戦争挑発
一九三九年(昭和十四)九月、ついに第二次世界大戦が始まります。
その前兆を秘かに感じとっていたアメリカ国務省の暗号員がいました。名をタイラー・ケントと言います。ソビエト連邦モスクワの米大使館に勤務していたケントは、アメリカ本国とモスクワ大使館の間でやりとりされる暗号電報を解読していました。それらを解読するうち、ケントは暗号電文が意味する重大な内容を理解してしまいます。プリンストン大学やソルボンヌ大学などで学んだ教養豊かなケントの頭脳は、単に暗号を解読するだけでなく、それらが意味する重大な政治的効果に気づいてしまったのです。
ケントが気づいた重大な意味とは、アメリカ政府がポーランド政府を盛んにけしかけ、対ドイツ強硬姿勢をとらせていたことです。アメリカ政府はポーランド政府を全面的に支援すると約束し、「ドイツに妥協するな」とポーランド政府を教唆していたのです。
(これは戦争になる)
驚いたケントは、戦争を抑止するため、この暗号電報の内容をアメリカ国民に知らせたいと思いました。しかし、その方法が思い浮かびません。
翌十月、ケントはイギリスの首都ロンドンへ転勤となり、やはり米大使館で暗号員として働き続けました。そして、再び驚くべき事実を知ってしまいます。ルーズベルト大統領とチャーチル英海相が秘密裏に暗号交信している事実を知ったのです。この秘密交信は米国務省や英外務省を通していませんでした。つまり、ルーズベルトとチャーチルは、秘密裏に私的交信をしていたのです。しかも、その内容は、対ドイツ宥和策をとっているチェンバレン英首相をこきおろし、その追い落としを画策するものでした。
(チェンバレン首相が退陣に追い込まれれば、ドイツとイギリスの間で戦争になる。アメリカも巻き込まれる。というより、ルーズベルトは参戦したがっている)
そう確信したケントは、この暗号電報の内容を米英両国民に知らせるため暗号電文を無断で持ち出しました。国家公務員としては犯罪です。しかし、戦争を抑止しようと考えに考えたうえでの英雄的行動でした。ケントは、人を介して英議員ラムゼーに接触し、その暗号電文を見せました。ラムゼー議員は英議会でこの事実を暴露したいと言いました。
しかし、この策動が露見してしまい、一九四〇年(昭和十五)五月、タイラー・ケントはイギリス警察に逮捕されてしまいます。その際、不可解なことがありました。ケントは外交官ですから、不逮捕特権があるはずです。ところが、駐英大使ジョゼフ・ケネディはケントの外交官特権を剥奪し、イギリス警察にケントを逮捕させました。
イギリス政府は、一旦はケントを国外追放処分にしました。アメリカの外交官をイギリスで裁くことに躊躇があったのです。ところがアメリカ政府の方がケントの受け入れを拒絶しました。ケントがアメリカに帰れば、アメリカで公開裁判にかけられます。そうなれば、ルーズベルトとチャーチルとが秘密交信していた事実が暴露されてしまいます。米英両政府にとっては都合の悪い事実です。
このため、ケントはイギリスの秘密法廷で裁かれました。裁判中、ケントはいっさい悪びれることなく、あくまでも愛国心からの行動であり、戦争を回避するのが目的だったと訴えました。しかし、判決は非情にも七年の禁固刑でした。
タイラー・ケントの愛国的行動は、残念ながら誰にも知られないよう米英両国政府によって隠蔽されてしまいました。同時に、ルーズベルトとチャーチルが秘密裏に交信し、戦争を惹起しようと画策していた事実も秘匿されました。
タイラー・ケントの気づきは正確でした。ルーズベルト大統領は戦争を惹起させようと盛んに影響力を行使していました。イギリス、フランス、ポーランドの各国には軍事支援を惜しまないと約束し、ドイツに対して強硬姿勢をとるよう盛んに促していました。
ポーランドは、ドイツからダンツィヒとポーランド回廊を割譲するよう要求されていました。しかし、アメリカの助力を信じたため、ドイツに妥協しませんでした。そして、そのポーランドを英仏両国が全面支援すると声明してもいました。こうした一連の動きは明らかにドイツに対する挑発であり、国際的緊張を高める行為です。
