傀儡館(下)
玄関ホールにアリスの姿はすでになかった。
それどころか、屋敷の中は人の気配がしない。
今まで会った三人以外にも人が住んでいるのではないのか?
それとも、屋敷が広いためなのか?
これだけ静かだと、まるで廃墟のように不気味だ。
息遣いを荒くしながらアヤはこの屋敷の主――紫苑を探すことにした。
この屋敷全員がグルになっているか、それとも個人で屍体を運び出した奴がいるのか、それはまだわからないが、主人である紫苑を問い詰めるのがよいだろうとアヤは考えた。
主人の部屋はどこか?
目ぼしい部屋を探してアヤは廊下を進んだ。
――いた!
廊下の先で愁斗と紫苑が歩いている。
すぐにその後を追ってアヤは廊下を左に曲がった。
曲がった先の廊下には誰もいなかった。
辺りを見回すと、近くのある部屋のドアは左右に二つ。どちらかに入った可能性は高い。
アヤは若干、自分との距離が近かった左のドアを開けた。
部屋に入った拍子にインクの臭いが鼻を衝く。
壁際に並べられた本棚と、座り心地の良さそうなロッキングチェア。どうやらここは書斎らしい。
部屋の中心に立ってぐるりと周囲を見回していると、アヤの耳が微かな音が捉えた。それはモーターが駆動しているような音だった。
小さな音でどこから聴こえているかわからない。
部屋をゆっくりと歩き回り、音のする方向を探した。微かな音過ぎて、近づいているのか遠くなっているのか、はっきりしないまま、音はいつの間にか聴こえなくなくなっていた。
音の発生源は別の部屋だったのかもしれないと思い、アヤは向かいの部屋に駆け込んだ。
前の部屋よりも濃いインクの臭い。
本棚は壁際だけでなく、部屋中に並べられていた。書斎ではなく書庫が適切だろう。この屋敷の主は随分と読書家らしい。
書庫に入ったときからアヤは今まで感じなかった気配を感じていた。
人が近くにいるのか、それともこの部屋になにかあるのか?
アヤは本棚を観察した。
分厚い皮の表紙の本。中を開いてみると、何語で書かれているのかすらわからない文字が羅列していた。頭が痛くなりそうだ。
隣の本も取って中身を調べると、幹が枝分かれした樹木に数字や文字らしきものが描かれていた。これはカバラと呼ばれる秘術の秘奥を表したもので、セフィロトの樹と呼ばれるものであるが、そんなことをアヤが知る由もない。
この書庫にある本のほとんどが魔導書の類であったのだ。
書庫を少し歩き回ったが、ここには誰もいないらしい。
アヤは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた瞬間、ドアの手前に床の上を横に引きずったような跡を見つけた。
横に入った跡はドアの手前を通り過ぎ、少し視線を延ばしたところにある本棚の側面に繋がっていた。床を引きずった跡は本棚の下まで続いていたのだ。
その本棚に目を付けたアヤは力いっぱい本棚を横にずらそうとした。だが、いくら力を入れてもびくともしない。ただ重いだけなら揺れるくらいしてもいいものだが、全く微動だにしないのだ。本棚は固定されているように思えた。
動いた痕跡があるということは、どうにかすれば動くはずだ。
アヤは昔に見た二時間ドラマを思い出した。書斎の本棚に閉まってあった本のひとつが、本棚を動かす駆動スイッチになっているというもの。
それを思い出したアヤは本棚の本を全て掻き出そうとした。
次から次へと乱暴に本を床に落とし、一番隅にあった本を出そうとして手が止まった。今までと違う感触がしたのだ。
一呼吸を置いて、その本をゆっくりと手前に傾けると、どこかでモーターか歯車が駆動するような音が聴こえた。
眼を見開いたアヤの前で、本棚が左に動いていく。
そして、本棚の裏から隠し階段が現れたのだ。
迷わずアヤは薄暗い階段を下りた。
螺旋状の階段を下りていくと、その向こうから光が見えた。
テーブルの上に火の点いたランプが置かれている。つまり、近くに人がいるということだ。
しかし、人の気配はどこにもない。
テーブルの上には、用途のわからない物が置かれていた。
理解できる範囲の物はフラスコやビーカーなどの実験器具。
なにかの研究をしていたとも考えられるが、アヤは台に置かれているモノを見て不快感を顔で表した。
台の上には息をしていないようすの小動物が置かれていた。解剖実験でもしそうな感じだが、その類のメスなどの器具はなく、代わりに小動物の下には円形の紋様が描かれていた。不気味さを感じずにはいられない雰囲気だ。
他にも部屋の中にはいくつかの箱があった。
それが柩だと気づいたアヤの背筋を冷たい風が撫でた。
柩の数は三つ。
この中に車のトランクから消えた屍体が?
