時代と英雄
英雄戻らず。
その知らせがミリオーラに行き渡ったのは、アレクシスが指定した日の午前中の出来事だった。
彼が戻ってこないとはつまり、英雄アレクシスは魔獣によって討たれたと言うこと。そしてその魔獣が次に狙う場所は、このミリオーラであることは明白だった。
すぐにミリオーラの市民達は最低限の荷物だけを持って、避難する準備を進めていた。
魔獣はマルザの森にいるのだろうが、果たしてどのぐらいの距離にいるのかもわからない。襲ってくるのは今日か明日か、それとも何日か後なのか。
何もわからない恐怖感だけが、ミリオーラの人々を駆り立てていた。
先日までは大勢の客が訪れていた夕立亭も、嘘のように静まり返っている。奥ではサンドラが荷物の整理をして、朝店に来たエレナはその手伝いをしていた。
「あんた、自分のものはいいのかい?」
サンドラがそう尋ねる。
「……はい。わたしもあっちのお屋敷で、殆どの持ち物は焼けてしまいましたから」
「まぁ、それもそうか。あたしもだけど、最低限あんた達を食わせてくぐらいのお金は持って行かないとだからね」
恰幅のいい女将は、どうやらここを離れてもエレナ達を見捨てるつもりはないらしい。
それはエレナにとって安心をくれたが、同時にどうしてここまで自分達が苦労しなければならないのかと、世の中に対する怒りすら沸いてくる。
「……今って、平和な時代じゃないんでしょうか?」
だから、ついそんな言葉が口を次いで出てしまった。
「魔王戦役は、わたし達が生まれてすぐに終わったって、英雄達や大勢の兵隊さんが命を賭けて、世界を平和にしてくれたって……そう聞いてたのに」
現実は全く違う。
魔王戦役によって荒れ果てた世界は、決して平穏なものなんかではない。
あちこちで亜人種達の反乱が起こり、力を失った国軍の代わりに多くのギルドが立ち上がり、そんな彼等すらも縄張り争いをしているような始末だった。
「平和になったって一言で片づけるには、色んなものを重ね過ぎちまったんだろうね」
いつの間にか、カウンターの向こう側にサンドラが立っていた。
「随分平和なもんさ。少なくとも、魔王なんてのが暴れてた時に比べればね」
「サンドラさん……」
「あんたよりも若かったかね、確か。酷い暮らしだったよ、逃げても逃げても魔物がやってきて、親に手を引かれて、それこそ一日中歩いてあっちこっちを逃げ回ったもんさ。そうこうしているうちに、大勢が死んじまった」
そう語るサンドラの表情は、いつもの豪胆な女将のものではない。
当時を懐かしみ、辛い記憶を噛みしめるような、そんな顔をしていた。
「ごめんなさい、わたし……!」
「かまやしないよ。別にあたしが苦労したからって、今のあんた達が楽だなんて言うつもりはない。あんただって生まれた時から、随分と苦労してきたんだろうからね」
戦中に生まれた者達とは別の苦労が、戦後の者達にもある。
治安の悪化や疫病、瘴気などによって故郷を追われて、住み込みの働き口を探す者達だって珍しくはない。生まれつき孤児だったエレナも、仕事を探して放浪した過去がある。
「あたしは途中から割り切ったさ。でも、あんたらはそうじゃないだろう。まだ諦めちまうには、若すぎる。本来なら恋だのなんだの言いながら、夢を語ってるような年頃だ」
カウンターに肘を突き、手の上に顎を乗せながら、サンドラが深い溜息を吐く。
「そう言う時代なんだろうね、今は。そう言う時にこそ、英雄ってのが必要なんだと思うよ」
「……でも、アレクシス様は……」
「強さだけじゃなくて、心に光をくれるような、暗闇の中で灯になれるような、そんな人物のことを言うのさ、本来はね。例え強くなくても、一見すると頼りなさげでも、自分の信念を曲げず、当たり前のように人を救っちまうような奴をね」
サンドラの言葉に、果たして誰かを指す意図があったかどうかは、エレナにはわからない。
ただそれを聞いたその胸中には、一人の少年の姿が思い浮かんでいた。
或いはそれは、単なるエレナの希望にしか過ぎないのかも知れないが、サンドラもまた、同じように期待していたのかも知れない。
余りにも無謀な夢を抱き、深い闇の中を這うようにして今日まで生きてきた、英雄を目指すあの少年に。




