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君の知らない、僕のこと。

挿絵(By みてみん)  


 私の話をしよう。

 マイブームの話だ。

 私のマイブームは駅の東側の廃墟に行くことだ。会社帰り、電車を降りていつもとは逆方向の出口へ向かう。そこから少し歩いて、なだらかな坂を上った先にある森を抜けると見えてくる廃マンションへ行く。いちおう、正式には宮村団地という名前がある。もっとも、私のようにこの辺りに住む人には「自殺の名所」と言った方がピンとくるにちがいはないけれど。

 きっかけはなんでもない。ただの思い付きだった。

 その日、私は上司に解雇を宣告された。

呼び出されたのは部署の近くの商品の戦略会議で何度も使った会議室だった。この部屋で何度もプレゼンを行い、自分たちのやり方を他の部署や上の人たちに見てもらった。この上司と二人で朝まで残ってプレゼンの練習をしたということも何度もあった。もっとも、この場所を選んだことに何か意図があるのかどうかはわからないのだけれど。

 解雇を宣告された瞬間、私が思ったことといえば「体中に電撃が走った」とか「隕石が落ちたような衝撃を受けた」なんて大それたことではなく、この会議室が以外に広かったんだなんていうどうでもいいことだった。この部屋は元から会議室として作られた部屋ではなかった。倉庫だった部屋を突貫工事で会議用の机や椅子を入れて設えただけのものだ。だから床に敷いてあるカーペットも剥がすことができる。

 上司は再就職先を用意してくれているわけでもなく「君は優秀だからすぐに再就職先が見つかると思う」と中身の伴わない言葉だけをもらった。かくして私はこのままだと数ヵ月後には無職が確定することとなった。

 皮肉にもミイラ取りがミイラになってしまったというわけだ。

 業績悪化。事業の縮小。工場の閉鎖。リストラ。

 そんな言葉を今までテレビや新聞では何度も聞いてきたけれど、私はそれを遠い国の戦争のように見ていた。気の毒だとは思うけれど、思うだけだ。ただ、それだけ。まさかこんな形で自分がその渦中に巻き込まれるだなんて、夢にも思ってなかった。

 これまで十人、私は部下の首を切った。そのうち四人が正社員で、六人が契約社員だった。判断基準は業績だけを見た。三十代で家族のいた者も二人いた。「家族」を引き合いに出されると胸が痛むのだが、私情を含んでしまえばそれぞれが意見を主張して、収まらなくなる。だからもう、業績だけにした。サラリーマンの我々にとっては結果が全てなのだ。そう、何度も、自分に言い聞かせた。

私は上司に一切反論することはなく「そうですか。わかりました」とだけ言って部屋を出た。部屋を出る直前「私だって残念でならない」と言われた。目尻が少しうるんでいたのがわかった。それが嘘か本当なのかはすぐにわかった。あなたは私より三つ先輩だが、人を切ることに関しては私の方が先輩だ。

 帰りの電車の中で、今までの自分の人生を振り返っていた。

 長年連れ添った革の鞄を胸に抱いて身体を小さく丸め、眠ったようにする。

 平凡な人生だった。と言ってしまえばそれまでかもしれない。それでも人並み以上に努力はしたつもりだ。

 大学受験は今でも頑張っていたと思う。人生であんなに勉強をした時間はなかっただろう。お陰で東京の名のある私立に進学することができたし、そこからの就職先も悪くはなかった。早い段階で大手家電メーカーの内定を受けることができた。

 世の中は不景気続きだったが、親や親戚、正直言ってしまえば私自身も、それで安泰だと思い込んでいた。

 一つ下の妻と結婚したのはそれから一年経った頃だった。妻とは大学のサークルで知り合った。帰る方向が一緒で、話しているうちに仲良くなって付き合うことになった。私はそれまで女性と付き合うという経験がなかったので、最初の方は何をどうすればいいのかわからないことが多かった。二人ではどこに遊びに行けばいいのかとか、どのタイミングで手を繋げばいいのかとか。友人は「おまえが年上なんだし男がリードしないと」と言う。私もそれはそうだなと思っていたのだが、友人がどうも私をからかっているようにしか見えなくて、それを全部鵜呑みにしていいのかがわからなかった。実際、数えきれないぐらいの失敗をしてきたはずだ。それでも私を嫌いにならないでいてくれた妻には本当に感謝しなくてはならない。

