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花咲く灰色の乙女たち  作者: 多居志織
一章 灰色の乙女たち
1/2

― 1 ―

 茜さす逢魔が時、もう人もいないだろう学内の植物園。どうしてだかそこへ行かなければいけない気がして足を延ばすと、薬草園のガラスのドアの前にひとりの少女が佇んでいた。

 濃い金髪に碧い瞳。典型的なバレンリーベ人の特徴を色濃く受け継いだ少女は、ブラウスの襟元に赤いリボンを結んでいる。生徒、それも今日入学したての一年生だ。


「どうかしましたか」


 私に気付かずぼんやりと薬草園の入り口を見つめる横顔に声をかけると、びくりと彼女の肩が跳ねた。

 白いブラウスに赤いリボン、くるぶしまで覆う紺のロングスカートは揃いも揃ってレースのひとつもない簡素なもので。しかも、ずいぶんと着古したらしく色が薄れ、くたびれていた。

 主に貴族が通うこの学園で、現在そういう平民らしい服装をする生徒はひとりしかいない。

 確か、名前はラナといっただろうか。この国の平民に苗字はないので、彼らはどこの領土の誰々といった風に名乗る。入学前に一度だけ面通しした折に、ミンラディア領のラナ、と名乗っていたのを思い出した。


「ラナさんよね? もう暗くなるから寮へ帰ったほうがいいと思うけど」


 責めているわけではないと柔らかく言ったつもりで、しかし、彼女は怯えたように私から目を逸らした。


「せ、せんせい、ですか……?」


 上目遣いで私を窺う姿はまるで肉食獣を目の前にしたか弱い小動物だった。

 あまりの小動物っぷりに「怖くないよー、私は悪い先生じゃないよー」と思わず猫撫で声で言ってしまいそうになるのをぐっと耐える。


「ええ。シャーリー・アーベラインよ。担当教科は薬術」


 自己紹介をしながら私は目の前の薬草園のドアを軽く叩いてみせる。

 ここは私自ら播種(はしゅ)して育てた薬草の園、私の城だ。中には危険な薬草もあるので、鍵と魔術とで二重に施錠してあった。


「薬草園に何かご用?」


 危険な薬草の中には、若い娘が欲しがる惚れ薬の材料になるものもある。そういう意味であれば、ここへ誘われるように来てしまったのは虫の知らせというものだろうか。


「す、すみません。用なんて、たいそうなものじゃないんです」


 彼女の鈴を転がすような可愛らしい声が震えていた。

 睨んだつもりはなくとも、生来の鋭い自分の目付きが他人を萎縮――特に目下のものを――させてしまうのはよく心得ている。私はそれを払拭させようと、毎朝鏡の前で練習してなんとか会得した「柔らかな笑み」を浮かべて続けた。


「怒ってるわけじゃないの。別に夕方に植物園を散歩しちゃいけないなんて校則はないし、自由にしてもらっていいのよ。……ただ、ここはちょっとねぇ。他と毛色が違うから」


 学園の庭師たちが丹精込めて育てた色とりどりの花と樹木は誰の目をも楽しませる。その中心に建てられた白い柱の四阿(あずまや)は連日お茶会の使用予約でいっぱいだった。

 娯楽のための植物園の一角、東の端に作られた薬草園は周りとつり合いが取れるように鳥かごを模した洒落た外見だけど、私と一部の関係者以外の人間の立ち入りを禁じている。おまけに全体がガラス張りで中がよく見えるかと思いきや、それも魔術で作ったガラスに見栄えする風景を投影しているだけ。

