引け請け人 菊村貢 その弐
一斉に花火のように宙に上げられた魚たちは、数秒ほど一点で止まり、感電したように震えると、くねくねと川面に落ちてきた。
魚の雨が常陸那珂川へ降り、近距離の太平洋まで飛沫が届いている事に少年は歓声の声を上げていた。
大洗~苫小牧航路。
かつて少年は北海道旅行の為乗ったフェリーの中で、不安な夜を過ごした思い出があった。
台風の影響により、船が大きく揺らぐ度に亡き父親にしがみついたのだった。
しかし父は気だるく面倒くさそうに抱くだけで、いつものアルコールの匂いだけがした。
「わっ!」
飛沫は大波のようにうねり、我が身を漂うフェリーに置き換えた少年は、菊村貢に思い切りしがみついた。
すごいや、と一瞬瞳を輝かせはしたが、嫌なものを思い出させたという裏切られた気持ちがある。
だが抱き寄せられた貢の胸は、かつての父親よりも暖かかった。
折ったススキ舟は魚の動きが作用した強い流れの中で、心細く浮かび、時には回転している。
とっくに水泡に帰す小さき姿であったが、その舟は人さえも浚う強い流れの中で、臆することなく、沈む気配などは微塵もない。
海側に動く濁流に逆らい、反対方向へいとも簡単に動いている。
貢に抱きついた手がゆっくりと解かれた。
「すごいね、おじさん。どうしてこんなことができるの?」
貢は少し物憂げに
「ボク。これがお仕事なんだよ。」
と少年の肩を摺り寄せた。
一メートルはあるだろう一匹のシーバスが先ほどから、川面に顔を出している事を貢は見逃さなかった。
およそ泳いでいるとは決して言えない格好で、対岸のテトラポットに隠れるようにして、丸い目玉で貢を見つめているのだ。
―――いったいどうしたんだ、お前?
初めて見る表情である。
ある能力を修験道から身につけた貢に、何があったか戦いを挑むような、どろりとした丸い目玉で睨んでいる。
「あら、ケンちゃん、探したわよ!どうして車の中で待てなかったの!!」
八つ当たりをしているような大声は、本日も仕事が見つからなかったせいだ。
「ああ、すいません。私が遊ばせて貰ってました・・・」
「こんな汚いおじさんとあそんじゃ駄目。知らない人についていっちゃ駄目っていつも言ってるでしょ!! さ、帰りましょう・・・」
振り返った貢は母親の顔を観察した。
―――悪党じゃないようだ。本質は真面目すぎる女だな
険こそ眉間にあったが性格が刻んだ縦皺ではない。
笑えば実に優しい顔になるはずだ。
少年から母親のことは少しだけだが、聞いていた。
男運が悪かったってとこか。この女なら、十分やり直せるだろう・・・
貢は少年を抱き上げ、母親の元に下ろした。
すぐさまポケットから一枚の汚れた小切手を取り出し、母親に渡した。
「なんでしょうか、これ?」
「あんたはまだ若いし、まじめなようだ。こんな可愛い子をひとりにしちゃいけないな。
旅立ちの資金にしなよ。偽者じゃない、盗んだものでもない、安心しなよ・・・」
額面に1の後に七つのゼロ。
「・・・こんな、こんな大金を・・・見ず知らずの私に・・・」
女のか細く荒れた手が震えている。
「その先は言うな。あんたにやるんじゃねえ。俺にとっちゃゼニなど何の意味も持たねえ。久しぶりにぬくもりを与えてくれたあんたの子供へのお礼だ。荒れてないで立派に育てろよ、早くいい伴侶を、みつけなよ・・・」
「パパ・・・」
子供がふともらした。
かつての父親を言っているのではない。
貢を呼んでいる。
・・・パパか
貢は手にあるススキ舟をも少年に渡した。
「また、会えるおじさん?フネの動かし方教えてくれる?」
少年は短い時間の中触れた乞食のような男に、
パパに値する力強く優しいものを確信していた。
後ろ髪引かれる思いがあったが、呆然と立つ母子を振り返る事なく
、貢はもう何も語らずスバル360に乗り込んだ。
なかなかかからないエンジンがようやく唸った。
シーバスの丸い目玉がまだ貢を見つめていた。