そう考えた途端、アヤは自分が柩に入っている映像が瞼の裏に浮かび、躰を震わせてゾッとしてしまった。自分もこの中に入れられる運命かもしれないと考えてしまったのだ。
アヤは震える手を抑えながら柩の蓋に手を掛け、ゆっくりと蓋を横にずらした。
「ィヤッ……」
思わずアヤは小さく叫びを漏らしてしまった。中で全裸の女性が眠っていたのだ。だが、よくよく見ると、それがヒトではないとわかった。
肌の質感は人間そのもの、姿かたちも本物から型を取ったように精巧にできている。よくできてはいるが、関節の繋ぎ目に線がある。作り物の人形だ。
等身大の人形を柩になんて……と、アヤは思い、ハッとして脳裏にアリスを浮かべた。だが、思いついた疑惑も、そんな馬鹿なと思い直した。
残る二つの柩を開けてみたが、やはり中には人形が入っていた。
他の物を探そうとアヤは辺りを見回した。
点いたままのランプがあるのに、人の姿が見当たらない。
もしかしたら、まだ隠し扉のような物があるのかもしれない。
アヤは部屋の奥にある大きな鏡に惹かれた。
高さは二メートル以上、横幅はアヤが両手を広げたくらいある。
何気ない気持ちでアヤが鏡に触れた瞬間、その手が鏡の中に吸い込まれ、倒れるようにして鏡の中へ入ってしまったのだった。
倒れたアヤは自分が乾いた大地に横たわっていることに気づいた。
ここはどこだと思考を巡らすよりも早く、恐ろしい呻き声がアヤの鼓膜を振るわせた。それもひとつではない。多くの餓えた獣のような呻き声が、そこら中から聴こえてきたのだ。
すぐに立ち上がろうとしたアヤの前に、赤黒く大きな影がのしかかってきた。
鋭い牙を剥いた怪物がアヤに噛み付こうとしていたのだ。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
甲高い叫びがあがり、首が落ちた。
アヤの首ではない。
鬼のような顔をした怪物の首が、不可視のなにかで斬られ、地面にずり落ちたのだ。
真っ赤な血が吹き上がる頭のない身体を、放心しながらアヤは見つめた。
いったいなにが起きているのか理解できない。
闇色の風が叫び声をあげながら吹き荒れ、怪物たちを喰らっていく。
その中に見覚えのある二人がいた。
世話しなく両手を動かす愁斗と、手から輝線を放つ仮面の女――紫苑。
二人が群がる怪物たちと戦っているのは一目瞭然だった。
愁斗が立ちすくむアヤに顔を向けて叫ぶ。
「地面に伏せて動くな!」
愁斗の手が素早く動き、煌く線が宙に幾何学模様を描いた。
「傀儡士の召喚を観るがいい、そして恐怖しろ!」
魔法陣の『向こう側』で〈それ〉が呻き声をあげた。
あまりに恐ろしい呻き声にアヤは耳を塞いだが、その呻き声は脳に直接響き渡っているように躰の中を侵食した。
〈それ〉の呻き声によって、地震が起きたように地面が激しく揺れ、石巨人がこの世に創り出された。
地面の岩肌が盛り上がって形作った石巨人の数は五体。
全長五メートルを超える石巨人の拳が風を唸らせながら横殴りに振られた。
拳に当たった怪物たちはドミノ倒し式に倒せれ、気がつくと石巨人たちはアヤたちを守るように囲んでいた。
「今のうちに逃げるぞ!」
愁斗が叫びながらアヤの腕を掴んで立たせた。
引きずられるままにアヤは巨大な扉を抜けて、まるで夢が覚めたように現実に戻された。
気がつくと、そこはあの隠し部屋だったのだ。
アヤの後ろには鏡がある。
この鏡が〈ゲート〉であり、あの地獄のような場所に繋がっていたのだ。
そして、アヤは愁斗と紫苑が人間ではないことを思い知らされた。
あんな場所で怪物たちと戦う二人を人間と言えるか?