籍を入れた時、妻はまだ学生だった。妻が学校を卒業した年の終わりに、娘が生まれた。

 早い段階で結婚を決めたことや子どもをつくったことには今でも後悔はない。妻といれればそれでよかったし、娘が出来てからは俄然仕事にやる気が出た。私は元から将来の夢や目標なんてものがないタイプの人間だった。宝物は家族でそのために一生懸命働く。  

 それで、よかったのだ。

 ――三原、三原です。お降りの際は――。

 急にその言葉が頭の中に割って入ってきた。それが車内アナウンスだということに気付いて、私は目をあける。それとほぼ同時に身体が動いた。ちょうど私が外へ出た時に扉が閉まった。ホームから出ていく電車をぼうっと見つめながら私は呼吸を整える。眠るフリをするだけのつもりが、どうやら本当に寝てしまったらしい。改札を抜けたコンコースにある自販機で栄養ドリンクを買った。その場で一気に飲んでしまうと身体が冷えてきたので暖かい缶のコーヒーも買った。

 ホームのベンチで何本もの電車が止まり、通り過ぎていくのを見た。手に持っていた缶コーヒーは中身を半分以上残したまま、すっかり冷めている。間違って買ってしまったブラックのコーヒーはとても美味しくなかった。

 今はちょうど、帰宅ラッシュの時間帯で電車が止まる度、たくさんの人が電車から降りてくる。世の中には実にたくさんの人がいるのだなぁと改めて実感する。そしてこの人たちそれぞれに、それぞれの人生が存在する。嘘のようなホントの話だ。みんな幸せな時があれば辛い時もあって、その繰り返しで生きている。白髪が目立つスーツ姿のサラリーマンも、セーラー服を着た女子学生も、手を繋いでいる若いカップルも、厚化粧のOLも、そして私も。そんなの当たり前といえば当たり前のことだけれど、私は他人にはなれないから本当にそうなのだろうか、と疑いたくもなってしまう。

 電車から降りてくる人に聞いてみたい。

 あなたは自分が不幸だと思いますか?

 自分のことを幸せと言う人はいないだろうから、あえてこう聞きたいのだ。

 あなたは自分が不幸だと思いますか?

 理由はなんだろう?

 恋人と別れた。受験が失敗した。会社でリストラにあった。

 その中で私自身は不幸のどの辺にいるのだろう? それとも、そもそも不幸などではないのだろうか? 自分の人生に高望みをした覚えはない。何かの罰が与えられるようなことをした覚えもない。

――三番ホームを電車が通過します

 特急電車の通過を告げるアナウンスが流れる。

 私はぼうっと前に視線をやった。

 その時だ。

 ホームの向かい側に別世界を見た。

 そこが天国か地獄かはわからない。

 ただ、どこへ行っても逃げることのできない『現実』という世界ではないことだけはわかった。そして、その世界に私はとても強く惹かれた。

私の体はとても自然に席を立ち、一歩ずつその世界の入口へと向かっていく。

――危険ですので白線の内側へ

 私の右足が、何かを踏んづけた。痛みを感じたがそれが何かだなんて、もうどうでもよかった。別世界はもうすぐそこだ。ここから少し距離があるから、タイミング良く足を踏み出さなければあちら側へいくことはできない。

 電車の音が近くなる。明りが視界に入る。けたたましく警笛がなるのが期越えた。そして……。

――危ない!

 叫ぶ人の声が聞こえた。

 私は知っていた。それこそが合図だと。

 入口への一歩を、私は踏み出した。

「にゃあ」

背後から聞こえたその声に、私は少し後ろを振り返り、足を踏み出すのをためらった。

 とても懐かしい声がした気がしたのだ。

 そして次の瞬間、私はバランスを崩して、どさっとホームに倒れてしまった。



 ふと気付くと、私の周りには何人かの人が私を取り囲んでおり、みんなじっと私を見つめていた。その時初めて、私は自分が何をしていたのかに気付いた。すぐに私は周りの人に頭を下げた。それから駅長室に呼ばれ、駅員さんに叱られて、改札を抜けた。

その先に、三毛猫がいた。

 コンコースの隅、東側へ降りる階段のところに一ぴきの三毛猫が行儀よく座ってこっちを見ていた。不思議なことにさっきの声の主がこの三毛猫であるということを私はその瞬間に理解することができた。

私はおもむろに猫の方へ近づいていく。すると猫は階段を下りてひと気のない、駅の東側へと私を連れていった。子供向けのアニメ映画でこんなシーンがあった気がする。その映画では猫に付いていった先に、古い骨董品屋のようなものがあった。

