復讐の朱(3)
翌日、田中という男はツインタワービルに来ていた。
帝都の東端に位置するミナト区にそのビルはある。
ミナト区はリニアモーターカーが停車するギガステーションがあることや、千葉県が東京湾を挟んであることから、帝都でも三本の指に入る大都市だ。
帝都最大の臨海公園を見下ろすように立っている通称ツインタワービル。正式名称は黄昏の塔というが、その名前はあまり知られていない。
ツインタワービルはノースとサウスに分かれる一〇〇階建ての双子ビルだ。帝都でもっとも夕焼けが綺麗に見える場所としてデートスポットになっているほか、ノースビルはショッピングビルとして機能しているため、観光マップでも大きく取り扱われている。
ノースビルには帝都で一般的に買える物ならば、全て取り揃っていると言ってもいいだろう。もちろん武器も売っている。
サウスビルは企業ビルである。このビルの46階に電脳妖精のオフィスはあった。
アポイントメントは取っていない。
田中は受付の女性を一瞥すると、さもその行動が当たり前のように、奥の部屋に入ろうとした。
「勝手に入られては困ります!」
受付の女性がカウンターから飛び出し、田中の前に両手を広げて立ち塞がった。
「所長の真さんにお会いしたいのですが?」
「アポのない方は困ります!」
「そこをなんとか」
「紹介状の提示と身元調査をパスした方しか依頼は受けない方針です」
「そこをなんとかなりませんでしょうか?」
粘り強く受付嬢に迫るが、どうにも折れそうにない。
田中は受付嬢から目を離し、天井の隅に取り付けてあるカメラに顔を向けた。
「某生命科学研究所の情報を手に入れられるのは、ここだけだと聞いてきたのですが?」
答えはすぐに返ってきた。
スピーカー越しに男の声が聴こえる。
《その人を通してあげて》
おそらくこの声の主が真という名の情報屋だろう。
受付嬢にドアを開かれ、田中は奥の応接室に通された。そこにはインテリ風の女性がソファの横に立っていた。
「秘書の倉敷と申します。どうぞ、そこにお掛けください」
秘書に促されて田中は座り、すぐに向かいのソファに座る――というか浮いている丸い球体に目を奪われた。
ソフトボールほどの球体にはカメラが内蔵されていた。
噂どおりだ。
真はクライアントの前にいっさい姿を見せないらしい。今、目の前に浮いている球体が真の代わり、真が操っているのだ。
球体から声がした。
《生命科学研究所とは、カミハラの研究所のことかい?》
「そうです。とあるデータを入手していただきたいのです」
《仕事を請けるかどうかは、君の身元調査をしてからだな。名刺をいただけるか?》
田中は名刺を差し出し、球体がスキャンを終えると、速やかに秘書が名刺を受け取った。
「少々お待ちください」
と、秘書が言ってから1分ほど経ち、球体から声が聴こえた。
《20××年生まれ38歳、子供は二人か。身元に疑問はないが、生命科学研究所のどのデータが必要なのかい?》
「ウィルス情報です。脅威の再生力を人に与える代わりに、人を異形に変えるウィルスです。先日、帝都警察がマドウ区で感染者を捕獲したと噂があります」
《あれのことか、多くの企業がすでに動いているらしいな》
すでにウィルスについてある程度の情報は握っているらしい口ぶりだ。
「過去にも同じようなウィルスが事件を起こしたらしいのですが、その過去について詳しい情報を手に入れてもらいたいのです」
《ならば生命科学研究所にこだわる理由はないように思えるが?》
「別にこだわってはいません。生命科学研究所以外からも情報を集めてもらいたいのですが、多くの情報を持っているのはあそこだと思います」
《調査はしよう。ただし、手に入れた情報を君に渡すかは、君の素性を詳しく調べたあとだ》
真は言葉を付け加えた。
《もうひとつ、生命科学研究所のデータを手に入れられる可能性はゼロパーセントに近い》
「やはり帝都ナンバー1の情報屋でもあそこのデータを手に入れるのは難しいですか……」
ナンバー1が手に入れられないのならば、ナンバー2以下は不可能に思われる。帝都は何事にも変動の激しい街だ。情報屋のランキングは常に変動する。その中にあって不動なのはただひとり、ナンバーワンの真のみなのだ。
しかし、真は少し不快そうな態度をした。
《失敬だな。生命科学研究所のデータを手に入れるなど、眠っていてもできる。だが、現状では難しいだけだ》
「なぜですか?」
《数日前から生命科学研究所の全データが外部から遮断されたからだ。僕はネットワーク専門の情報屋だからな。人を介して情報を手に入れるのは得意ではない》
人を介す情報収集が得意ではなくても、帝都ナンバーワンを不動にする。それはいかに今の時代がネッワークと密接に繋がっているかを現している。
「どうして外部から遮断されたのですか?」
《ハッキングさらたからだ》
「えっ?」
田中は思わず驚きの表情を露にした。
帝都ナンバー1以外にも、生命科学研究所にハッキングできる人物がいるとうことか?