蒼い顔をしたアヤが紫苑に詰め寄った。
「いったい……あなたたち何者なの!?」
「紫苑に尋ねても無駄だ」
鋼のような口調で愁斗は言った。
「紫苑には心がない。紫苑は人形なんだ」
愁斗の口調は使用人としてアヤに接していたときとは違う。今の愁斗には感情の揺れが感じられた。
紫苑の腕がゆっくりと上がり、その手が仮面に掛かった。
眼を離せずにいたアヤの目の前で、紫苑は仮面を外したのだ。
そこには顔がなかった。眼も鼻も口もない。のっぺらぼうの顔だったのだ。
「まさか……この人も……」
言葉に詰まるアヤに愁斗が続ける。
「傀儡……人形だ。僕が操ってる」
「操るって……そんな……じゃあアリスも?」
「それは違いますわ」
玲瓏な声が響き渡り、アリスが階段を下りて姿を現した。
「わたくしは〈ジュエル〉を持っておりますゆえ、自らの意思で考え、動くことができるのでございます」
おもむろにアリスは上着を脱ぎ、ボタンを外してブラウスの前を全開にした。
露になる小さな胸の真ん中には、蒼く輝く拳ほどの宝石があった。
「ここにある〈ジュエル〉は、わたくしの魂が結晶化したものなのでございます」
アリスの言っていることはかろうじて理解できた。しかし、アヤの頭は混乱し、なにが真実で、なにが嘘なのか判断できない。
アリスの胸に謎の宝石がある。その〈ジュエル〉が魂の結晶という話はわかったが、それを事実だとは受け止められない。
愁斗はあの部屋の奥にある鏡を指さした。
「あの先にある世界を見ただろう?」
アヤが無言で頷き、愁斗は話を続ける。
「僕はあの場所を〈地獄〉と呼んでいる。君が信じるかどうかはわからないが、あの〈地獄〉の最果てには僕の母の魂が捕らえられている。だから、母の魂を解放したいのだけれど、怪物たちが邪魔でなかなか先に進むことができないんだ」
「なぜ、そんなことを……?」
疑問を投げかけるアヤに愁斗は憂う瞳で紫苑を見つめた。
「この傀儡は母の魂を入れる器なんだ。母の魂を加工した〈ジュエル〉を埋め込めば、母は黄泉返る……そこにいるアリスのように傀儡に魂が宿るんだ」
とても信じられない内容だった。
しかし、愁斗が得体の知れない力を秘めた存在であることは、あの〈地獄〉での戦いを思い起こせば嫌でも理解できる。あの力を持ってすれば、今の話を実現することも可能かもしれない。
あの場所で聴いたこの世のものとは思えない呻き声が、まだアヤの耳から離れない。
まだ蒼白い顔をしているアヤに愁斗が詰め寄った。
「僕は全て話した。ところで、君はなぜこんな山奥に?」
それが好奇心による疑問ではなく、なにかを掴んでいる質問だとアヤはすぐに気づいた。
もう隠す必要もないような気がした。
精神的に疲れ果て、追い詰められ、すべてを吐き出したい気分だった。
「殺したのよ……付き合ってた男を殺したの……他に女なんてつくるから、殺してやったのよ!」
叫んだアヤの目からは涙がとめどなく零れ落ちていた。
恋人殺害を吐露したアヤは泣き崩れて地面に座り込み、髪の毛を掻き毟って床に頭を埋めた。
アヤは沈黙しながら背中を丸めて震え、やがて静かな部屋にケタケタと嗤い声が響いた。
大きく肩を震わせるアヤは笑いながら顔を上げた。その目は赤く膨れ上がり、口は醜悪に歪んでいる。
「きゃははっ……きゃははは……屍体は……あんたたち屍体をどこに隠したのよ!」
野獣のごとく咆えたアヤは狂気の眼で愁斗たちを睨みつけた。
今にも襲い掛かってきそうなアヤに動じず、愁斗はアヤの後ろを指差して嗤う。
「……屍体ならあなたのすぐ後ろに」
アヤが振り向くと、そこには自分が殺したはずの男が!
蒼白い顔をして眼は濁り、頭から出た血は黒くなって髪とからまって固まっている。目の前の男からは生気が感じられなかった。
やはり、男は死んでいた。
屍体は大きく口を開け、アヤの頚動脈に噛み付く。
「ぎゃぁぁぁぁっ!」
眼を剥いて限界まで開いた口から黒い血の塊が吐き出され、アヤは噛み千切られた首を手で押さえながら、力なく背中から転倒したのだった。
床で身体を痙攣させながら、アヤは出血性ショックで死んだ。
復讐を果たした男の屍体は、また動かぬ屍体に戻っていた。
二つの屍体を考え深げに見下ろす愁斗。そして、愁斗の手が煌きを放ち、その輝線は空間に傷をつくった。
その傷は唸り、空気を吸い込みながら広がり、空間に裂け目をつくる。
闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。耳を塞がずにはいられない。
「〈闇〉よ、喰らえ!」
裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。
〈闇〉は二つの屍体の腕を掴み、足を掴み、胴を掴み、躰に絡み付き、呑み込んだ。
床に血を一滴も残さず、〈闇〉は泣き叫びながら裂け目に還っていく。
「これで終わりだ」
愁斗が呟くと、〈闇〉の還った裂け目は完全に閉じられた。
目を瞑る愁斗の傍らで、アリスが尋ねる。
「屍体が蘇って復讐をしたのか、それとも愁斗様が操ったのでございますか?」
「さあ?」
惚ける愁斗は艶やかに嗤った。
そして、全ては〈闇〉の中へ――。
このお話は前作より過去になります。2年か3年くらい昔です。
前作に引き続きアリスがサポート役として登場しましたが、彼女が目覚めたのがこの屋敷です。
アリスはいくつもの時代を生き、幾人もの所有者の手に渡りました。
このお話にもっとも時間が近い作品は「ルナティック ハイですが、あのアリスは零式、目覚めたときは壱式になっています。
この時間の間にいったいアリスに何があったのでしょうか?