君に見てほしい、君のこと。
2
光の中はあたり一面をもやに囲まれた、広い空間だった。
かろうじて足元は見えるけど、それがやっとで五歩先にはもう何があるかわからない。
小刻みに体が震えていた。少し肌寒い。その様子に気付いたのか、ミケは「ごめん。すぐ出れると思うから」と言って一歩ずつもやの中を歩きだした。
あたしは辺りをきょろきょろ見渡してみた。空間はどこまでも続いているみたいで、果てがどこにあるのかが全くわからなかった。
宇宙みたいだ。なんとなく、そう思った。
ミケの持つラムプからは赤い光が伸びていた。その光はあたしの心臓ではなく、もやの中に向かってまっすぐ伸びていた。
ミケはその方向を真っすぐ目指す。ミケが上手く避けてくれているのかどうかはわからないけれど、体が障害物にあたるといったことはなく、すたすたと先へ進んでいく。
猫耳の男の子は、やっぱりミケだった。
オスの三毛猫というのも、鈴のついた青いリボンもそうだったし、何よりも家のことや、あたしたち家族のことをよく知っていた。テーブルや椅子の位置や形、カーテンの色、テレビの上にはパンダのぬいぐるみがあって、その横には家族で撮った写真があった。お母さんは最初ミケのことを飼うのを反対してて、でもいざ飼うとお母さん自身が一番可愛がってたことも、ミケはちゃんと知ってた。考えてみれば当然のことだ。あたしが学校に行っている間、ミケはずっとお母さんといたのだから。
「ねぇ、ミケはその……」
それに続く言葉は喉まで出かかって、つっかえた。そんなあたしの様子を察したのかミケは「オレね、今まで天国で神様の仕事を手伝ってたんだ。タマが辛そうにしてたからお休みをもらって降りてきたんだ」と言った。それから「天国で善い行いをすると、有給休暇がもらえるんだ」と言葉を付け足した。
普段なら呆れてしまうような言葉だったけれど、今のあたしは「そうなんだ」の一言で、すんなり受け入れてしまうことができた。
ミケはあのとき、確かに死んだ。氷のように冷たくなった体の感触は今でもはっきり覚えている。でも理由はどうであれミケがここにこうしていることだって、紛れもない事実だ。ほっぺただって何回もつねった。ちゃんと痛かった。
逆にあたしがあの世に来たのかもしれないと思ったけれど、それならそれでよかった。今のあたしには、そんなのどっちだっていい。だってほら、あたしの右手にはしっかりとミケのふわふわした手を感じることができるから。ミケとこうしていられれば、他のことはもう大した問題じゃない。おまもりだってちゃんとある。
ところで、ミケは今の家の状況を知っているのだろうか。あたしはふと、ミケの方を見た。引っ越しはしてないけど、お母さんは働くようになったし、あたしはもう中学生だ。それに……。
「だいじょうぶ。全部知ってるよ」
あたしの心を見透かしたように、ミケはそう言った。
「お父さんのこともお母さんのことも。もちろん、タマのことも。だからオレが来たんだ」
「どういうこと?」
あたしがそう聞くと、ミケは小さく笑った。だけど、それきり何も言ってくれなかった。あたしがもう一度そのことを聞こうとすると、ミケはあたしを手を強く引いて走り出した。
「そろそろ着くよ」
ミケが言った。
間もなく、目の前が真っ白になった。
あたしは、ミケの手を強く握り直した。
意識を取り戻したあたしは、そこに広がる光景に少し拍子抜けしてしまった。
着いた場所は、家の近くにある見慣れた河川敷の公園だった。さっきまであんなに普通じゃ信じられないようなことが続いて起きていただけに、なんだかさっきまでのことが全部、夢じゃないのかと思えてしまった。
「あ、ここ、オレも知ってる」
その声を聞いて、やっぱり全部現実なんだということがわかった。振り返るとミケがあたりをきょろきょろ見回したり、遠くの方を眺めていたりした。
よく考えてみると、おかしなところはたくさんあった。上には青空が広がっていたし、宮村団地にいた頃は肌寒かったのが、今はぽかぽかしていて暖かい。なんならちょっと暑いくらいだ。そして何より、沿道の桜並木は満開だった。「懐かしいなぁ」なんてことをミケは言う。家の近くだから、遊びに来たことがあるのかもしれない。
昼間、ミケは外にいることが多い猫だった。ウチはマンションの一階で、ベランダの隅っこに小さな穴が開いていて、ミケはその穴から外に遊びに行っていた。何日も行方不明になることはなく、ご飯の時間になるとちゃんとウチに戻ってきた。
「ねぇ、ミケ。ここになにがあるの?」
「うーん。えと、ごめん。行った先で何があるのかはオレにもわからないんだ……」
ミケは手に持ってるラムプを見た。
「行先はラムプにしかわかんないんだよ。あ、でも、何かあるはずだから。ちょっと待ってよう。ね。あ、せっかくだし遊ぼっか。バドミントンくらいならあるよ」
ミケはズボンのポケットをポンと叩いた。すると次の瞬間、ミケの手にはバドミントンのラケットとシャトルが握られていた。こんなことが目の前で起きたのに、あたしはもう何とも思わなくなっていた。
「え、あ、こんなところでそんなことしてもいいの?」
その行動もそうだけど、考えたら耳と尻尾が生えている男の子がいるっていうのもそもそもマズいんじゃないのだろうか?