《もちろんハッキングしたのは僕じゃない。足が付くような真似はしないからな》
いったい誰がハッキングしたのか、真には心当たりがあるようだった。
《僕と対等に張り合えるハッカーはひとりしか知らない。ルシフェルというHNの人物だ。あの場所にハッキングできるのは僕かあいつくらいのものだろう。ただし、あいつの犯行にしては雑だ。あいつは僕以上に証拠を残さないタイプだからな》
では別の人物がいるのか?
ソファの横に微動だにせずに立っていた秘書が動いた。腕時計を確認したようだ。
「所長、次のクライアントがそろそろやってきます」
《そうか、では今日のところはお帰り願おう》
田中は球体に頭を下げた。
「依頼の話、どうぞよろしくお願いします」
《依頼は請けんよ。調査はするがな》
「はい?」
《君の身元が怪しいからだ。君は3時間前に死んでいる》
「さすがは帝都ナンバーワン、もうお調べになりましたか。なら仕方ありません、では失礼します」
田中は再び頭を下げて応接室をあとにした。
オフィスを出た田中はしばらく歩き、突然糸が切れた操り人形のように崩れた。すぐ近くにいた人が脈を測るが、死んでいた。
田中という男は、3時間前に死んでいたのだ。
帝都ナンバーワンの助けは諦め、愁斗はいつもどおり自ら情報集をした。
ルシファーというHNの人物は、サイバーフェアリーと同時期にネットを賑わした伝説のハッカーだ。ただし、サイバーフェアリーに比べ、世間での認知度は低い。なぜならば、サイバーフェアリーが大胆であり、クラッカー寄りであるのに対して、ルシフェルは自らの存在を公にせず、忍び寄る影のようにハッキングをするのだ。
のちにサイバーフェアリーは帝都公安に逮捕され、その正体が明るみ出たが、ルシフェルの正体は未だに謎のままだ。
キーボードを打つ手を止めて、愁斗は真っ暗な部屋で瞑想した。
廊下を歩く音が微かに聴こえた。
足音は愁斗のいる部屋の前で止まった。
ノックの後に声がする。
「愁斗さん、お時間よろしいでしょうか?」
伊瀬の声だ。
静かに愁斗は瞳を開けた。
「はい、少し待ってください」
愁斗は椅子から立ち上がると、部屋のドアを開けて廊下に出た。
見上げた伊勢の顔は気難しそうだ。
「何のようですか?」
「帝都警察が麻薬の一斉摘発をしようと集会所に乗り込んだところ、大変な自体が起こりました」
「どんな?」
「あの新型ウィルスの巣窟になっていたそうです。加えて感染者全員がDNDの復元モデルに変身してしまったとか……」
通常の異形と化した感染者よりも、あの妖女に変身した方が厄介なのは先の戦闘で証明されている。それもその場にいた感染者が、全員あの妖女になるとは、帝都警察も装甲車両を呼ばなくてはならないかもしれない。
しかし、愁斗はこう考えている。感染者が妖女に変じた存在は、あくまでオリジナルではない、オリジナルの能力を持っていない。
プレッシャーが違うのだ。はじめて遭った妖女と、二度目に出逢った妖女は各が違う。若者たちが踊り狂っていたあの場所にいた妖女こそが本物だろう。
偽者の相手などしていられない。オリジナルのホストを一刻も早く探す必用がありそうだ。
オリジナルを探すといっても、どこにいるのかわからない。まずは事件現場に向かうのがいいだろう、と愁斗は考えた。
「事件現場はどこですか?」
「マドウ区です。マップを愁斗さんのPCに転送しますね」
「ありがとうございます」
礼を言って愁斗はさっそく部屋に引きこもった。
代わって部屋から飛び出した紫苑が現場に向かう。
マドウ区は女帝のお膝元とも云われ、魔導産業で栄えた街だ。
外から魔導師たちの移民も多く、居住地区と産業地区に分かれている。居住地区の一角は魔導成金の屋敷が立ち並び、ゴシックやバロック建築などの芸術性に富んだ屋敷も多く見られる。
紫苑がやって来たのはマドウ区がもっとも魔導区らしい場所。
毒々しい紫や桃色の煙を立ち昇らせる煙突や、危険な香りを孕んだ空気。