 ここは他に比べてひどく閉鎖的で、排他的な空間だった。


「この時間なら四阿にだって誰も来ませんし。それに今は池のヒューレンがちょうど咲いたころでしょう? だから、どうしてこんなところにいるのかしらって」


 怖がらせてしまわないように慎重に言葉を選ぶ。そうしなければ、いつ壊れてしまうかもしれないという脆い印象を彼女から受けたからだ。


「こんなところなんかじゃないです。ここから見えるアーベイン先生の薬草園の中だって十分綺麗だと思います」

「……ありがとう」


 それ偽物だけど、とは言わないでおいた。


「それで、ただの散歩ってことでいいのかしら?」

「あ、はい。そうです……、こういうのって、変でしょうか」


 変、とはどういうことだろう。

 一瞬首を傾げかけて、けれど、すぐに合点がいった。彼女は今まで平民として暮らしてきたのに、いきなり貴族の集団の中に放り込まれたのだ。貴族の常識も作法も知っているはずがない。

 貴族から見てこの行動はおかしいのか、あるいは非常識じゃないか、と彼女は心配しているのだ。

 学園に務め、貴族のしがらみからずいぶんと長く離れていたせいか、私自身も貴族だったことをすっかり失念していた。夜会に行くこともなくなって、貴族の礼儀作法だの常識だのと面倒くさいものを思い出すこと自体久しい。


「大丈夫。おかしいことじゃありませんよ」


 夕暮れ時の散歩くらい、貴族もする。もっとも、お供の侍女なり執事なりを連れてだけど。


「よ、よかった……です。あたし、もしかして追い出されちゃうのかと思って」

「誰もあなたを追い出したりしません。確かに珍しいことですけど、ラナさんはちゃんと魔力をお持ちですから」


 魔力とは魔術を扱うために必要な力のことで、たいていこれを有してるのが貴族だ。

 由来を遡れば、国生みの神話にまでの膨大な年月を辿ることになる。ただ簡潔に言ってしまえば、我が国の貴族制度は、魔力持ちの人々を国が管理するためのものだった。

 この国の人間は魔力を持って生まれるものと、そうでないものに分かれる。

 普通の人間が作った作物に対して、魔力持ちが地を耕し、播種して作物を育てれば、それは魔力の宿った作物となる。栄養満点で腐りにくく、果物となれば糖度も高い。良い事ずくめの人種であるが、いかんせん、魔力持ちの数がどうしても少なかった。

 ただし、本人が直接農耕するより効果は薄まるけれど、種に魔力を込めたり、あるいは水に魔力を込めたりすれば、同じような効果が得られる。それを利用するために、国は魔力を持つ人々に貴族の位と領土を与えて土地に封じた。地方貴族、地方領主と呼ばれる人たちの末裔がそれだ。

 貴族とはすなわち、魔力を持たない平民のためにあるものだけど、彼らは魔力の血統を守るために貴族内で結束して婚姻を結ぶことが常で。それに人の上に立てば自然と気位まで高くなる連中も少なくない。

 そういうさまざまな事情で魔力持ちとそうでない人たちとの間に複雑な隔たりができて長かった。

 私もその貴族の一員だったけれど、今の立場はバレンリーベ王国魔術士官学校の教師。扱いは貴族ではなく国官だ。

 貴族は魔力を使い、民と土地を通して国に仕える。国官の場合は民と土地でなく、それぞれに与えられた業務だった。

 私は教師として生徒である彼女にもう一度「柔らかな笑み」でほほ笑んだ。


「学園内にいる間は、あなたも他の貴族の生徒も変わりません。当然、法律や校則に違反しなければ、不当な罰や、まして退学なんてありえませんよ」


 ほとんど貴族ばかりが持つ魔力。それでも、数十年に一度、突然変異的に平民の中にも魔力を持つ子どもが生まれることがある。魔力が弱ければ気付かれることなく一生を送ることもできるけれど、彼女の魔力はそうではなかった。


