怖くない
一
「ねっ、生きてて怖いことない?」
「怖いことっ、・・いろいろあるよ」
「でしょう、あるでしょう。でも、怖いものがない人がいるのよ。あたし、それがわかった」
「誰?」
「悪い人、――この人たちは、怖いものがないんだろうなって。つまり、平気で悪いことをしてるってことは、そういうことなんだと納得したの」
「そう」
‥
「何が怖いって聞かれたら、“死ぬこと”って答えるでしょう」
「普通そうね」
「他にある?」
「一番はそれね、他にはないね」
「でしょう、それで逆に言えば、死ぬことが怖くなければ、何も怖いものはないということよ」
「あら、そうね」
‥
「悪いことをしても、死んでから罰も償いもないって思っているのよ、だから、平気で悪いことができるのよ」
「いい人は、罰が当たるから怖がっているの?」
「でしょう。悪いことをしたら、死んだ後どんな目に会うかわからないと思うでしょう」
「思ってる、それが怖いのよ」
「でもね、あたしもだけど、はっきりと“悪いことはしていない”って言えないでしょう」
「そうよ、そんな善人はいないわよ」
「それで、どうするかなのね」
「それで、自分はそんなに悪いことはしていないって、自分に言い聞かすわけなの?」
「そこでよ、どこで折り合いをつけるか、なのよ」
「妥協するわけね」
「あたしが考えたのは、それを目ざす心なの、つまりいつもそのことを目ざして生きていく。もっと具体的に言うとね、かなしい思いをしている人、つらい境遇を生きている人を目ざすの。その人たちは善人よ、その人たちの心を知ろうとするの、見習うの」
「そう」
‥
「あたしはがまんできるんだけど、もう一人の人がまんできるのか、心配なの」
「あなたと、もう一人、嫌がらせをされているんだ」
「そう、その人、辞めるんじゃないかと思う。辞めなかったら、心を病んでしまうと思う」
「世の中には、そんな人がたくさんいるのよね」
「そう思う、悪い人がふんぞり返って、いい人は追いつめられてしまう」
‥
「あたしは、死ぬことは怖くないって、自分に言い聞かせている。そのために、普段の生活の中で、嫌なこともつらいこともかなしいことも、がまんするんだと思っている、がまんしてがんばっていこうと思っている。死ぬことは怖くないんだから、がまんできるし、がんばれるんだとね」
「理屈はそうなるか」
「それでね、あたし、そんなとき呪文を唱えるの。――“怖くない? 怖くない!”ってね」
「まあ、そうなの」
「ちょっと説明すれば、最初の怖くないはクエスチョン、次の怖くないはビックリマークね」
「怖くないって尋ねて、怖くないって強調するわけね」
「そういうこと」
「でも、確信はないの? 呪文だけなの?」
「失礼ね、ちゃんとあるわよ」
「ごめん、ごめん。で、どんななの?」
「まあ、きょうはやめとくわ、今度ね」
「うん、わかった、今度ね」
二
「あたし、目の不自由な人、耳の不自由な人、かわいそうと思っていた。そして、どうしてあの人たちで、あたしではないのかって、そのことを考えていた」
「そんなこと考えていたの」
「ずっと考えていたけど、わからなかった」
「誰もわからないでしょう」
「それがわかったの、――彼らのことを考えなさい、知ろうとしなさい。彼らの生き方を見習いなさい、いっしょに生きていきなさい、・・ということだった」
「・・・・・」
「あたし、彼らは生きることが怖いと思った、ずっとそう思っていた。でも違った、彼らは生きることを怖くない、そして死も怖くないの。――死が怖くなければ、生きることも怖くない」
「どんなふうに考えれば、死は怖くなくなるの?」
「生きるためよ、生きるために死を克服したのよ」
「どうやって?」
「わからない、でもそれしか生きる術がない、そうしないと生きていけない」
「壮絶ね」
「でもね、これはあたしがそう思っただけ、理屈を考えただけ、本当のところはわからない。本当は何かある、あたしのわからない、考えることができないことなのよ」
「でね、何かがあるのは、それはすばらしいことよ」
‥
「そのことを、あなたは探していくのね、それを目ざしていくのね。――絶対にわからないことを」
「絶対にわからないと思う、でも考えていく。彼らのことを考え、彼らを見習って生きていく」
「それが、“怖くない? 怖くない!”なのね」
「うん、そう、そうなの」
「いいと思う。そして、あなたも悪い人から嫌なことをされているのね、それをがまんしているのね」
「彼らはいつもがまんしている、毎日がんばっている。あたしもそうする、できないことはない、あたしもがまんする、がんばっていく」
‥
「あたしが目が見えなかったら、あたしが耳が聞こえなかったら、――ずっと考えていた、どんな心になるんだろうか? 答えは出なかった、わからないと思っていた、それがわかった」
「よかったね」
「“百聞は一見に如かず”、嫌な言葉ね。目の不自由な人のことを考えていない」
「・・・・・」
‥
「何て世の中だろうね。でも彼らはそうは思わないのね、生きていることに感謝しているのね」
「すごいね、前を向いているのね、しっかりと生きているのね」