排水溝で弾けた気泡は悪臭を放ち、スライムに酷似したブラックウーズが溝から外に這い出す光景も見られた。
この場所に魅入られる魔性は人だけはない。妖物もまたしかり。
紫苑がやって来たのはマドウ区の北東に位置する場所だ。この場所は帝都中枢ミヤ区と住宅都市カミハラ区が隣接し、少し先には大都市ホウジュ区がある。マドウ区の入り口であることから、マドウ区特有の文化はあまり見られない。
が、ホウジュ区、マドウ区、ミヤ区を結ぶ通称『HMMトライアングル』地帯であるこの場所は、犯罪率、妖物出現率が帝都でもトップクラスの場所だ。
複数の銃撃音や小型マシンバルカンの連射音が聴こえた。
場所は工事現場手前の二車線道路だ。
工事現場からぞろぞろ出てくる偽妖女を相手に、機動警察が攻防戦を繰り広げていた。
銃弾を妖女たちの身体を貫通するも、傷痕は一瞬にして塞がってしまう。
陰から様子を窺っていた紫苑は、工事現場の中に入るチャンスを窺っていた。
あの中から偽妖女が出てくるということは、その先に本物がいる可能性がある。
たしかあの工事現場は数年前から廃墟と化していたはずだ。度重なる呪いにより工事が中断し、撤退した業者が売りに出したが買い手が付かず、今は反社会的な者たちが集まる溜まり場になっているらしい。
銃弾の雨が降る中、紫苑が装甲車の真上を飛翔した。
幾線もの煌きが奔り、偽妖女たちの肉体を切り刻み、血の海を紫苑は越えた。
数え切れない銃弾を躱そうとするも、背中に浴びる銃弾の数は数知れない。それでも紫苑は先を急いだ。当たり所が悪くなければ問題はない。
工事現場の資材を尻目に紫苑は建築中のデパートに乗り込んだ。
湧き出る偽妖女をなぎ倒し、地下の駐車場を目指した。その場所から偽妖女が湧き出している。
地下に鳴り響く紫苑の足音が止まった。
偽妖女に囲まれて経つ妖女。プレッシャーが他の妖女とは違う。
「また会うたな」
玲瓏たる妖女の声音。
本物だと紫苑に核心させた。
ならば紫苑は訊かなくてはならない。
「おまえに訊きたいことがある。蘭魔について……」
「憎き男……蘭魔。妾から片腕を奪い、屈辱を与えられた。妾は蘭魔に復讐するために現世に蘇ったのじゃ」
生成しない片腕は類稀なる神技の成した業。傀儡士である愁斗の父――蘭魔が放った妖糸によるものだったのだ。
因縁を感じた紫苑の口はおのずと開いていた。
「もし、私は蘭魔の血縁だと言ったらどうする?」
妖女に戦慄が奔った。狂気に歪む般若の形相。怨みと怒りが、妖女の口元から鋭い乱杭歯を覗かせた。
「腸を抉り出し、全身の血を啜り、最後は八つ裂きにしてくれる!」
妖女が従えていた偽妖女が一斉に紫苑に飛び掛る。
紫苑はすでに見抜いていた。
繊手から放たれる輝線は偽妖女たちの頭部を狙っていた。いや、性格には頭部ではなく脳だ。
脳を破壊された偽妖女は生成プログラムを誤作動させ、ぶよぶよの肉塊へと変わっていく。最初に偽妖女と戦ったときと同じ現象だ。
たちまち辺りは肉塊だらけになってしまった。
立っているのは紫苑を妖女のみ。
「おのれぇッ!」
狂気に腸を煮え繰り返す妖女は長い爪を向けて紫苑に飛び掛ってきた。
動じぬ紫苑は一線を繰り出した。
妖女の脳天から股に紅い線が滲んだ。
次の瞬間、ずるりと妖女の躰が縦に割れたのだ。
地面に崩れる妖女を見下す紫苑。
しかし、まだ終わっていなかった。
妖女は紫苑を見て割れた顔でニタリと嗤った。
割られた躰の断面から細い繊維が伸び、絡まる繊維が二つの躰を結びつけた。
そして、妖女は脅威の復活を遂げたのだ。
斬られたのは着ていた服のみ。
妖女は斬れた服を脱ぎ捨て、生まれたままの裸体を紫苑の前に晒した。
「妾を甘く見るでない。汝の業など痛くも痒くもない」
紫苑の業が効かない。
果たして紫苑に勝ち目はあるのか?
そのときだった。
静かな囁きが地下に響いた。
「シャドービハインド」
刹那、紫苑は背後に気配を感じ、銃声が地下に木霊したのだった。