「いいのいいの。他の人には魔法も耳も尻尾も見えてないから。オレ、ただの男の子にしか見えてないよ」
「そう……なの? なんか都合いいね」
「神様の力だからね」
あたしたちはラケットを地面に当てて線を引いた。シャトルを持ったミケはそこから大股で何歩か進んで振り返る。ミケが「いくよ」言うと、バックハンドでサーブを打つ。シャトルは小さな弧を描いてあたしの陣地のギリギリ内側に入って来た。
「ね、入った?」
「……うん。ミケ結構上手いじゃん」
「タマがやってたの見てたからじゃないかな?」
「ふーん。じゃああたしも本気でいこっと」
あたしは制服の腕を捲くった。お父さんがいた頃にしていた習いごとは、ピアノとバドミントンだ。
あたしの習いごとは、あたしがお腹の中にいる頃から、お母さんとお父さんが選んだものを一つずつさせるということを決めていたらしい。お母さんが選んだのがピアノでお父さんが選んだのがバドミントンだった。ピアノは小学校三年ぐらいで辞めてしまったけれど、バドミントンはお父さんがいなくなるまで続けていた。ピアノは色んな〝決まりごと〟の多さがどうしても好きになれなかった。特に練習用のバイエルやツェルニー。譜面と同じ音を弾いても鍵盤を押さえる指が違ったらアウト。違う弾き方がクセになっていると一筋縄では直せない。〝譜面どおり〟に弾かなければならないというのもあまり好きにはなれなかった。その点、バドミントンは戦い方に大きなスタイルはあるものの、試合の戦略や組み立て方は自分で考える部分が多くて楽しかった。
それからしばらく、ミケと打ち合いをしていた。ミケが上手いのか、あたしが下手になったのかはよくわからないけど、勝負は五分五分で面白かった。
この河川敷は今の河川敷じゃない。今だったら川の向かい側には新築のマンションが建っているはずだし、橋の向こう側には大きなショッピングセンターが見えるはずだ。ミケが懐かしいと言ったのはひょっとするとこのせいなのかもしれない。
「あ、しまった!」
ミケが叫ぶ。
シャトルは高く飛び、大きな弧を描いて、あたしの頭上を越えていった。あたしは口をあんぐりあけて、その様子を見ていた。シャトルは草むらにポトンと落ちた。あたしはそれを見てから、シャトルを取りに向かった。
シャトルに近寄ると、小さな女の子が先に取ってあたしに差し出してくれた。三、四歳くらいだろうか。くりっとした大きな目がまっすぐあたしを見つめていた。女の子は手を開いて、中にある羽をあたしに差し出した。「どーぞ」と言ったゆったりした柔らかい声を、あたしは素直に可愛いと思った。
あたしは「ありがとう」と言って、シャトルを受け取った。女の子はまだあたしを見ている。女の子の顔は嬉しいのか悲しいのかよくわからなくて、とにかくあたしは、泣かれたら嫌だなと思って、どうやったら笑ってくれるかなと考えて、とにかくあたしが笑うことにした。口の両側に力を入れて、持ち上げてみる。女の子の顔に変化はない。あたしは上手く笑えているのだろうか?