「魔力あるものは、そうでないもののために尽くす。だから(とうと)き一族と称されるのです。あなたも将来その一員になるために、ここで学ぶのですよ」

「アーベライン先生……!」


 そう言うと、彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

 この様子だとさっそく寮の方で何かあったんだろう。気位が高いのは何も大人たちばかりじゃない。


「散歩もいいですけど、もう陽も暮れてしまいます。そろそろ寮に帰るべきですよ」

「あっ……、はい。……そうですよね」


 一瞬で彼女の表情が曇った。

 可哀想に。これは相当な手合いに当たってしまったらしい。


「でも、あなた、ここですっかり冷えてしまったんじゃないですか」

「……えっ?」

「ここの勝手もよくわからないでしょうし、良ければ私のところでお茶でも召し上がっていきません?」


 生徒の気が安まるのなら、それくらいは手間でもなんでもない。そもそもこのまま彼女を寮へ返すのは気が引けた。


「そんな。あたし、平民だし、アーベライン先生に迷惑になるんじゃ」

「ラナさんの身分が、いったい何の迷惑になると言うのです」


 ぴしゃりと言い放てば、彼女の言葉が詰まる。

 ラナさんの言わんとすることはわかるけれど、さっきも言ったように学園内にいる間は貴族も平民もないのだ。


「何もラナさんを取って食ったりするわけじゃありませんから」

「は、はい」

「ほら、行きましょう」


 少なくとも私や教師たちは彼女を害することはないと知ってほしくて、私はまだ怯えの色が消えない彼女の腕にそっと手を伸ばした。

 そうして、指先が彼女に届いたその刹那、ばちりと耳元で音が爆ぜた。


「っ!?」


 それは魔術で電撃を走らせたような音に似ていた。けれど、私の頭のすぐそばで発動したかと思うほど近くに聞こえたのに、不思議と痛みも衝撃もない。代わりに、目の前がチカチカと明滅した。

 声を上げる間もなく、次の瞬間には瞼を閉じたように目の前が暗くなる。

 状況がまったく掴めない。さっき触れたラナさんの腕の感触だけがかろうじて指先から伝わる。彼女は少し触れただけでわかるくらいに震えていた。

 ――ラナさん!

