ニュー・ディール
一九一九年(大正八)一月一日といえば、長かった第一次世界大戦がようやく停戦となり、パリ講和会議の準備が進められていた頃です。戦場となったヨーロッパはどこもかしこも荒廃していました。ロシアも同じです。ロシア国内はなお戦乱の坩堝です。ロシア革命はいまだ未完成であり、ロシアの各地で赤軍と白軍が戦闘を交えていました。
この日、ソビエト人民委員会議ではアメリカとの国交樹立が議題となっていました。レーニンとスターリンの判断では、世界で唯一アメリカのみがソビエトの同盟国たり得ると考えられました。そして、同会議はひとつの文書を採択しました。
「ソビエト・ロシアは包囲されている。この鉄環から自己を解放すべきである。さもなければ滅亡する。ソビエト政府を助けてくれる可能性があるのはアメリカだけである。なぜならアメリカは、その内外政策の利益のために共和制ロシアとの友好を必要としているからである。アメリカが必要としているのは、第一に国内工業製品のための市場である。第二に、その資本を有利に投資するための機会である。第三に欧州における大英帝国の影響力を弱めることである。アメリカと日本の関係はいずれ破綻する。両国間の戦争は不可避である。ソビエト・ロシアは、アメリカと関係を樹立することがまず必要である。それは国家として最重要課題であり、ソビエト・ロシアの命運はその成否にかかっている」
しかしながら、ソビエト・ロシアの期待に応えてくれるアメリカの政治指導者はなかなか現れませんでした。ところが、それが、ついに登場しました。一九三三年(昭和八)です。すでにレーニンは死去し、スターリンがソビエト連邦の独裁者となっていました。
フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任したのは一九三三年(昭和八)三月です。共和党の現役大統領フーバーに挑戦した民主党のルーズベルト候補が見事に大統領選挙に勝利したのです。
当時のアメリカ経済は世界恐慌の真っただ中にありました。それ故にこそフーバー前大統領は支持を失ったわけですが、ルーズベルト大統領の政権運営にも困難が予想されました。
一九二九年(昭和四)にはじまった世界恐慌はいささかも好転する兆しをみせないまま、アメリカ経済ばかりでなく世界経済を長期不況の嵐に呑み込んでいました。街には失業者があふれ、銀行が倒産し、騒乱さえ起きていました。各国政府は経済対策に乗り出しましたが、経済は容易には成長軌道に乗りません。前大統領のフーバーは大規模な公共事業を実施して失業対策に努めましたが、それでも景気は回復しませんでした。資本主義に対する人々の信頼が揺らぎ、共産主義が台頭してきました。大英帝国はすでに自由経済政策を放棄し、ブロック経済圏の構築へと政策の舵を切っていました。そんな頃に誕生したのがルーズベルト大統領です。
ルーズベルトが大統領となった一九三三年は、経済ばかりでなく、国際政治においてもひとつの画期でした。ドイツではナチス党が政権を握りました。また、満洲をめぐって国際連盟との対立を深めていた日本が国際連盟を脱退しました。
こうした困難な状況に対処するために新大統領ルーズベルトはニュー・ディール政策を打ち出しました。「ニュー・ディール」とは、直訳すれば「新対策」というほどの意味です。
ルーズベルト大統領は、フーバー前大統領が実施していた公共事業をさらに拡大して実施しました。その様子を見たフーバー前大統領は唖然としました。それというのも、選挙期間中、ルーズベルト候補はフーバー政権の公共事業政策を「税金の無駄遣い」として散々に批判していたからです。にもかかわらずルーズベルト大統領は、フーバー政権に数倍する規模の公共事業を実施しはじめました。さらにルーズベルト大統領は、これらの公共事業を推進するために数多くの政府機関を新設し、政府による統制を強めました。これは従来の自由主義経済政策とは異なるニュー・ディールです。
ルーズベルト大統領のニュー・ディールは経済政策だけには止まりませんでした。外交においてはソビエト連邦を国家承認しました。
ウイルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバーの歴代大統領が警戒しつづけ、国家承認を避け続けてきた共産主義独裁国家ソビエト連邦に対して、ルーズベルト大統領は手のひらを返したように好意を示し、ソ連に特使を派遣して、国家承認の件を協議させました。その際、ソ連のリトビノフ外相は次のように声明しました。
