常央大学 その参
常央大学付属病院。
・・・痛いんだろう・・・男には分からねえ痛みなんだろ
比べるとするならばだ、さしずめキンタマを蹴られた痛みと言う事か。
・・・おっと、すいません。
看護士とぶつかりそうになった。
剣持正和は車に戻り、煙草を吸う。
分娩室から15分も歩く場所にある駐車場。
愛煙家にとって近頃は実に地獄だ。
喫煙所は忌み嫌われたかのように、目立たぬ
所ばかりにある。あればまだましな方だ。
近頃肥満気味の剣持にとっては、苦痛であった、歩く事が。
煙草が吸えない苛立ちが、歩く事を苦痛にしているように思えた。
あっちか、それともあのへんにあるかなと喫煙所を探すことに
辟易していた。ちっ面倒くさい、なら車だ。
剣持は三十四歳になる。扶桑新聞社の水戸支局に勤務していた。
立会い出産を妻である順子は望んだ。
側に居てくれ、と懇願した。そんなものが出来るかと最初は拒否した。
「あなたの子供じゃない、それも最初の子よ、命の誕生よ、
その瞬間を見届けてよ。それに‥私だって怖いのよ‥不安なのよ‥
だからお願い」
順子が小さな声で続けた。
「分かったよ。かっこ悪いなけどな、オヤジは待合室で、オギャーの
声を聞くのが一番と思っていたけどな。」
チャームポイントの笑窪、順子が笑った。
「貴方はいつも最後には願いを叶えてくれる人・・・ありがとうね。」
陣痛がはじまった。
痛いと体を捻る妻の腹部を大丈夫かと剣持は撫で続けた。
三十分も続けていただろうか、若干痛みが弱まったようだ。
「これだと未だ少し時間がありますね。剣持さん、一息入れていいですよ」
若い女医が微笑んだ。
この際タバコを辞めようか‥剣持は首を振った。
常央大学は水戸市に本部を置く総合大学である。
医学部、薬学部、理工学部、経済学部、法学部、文学部、商学部、農学部、
体育学部の合わせて九学部。
学科は三十七を数える。傘下に付属高校をも置く、地元の大洗そして鹿児島の
指宿である。
学生数一万九千名。地方の私立大学ではあるが、特に医学部と理工学部は、
中央の大学にもひけをとらない。
中でも看板は脳外科と地質学、それに生物学科であった。
島影英彦は理工学部海洋生物学科の準教授である。
出身は神奈川県三浦。
東京の水産大学の大学院を出て長く母校の助手をしていたが、恩師の勧めと海があり
四年前に常央大に移った。
今年四十七歳になる。
子供の頃は野球と釣りばかりの日々だった。
プロ野球の選手か魚の研究をするのが夢だった。
湘南東高校時代、投手として春の選抜に出場した。
ホームラン二本打たれ、7-0の完敗だった。
二本の凄まじい打球は後にプロに行き本塁打王にも輝いた選手だった。
選ばれて、いる。
見つめられたあのような人間が、プロに行くのだとつくづく痛感した。
続く夏の甲子園でも12-3で森内前監督率いる常央大大洗高の前に、
完膚なきまで叩きのめされた。力の差を痛感した。
卒業前いくつかの大学から野球での誘いを受けたが、続ける事を断念した。
プロへの夢は自らが遮断した。
人には運命には逆らえない、人の世には何らかの法則がある。
あの打者の凄まじい打棒や森内監督の見事な采配を目にした島影は、
見えない摂理を若い心に刻み込んだ。
水戸市南町。
「あれはカンブリア君ではないか?」
兵頭広重が指をさした。
「おう、青ビョウタン君だな、短違いない、おいおい、島影くんよ、
やつ、絡まれているようだぜ?」
島影も通称カンブリア、常央大の同僚、山下道則を認めた。
相手は七名程いる。人相が良くない。一見して暴力団風と思われた。
「何したんだろう、あいつ、喧嘩など無縁の奴だが?」
女の恨みかなと、兵頭が大声で笑った。
ひ弱な一人の大学準教受と、七名の悪漢ども。
彼の性格からして、考えられない構図だ。
女や金の絡みなど、単純なからまれ方ではないだろう。
何よりも島影と兵頭は山下の性格を熟知している。争い事には全く
無縁の男なのだ。
「ま、わけでも聴こうや。森内さんや磯前の話は後にしよう、
助けないわけにも行くまい。常大全学エンダン、起立せよ!!」
兵頭が鋭く号令をかけた。
「押忍!!」
ガラン!!
四つの重厚な音が一斉にコンクリートに響いた。
四名の学生服が時代遅れの高下駄を鳴らして隣の屋台から立ち上がった。
「どうしたでありますか、兵頭先生?」
ぬうと先頭から現れたのは、坊主頭のごつい巨人。
「見ろ、山下君が絡まれている、助けろ、大友団長」
「おう、あれですか。諭すのは相手次第、全員行けっ!」
同じ学生服を着た三名が風のように走り去った。