ルーズベルト大統領は、英仏を使嗾してドイツに対抗させ、ソビエト連邦に対するドイツの脅威を軽減しようとしていたと考えられます。
前大統領のフーバーもルーズベルトとチャーチルの秘密交信については知りませんでした。しかし、新聞が報じる欧州情勢をみただけでフーバーには危険な状況が理解できました。フーバーは訴えます。
「ヒトラーが東進したければさせるというのがこれまでの考え方だったはずではないか。現実的に英仏両国がヒトラーのポーランド侵攻を止められるはずがない。これではポーランドは、ロシアに向かうドイツ軍の前に、つぶして下さいと自ら身を投げるようなものではないか」
フーバーの心配は現実となります。ポーランドの強硬姿勢に手を焼いたヒトラー総統は、ソビエトのスターリンと不可侵条約を結び、さらにポーランド分割の秘密協定を成立させました。
九月、ドイツ軍とソ連軍はポーランドに侵攻し、ポーランドを分割してしまいました。ポーランドという国家が消滅したのです。この事態を受け、英仏両国はドイツに対して宣戦布告しました。不可解なことにソ連に対しては何もしませんでした。
ともかく、こうして第二次世界大戦がついに始まってしまいました。しかしながら、滑稽なことにイギリスもフランスもドイツさえも戦争の準備が整っていませんでした。そのため、ドイツと英仏の間には戦闘らしい戦闘が起こりませんでした。ただ、英独仏の各国は猛烈な軍拡競争に入りました。
開戦時、ドイツ海軍にはUボートが数隻しかありませんでした。そのため、ドイツ海軍はUボート増産計画を発令しました。月産二十隻のUボートを建造する計画です。そして、Uボート艦隊司令長官にカール・デーニッツ少将を任命しました。
英仏独がにらみ合いをしている間に、まるで火事場泥棒のように活動したのはソビエト軍です。ソ連軍は、ポーランドに侵攻した後、バルト三国を支配下に置き、フィンランドに対して侵攻を開始しました。明らかな侵略行為です。
そんなソビエト連邦に秋波を送ったのは英仏両国です。その戦略的立場は理解できます。ソ連が英仏の味方についてくれれば、ドイツを挟撃できるのです。そのかわりポーランドとバルト三国とフィンランドを生け贄にすることになります。
アメリカの地政学的立場は、英仏とはまったく異なります。静観していればよかったのです。ヒトラーとスターリンは必ず戦うことになると予想されていました。だから、独裁国家同士の戦争を眺めていればよかったのです。ドイツが北へ向かえば、英仏は安全です。
ソビエト軍がドイツ軍以上の侵略行為を北欧で働いたため、さすがのルーズベルト大統領もソビエト連邦を非難し、ソ連に対して経済制裁を発動しました。しかし、これは本気ではなかったようです。なぜなら、一九四一年(昭和十六)一月には、この対ソ経済制裁をあっさりと中止してしまうからです。日本に対する経済制裁はあくまで継続し、強化していたにもかかわらずです。
ルーズベルト大統領は、海軍の拡張計画を推進すると共に、中立法を改正して交戦国に対する武器輸出を可能にしました。こうして英仏支に対する武器輸出を強化する一方、日本に対する輸出禁止措置だけを厳格化しました。
この頃、ルーズベルト政権に対するアメリカ国民の評価は必ずしも芳しいものではありませんでした。経済政策は効果を発揮せず、不況が続いていました。また、世論は基本的に対外不干渉主義であり、参戦反対でした。
例外的にアメリカ共産党だけがルーズベルトを支援し、ルーズベルトの三選を支持すると表明していました。大統領の任期は二期八年までというのが建国以来アメリカの不文律です。その伝統を破棄せよというのです。いかにも共産主義的な伝統破壊思想です。そして、この三選論をアメリカ連盟の会員七百万人が拡散し、ハリウッドやマスコミが盛んに宣伝しました。
「共産主義は二十世紀のアメリカ主義」
