解放の一太刀
「なん……で……?」
一瞬で頭を過ぎったあの情景が、わかってしまった。
それは、あの魔獣の元になった少女の、最早声さえ亡くした哀れな亜人の、最期に見た光景だったのだろう。
そしてそれは今、目の前の魔獣の中に宿って、ただ自分の中に詰め込まれた憎悪のままに、人間を殺そうとしていた。
「そんなの、そんなのって……!」
魔獣の爪牙が空を切る。
次々と繰り出される攻撃は精彩を欠き、片目に負ったダメージが深刻であることをルクスに伝えていた。
それでも、魔獣は咆哮する。
最早逃げる理由もなく、辛い運命から一刻も早く解放されたがっているかのように。
「……ごめんっ!」
ざんと、派手な音を立てて伸びてきた腕が斬り飛ばされた。
返す刃で、背中から生える二本目も切断する。
「ごめん……!」
目からは涙が零れる。
辛いものを見せられた。
ルクスが歩んできた日々よりもよほど。
どうしてそんなことがわかってしまったのか、或いはルクスの中の何かが、同調してしまったのだろう。
今もなお、心臓は早鐘を叩いている。
人造兵として埋め込まれた偽りの器官が、目の前の魔獣を倒すための全力でルクスの身体を突き動かさせていた。
「ごめん!」
こんな話があるだろうか。
今向かい合い、こうして死力を尽くし互いの命を削っているのは、人間や亜人達の軋轢の末に生み出されたその被害者達だ。
彼等が互いを差別し、憎みあっているその中心で、ルクスの魔獣は翻弄され続けている。
だが、それでも。
それでも、ここを譲るわけにはいかない。
英雄になろうと決めたから。大勢の人を護って見せると、かつて炎の中で見たあの光に近付こうと、その為に生きて行こうと決めてしまったから。
「でも、」
魔獣は必死で飛び退り、背中から伸ばした触手のような腕でルクスを打ち払う。
一本を剣で受け止める。
その隙に、魔獣は距離を詰めて爪牙を振るう。
その一撃一撃が、ルクスの身体など容易く切り裂くほどの凶器だった。それを半ば狂ったように、何かを懇願するようにルクスに向けて振り回す。
だが、それらがルクスを傷つけることはない。
魔獣の動きは、明らかに鈍っている。
動けば動くほどに、目からの出血は増えていく。それだけでなく、ベオの炎によって傷つけられた腹部は次第に崩れ始め、内臓のような器官が覗いていた。
「僕は……!」
突き出された前足を、黒の剣で受け止める。
ルクスに掛けられる力は先程までの比ではない。両手で剣を構え、それで止められてしまう程度にまで弱っていた。
魔獣が唸る。
腕を振り回してルクスを吹き飛ばして、そこから更に跳躍して襲い掛かってくる。
それを黒の剣で迎撃、互いの身体は再び距離を取って、向かい合った。
最早、その一挙一動が捨て身だった。
動けば動くほどに傷は深くなり、魔獣は自分を傷つけているようなものだ。
背を向けて逃げれば、追いつくことはできない。
森の奥に身を潜めて時を待てば、魔獣に再び機会が巡ってくることもあるだろう。
もし彼女がそう言うものならば、復讐と言う悲願を背負っているのならば、そうするべきはずだった。それができるだけの知能がある生き物のはずだった。
だが、それより強い怒りがある。
それより深い悲しみがある。
そして何よりも、懇願があった。
「……君を、倒す」
ルクスの声が届いたかはわからないが、そう呟いた直後、魔獣は血を滴らせる全身を強張らせ、攻勢に出る。
地を蹴り、ルクスの目の前に一瞬で跳躍。
しかし、ルクスはそれにすら反応して見せた。
大きな口を開けてルクスの胴体ごと噛み砕こうとした牙は、空を切る。
ルクスはその動きを見切っていた。いや、早鐘を叩く心臓の鼓動が、虚空から聞こえてくる声のような何かが、それを教えてくれていた。
魔獣は諦めず、首を下に降ろして、残った角でルクスの身体を串刺しにしようと試みるが、その選択は誤りだった。
既にルクスは、両手に構えて黒の剣を振り喘げている。灼熱するような紅い刀身は、まるで魔獣の血を求めて唸りをあげるかのようだった。
突き上げられた角を斬り落としそのまま魔獣の額へと。
「なっ……?」
だが、魔獣の抵抗はそれでは終わらなかった。
彼女もまた、起死回生の一手を賭けていた。
剣がまるで泥に沈むように、魔獣の頭部へと食い込んでいく。
身体を構成していた体毛が、肉が解けて、柔軟な泥のようにルクスの腕に伸びて、そこからその身体を飲み込もうと絡み付いた。
「拙い……っ!」
力を込めても、必死に後ろに下がっても泥は腕に食い込み、次第にその小さな身体を体内へと引き摺り込んでいく。
次はお前が、その憎悪の器になるのだと、行き場のない怒りや悲しみを背負わせるために。
或いは、死の淵にある獣が、せめてもの熱を求めたのかも知れないが。
「負ける……もんかぁ!」
気合いを込めて、そう叫ぶ。それしかできなかったから。
魔獣の策は半ば成功していたと言ってもいい。ルクスはその一手に囚われて、後はその泥の中に食われることしかできない。
全ては時間の問題だった。
暁の死闘を制するのは、人への恨みを乗せた黒き魔獣になるはずだった。
――背後から飛来した一矢が、その背を撃ち抜かなければ。
「【エンチャント・ボルト】!」
雷を纏った矢が、城壁から飛来する。
それは溶けかけた魔獣の背を貫き、的確に黒い泥の中にある心臓へと到達していた。
全身に雷が走り、魔獣が痙攣して動きを止める。
ルクスを捕まえている魔獣の拘束が緩む。
「今なら!」
ぶちぶちと音を立てて、蔦のように絡み付いた泥が千切れていく。
臆病者の決死の一矢は、確かに届いた。
魔獣が吼えた。
最期の雄叫びを、己の中にあるありったけの憎悪を込めて、今対峙する敵を威嚇する。
だが、最早少年はそれに怯むことはない。
横から飛来した炎が、ルクスの腕に絡む最後の拘束を焼き切る。
その方向を見るまでもなく、それが彼女の必死の支援であることは理解出来た。
だから、ルクスは飛ぶ。
全力を込めて、ここで出会った仲間達の支援を受けて。
跳躍し、両手で構えた剣を向ける先は、一本の頼りない矢が刺さった、半ば崩れかけた魔獣の背中。
「これで、終わりだぁ!」
紅の刀身が、真っ直ぐにその位置に突き入れられる。
僅かに焦げ残った体毛を千切り、腐り落ちそうな肉を貫通し、その心臓へと貫通する。
魔獣はもう、声を上げることはなかった。
ただ最期に、ルクスの耳に少女の声が届く。
それが幻であったかどうかはわからないが、彼女は確かに言っていた。
『ありがとう』と。