 叫んだつもりで、だけど声は出なかった。

 ひょっとして、学園で何か起こったのかもしれない。反国王派の不穏分子の噂は聞いたことはあるけど、まさか学園が攻撃されるなんて思ってもみなかった。

 見えない、けれどそこにいるはずのラナさんの腕を私はとっさに掴んだ。

 私がいるから大丈夫だと励ましたい。その思いで力を込めると同時に酷い耳鳴りが響いて、とっさに目を閉じてしまった。

 本当に何が起こっているのだろう。わからないまま混乱しているうちに、突然走馬灯のように私の脳裡にいろんな情景が浮かんできた。

 車の行き交う交差点に、繁華街の喧噪。電線が這う空には飛行機雲が尾を引いていく。夜になっても明かりの絶えない町。

 頭に浮かんだのは、そんな()()()()()()()()光景だった。

 だけどこれは、この世界のものじゃない。

 ここではない場所、ここではありえない文化。私が、シャーリー・アーベラインが、見たことのないはずのもの。

 まるで遠い異国の御伽噺のようなその世界の映像が、けれど、どうしようもなく自身の記憶であると胸の奥底が叫ぶ。

 地球、日本、京都。古いものと新しいものが混在する旧首都。それこそがシャーリーになる以前の私の世界のすべてだったのに。

 懐かしさが浮かぶと同時に、胸に淡い痛みを覚える。感傷かと思ったが、それも違うように思えた。

 痛みのもっと深いところに何かがあるような気がして、けれどそれがなんであったかまでは思い出せない。


「せん、せ、え……?」


 呼ばれた瞬間、ぱっと目前に光が戻った。

 先生、と金髪碧眼の少女が私を何度も呼んでいる。

 ――今の私は、シャーリー・アーベラインだった。

 バレンリーベ王国魔術士官学校の薬術教師、シャーリー・アーベライン。それが今世の立場と名前だ。


「っ……」


 呼ばれてハッとすると同時に、自分の目頭が熱くなっていることに気付く。いつの間にか目尻から溢れていた雫を慌てて拭った。


「あの、大丈夫ですか?」


 遠慮がちに尋ねた声に応えて頭を上げれば、夕陽に照らされた彼女の(まなじり)も濡れている。


「あなたこそ、大丈夫?」

「えっ」


 指摘されて初めて気づいたように少女は自分の顔に手をやって、混乱しながらもそれを拭いた。


「すみません、どうして……、わた、し……、わたし?」


 制服の袖で乱暴に拭い取っても、彼女の目から次から次へと涙が溢れて止まらず、大粒の雫が浮かんでは頬を伝い落ちた。

 それを見ているうちに、いつしか彼女と同じように私の目に再び涙が浮かんでいる。涙が一粒流れるたびに古い記憶が頭の中を駆けていく。


 ――前世の終わりは、ガンだった。気付いた時には末期で、余命数ヶ月もないと告げられた。なのに、そんな状態で彼女が覚えたのは、やっとか、という安堵と心の平穏で。

 短命願望、とでも言うのだろうか。

 まだ三十代に足を踏み入れたばかりだというのに、私は焦りもなくあっさりとそれを受け入れてしまった。己の死に臨んでいるというのに、鎮痛剤で苦痛を和らげられたのが幸いとばかりに病院のベッドで安らかなままに呼吸が止まった。

 そんな最期だったからか、そこまで思い出したというのに胸の内に浮かんだのは悲観ではなく、むしろよろこびで。それがわかった瞬間、ぼろぼろと流れていた涙が嘘のように止まった。

 どうしてそんなことを思い出したのかはわからない。ただただ、その記憶が私自身のものだという確信だけがあった。

 記憶から得た知識に寄れば、これが前世というものなんだろう。前世の記憶が、今世の私の頭に蘇った。馬鹿げた話だけど、そう結論付けるより他にない。

 それよりも気になったのは、未だに袖口を濡らし続けるラナさんのほうだ。同じように泣き始めたのに、彼女が泣き止む様子はない。

 何かを追うようにときおり瞳が動くけれど、それ以外は呆然として涙を流し続けるばかりで。


「……あなたは大丈夫じゃないね」


 私は苦笑しながら彼女の頬を伝う涙をそっと指ですくった。


「す、すみません。ありがとうございます」

「気にしないで」


 それでもまだ彼女の嗚咽は止まらない。

 人がいない場所でよかった。陽の沈み始めた植物園に教師も生徒の姿もない。しょっちゅうお茶会の開かれる白い柱の四阿も今では冷たいテーブルとイスが佇むばかりだ。

 もし他人が見ていれば、教師が生徒を叱って泣かせてしまったのだと誤解されかねない。教師が平民の子を不当に叱っている、なんて噂が出回ったら互いのためにならないのは明らかだ。


「ごめんなさい。こんなに、泣いてしまうなんて」


 謝りながらも彼女は肩を震わせてしゃくりあげている。


「大丈夫。大丈夫だから、ね?」


 あやすように言いながら、私は彼女の腕をさすった。

 だけど、手が触れ合っただけで彼女がこんなに泣く理由が私にはわからない。私と彼女は、入学前に一度軽く面通ししただけの教師と生徒でしかなく、泣かれるまで嫌われてしまうような言葉を彼女と交わす時間さえなかった。

