小説家になりたいというねごと
なんの制約もなく泳ぐのはかんたんであり、気楽なものだ。だけど何かの役に立つ泳ぎはそれなりにやり方ってもんがある。全力でめちゃくちゃに泳いだってなかなか前にはすすめないし疲れるばっかりだ。さて今日も5メートルほど泳ごうか。
本を読みながら泣いていた。いや、泣いていたのではなく涙を流していた。いや、涙が流れてしまっていたんだ。何度も訂正して申し訳ないけど。
少しまえに本を読みながら泣いたことがあった。それは記憶に新しい。その本はもともと「泣ける」と話題のそんな物語だった。さてそれはどんなものだろう、と興味本位で僕は検証でもするみたいにその本を読んでまんまと泣かされた。
でも冒頭で読みながら涙が流れてしまったと言ったその本はそういうものではなかった。現に僕が読んで涙がこぼれてその涙が頬をつたったページには悲しい出来事もなかったし、ましてや感動させるような思惑のシーンでもなかった。それは物語のなかの主人公や登場人物がただ日常的な会話をしたり、物語がすすむ過程でおこる普通の出来事が描かれたページだった。
よくよく考えると何で目に涙を溜めていたのかもわからない。文字が潤んで読みにくいったらありゃしない。涙だけならこぼれ落ちても頬をつたうだけなのでほっておけばいい。だけど涙と合わせて鼻水が出て、何度もはなを擤まなくてはならなかった。僕はその度に読んでいた本を開いたまま裏返しに置いて両手ではなを擤んだ。しかもティシュペーパーを切らしていて代替でトイレットペーパーを使った。あまりに見窄らしくてお粗末だった。だけど。
この場合鼻水ははなの涙だとおもう。目からこぼれる涙は美しく形容されることが多いが、はなからこぼれる涙を誰が美しいと言うだろうか。そもそも「こぼれる」なんて言わない。鼻水は汚くて、だらしなくて、みじめで、頭がわるそうで。そんな印象しか与えないようなのだ。
僕はそんな鼻からこぼれる涙を拭きながらその本を、購入した日の夜から眠りにつくまで読んで、翌朝起きてすぐに続きを読みはじめ朝がおわる頃には読みおえた。一気に読んでしまえる本にはそれなりの理由がある。いつも。
美しい文体だった。惚れ惚れする美しさだった。その美しさが僕には身に余る光栄におもえて涙があふれたのかもしれない。いや、その美しさと釣り合わない自分がみじめで涙があふれたのかもしれない。その涙の理由がなんなのかわからないままに、ただ押すと涙が勝手にあふれだすツボを誰かに指で押されっぱなしにされているように涙があふれてこぼれていた。
その本を読んで、これは自分には書けないなとおもった。少なくとも現在の自分には。一瞬終わりが見えたような気がしてこわくなった。自分には何もない、何ももってないじゃないか、そんなのそもそも知っていたことじゃないか、お前にできるわけねぇだろうが。自分のなかで揉め事がおこり一方が一方的に一方を罵倒していた。罵倒された一方はしょぼくれていた。美しい文体の素敵な本を読んだばかりだというのに、なんでこんなに罵倒されなくてはならないんだ、と不貞腐れて突っ伏していた。救いはその作者が僕よりいくぶんか歳上であることだった。それが救いというのは作者に対して恐れ多いことだし身の程知らずな言い方だ。でもそれくらいのことはわかっていながら、それでも前にすすむために「救い」と言ったんだ。
僕はこれから宇宙飛行士にはなれない。サッカーの日本代表選手にもなれない。どんなに死ぬ気で頑張ってもなれない。それは、時間を遡らなくてはならないことだからだ。〆切の過ぎた懸賞に何十枚何百枚のハガキを出したって当たる可能性はない。
だけど僕は小説家になりたいとおもっている。ずば抜けた才能もないしきらりと光る個性もない。この僕がだ。そんなことを言い出したら自分のなかでまた揉め事がおき、一方的に罵倒されることになるのはわかっているけれど。欲望は欲望として、口からこぼれおちたのだ。よだれのように。
寝言は寝て言えと言うけれど。
寝言で言った言葉は自分では確認が取れない。録音テープでも回していないかぎり。それが寝言だと言うのなら、寝てるふりして言うしかない。そもそも寝言は無意識に言うものだけれど、しっかりとした意識を持って寝言を言うしかない。
七夕の短冊に書くようなぼんやりとした願いじゃなく。
七夕の短冊に書くようなつよい意志をもった誓いのように。
ただ闇雲に泳いで、どこかにたどり着けるなら全力で泳ぎ続ける覚悟はあるのだけれど。僕はちゃんとした泳法を覚えなきゃならないのだとおもうんだ。溺れてしまわぬうちに。
阿倍カステラ