「あ、すいません」
そこへ男の人が駆け寄ってきた。男の子人は女の子を持ち上げて胸に抱いた。そのとき男の人と目があった。瞬間、あたしの背筋が震えて泣きそうになった。
「え……あ、はい。……だいじょうぶです」
言葉の最後の方はしぼんでしまって、うまく言えた自信がない。
「そうですか。ならよかったです」
そう言って男の人は笑った。女の子は男の人のほっぺたに手をあてて「おとーさん」と言う。女の子の言葉はまだ不完全で、まだくっきりとした「おとうさん」ではなく、どこかやわからくてまるい「おとーさん」だった。男の人は女の子に「お母さんのところに戻ろっか」と言った。「うん」と言って女の子は笑っていた。そうして男の人はあたしに小さく会釈をした。
あたしは胸に手をあてて、何度か大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに空気をいれるイメージで深く、ふかく。それから手で軽く目尻を拭って、しばらく腕で目をおさえていた。
「だいじょうぶ?」
上の方からミケの声がした。あたしは鼻を何度かすすって、ミケの方を向いた。
「えと……ごめん。その、辛い思いさせて……」
ミケは申し訳なさそうに頭を下げる。
「うん。大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
何もないことをアピールしようと思ってははっと笑ってはみたけど、上手くできた自信はない。
さっきの親子は大きな木の木陰のベンチにいる女の人のところへ向かっていた。女の人の目星はもう付いていたから、あんまり驚きはしなかった。
あたしにシャトルを渡してくれた女の子は、紛れもなくあたし自身だ。だからベンチに座っていたのがお母さんで、男の人がお父さん。お父さんは年の割に若く見える人だった。だからあたしの覚えているお父さんとあまり変わりがなくて、だからよけいにあたしの胸の中にいろんなものがこみあげてきた。
大きな木の下で昔のあたしの家族は楽しそうに笑っていた。それはまるで、絵に描いたような、あったかくて、ほんわかした、幸せが何かを知っている家族だった。きっとあの頃のあたしたちは何年か後に今みたいになってしまうなんて、一ミリだって想像してなかっただろう。
どこで間違えたのだろう?
どうしてこうなってしまったのだろう。
お父さんがもっと早く会社を辞めればよかったのかな?
あたしがもっと早く私立の学校に行くのをやめればよかったのかな?
お父さんがいなくなってから、気付けばあたしはこんなことを考えるようになっていた。考えたところで何かが変わるわけでもないし、答えがないことだってわかってる。だけどあたしはふとした合間合間に、こんな考えても仕方のないことを、どうしようもなく考えてしまうようになった。
考えを巡らせるのは、底のない深い穴に落ちていくことと似ていると思う。どんどん深く潜っていって、地上の光も見えなくなって、そのうち自分がどこにいるのかもわからなくなってしまう。
だから、あたしはポケットに入っているおまもりを握る。
おまもりはあたしにとっての灯台だ。
これがあるからあたしは、生きている。まだ、生きている。
おまもりはお父さんが近くの神社で買ってくれたものだ。何でかよくわかんないけど、交通安全のおまもりだ。嫌なことや辛いことがあったりすると、このおまもりを握る。おまもりはそういう気持ちを全部吸い取ってくれる。
ふと、あたしの足が動いた。そうだ、あの家族に言えばいい。「将来あなたの会社は大規模な人員削減をします。早く再就職先を見つけて会社を辞めて下さい」って。
「タマってたくさん愛されて育ってきたんだね」
急にミケがあたしの横で、そう言う。
あたしはきょとんとしてミケを見ていた。だって、そんな風に言われるだなんて思ってもみなかったから。
「ほら」
ミケは昔のあたしたちの方に目をやる。
あたしもお父さんもお母さんも、みんな、笑っていた。
「そうか。だからタマはそんなに優しいんだ」
ミケのその言葉にあたしは何も言えなかった。だって、あたしはきっと、優しくなんてないから。
途端、ぱぁんと音が鳴った。
ミケは腰に下げていたラムプを取って、目線の高さまで持ってきた。
「時間みたい。次のところへいくよ」