 我が家でも昔、猫を飼っていた。世にも珍しいオスの三毛猫だ。娘が欲しいと欲しいとごねまくって最終的に私が拾って来たのだ。私は動物を飼うことに反対ではなかった。動物を飼うことを通して娘に命の大切さを知ってほしかったからだ。

 私は三毛猫の後に続いた。ついてこいといっているのかいないのかはわからないけれど、見失うまでついていくことにした。猫は坂を上り、森へと近づいていく。

 猫が止まったのは有刺鉄線のそばにある「止まれ」の標識の前だ。そこまで来ると猫は森の奥へと消えてしまった。私が猫の消えた場所あたりを探すと有刺鉄線が脆くなっているのを見つけた。そこから奥へと進んでいく。

 森を抜けたところにすっかりボロボロになってしまった建物が二棟、建っていた。

 ここが何度も噂で聞いたことがある宮村団地だろう。しかし、星がきれいだったということもあり、私が初めて見た自殺の名所は恐ろしいというよりは、どこか幻想的だった。

「にゃあ」と声がする。

 声のした方を向くと建物の屋上に、さっきの三毛猫がいた。私は建物の中へと足を踏み入れる。

 建物の中はそこらじゅうに瓦礫が散らばっていた。しかし、建設途中での凍結ということもあってか建物の造りそのものはしっかりしているようだった。私は階段を一段一段上っていく。

 猫は屋上で待っていた。

 私はカバンの中にはいっていたお菓子を取り出して、猫に差し出す。

 猫は私のところまで寄って来てお菓子を食べた。空いた手で猫に触れてみる。すると猫は嬉しそうに私の手に頬ずりをしてきた。どうやら人が怖くないらしい。

 驚いたのはそれだけではない。この猫は昔飼っていたのと同じ、オスの三毛猫なのだ。

 猫のことが愛おしくなったのはきっとそのときだ。

 私は猫を抱いてしばらくぼうっとしていた。

 これが私と三毛猫との出会いである。

 

 それから私は毎日、宮村団地へ通うようになった。私が行くと三毛猫がひょっこり姿を現す。私はコンビニで飼ってきた一番高いキャットフードを三毛猫にあげた。

「いつまでも三毛猫じゃお前も嫌だよなぁ」

 宮村団地の屋上。私の腕の中で三毛猫はいつもどおりゴロゴロしていた。

「そうだ。名前をやろう。うん、ミケ。三毛猫だからな。今日からおまえはミケだ」

 最初から決まっていたと言えばそうなるのかもしれない。なんせオスの三毛猫だし。なんせ娘がとっても大事にしていた猫の名前だ。これ以上良い名前なんてないだろう。

 ミケは「にぁあぁ」と鳴いた。嬉しいのか悲しいのかはわからないけれど、私の中では喜んでいるに違いないということにした。ひょっとしたら昔飼ってたミケの生まれ変わりなんじゃないかとも思ったけれど、さすがにそれはないか。どこの世界でも死んだものは返ってこないと相場が決まっている。

 ミケには娘の話をたくさんしてやった。

 生まれた時から昨日見た寝顔のことまでたくさんした。

「おまえみたいな男に嫁にもらってほしいなぁ」なんてことも。

何をいったところでミケは「にぁあ」と鳴くだけだったけれど、結局のところ、それでよかった。退職の期日が迫って来る中で妻にはそのことを打ち明けた。ショックを抑えきれていなかったけれど、それでも現実を受け止めて前に進もうとしていた。その夜、私は勝手に娘の部屋に入った。ただ一目、顔が見たかった。夜も深い時間だったので、娘は寝ていたがふっくらした幸せそうな顔で寝ていて安心した。

 だから私も頑張らなければいけない。


 そして、その日がやってくる。

 私はいつも通り、駅で電車を降りて宮村団地へ向かった。

 再就職先はまだ決まっていない。知り合いのつてで何社か受けてみたけれど、どれも上手くいかなかった。仕事内容や給与のこと、保障のことなどなかなか条件に見合う会社がない。逆に合致していたとこは全て不採用の通知を受け取っている。テレビのニュースで学生の就職難が叫ばれる昨今だが、その気持ちがいかに辛いか。なんとなくわかる気がした。正直、精神的に参っていた日ではあったのだ。