「アメリカ合衆国の内政にはいっさい関与しない。アメリカ合衆国の平穏、繁栄、秩序、安全を傷付ける行為やアジテーション、プロパガンダをいっさいしない。アメリカ政府を転覆させたり、社会秩序を混乱させたりする目的を持つ団体や組織をつくるようなことはしない」
これほどにわかりやすい嘘もなかったでしょう。しかし、ルーズベルト政権のハル国務長官は、リトビノフ外相の声明を称賛し、国家承認への道筋をつくりあげました。アメリカ連邦議会では共和党がつよく反対しました。しかし、多数を占める民主党が押し切ってしまいます。
アメリカ政府がソビエト連邦を国家承認すると、ソ連のリトビノフ外相は次のように発言します。
「欲しいものは全部とった。あんな調印文書は紙切れ同然だ」
まさに共産主義です。最初から約束を守るつもりなど無いのです。しかしながら、アメリカがソ連を国家承認したことで、他の国々も追随してソ連を国家承認していきました。共産主義拡散の始まりです。
ソ連に好意を示す一方、ルーズベルト大統領はドイツに対して露骨な敵意を表明しました。一九三五年(昭和十)、ドイツが再軍備を宣言すると、ルーズベルト政権は米独通商条約を破棄しました。
軍事的にもニュー・ディールが採用されました。ワシントン条約以来、歴代のアメリカ大統領は軍縮を推進してきたのですが、ルーズベルト大統領は、一転、軍拡路線をとり、海軍拡張法を成立させます。
また、ルーズベルト大統領は労働組合の設立を促進しました。労働組合には共産主義者が侵入し、ソビエト共産党の資金を使ってストライキを煽動したり、プロパガンダを拡散したりしました。そして、これらの組合組織が民主党の支持母体として成長していきます。さらに、ルーズベルト大統領は、若手の政策立案者をドシドシ政権内に採用しました。彼らはニュー・ディーラーと呼ばれましたが、その中には共産主義者が数多く含まれていました。はるかに後のことになりますが、一九四九年(昭和二十四)、アメリカ下院の非米活動委員会は、連邦政府職員のうち三千名が共産党員であったことを発表しました。
こうしたルーズベルト大統領のニュー・ディール政策に警戒感を持ったのは前大統領のフーバーです。フーバーは「自由への挑戦」を著して統制主義を批判しました。
「ニュー・ディールを奨励することは、独裁政治を進めることと同じである。目的を達成できれば手段は問わないという思想である」
フーバー前大統領の批判はニュー・ディール政策そのものに向けられていました。ニュー・ディール政策は共産主義政策と言い換えてもよいものだったからです。
興味深いのはアメリカ共産党の動きです。アメリカ共産党は、当初、ニュー・ディール政策に反対を表明していました。しかし、一九三五年(昭和十)になるとニュー・ディール政策の支持に回りました。
そもそもアメリカ共産党が設立されたのは一九一九年(大正八)です。歴代のアメリカ政権は共産党に対する警戒を解かず、いわゆる赤狩りを実施しました。共産主義者を逮捕、検挙し、国外追放にすることもありました。このためアメリカ共産党は党勢を拡大させることができませんでした。
アメリカ共産党は、ソビエト共産党の支配下にあり、資金的にもソビエト共産党に依存していました。そのアメリカ共産党はスターリンの指示を受けて戦略を変えます。共産主義を表面に出すのをやめ、武装闘争をやめ、労働組合や人権団体や平和団体や慈善団体などに浸透していきました。
ルーズベルトが政権を握った一九三三年(昭和八)、アメリカ連盟が設立されました。この組織の正式名称は「アメリカ反戦反ファシズム連盟」です。その名称だけをみると、一見、反共組織のようでしたが、その実権は共産主義者によって握られていました。
アメリカ共産党は、セルと呼ばれる工作員をアメリカ政府の重要機関に就職させ、国家安全保障にかかわる情報にアクセスできるようにしました。また、アメリカ共産党は労働組合にもセルを潜入させ、階級間の憎悪を煽ってストライキを起こさせました。大学においてもアジテーションを撒き散らしまし、アメリカの根本的な思想や制度に対する疑いを学生たちの心に植え付けていきました。
一九三六年(昭和十一)、ルーズベルト大統領は再選に挑みました。ニュー・ディール経済政策は必ずしも成功しておらず、景気はなお低迷していました。しかし、危機的な状況からは脱していました。
アメリカ共産党は非公式にルーズベルト候補を支持し、共産党支配下にある労働組合などにルーズベルト候補を支援させました。この時期、アメリカ共産党員は八万人、アメリカ連盟の会員数は二百万人に達していました。産業別労働組合内にも共産主義者が浸透していました。選挙の結果はルーズベルトの勝利となりました。
