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泥の少女

 ――そこは死が充満した場所だった。

 戦争による惨害が色濃く残るその地には大勢の人や魔物の死体、そしてそれらが放つ悪臭が立ち込めていた。


 つい数日前までは平和だった小さな町は人間と魔物の両方に踏み潰され、一夜を待たずしてこの世の地獄へと変貌していた。

 質の悪い魔物の死骸から発せられる瘴気が、周囲を薄暗い紫色の霧で覆っていく。

 それに囲われた未練ある死体は起き上がり、死者の兵と化して再び人間を襲うのだ。


 だからこそ、本来は魔物との戦いが終われば魔法や道具でその場を浄化しなければならない。

 だが、今のアルテウルに全ての戦場でそれをするだけの余力はない。この場所は、見捨てられたのだ。


 しかし今は少しばかり事情が違っていた。

 人の、魔物の死体がまるで沼に沈み込むようにして消えていく。

 もしこの光景を空から見ることができたのならば、まるで巨大な闇が広がり大地を飲み込むような凄惨な世界を見ることができたであろう。


 底なしの深淵。その中心に一人の少女がいる。

 薄い金色の、容易く折れそうなほどに不健康な身体つきをした少女だった。

 少女から広がっていく闇はまるで軟泥、ウーズと呼ばれる軟体の魔物にもよく似ていた。それらと違うのは泥自体に意思はなく、少女の望む通りに姿を変えていくことだった。


「……お腹が空いた……」


 瓦礫を背もたれにして、ぺたんと座り込む少女が天を仰ぐ。


「ふふっ、ふへへっ……」


 小さな唇が歪に歪んだ。

 零れた笑いは、自嘲するようでもあるが、その瞳は遥か過去に思いを馳せているかの如く、細められている。


「温かかったなぁ」


 手を開く。

 指先からどろりとした軟泥が零れ、黒い水たまりのような闇を少女の周りに作り出すその様は、そこだけがぽっかりと切り取られて穴になっているかのようだった。

 その闇を通して少女は過去を見ている。


「わたしの馬鹿。なんで手を離しちゃったんだろう。わたしの馬鹿、馬鹿、馬鹿」


 或いは、その手をずっと握っていたのならば。

 一緒に生きられたかも知れない。

 そうでなかったとしても、二人で幸福に死ねたかも知れない。

 どちらにせよそれは、今よりもずっと幸福な道だったに違いない。


 既にその掌にない熱を思い出しながら、少女は空虚に笑う。

 それから何時間ほどそこでそうしていただろうか。


 いつの間にか闇は染み込むように消えて、転がっている幾つもの死体は溶けて消失している。

 肉も、皮も、骨も。

 その全てがなくなっていた。人間、魔物を問わずに。

 少女が立ち上がろうとしたその瞬間、目の前に影が差した。

 顔を上げると、こちらを見下ろす女が一人。その背後には武装をした兵士達が、手に持った槍を少女に向けている。


 数の上でも武器の上でも有利な彼等は、しかし何故だろうか腰が引けていた。それこそ、得体の知れない怪物を目の前にしているかのように。


「ふへ?」

「こいつで間違いないかい?」

「は、はい。ここ数日の戦地で観測されていた現象に、間違いないかと」

「ふぅん。おい、槍を下ろしな」

「で、ですが……」


 顔をゆっくりとあげる。

 立っていたのは、軍服の上に分厚いコートを着込んだ老女だった。髪の毛は白髪になっていて、顔には深い皺が幾つも刻まれている。


 それでも、その瞳には強い光があった。

 喉から発せられるしわがれた声の一言一言に、見えない力が宿っているようにすら感じられる。


「ガキ相手に何を怯えてんだい! そんなの、こっちの弱みを見せてるようなもんだろうが!」

「も、申し訳ございません!」


 老女にそう一喝され、兵士達は槍を下ろし直立不動の態勢を取る。もし少女が何らかの方法で彼等に襲い掛かっても、命令がなければそのまま殺されてしまうぐらいに統率の取れた動きだった。


「怯えちゃいないみたいだね……。そんな意識もないってところだろうが」

「ふ、ふへ……。わたし、殺されますか? ちょっと寂しいけど、仕方ないですよね……。わたし、化け物なので」

「……なんだい、調子狂うね……。化け物を自称するなら、人間の言葉を喋る前に襲い掛かって来てみろってんだ。口で言われるよりも、そっちの方がよっぽど納得できる。それに、殺しゃしないよ。あたしはその化け物を探しにこんな辺鄙な場所にまで来てやったんだ」

「探し……に?」

「ああ、そうだ。あたしがあんたに生きる場所を、生きる意味を与えてやる。その代わりに力を貸しな、そうしたら化け物じゃなくしてやるよ」

「化け物じゃ、なく?」

「そうさね」


 もし、化け物でなかったとしたら。

 あの手は離されなかったのではないだろうか。

 こんな生き方はしなくてすんだのではないだろうか。


「あたしの名はエレノア・スカーレット。もしそのクソみたいな人生を変えたかったら、あたしのギルド・フェンリスに来な」


 皺だらけの手が目の前に差し伸ばされた。

 それは少女にとって、天から伸ばされた一筋の糸にも、地獄から招く悪魔の手にも見えた。


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