 それでも、もしかして、とひとつだけ思い当たることがある。

 彼女と手が触れあった直後に見た、あの風景。前世の記憶を、彼女も見たんじゃないだろうか。


「ねぇ、ラナさん。もしかして」


 口にするにはどうしようもなく滑稽な言葉に思えた。けれど、もうそれ以外に彼女の涙を止める手立ては思いつかない。


「何か……、その、前世の記憶とか、思い出したんじゃない?」

「……っ」


 どうやら図星だったらしい。彼女は息を飲んだあとにゆっくりと頷いた。


「耳元で何かが弾ける音がしたかと思ったら、急に見たことのない景色が頭に浮かんだんです。でも、その景色はわたしの記憶だと思えて仕方ないんです」


 確信はある。だけど、こんなありえない話を人にしてもいいものかと戸惑うように声が揺れていた。


「……おかしいですよね。だけど、どうしてもそうとしか思えなくて」

「大丈夫。私もだから」

「先生も?」

「うん」


 見間違うはずがない、生まれてからずっと見てきた地元の景色。誰が何と言おうと、あれは私の記憶だ。


「じゃあ、先生も日本人だったのかしら?」

「待って。じっくり話す前に場所を移さない? 冷えてきたのも本当だけど、誰かに聞かれるのもまずいと思うから」


 どんな理由があっても、「前世」なんて言葉の胡散臭さは拭えない。

 第三者が聞けば、私たちふたり同時に何か悪い魔術か呪いでもかけられたんじゃないかと勘違いされてしまうんじゃないかと思う。

 それが伝わったのか、彼女も神妙な顔つきになって頷いた。

 行先は、教師寮の私の部屋でいいだろう。ラナさんの部屋は他の生徒もいる寮だし、教師が生徒個人の部屋に立ち入るのは悪目立ちが過ぎる。

 教師寮は学園の北西にあって、今は私を含めて四人の教師がそこに住んでいた。寮と言っても、外見は赤レンガの荘厳な洋館で、教師四人とそれぞれが雇っている召使い何人かが住んでもまだ部屋数があまるほど大きい。

 玄関に入った時点で誰かの女中(メイド)従僕(フットマン)と鉢合わせたが、何か尋ねられる前に私の部屋まで早足に駆けた。

 私にもひとりだけ侍女がいるけれど、幸いなことに、彼女は私のお使いで町に出ている。

 部屋の鍵をかけた上に、念入りに防音の魔術を施せばもう誰に邪魔されることも、誰かに会話を聞かれることもない。


「お茶も出せなくてごめんね」


 侍女もおらず、しかもこの時間の厨房は夕食の準備で忙しくて入れない。それを謝りつつイスを勧めると、彼女はやんわりとかぶりを振った。


「いえ、どうかお気遣いなさらないでください。それより、お話の続きをしませんか」

「うん、そうしようか」


 丸テーブルを挟んで彼女の正面に座る。改めて見たラナさんの顔は、心なしか前世を思い出す前の彼女と印象が違って見えた。

 私の顔色をうかがう様子も、うっかりすると壊れてしまいそうな脆い印象もすでにない。口調は少しおっとりしたけれど、言葉遣いがより丁寧になっているし、なにより、決して私から視線を逸らすことはなかった。


「何から話そっ……、話しましょうか」


 反面、私の言葉遣いは純粋なシャーリー・アーベラインだったころより砕けていた。彼女の口調の変化に気付いてから無理矢理に修正して続ける。


「ええと、ラナさんも日本人なんですよね?」

「はい。生まれてからずっと京都に住んでおりました」

「京都に? 私もです」

「まあ、奇遇ですね。京都のどのあたりにお住みだったんですか?」

「京都市内に、いました」


 一瞬、個人情報がどうのこうのと頭をよぎって詳細を省いてしまったけれど、もう使われることのない個人情報にどんな価値があっただろう。まして住所まで言ってわかるのは、目の前のラナさんしかいない。

 それに細かく言えば、もしかしたら前世ですれ違うくらいはしていたかもしれないのに。

 私は慌てて続けようとして、けれど、先に口を開いたのは彼女だった。


「わたしも市内でした。ただ、老後は静けさを求めて左京区の方へ越しましたけど」

「あ、私も左京区に……。え、待って。……え? ろ、ろうご……?」


 言いながら声が震えて、言わんとしていたことが引っ込んだ。

 私より見た目の若い、それこそ干支が一回りほど違う少女の口から、まさか「老後」と違和感しか感じない言葉が出てくるなんて。


「ええ。結局、最期はいくつだったかしら。八十まではちゃんと数えてたんですけど、あとはもう嫌になってしまって」


 私の祖母も八十歳の誕生日を境にバースデーケーキはもう結構だのと言っていたので、きっとそういうものなんだろう。


「けっこうなご長寿だったんですね」

「そうなんですよねぇ。その頃は孫と一緒に住んでおりまして……」


 そこまで言って、彼女は何か懐かしいものを思い出すように視線を宙へ向けると、ふふ、と上品に笑った。


「そう言えば、ここはまるで乙女ゲームみたいなところですね」


 ――ん?