ルーズベルト大統領が第二期に臨んだ一九三七年(昭和十二)は、第一次大戦後の世界秩序だったベルサイユ体制とワシントン体制が完全に崩壊した年です。
この前年には海軍軍縮条約が完全に失効し、列強は海軍の拡張に乗り出していました。ドイツ軍はラインラントに進出し、ベルリン・オリンピックを成功させたヒトラー総統は大いにドイツの国威を発揚しました。
アジアでは、西安事件が起こり、蒋介石がスターリンの傀儡となりました。蒋介石は国共合作と抗日を強要され、日本との対立姿勢を鮮明にしていきます。そして、一九三七年(昭和十二)七月、共産党のスパイは北京郊外で盧溝橋事件を発生させ、支那事変へと発展させます。支那事変の本質は、日本とソビエトとの戦いでした。
こうした世界情勢をうけ、ルーズベルト大統領は、十月五日にシカゴにおいて演説します。いわゆる「隔離演説」といわれるもので、名指しこそ避けていたものの日独伊の三国を強く批判したのです。
「不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」
一読すると、もっともで正当な主張に聞こえるかも知れません。正当に聞こえるようにスピーチ・ライターが練りに練った文章ですから素晴らしい演説に聞こえるのです。しかし、注意して読むと、ルーズベルトの言葉に真実はありません。
ルーズベルト大統領は日独伊の三国を疫病にたとえて非難していますが、この三国はともに防共国家でした。防共国家を非難し、共産主義独裁国家のソビエト連邦についてはまったく責めていません。共産主義者の支持を得ていたルーズベルト大統領にしてみれば当然の演説だったのでしょう。
「宣戦布告されていようがいまいが、戦争は伝染病である。戦闘が行われている場所から遠く隔たった諸国や諸国民を戦争は呑み込んでいく。我々は戦争の局外に立とうと決意したが、それでも、戦争の及ぼす破滅的な影響から身を守り、戦争に巻き込まれないようにすることはできない。我々は戦争に巻き込まれるリスクを最小にするために、戦争の局外に立つという方法を採用しているが、信念と安全が崩壊している無秩序な世界の中で完全に身を守ることなどできない」
ルーズベルト大統領の演説には、数多くのレトリックが複雑に入れ込まれているため、一読しただけでは理解不能です。こんなものを読んでも意味はありません。むしろ、世界地図を頭に思い描くほうが理解につながるでしょう。当時のアメリカほど安全保障に恵まれた国家はありません。ユーラシア大陸の紛争はアメリカにとって対岸の火事です。局外中立は可能でした。黙って見ていて、機をとらえて仲介に乗り出せば良いだけでした。アメリカが、地政学的な中立を保ち、その強大な国力を背景として仲介に乗り出せば、紛争に疲弊したユーラシア国家は仲介を受け入れるはずでした。実際、日本は支那事変の仲介をアメリカ政府に要請しています。しかし、ルーズベルト大統領にその意思はなく、演説とは裏腹に、むしろ戦争に呑み込まれることを待ち望んでいるかのようです。
ルーズベルト大統領がドイツと日本をことさらに非難した理由も、地図を見ることで理解できます。ドイツと日本にとってソビエト連邦は「北の脅威」でした。したがって、日独両国が防共協定を結んだのは理のあることでした。逆にソビエト連邦から見れば、日独両国は「南の脅威」です。これはお互い様のことです。こうした対立関係の局外にあるアメリカ合衆国の大統領が、日独に対してのみ公然と敵対的な声明を発したのです。ソビエト支援の態度を明確に見てとることができます。ルーズベルト大統領は隔離演説の最後を次のように締めくくりました。
「アメリカは戦争を憎む。アメリカは平和を望む。それ故、アメリカは平和を追求する試みに積極的に参画する」
何を言っているのか、判ったような、判らないような表現ですが、要するに「戦争するぞ」と言っています。「平和を追求する試み」とは戦争なのです。ものは言いようです。ルーズベルトの言葉とは、すべてがこの類です。
隔離演説は国内外に大きな反響を巻き起こしました。むろん賛否両論の議論になりました。
日本政府にとって隔離演説は寝耳に水の非難でした。そもそもなぜアメリカから非難されるのか、その理由が日本政府にはわかりませんでした。ルーズベルトと共産主義との深い関係を充分には理解できていなかったからです。この後、ルーズベルト政権はドイツと日本に対して盛んな戦争挑発を継続していきます。すべては対ソ支援のためでした。
