場を失い、更迭されます。近衛総理は新外相を迎え、あくまでも日米諒解案にもとづく日米交渉に望みをつなぎ、徒労に終わるとも知らずに日米交渉を継続します。

 独ソ開戦によってイギリスは苦境を脱することができました。昨年八月以来のイギリス本土上空における航空戦に勝ち抜いたイギリス軍は、ドイツ軍の上陸を未然に防いだのです。残る強敵は、イギリス周辺海域で通商破壊を続けるドイツ海軍のUボート艦隊となりました。

 ソビエト連邦のスターリンは油断していたようです。ドイツ軍がソビエト侵攻の準備を整えているとの連絡が各方面から入っていましたが、スターリンは信用しませんでした。このためドイツ軍の快進撃を許してしまったのです。スターリンにとって幸いだったのは、日本軍をあらかじめ支那事変の泥沼に落とし込んでいたことです。支那事変に兵力の大半を投じていた日本陸軍は、ドイツ軍に呼応して北進することができません。スターリンの戦略的勝利といえるでしょう。もし、日本が支那事変の拡大を避け、フリー・ハンドの状態で独ソ開戦を迎えていたら、ドイツ軍とともに北進することが可能でした。日本は千載一遇の戦機を逸したと言えるでしょう。

 独ソ開戦は、アメリカにとって対岸の火事です。直接的にはなんの支障も影響もありません。しかし、ルーズベルト大統領はソビエト連邦に側近を派遣し、必要な援助物資のリストをソビエト側に作成させ、大々的な軍需物資援助を開始しました。その規模は、ひと月あたり、航空機四百機、戦車五百両、自動車五千台、トラック一万台、そして大量の戦車砲、対空砲、ディーゼル発電機、野外電話機、無線機、オートバイ、小麦、砂糖のほか、二十万足の靴、九十万メートルの外套用生地、五十万双の手術用手袋、一万五千挺の手術用鋸などです。アメリカは、ソビエト軍のための軍需工場と化したのです。

 これらの物資はアメリカの各港湾で続々と輸送船に船積みされ、大規模な輸送船団が組まれました。それをアメリカ海軍の艦艇が護衛しました。ソビエト連邦沿海州の港湾に陸揚げされた莫大な物資はシベリア鉄道によって続々と欧露へと送られていきました。

 こうしたルーズベルト大統領の積極的な戦争干渉を批判したのは、やはり前大統領フーバーです。

「いつの間にか我がアメリカは、スターリンに支援を約束してしまった。これは、世界の民主主義に対する軍国主義的共産主義者の挑戦を手助けするようなものだ」

「ドイツのソビエト攻撃で、ルーズベルト大統領に永続的な和平を構築できるまたとないチャンスが到来した。世界最悪の侵略国家のふたりの独裁者が、死に物狂いの戦いに突入したのである。放っておけば、遅かれ早かれ二人の悪魔の気力は衰え国力は衰退する」

「我が国は、あくまで法律の認める範囲において、イギリスあるいは中国を支援するべきである。決してわが海軍艦船や兵士を戦地に送ってはならない。徹底的に国防の準備をすること。戦争を煽るような言動を慎むことである。そして、開戦の権限はあくまで議会が握っているという原則を守ることだ」

 フーバーはラジオ放送や演説会で懸命に訴えましたが、その声はアメリカ政府のプロパガンダに掻き消され、アメリカの大衆に届きませんでした。


 ルーズベルト大統領が本気で参戦を考え始めたのは、独ソ開戦後だったようです。すでに触れたとおり独ソ戦は六月二十二日に始まりましたが、その翌月以降、アメリカ政府は対日制裁の勝負手を次々に打ったのです。七月十八日に日本船のパナマ運河通行を禁止し、七月二十六日に在米日本資産凍結令を公布し、八月一日にはついに対日石油輸出禁止に踏み切りました。これはアメリカからの日本に対する断交です。

 幕末の江戸にペリー艦隊を派遣して開国を迫ったアメリカが、こんどは絶交の通告をしてきたのです。国家による国家への虐待でしかありません。アメリカという国家の嗜虐性に驚かざるを得ませんが、さらに驚くべきことは、日本が忍耐したことです。むろん、ここまであからさまな戦争挑発をされた以上、日本は軍備を整えました。しかしながら、その規模は対米七割の海軍を整備するのが精一杯でした。そして、日本政府は、あくまでも外交を主として対米宥和を図ろうとします。