 その日の帰り、いつものように宮村団地へ行くと「にぁあ」「にぁあ」としきり鳴き声が聞こえた。私はそれがミケのものだとすぐにわかった。あたりをきょろきょろ見渡してミケを探す。

 ミケがいたのは屋上の近くのコンクリの出っ張りのところだった。屋上から降りたはいいけれど、そこから上がるにはミケの体では到底届かない程の距離があるし、近くに飛び移れる場所がないからその場から動けずにいるのだろう。

 私は急いで建物の屋上へ向かった。屋上からミケを見つけると安心したのか、鳴き声はそれで収まった。私はミケのいる小さな出っ張りの部分にそおっと足をかける。屋上の床から足場までは私の背丈でギリギリの距離といったところだ。小さな足場に降りると、私はすぐさまミケを抱いて、屋上に押し上げた。それで一安心した私は額の汗を拭って深呼吸する。そうして手をかけて上がろうとした瞬間、私の体重は一気に後ろに持っていかれた。「足場が崩れた」と頭が理解したときにはもう遅かった。ミケがだんだん遠くなっていくのがわかった。


 その次に覚えているのは私の顔を覗き込む、ミケの顔だった。あぁ、無事だったんだと思ってミケを撫でてやろうとすると身体が思うようにいうことをきかなくなっているということに気付いた。よくみると私の手は真っ赤に染まっている。あぁ、そうか。私はあそこから落ちたのか。

 ミケは私の顔を一生懸命舐めた。

 そして何度も「にゃあ!」「にゃあ!」と鳴いた。

 しかし、この山奥では猫の声は聞こえないだろうし、聞こえたとしてもただの野良猫の泣き声としか思わないだろう。

「助けようとしてくれてるんだな。ありがとう」

 言葉は心の中では上手く言えた。身体は不思議と痛くはなかった。ただだるくて、凄く疲れている。

「ミケ……聞いてくれ。私がこうなってしまったことはほんの少しだっておまえのせいじゃない。だからこれからもちゃんと生きていくんだ。それでももし、このことが気にかかるようなら、一つだけ頼みがある」

 そう言うとミケは舐めるのを止めて私を見た。

「娘の話を何度もしただろう? あの子を守ってやってほしい。私と似ていて周りには強く振舞っているけれど芯は弱いんだ。だから頼む。あの子を守ってやってくれ……頼む。そうだ、なんならお前の願いを叶えてやろう。私が今から行く天国で神様に相談してやる。大丈夫だ。自分を売り込むのは得意だから……」

 私を見ているミケの目が少しうるんでいるのがわかった。泣いているのだろうか? その顔を最後に、私の眼は何を写すこともなくなった。頭の奥では、にゃあにゃあ鳴いているミケの声がずっと響いていた。

 どこまでも、どこまでも、響いていた。


 7


 夢を見ていた。

とてもとても、長い夢を。

夢ではお父さんが会社でリストラにあった日からマンションから落ちて死んでしまうまでの日ことをテレビのドキュメンタリーのように流れていた。お父さんがどうやって宮村団地に行ったのか、どういう風にして死んでしまったのか、そしてミケとは誰だったのか。

目をあけるとそこには見覚えのある景色が広がっていた。どこまでも広がる青い空、正面に白い雲。どうやらここは星雪丘らしい。あたしは地面に寝転がったまま、流れる雲と澄んだ青い空をぼうっと眺めていた。服はどうやら元着ていたものに戻っているらしい。カーディガンのポケットに手を入れるとおまもりがちゃんとあった。だからそれを強く握った。胸の中はもうずっと、ぐちゃぐちゃしっぱなしだ。ただそんな中でも今は一番穏やかでいれている気がする。

お父さんは自殺じゃなかった。

ちゃんとあたしたちのために生きようとしてくれていた。

そしてミケはミケじゃなかった。

身体に力を入れて上体を起こす。あちこちが痺れていて気持ち悪かった。立ちあがって、服に着いた汚れを払う。

 地面には粉々になったラムプがあった。さすがに金属で出来ている部分は残っていたけれど、ガラスがあちらこちらに飛び散っていた。それが夢を見る前のことが全部現実だったという何よりの証拠だ。