「あの……」

「あ、すみません。わたしは孫と一緒にやってたんですけど、こういうのは好きな人じゃないと知らないものでしたね」

「い、いえ、乙女ゲームくらい知ってます」


 むしろ死の間際に未練を残したくなくて遊びまくってました。

 ただどうしてそれが八十歳オーバーのおばあさんの記憶に残っているのかが不思議で……。

 言葉にすることのできない淡い期待が浮かぶと同時に、それを否定する不安を覚えた。


「……一緒に住んでたお孫さんと、乙女ゲームで遊んでたんですか」

「はい。年甲斐もないと思われるでしょうけど、わたしのほうが楽しんでしまって……。ふふっ……、孫が勤めに出てる間に全部クリアして叱られる、なんてこともありました」


 ――んん??


「か、かなり好きだったんですね……、乙女ゲーム」

「そうですねぇ。絵もきれいで、お話も面白かったですし。素敵な男の子に、素敵な声がついているでしょう? それで愛の告白をしたり、かっこつけてみせたりしてくれるのが微笑ましくて」


 キャラが良いのも、読み物としても楽しいというのはすごくわかります。


「それに、ギャップって言うんですか、二面性を見せてくれる男の子が特に好きで。物語上で、わたしの前でだけ堪えるように涙を見せてくれる場面なんて、とても耐えられなくて、気付いたらわたしも泣いてしまって」


 ――わかる。めちゃくちゃわかるけど、待って。その語りを少し待ってほしい。

 背中をぞぞと期待の念が這い上がる。それが私の喉元へと手をかける頃、不安はすでに鳴りを潜めていた。


「この男の子のこと、他の誰より好きだと孫に言うと、それが『推し』っていうものだと教えてくれたり」

「推し……」

「ええ、『推し』とか、『尊い』とか。ゲームだけでなく面白い言葉までわたしに教えてくれて。……孫は、現実の男性こそ連れて帰ってはくれませんでしたけど、一緒にいるとわたしまで若返ってしまうようなことばかり教えてくれる子だったんです」


 彼女はいたずらっぽく笑いながらゆっくりと碧い双眸を閉じて、再び開く。


「本当に、晩年を孫とふたりで過ごせてよかったわ」


 呼吸と一緒にしみじみと吐き出された声はどこまでも優しくて。


「あの……、お名前を、教えてもらってもいいですか」


 震える唇をなんとか抑えて言葉を紡ぐ。

 どうして、最初にこれを訊かなかったんだろう。名前なんて今となっては意味がないとでも思っていたんだろうか。


「あら、ごめんなさい。そう言えば、名乗ってなかったわね」


 優雅に振り向いた姿は、私の前世のある人の記憶と重なった。


「前の名前は、高里房江(たかさとふさえ)といいました」


 その名前が胸の奥へ突き刺さる。

 鼻先がつんとしたかと思うと、次の瞬間には堰を切ったように涙がぼろぼろと溢れた。


「……おばあちゃん」

「あら、あなた……、もしかして――」


 ずっと前に亡くなったはずの祖母が、当時とは違う声で私の名前を呼ぶ。

 京都、左京区の奥地で高齢の祖母にボケ対策と称してゲームを教え、齢八十五歳のときに乙女ゲーム沼へと見事に突き落とした。

 さらにゲームだけに飽き足らず、最終的にはBL、百合もおいしく頂けるような立派な超高齢オタクを爆誕させてしまったのが私、シャーリー・アーベラインの前世である。


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