 アメリカには、ルーズベルト政権の危険な外交方針に警鐘を鳴らす論客や政治家が数多く存在していました。フーバー前大統領をはじめとする共和党議員や、「空の英雄」リンドバーグなどです。しかし、彼らの言論は圧倒的な共産勢力のプロパガンダを打ち破れませんでした。共産勢力はマスコミ、ハリウッド、学術界、労働界などに広がっており、アメリカ大衆をいとも容易に洗脳していました。そうした絶望的な状況下でもフーバーは訴えます。

「ルーズベルト政権の対日政策には驚いてしまう。ルーズベルト政権のやり方は威嚇そのものだ」

「わずか数十マイルのイギリス海峡を渡れなかったヒトラーの軍隊が、どうして我がアメリカの安全を脅かすことがあろうか」

「アメリカの安全が脅かされている現実はない。我々は三千マイルの広がりを持つ大西洋に守られていることを忘れてはならない。この海に遊弋するクジラまでを潜水艦だと思い込んで恐れるようなことがあってはならない。大統領のいちばんの使命は、戦いになることを避けることである。決して戦いを煽るようなことをしてはならない。また憎しみを煽るようなことをしてはならない」


 日本政府は戦争を回避するために対米交渉を継続しました。これは当然のことで、国力二十倍のアメリカと戦争をして勝てるとは日本の指導者の誰もが考えていませんでした。しかし、ここまで圧迫されてしまえば、国家生存のために蘭印の油田地帯を武力制圧するほかに手段がありません。

 対するアメリカ政府は、ただ単に日本と外交交渉をしていたというアリバイが欲しいだけでした。日本政府が譲歩案を示しても、ハル国務長官はいっこうに関心を示さず、対日要求をエスカレートさせるばかりでした。

 その頃、ルーズベルト大統領は、はやくも戦後世界の体制構築にいそしんでいました。驚くべきことですが、ルーズベルト大統領はアメリカが参戦してもいないうちから、やがて参戦し、戦争に勝利し、戦後世界を牛耳ってベルサイユ体制やワシントン体制に変わる新たな世界体制を構築することを考え、実際にそれを推進していたのです。戦争の惨禍など歯牙にもかけない悪魔のような構想力と言えるでしょう。

 具体的には、八月にチャーチル英首相と大西洋会談を実施し、いわゆる大西洋憲章を作成しました。また、腹心のハリー・ホプキンスをソビエト連邦に派遣し、スターリンとの調整にあたらせました。九月、ソビエト連邦など十五ヶ国が大西洋憲章を批准すると表明しました。

 日本軍が真珠湾を奇襲したのは十二月八日でしたが、直後の二十二日、ルーズベルト大統領とチャーチル英首相はワシントンで会談し、連合国協定に調印しました。いわゆる連合国(国際連合)がここに誕生したのです。

 翌年一月、ルーズベルト大統領は大西洋憲章批准会議を開催し、二十六ヶ国から代表を招くことに成功しています。ルーズベルト大統領にとっては戦争など片手間仕事だったようです。当時のアメリカの国力は世界でも群を抜いており、ドイツと日本を打倒するのは容易でした。すでに勝利の計画は完成しており、戦争はすべて軍人に任せておけば大丈夫でした。戦争によって自国民がどれほど戦死しようとも、世界的な戦争被害がどれほどに拡大しようともルーズベルト大統領は気にしませんでした。そんなことよりも戦後の世界体制をいかに構築し、その世界体制においてアメリカとソビエト連邦がいかに相携えてヘゲモニーを握るか、という課題に熱中していました。ルーズベルト大統領の関心は、イギリスなどではなく、むしろソビエト連邦に向いていたのです。そうしたルーズベルト大統領の一挙手一投足に目を光らせていたのは、やはりフーバー前大統領です。

「ソビエトは、血にまみれた圧政と恐怖の国である。ソビエトの軍国主義的共産主義の陰謀は世界の民主主義の理想に反する。アメリカがそんな国を急いで救いに行く義理はない」

「もし我が国が参戦して勝利したとしよう。その勝利はスターリンの共産主義支配を磐石にするのを助けるだけのものになるだろう。自由のためにソビエトと同盟を組むなど茶番以外の何物でもない」

「共産主義を支援しても良いとするアメリカ知識人はどうかしている。スタンフォード大学の教授がそんなことを主張している。私にはまったく理解できない。彼らは、我が国が参戦し勝利したら、それがソビエト・ロシアにとってどんな意味を持つのか少しでも想像したことがあるか」

 フーバーの懸念は深まりましたが、アメリカ国内における赤化の潮流は止まることがありませんでした。



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