「え、でも……」
言わなきゃ。お父さんに。このままだとあなたたちは不幸になりますよって。
その間にも、ラムプの中の光はどんどん大きくなっていく。そして、弾ける
あたしの目の前が真っ白になった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。そんなことないよ」
頭の片隅で、そんな言葉が聞こえた気がした。
3
目覚めるとあたしの視界にはミケが大きく映り込んでいた。
「だいじょうぶ?」と聞くミケにあたしは「うぅん……」という言葉にならない声を出して目をこすった。ここはどこだろう? さっき光に包まれて、それから……。考えてみたけれど、それから今までの間のことを何一つ覚えていなかった。
瞬間、あたしはものすごい勢いで上半身を起こした。今まで自分がどういう体勢で寝ていたということに気付いたからだ。
「あっ、えっ……そのっ……」
あたしはびっくりしたのと恥ずかしいのでいっぱいになって、ミケを指差してあわあわなった。あたしがそうしているのをミケは疑問に思っているようで、最初はぽかんとしていたけど、次第に言いたいことがわかったみたいで「あ、ごめんごめん。地べたで寝かすのも悪いなぁと思って」と頭をかいて笑った。
男の子に膝枕をしてもらうなんて初めてだったからびっくりした。べつに嫌だったわけじゃないけど、はじめてだったから、びっくりしたのだ。
あたしは周りを見渡すと、さっきと違うところにいることに気付いた。
見えるものは一面に広がる青い空と白い雲。でもいつもみたいに空を見上げるのではなく、目の前に、空があった。いや、空の中にいると言った方がしっくりくるかもしれない。
ミケが「だいじょうぶ?」とあたしに聞く。あたしは「うん」と小さく呟いて、胸に手を当てて何度か深呼吸をした。
「……飲み込めないことが多いよ」
「ごめん。その、思い出させちゃって」
「……いいよ。ミケが謝ることじゃない」
「でもごめん」
「ううん。あたしもなんか、ごめん」
あたしがボロ屋街に着いてからのほんの数時間で色んなことが起こり過ぎた。ミケは人間になるし、何も見えない道を歩いたり、お父さんにあったり。
起こったことが全部、嫌なことなら怒ればいい。だけどそうじゃないから、どうすればいいかわからなくなる。
「……お父さん」
それは自分でも意識しないうちに、ふとこぼれた言葉だった。
「お母さんだって、タマのこと大事にしてたね」
ミケがそう言う。
あたしはちょっと考えて「……そうだね」と言った。
「やっぱり、お母さんは嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃないけど……」
でもあたしの言葉はそれで途切れる。〝けど〟の後に続く言葉が浮かんでこない。
宮村団地に通うようになったそもそもの原因は、お母さんだった。
お母さんにとってお父さんとは何だったのか、あたしとは何だったのかがわからなくなった。
――タマ、紹介したい人がいるの。
ちょうど一カ月くらい前、お母さんにそう言われた。そんなことを言われるんじゃないかとは、その少し前から、何となく、思っていた。例えば帰りが遅くなる日が増えたとか、お洒落をして出かける日が多くなったとか、あたしに隠れて電話をしているとか。
その日の晩、食事に出かけた。お母さんはタンスの奥にしまってあるよそいきの綺麗な服を出した。お母さんは黒の、あたしは控えめな淡い色のドレスを着て出かけた。途中の信号待ちで窓に映る自分たちの姿を見た。無理をしている感じがにじみ出ているようで、あたしは好きになれなかった。
場所は、今まで行ったことのない夜景の綺麗な、ホテルのレストランだった。
あたしたちが丁寧な言葉遣いのホールの人に案内された席には、黒いスーツを来た男の人が座っていた。すらっとした高い背丈。髪の毛は短くて、髭はない。清潔感のある人だった。きっと世間では彼のことを「好青年」と呼ぶのだろう。
男の人はあたしと目を合わすとすぐに立ちあがり「はじめまして。タマちゃん。今日はわざわざ来てくれてありがとう。お母さんとお付き合いさせてもらっている岡崎信也です」と言った。
そうしては深く頭を下げる。
“お付き合い”と言う言葉はとりあえず、心の隅に押し込めることができた。