「あたし、つらい境遇の人たちを見ているんだけど、子どもたちにも同じ考えをもったの。――幼い子どもたち、小さい子どもたちも、これから過酷な社会で生きていかなければならない。それでも子どもたちは、生きることにいっぱいの喜びを持っている、夢と希望に胸を膨らませている」
「そうね、死ぬことは考えない、怖いものはないのよね」
「すばらしいと思う。幼い子どもの心を思えばいい、わかるはずよ。ねっ、あたしたちもその頃があったのよね」
「うん、あった。その思いを、もう一度よみがえらせる。――そうかあ、かなしい境遇にいる人たちを思うことと、幼い子どもたちを思うことは、同じなのね。心が同じなんだ、・・何て言うか、すごいね、あー、こんなことがわかるなんて」
‥
「前は、かわいそうと思っていた。今は、がんばっていると思う、そしてあたしもいっしょにがんばるんだと思う」
「いっしょに生きている、同じ心になっている」
「そうありたい、そうなりたい」
「うん」
‥
「あたしね、何で、悪い人は他人に嫌なことをして平気でいられるのか? わからなかったの」
「あなたが、嫌なことをされているのね」
「まあね」
「それを、がまんしているのね」
「まあ、そうね」
「何があったの?」
「うん、今度話すね、今度ね」
「うん、わかった」
三
「悪い人は他人のものを奪っている、いい人は自分のものを与えている」
「うん」
「相手を思いやる笑顔、あたし、ほれぼれする、いいなあって思う、人間の一番の喜びよ。これは悪い人はしない、知らないし、できない」
「どんなにも違う、ため息が出てしまう」
‥
「あたし、つらい境遇を生きた人たちは天国へ行くと思う、行けるし、行くべきよ。そうじゃないと、苦しい日々を過ごした意味がない」
「あなたはやさしいのね、どうしたらそんなやさしさをもてるのかなあ?」
「あたしはやさしくない、やさしいのは彼らよ。――彼らは自分のことは考えていない、自分と同じようにかなしみにある人のことを考えている」
「それが、やさしさね、何てことでしょうね。自分のことより、他人のことを考える、その行動をする、すごいね、すばらしいね」
「うん、彼らはすばらしい心をもっている、頂いていると思っているんだろうね。――純粋で、謙虚で、ひたむきで・・」
「うん」
‥
「あたしは、天国へいくだけの苦しみもかなしみも受けていない、自分のことより他人のことを考えるやさしさを持っていない」
「そんなことないよ、そりゃあ、高みを目指したらキリがない、いつまでも届かないわよ。そうありたいと思う心が、あるってことでいいのよ」
「わからない、でもあたしのことは考えない、彼らのことを考える。――彼らの幸せを考える、それであたしは彼らから助けてもらっている」
「そうなのね」
‥
「そんなに彼らのことを思って、かなしみを背負い込まなくてもいいんじゃない。いくらかは自分のことを思って、楽になってもいいんじゃないの」
「違うの、あたしはちっとも苦にならない、無理してない。逆よ、彼らといっしょに生きているって思うことは、幸せよ」
‥
「してやって、してもらうのだったら、あたり前のことよ。見返りがなくしてやることが、やさしさや思いやりよ。――このことをしているかどうか、自分でわかるはずよ」
「うん」
「人間の値打ちとかって、それだと思うの。そしてキリスト教で言う、“判定“ね」
「“最後の審判”の評価基準ね」
「貧しい人たちにどれだけしてやったか? ――すごいことね、すごい言葉よ」
‥
「献身とか、奉仕、これこそが良い心であり、良い人よ。逆に、それをしない、自分のためだけに生きている人は、悪い人よ。どっちかはっきりわかることで、中間はない」
「そう」
「他人のことを考えているときが、人間なの。自分のことを考えているときは、人間じゃないのよ」
「そう」
「死を考えるのよ、死を考えないと、生きることも考えないことになるのよ。悪い人は死を考えていない、だから悪いことができる」
「死ぬことが怖くないのね」
「考えて怖くないのと、考えなくて怖くないのとよ」
「そうなのね」
‥
「ある人が言ったんだけど、貧しい人たちに対して、あたしたちが与える以上のものをもらっているって」
「心ね、貧しい人たちの心ね、――すばらしい心、正しい心なのね」
四
「実はね、あたし、貧しい人たちに助けられた。貧しい人たちがあたしに、がんばれって言ってくれた、あたしを慰めてくれた。あたし、うれしかった」
「そうだったの」
‥
「貧しい人たちは怖くないのかあ、子どもたちも怖くないのかあ」
「怖くない。――“怖くない”は、同じ心よ。自分のことを思ったら怖い、他人のことを思えば怖くない」
「心の葛藤?」
「葛藤でもいい、そこを目ざしていけばいい、それでいいよ」
‥
「つらいことが多いから、こんなことを考えたんだと思う。――よかったと思わなければいけないと思っている」
「・・・・・」
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あーあ、一人二役しちゃった、一人芝居。――でもいいの、これでいい、あたしはこうして考えていく。いろんなことを、そして人生を、生きることを、死ぬことを、考えていく。そしてあたしはがまんする、あたしはがんばっていく。
(怖くない?)
(怖くない!)