このようなプロパガンダが大々的に流されました。アメリカのマスコミは概してルーズベルト、共産主義、ソビエト連邦に好意的でした。そんなマスコミによって攻撃対象とされたのは、前大統領のフーバーです。フーバーはルーズベルト政権を批判し、不干渉論を唱え、共産主義に対する警戒を呼びかけていたからです。
「ソビエトはまさに怪物である。何の挑発もうけていないにもかかわらず、あの小さなそして弱々しい民主主義国フィンランドを侵略した」
フーバーの主張こそ一般のアメリカ国民の考えを代表していましたが、マスコミはフーバー批判を展開し、フーバーの言論を封じ込めました。
一九四〇年(昭和十五)五月、イギリスでは戦争抑止に失敗したチェンバレン首相が退陣し、チャーチルが首相に就任しました。
同月、欧州戦争に新展開が起こりました。ドイツ軍がベルギー。オランダ、ルクセンブルグへと侵攻したのです。これに対応するためにフランス軍が北部へと移動しました。その間隙を突いてドイツ軍の機甲部隊がアルデンヌの森を突破するという奇策を成功させ、フランス軍が鉄壁と誇った要塞マジノ・ラインを難なく突破してしまいました。ドイツ軍は優勢な空軍を駆使してあっけなく英仏連合軍を撃破してしまいます。六月、ドイツ軍はパリに入城しました。フランスはドイツに降伏することになりました。
チャーチル英首相は、ルーズベルト大統領に「すぐ参戦してくれ」と泣きつきました。また、シンガポール要塞にアメリカ艦隊を派遣するよう要請しました。しかし、ルーズベルト大統領はいずれも拒否しました。アメリカ世論は参戦に否定的でしたから、軍需物資の支援はできても参戦するのは困難だったのです。さらに深読みするならば、ルーズベルト大統領には英仏を守るという意志がなかったかも知れません。ドイツ軍が西に向かっている限り、ソ連は安泰だからです。
八月になるとドイツ軍はイギリス本土上陸をめざし、航空撃滅戦を開始しました。英独の空軍は、イギリス上空で激しい航空戦を繰り広げることになりました。さらにドイツは対英封鎖宣言を発し、Uボートによる無警告商船破壊を開始しました。イギリス周辺海域の輸送船はドンドン撃沈され、イギリスは苦境に立たされました。イギリスを弱体化させ、その世界覇権を握ろうとしたのはアメリカです。
極東では、あいかわらず支那事変が続いています。何度も試みられた和平工作はすべて失敗に終わっていました。日本政府は、アメリカ政府に停戦の仲介を幾度も依頼しましたが、アメリカ政府は拒絶しました。また、英米ソの各国は蒋介石に対する軍事支援を実施していました。その支援物資は、南支方面のいわゆる援蒋ルートを通じて輸送されていました。日本軍としては、支那事変に決着をつけるために是が非でも援蒋ルートを断たねばならず、必然的に南進せざるを得ませんでした。この間、アメリカによる対日経済制裁はいよいよ強まっており、日本政府は苦しい立場に追い込まれました。日本政府は何度もアメリカ政府に交渉を開始するよう要望しましたが、アメリカ政府は頑なに外交交渉を拒絶しつづけました。
七月、第二次近衛文麿内閣の外相に就任した松岡洋右は、外交方針を根本から変更しました。アメリカに真正面から交渉をもちかけても拒絶されるだけだったからです。やむなく松岡外相は権力外交を指向せざるを得ませんでした。松岡外相は、日独伊ソの四国協商体制を構築し、ユーラシアに強力な集団的国力を誕生させることを目指しました。そうなればアメリカも日本を無視できなくなり、交渉のテーブルにつくだろうと考えたのです。
松岡洋右外相は迅速に動き、九月、早くも日独伊三国同盟を成立させ、ユーラシア四国協商体制の第一段階を完成させました。
十月、アメリカでは、アメリカ海軍のマッカラム中佐が重要な意見具申をおこなっていました。「戦争挑発行動八項目」というものです。要するに日本を挑発して戦争へと駆り立てるための政策提言です。具体的には、米英蘭が各種の軍事協定を結んで日本を圧迫し、蒋介石を支援して支那事変を長引かせ、ハワイとシンガポールに艦隊を派遣して威圧し、日本に対する経済制裁を強化して経済的な破綻へ導くというものです。