一九三八年(昭和十三)になると戦争の予感が色濃くなります。アメリカは、英米海軍協力計画を締結しました。これに基づいて英艦隊がシンガポールに、米艦隊がハワイに進出しました。日本に対する威圧です。アメリカ軍は対日戦略を練り直し、新オレンジプランを策定します。そして、第二次海軍拡張法を成立させて大がかりな海軍拡張を開始します。その規模は、航空母艦八隻、航空機三千機、総トン数百九十万トンという大規模なものです。
そして、アメリカは日本に対する経済制裁を開始します。法的根拠のない対日輸出禁止措置です。さらに、ルーズベルト政権は日本政府に対して日米通商航海条約を破棄すると一方的に通告します。日本政府は驚愕し、交渉を求めました。そもそも幕末の日本を砲艦外交で開国させたのはアメリカでした。そのアメリカが、今度は日本に対して門戸を閉ざしてきたのです。日本政府の当惑は察して余りあるものでした。
しかし、ルーズベルト政権は日本との交渉を拒み続けます。戦争挑発と理解するほかに考えようのない強硬な対日姿勢です。
日本軍は支那事変の戦域を拡大させ、中支に進攻していました。スターリンの傀儡と化した蒋介石の挑発に乗ってしまった結果です。ソビエト共産党の策謀にまんまとはめられたことは日本の失策です。とはいえ、アメリカには何らの脅威も与えていませんでした。にもかかわらずアメリカ政府は日本を非難する一方、蒋介石には二千五百万ドルの信用を供与して大々的な援蒋支援を開始しました。ルーズベルト政権のこうした差別的外交政策は明らかに共産主義勢力への援護です。
欧州ではドイツがオーストリアを併合し、さらにミュンヘン会談によってズデーテン地方を手に入れていました。イギリス首相のチェンバレンは、戦争回避のため断腸の思いでミュンヘン協定に調印しました。しかし、チャーチル海相は声を大にしてチェンバレン首相を批判しました。その際、チャーチル海相を背後からたきつけたのはルーズベルト大統領です。英独が対立すれば、ソ連が漁夫の利を得ます。
ルーズベルト大統領の政策は明らかにソビエト連邦に融和的であり、日本とドイツに対しては敵対的でした。さらに、戦争を煽って拡大させようとする意図が見え隠れし、あわよくばアメリカを参戦させようと画策するものでした。こうした事実にいち早く気づき、警鐘を鳴らしたのは前大統領のフーバーです。フーバーはラジオ放送や演説会を通じて訴えました。
「ニュー・ディール政策はリベラリズムを変質させた。ニュー・ディール政策は、集産主義的であり、強制を伴い、政治権力の集中を招いている」
フーバーはルーズベルト大統領の正体を見抜いていたようです。
「アメリカ国民は攻撃を受けることがあれば、すべての力と精神力を動員して最後まで戦うことを覚悟しなくてはならない。しかし、同時に自制も必要である。我々が戦うのはあくまでも攻撃された場合である。そうでなければ中立の立場をとるべきである。他国に対して経済制裁や禁輸などという措置をとってはならない」
フーバーは、ルーズベルト政権の経済制裁を明確に批判しました。
「もし我が国が再びヨーロッパの戦いに介入すれば、我が国の民主的政権はそのことがもたらす衝撃にたえられないであろう。干渉主義者たちは民主主義を救うために参戦するべきだと主張するが、その戦いのためには我々自身が専制的な国家にならざるを得ないことを考えてもみない」
フーバーの言葉には余計な虚飾がなく、論理も整合的です。戦争に反対する姿勢が率直に述べられています。
「他国の戦争には関わらないことである。アメリカは決してヨーロッパに関与してはならない。ヨーロッパ諸国には、それが我が国の方針であると理解させなくてはならない。ヨーロッパの民主主義国家の側に組みするような行動もつつしまなくてはならない」
いわゆる不干渉主義をフーバーは主張しました。それをなし得る地政学的条件をアメリカ合衆国は天から与えられているからです。
「和平を維持するためには、民主主義国家だけではなく、独裁国家とも上手くやらなくてはならない。他国の人々がどのような政体を選択し、その運命を託そうが、我が国とは関係ないことである。世界の国々を、戦争するぞと脅かして、正しい方向に導くことなどできはしない」
フーバーの言葉には、ルーズベルトの演説に見られるような手の込んだレトリックがありません。だから安心して読むことができます。現実を踏まえた堅牢な政策提言といえるでしょう。しかし、フーバー前大統領の奮闘にもかかわらず、アメリカ合衆国はルーズベルト大統領という容共主義者に率いられて戦争へと突き進んでいきます。