 その先で、小さくなってうずくまっているミケの姿があった。

 何て言葉をかけたらいいかはわからないけれど、あたしはゆっくり、ミケへと近づいていく。

「ミケ」

「ごめんなさい」

あたしが名前を呼ぶとすぐにミケが言葉を被せてきた。

声は一瞬しか聞こえなかったけれど、震えているのが手に取るようにわかった。あたしは呼吸を整えて、胸の奥で言葉を作る。

「ミケは昔、あたしの飼ってたミケじゃないの?」

「違います。ただの汚い野良猫です。三毛猫だけどオスだから誰にも相手をしてもらえない落ちこぼれの猫です」

「やめてよ。そのしゃべり方」

「できません。こんな猫が人と口を聞くこと自体がとんでもないことなんです。それに僕は人との約束も守れないような駄目な猫です。僕は、お父さんから、タマさんを守るように言われてました。ラムプの光を辿れば幸せになれるから、その間、タマさんについてて道案内をするようにって……。成功すれば一つだけ願いを叶えてくれると言われました」

「願い?」

「はい。僕はタマさんを最後まで案内することができたらちゃんとした人間にしてもらうことを約束していました。でも、ラムプを辿っても……タマさんは、辛い思いをするだけ……だったから……オレ、タマさんが、辛そうなの……もう、見てられなくて……」

 あたしはミケのすぐそばまで歩いて、ミケと同じ高さになるようにしゃがんだ。鼻を啜る音が聞こえる。ミケは顔を伏せたまま、あたしの方を見ようとしなかった。

「お父さん、自殺じゃなかったんだね」

「……ぼくが……殺し……ました」

「違うよ。しょうがなかったんだ。っていうかミケ助けたんじゃん。ほら、それにお父さんだって気にしちゃ駄目だって言ってたし」

「違います……それじゃ駄目……なん、です。ぼく、タマさんの大切な人……オレのせいで……」

 言葉は途中で途切れて、鼻を啜る音にだんだん泣き声が混じるようになった。

「ミケがいなかったら、きっとお父さん、あそこで電車に飛び込んでたよ。ねぇ、知ってる? 死ぬなんていつだってできるんだから。車に飛び込んだっていいし、カッターで手首を切ったっていいんだし」

「でも……でも……」

「ねぇ、ミケ。じゃあさ、一緒に死のう」

「へ……?」

 そこで初めてミケは顔を上げてあたしを見た。

 顔はもうくしゃくしゃになってて、両目から涙の伝った跡がくっきり残っていて、鼻水もたくさん出ていた。

「この崖から落ちたら死ぬの? それとも嘘の世界だから現実世界に戻るとか? だったら現実世界の宮村団地から飛び降りよう。そうすれば二人でお父さんのとこへ行けるよ」

「だめ! そんなのぜったいだめ! タマがいなくなるなんてぜったいぜったいだめ!」

 突然、ミケはあたしの身体を掴んで大声でそう言う。

「いいんだよ。あたしもミケと同じで落ちこぼれの駄目な人間なんだから。あたしもね、あそこに行った時は死にたかったんだ。だってあたしはいらない子だもん。お母さんはあの人と再婚してあの人との子どもを作るよ。そうしたらさ、ほら、もうあたしは……」

「そんなことない! 見たじゃん! お母さんだってタマを大事にしてたでしょ! 岡崎さんだって大切な人がいなくなる気持ちを知ってる人だよ! だから絶対タマのことだって大事にしてくれるよ! タマはぜったい、ひとりぼっちになったりしない!」

 ミケは両手を握って目を瞑ってそう叫ぶ。隙間から涙が流れた。ミケもバカだなぁ。あたしなんかのために泣くなんて。それもとても一生懸命になって。

あたしは自分でも驚くぐらい、淡々と言葉をしゃべることができていた。気持ちもびっくりするぐらい穏やかだ。さっきまで泣きじゃくっていた自分はなんだったのだろうと思うぐらい。

「あたしね。もう自分は幸せになんてなれないと思ってたんだ。だからこのまま生きててもしょうがないなぁって思ってて、だから出来たら死にたいなぁって思ってて。ねぇ、ミケ。楽しかったよ。確かにちょっと辛いこともあったけどさ。でもあんな風にしてミケと冒険できたの、楽しかった。ありがとう」