すでに一九四〇年の段階でルーズベルト大統領は対日戦争挑発を具体的に考案していたわけです。そして、これらの政策を実施して、ルーズベルト大統領は日本を開戦へと誘導していきます。
日本に対して威圧と脅威を加えていたルーズベルト大統領は、それでいてアメリカ国民には「威嚇や脅威には屈しない」と演説していました。ルーズベルト大統領の言葉には真実がありません。実際にはアメリカこそが日本に対して「威嚇と脅威」を加えていたのです。
この年は、アメリカ大統領選挙の年でした。ルーズベルト大統領はアメリカの伝統を破って三選に挑みました。選挙期間の前半、ルーズベルト陣営は「ヒトラーがやってくる」というキャンペーンを展開して盛んに戦争の恐怖を煽りました。そして、この危険な時期に大統領を代えるべきではないと国民に訴えました。じつにバカバカしい宣伝です。ドイツには大西洋を押し渡ってアメリカ大陸に上陸するような海軍力など皆無です。
ルーズベルト陣営のこうした悪宣伝を指摘する世論は多々ありました。たとえば、アメリカ海軍のブラット提督は次のように発言しました。
「南北アメリカ大陸にヒトラーがやってくるなどという主張はまったくの作り話であり、ヒステリーの戯れ言に過ぎない。日本についても、アメリカが挑発さえしなければ、我が国を攻撃することはあり得ない。彼らは我が国を標的としていない」
しかし、残念ながらアメリカ国民はルーズベルト陣営の悪宣伝に影響され、恐怖に駆られていきます。ルーズベルト陣営は、さらに全体主義の恐怖を煽ります。
「アメリカが参戦しなければ、この世から民主主義が消える」
しかし、ルーズベルトの言う全体主義国はつねに日独伊の三国であり、不思議なことにソビエト連邦は除外されていました。
選挙期間の後半になると、ルーズベルト陣営はガラリと演説内容を変えました。アメリカ世論が不干渉主義を支持していることが明らかとなったからです。
「わたくしは、みなさまのご子息たちを絶対に、絶対に、絶対に、戦争に征かせはしません」
ルーズベルトは恥も外聞もなく前言を翻して訴えました。ルーズベルトを支援したのはアメリカ共産党、アメリカ連盟、ハリウッド、マスコミなどです。結果、ルーズベルト陣営のプロパガンダは成功し、ルーズベルトが三選を果たします。
アメリカは本当に民主主義の国なのでしょうか。アメリカの歴史は、アメリカがむしろプロパガンダと衆愚の国であることを証明しているようです。
十二月、フーバー前大統領は、民主主義五ヶ国食糧支援全国委員会を設立し、その名誉会長となりました。戦場となった国々の戦災民に対する人道的な食糧支援を実施するための組織です。フーバーは、第一次大戦時にも戦災地域に人道食糧支援を実施したことがあります。第二次世界大戦が始まったことを受けて再度の食糧支援を開始したのです。
ところが、チャーチル英首相は欧州の港湾封鎖を実施してフーバーの食糧支援活動を妨害しました。フーバーはチャーチルを罵ります。
「チャーチルは極端な軍国主義者だ。戦いにはつきものの飢餓で女や子供が死んでも、それで戦争が早く終わるのならば、かまいはしないと考えているのだ」
そのチャーチル首相は、十二月八日、ルーズベルト大統領に向けて長い書簡を書きました。アメリカからの強力な支援を懇請したのです。書簡には、緊急に必要とする軍需物資の詳細なリストが添付してありました。そのなかには弾薬や食糧ばかりか軍艦や航空機までが含まれていました。緊急の金融支援も要請していました。
ルーズベルト大統領は、チャーチルの懇願を受け入れ、一九四一年(昭和十六)一月、連邦議会に武器貸与法案を上程しました。武器貸与法案には、軍需物資の供与、その物資を運搬する輸送船に海軍艦艇を随伴させること、さらには宣戦布告の権限を連邦議会から剥奪して大統領権限とする等の内容が含まれていました。