生前―希望も無かった
女はシャワーを浴びて服を着ると、いつも通りに暗闇の中、帰るねと言い置いて玄関へ向かう。
部屋の明かりを点けるのは、扉が閉まる音を聞いてからだ。
数時間振りの光が、眩しかった。光から逃げるように、洗面台に行き歯ブラシを取る。磨きながら正面を向いても、鏡はない。入居した時に割って捨ててある。そもそも子どもでもあるまいし、歯磨きに鏡は必要ない。
磨き終えるともう寝るだけなので、リビングのスマホでアラームを設定する。スリープモードのスマホが僕の顔を映す。それから目を逸らして正面を向くと、電源の落ちたテレビが今度は僕の顔を映した。
今さら、ひどいとも思えない。しかし、できれば見たくない。十数年間、右側が焼け爛れた顔で生きて来た。驚くことはないが、常に自分の顔から目を逸らして生きて来たので、今なお慣れない。
日常生活は覆面をして生きているし、障害者としての給付金を固定収入に株の売買で生きているので、知らない人間には基本会わない。空手道場の仲間は、僕の顔のことを知っている。
僕には体の欠損や不随意な部位など無い。むしろ武道の心得の分、人よりも体を十全に動かせる自負はある。
それでも役所は、僕の顔を『障害』として認定した。窓口の人が、一生懸命に動いてくれたそうだ。給付金がもらえると確定した時には、よかったですねと喜んでくれた。
つまり僕の顔は、そこまでひどいらしい。ひどく醜いのだと、公的に認められている。幸福な生涯を送るにあたり、間違いなく障害となるのだと。
金はそこそこある。女も複数いる。趣味である空手を行うのに、何の支障もない。
それでも僕は、この働き方でこのレベルの女を抱き、人目に隠れて生きる以外の生き方が無い。
切ない。
これが僕の人生なのだろうか。
密閉空間で煙草を吸ってしまったので、窓を開ける。六月という季節柄蒸し暑いが、クーラーは体に合わない。今夜は窓を全開にして網戸で寝ようと思った。
全裸の身体に、生温い風がまとわりつく。不快なような、心地良いような。
興が向いて、この風に吹かれながら煙草が吸いたくなった。一昨年大学を中退してから始めた煙草は、もう僕には手放せないものになっている。
ベランダに出ると、一匹の虫が部屋に入り込もうとしていたので、後ろ手でガラス戸を閉めた。
十五階には虫は来ないだろうと入居前は思っていたが、存外この高さまで来るものだ。
煙草に火を点けて、街を見下ろす。
もう日付が変わろうというのに、街灯や向かいのマンションの廊下で、明るい。遠くを見やれば、僕の通っていた大学も見えそうだった。今年は同級生たちが、卒業する年だ。噂によると、就活が終わりだし、卒論に打ち込み始める時期らしい。
なんとなく夢想する。
僕が障害も無く、つまりはまともな顔で学生生活を過ごし、飲み会やサークル活動を楽しみ、就活で仲間と励まし合い、卒業論文で友に愚痴を吐く姿を。
それは、素敵な妄想だった。素敵な人生だった。多くの人の、普通だった。本来の望みからかけ離れた僕には、その普通さえあまりに眩い。
あとから悲しくなるだろうに、止められないほどその空想は楽しかった。
笑顔で、顔が醜く歪まないのだ。涙が、焼け爛れた皮膚で止まらないのだ。素顔が、人を不快にさせないのだ。
疲れているのだろう。僕のまともな顔を想像し、その顔で過ごせる生活を空想し、幸せを夢想して煙草の火が唇近くで熱さを伝え、やっと目を開いた。
ベランダに置いてある灰皿で火を押し潰し、部屋へと体を向けた。
「ひっ」
ガラス戸には、街からの光を受けて僕の顔が映っていた。
醜いその自分の顔に、恐怖した。先ほどまでの空想の自分との違いに、戦慄した。後ずさり、さっきまでので疲弊した膝が崩れ、ベランダの縁を軸に頭から回り、落ちた。
僕のマンションに背を向け、頭から落ちていた。
走馬灯がこれなのだろう。人生で見た風景が、頭にフラッシュバックする。
父。
母。
妹。
蒸発。
焼いた顔。
中学生の頃、
教師の言葉。
同級生の反応。
もう誰もいない。
化物。
叔父、叔母どうでもいい。
じいちゃん、ばぁちゃん、長生きしてくれてたら。
高校時代。
化物。化物。
初恋。
大学。
期待。
かわいそうな人。
裏切り。
挫折。
諦め。
覆面。覆面のおじちゃん。
孤独。
……。
地面に激突して頭が潰れれば、僕の醜い顔も無くなるだろう。
…………。
……切ない。
これが僕の人生なのだろうか。