「だから違うって!」

 ミケが叫ぶ。

「違わないよ」

 途端、ミケはあたしのカーディガンのポケットに手を伸ばしてきた。あまりに突然のことだったのであたしは身動きが取れず、あっという間におまもりがとられてしまった。

「返してよ!」

「嫌だ!」

 あたしがミケの手に飛びかかろうとするとミケはさっと手を引っ込めた。そうしてミケはおまもりの紐を無理やり解いて、中身をあけようとする。

「やめてよ!」

 あたしはミケの手に飛びかかった。

 無理やりミケの手からおまもりを剥がそうとしたけれど、ミケの力が思ったより強くて、逆にあたしの体が倒されてしまった。

「こんなのがおまもりだなんて、絶対間違ってる!」

 ミケはおまもりの中から何重にも折りたたんだ小さな紙切れを出してあたしに付きつける。ボールペンで書いたけど、もうずいぶん前に書いたものだから文字ははっきりと読めない。でもかろうじて見える文字と頭の中にうっすら残っている記憶で文面を辿ることができる。

――あたしがいなくなったその後の世界の人たちへ

 手紙の書き出しは、こんな文章ではじまっている。



 あたしがいなくなったその後の世界の人たちへ


 この手紙が読まれていると言うことは、

 おそらくあたしはもうこの世にいないのでしょう。

 お父さんが自殺した時みたいに、

 後であの人はなんで死んだのだろうと周りの人に

 疑問を残さないように、しっかりここに書きとめておくことにしました。


 あたしが死んだのは、そうすることがお互いのために

 一番良い方法だと思ったからです……。

 お互いというのはあたしとあたしの家族のことです。




「なんで……なんで遺書なんかがおまもりなんだよ!」

 ミケは色褪せてもうボロボロの紙をさらに小さく、ビリビリに千切って、投げた。地面に小さな紙がヒラヒラ落ちる。

 これがあたしのおまもりだ。

 何の効力もない、遺書。

 書こうと思ったきっかけは、はっきり覚えていない。

ただ、文中にあったみたいな理由ではなくきっと、書くことによって気分がすっとなるからとかそんな理由だったように思う。

「ねぇ、タマは本当はこんなこと思ってるわけじゃないよね? ただ見てほしいだけだよね? 愛されたいだけだよね? じゃあそう言ってよ。タマのこと好きな人、いっぱいいるよ」

「うるさいな! ミケ、いちいちおせっかいだよ! ミケは人間になりたかったんだよね? じゃああたしに同情なんてしないでそのまま道案内を続けてればよかったんじゃん!」

「違うよ! そうじゃない!」

「じゃあどういうことよ!」

「オレが人間になりたいのは、自分の口でタマのことが好きだって言いたいからだよ!」

 頭の奥で閃光が弾けたみたいになった。

 言葉に重みがあり過ぎて、はっきり聞こえなかった。

「オレ、タマが好きだよ!」

 こんどは、はっきり聞こえた。確かに、あたしのことが好きだと言っている。

「お父さんにタマの話を聞いて、優しい子なんだなって思ってて、それからタマが来てくれるようになって、オレと遊んでくれて、そしたらホントに優しくて……。それで、タマのことが好きになりました……。猫は……嫌だろうから、ちゃんとした人間になって、タマに伝えたかった……。強くなんかならなくていい! 弱くても、優しいタマが好きだよ!」

 ミケはまた、ポロポロ泣きだした。

「ねぇ、お願い。自分でいなくなろうとしないで」

 そう言うとミケはあたしの身体に抱きついて泣きだした。

 わんわんわんわん、声を上げて泣いていた。

 あたしはミケの体をそっと抱いてあげた。

 猫だからだろうか、ミケの体はとても暖かった。

 ミケはたくさんたくさん、泣いている。

 今まであった色んなことを思い出していると、あたしも自然と涙が溢れてきた。

 きっとこのまま、元の世界に帰っても現実は何一つとして変わってないのだろう。ただ一つ、違うことがあったとすればあたし自身が事実を知ったと言うことだ。お父さんのこと、ミケのこと、あの人のことに、あたし自身の気持ちも……。

 何かが間違っているなら正せばいい。だけど全部が本当のことでそのどれもが大切だから、何を優先すればいいのかがわからなくなる。

すぐには答えの出せないことだってたくさんある。だけど知らなきゃよかったなんてことは一つもなかった、はずだ。だってほら、今のあたしの心はこんなにも暖かい。

「じゃあさ、ミケもいなくならないでよね」

 ミケの視線があたしの方を向いた。

「お願いミケ、いなくならないで……お願い……」

 ミケを抱きしめる力が強くなる。

 へへっと、ミケが笑うのが聞こえた。

「タマ、ありがとう。好きだよ」

 あたしのきもちは、もう言葉にならなかった。

 ミケがいる。ただ、それだけのことが、あたしはとてもうれしかった。


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