生前―愛は無かった②
暗闇でも、自分の部屋なので間取りは掌握している。
狭いソファベッドから風呂場へと移動し、自分自身を入念に洗う。デブにありがちなことに、臭いのだ。
あとは豚を帰して寝るだけなので、髪から全身まで洗った。心地よい倦怠感で、ぐっすり眠れそうだった。
体を拭き、風呂場の電気を再び消し、暗闇に戻す。
女は意識を取り戻したようで、ベッドの上に女座りをしているのが、見えはしなかったが、気配でわかった。
「ごめんね、汚しちゃった」
さっきまで獣のような声で鳴いていた豚は、理性を取り戻したようで、謝ってきた。
「……いいさ。すぐ洗うよ」
まったくよくないのだが、謝られた以上こう言うしかあるまい。
女を通り過ぎて背を向け、手探りで煙草とライターを取る。
この女は確か煙草を吸わなかったはずだし、お互いへのマナーとして、暗闇の中で話す。女の醜い体が見えないように。僕の顔を見せないように。
「本当、すごいよね」
女は言いながら、背中から僕の腹に手を回す。胸を背中にあてつつ、太い腕や腹が触れないように注意しているのがわかり、いじましさを感じる。そこまでするなら痩せればいいのに。
「何したら、こんなガッチガチになるの?」
僕の腹筋に触れながら、女が問う。お喋りをする暇があるなら、シーツを剥がして風呂場に持って行って欲しいのだが。
「空手」
紫煙を吐きながら端的に答える。僕は今正しい意味で賢者モードなので、質問に答えるのも億劫なのだ。
「……そう。腹筋だけじゃないもんね。胸は厚くて腕も脚も太くて、背中もガッチガチ」
そう言って、女は僕の身体を撫でまわす。自分自身だけは、すでに三回出したのでやわらかい。
遮光カーテンで真夜中の月明りも街灯の光も遮り、部屋の電気もない暗闇で、灰皿に灰を落とす。部屋の明かりは煙草の先端だけなので、注意が必要だ。
答えずにいると、女は僕の身体をしばらく撫で続けた。煙草が終わろうとしたので、新しく一本箱から取り出して咥える。今しがた吸っていた煙草の先端で、火を移す。
「…………」
吸い終わるのを契機に、話しかけようとしていたのだろう。女のまさぐる手が、一瞬止まった。
「……何?」
暇なので、訊く。お互いルールとして、極力スマホも開かないようにしているのだ。明かりは、駄目だ。
「私たち、すっごく身体の相性いいよね?」
「そうだね」
こう言うしかあるまい。僕の持論としては、相性なんてものは存在しないが。
「付き合っちゃう? なーんて」
疑問形にしているが、なーんて、との間に間が少ない。少しでも冗談めかすような、冗談と真逆な必死さがいじらしい。
「こんな顔でよければ?」
僕は振りむかず、肯定とも否定とも取れる言葉で返した。
女は、俯いてふふっと、笑うような息を吐く。僕の背中に息がかかる。
「ごめんね。シャワー浴びてくる」
戯言遊びを終え、女は立ち上がる。この流れでは、シーツを持っていけとは言いづらかった。重みのある足音を、背で聞く。
肯定と取れても、同じく醜い体を持つ彼女には、さっきの言葉が明確な否定であると伝わっただろう。鍛え上げて美しい体と、優れた下半身を持つ僕が、彼女のような豚を相手に性欲を発散しているのだから。
僕も彼女の身体を見たくないし、彼女も僕の顔を見たくない。マンションの前で着いたと連絡を受けた瞬間に、すべての電気を消してカーテンをしっかり閉めるほど、徹底しているのだ。