岡崎さんは隣町の高校で英語の先生をやっている人だった。お母さんより三つ年下の三十三歳。出会いは、そういった先生の交流会だったらしい。お母さんもまた、先生だ。もっとも、あの人とは違って幼稚園の先生なのだけれど。
「あのね、タマ。お母さん、この人と結婚を前提にお付き合いしているの」
ある程度覚悟はしていたつもりだったけれど、実際言われてみると、思った以上に重みのある言葉だった。
頼んだメニューはあらかじめ用意されたコース料理だった。前菜があってスープがあって、メインディッシュがあって……。
出てきた料理は確かに美味しかったはずだ。だけれどあたしは、その日食べたものの味を思い出すことができない。唯一思い出せることといえば、服にこびりついていた防虫剤の臭いぐらいだ。
「ミケはもう知ってるんだよね? 新しいお父さんのこと」
「うん」
「悪者はやっぱり、あたしなのかな」
「うん?」
「だって、あの人とお母さんはお互い好き同士なわけで。なんていうか、問題はあたしでしょ。もっと小さかったらともかくもう中学生だし……」
「タマは新しいお父さん好きじゃない?」
「どうなんだろうね。でもまぁ、好きではないかな」
それから少し沈黙が続いた。あたしは視線を足元に下げたり、遠くの方を見たりしていた。目尻を何度か拭って、鼻をすすった。
「ここはね、星雪丘いうんだ」
「せいせつきゅう?」
「うん。高い高い丘の上だよ。今は昼間だけど、夜になるとたくさん星が輝くんだ。明るすぎて夜なのに青い空が見えるんだ」
「へぇ」
「オレ、まだ見たことないんだけど、すごく綺麗なんだって。いつかタマと見てみたいなぁ」
「……見れるといいね」
あたしはそう言う。
ミケがふんわり笑った。
ぱあんっっ!
ラムプに光が灯る。
「タマ。そろそろ行くよ」
「うん。わかった」
あたしはミケと手を繋ぐ。
「次はきっと、タマにとって幸せな場所へ行くはずだから」
あたしはまた、光に包まれた。
4
気付いた時、あたしはベッドの上で横になっていた。
強く手を引かれる感覚に気付いて、あたしは意識を取り戻した。
「だいじょうぶ?」
ミケの無邪気な声が耳に入る。
「えと……確かさっきまで丘の上にいたんじゃ……」
あたしは、はっきりしない声で言った。随分長く寝ていたのだろうか? 思うように力が入らない。
「ラムプが次の行先を示したんだ」
ミケが言う。
「ここは?」
「学校の保健室みたい。タマの学校じゃないみたいだけど……。知ってる?」
あたしは体を起こして、辺りをきょろきょろと見渡した。見慣れない白い壁が広がる。ベッドの周りを囲むカーテンレールや、薬品の入った棚、消毒液や絆創膏がぎっしり詰めてある引き出しなどを見る限り、なんとなくそういうところなんだろうとは理解することができた。だけれど、棚の配置や教室の形などには全く見覚えがなかった。ここはどこだろう?
「ね、みてみて」
ミケの視線は窓の外を向いていた。
あたしもつられて、窓の外を見てみる。
窓の外にも白は広がっていた。曇っているせいで向こう側まで見渡すことはできなかったけれど、しんしんと雪が降っていた。
窓ガラスに雪がこびりついていた。あたしの棲んでいるところでは有り得ない光景だ。
外に広がる寒そうな景色とは裏腹に、部屋の中は暖房が効いていてとても暖かかった。
それもあってか、あたしとミケはその様子をただぼんやり眺めていた。
視線を戻すと、ミケの来ている服がさっきまでと違うことに気付いた。白いシャツに青いジーパン、青い鈴のついたネクタイをしていたのに、今は白いシャツにカーディガンを着てる。それと同時に、あたし自身のも着てる服がさっきとは違うことに気付いた。さっきまではセーラー服にカーディガンを着ていたのに今は白いブラウスに赤いチェックのスカートをはいている。どこの制服かは分からない。
あたしはとっさにポケットを探した。しかしブラウスには小さな胸ポケットしかなく、そこには何も入っていなかった。後ろに掛けてあるベージュ色のブレザーのポケットに手を入れるとそこに確かな感触があることに気付いた。試しに出してみる。良かった。おまもりは無事だ。
ガラガラと扉を引く音がして、養護の先生が入ってくる。ひょろっとした細身の、若い男の先生だ。
「お、もう起きてて大丈夫なのか?」
「あぁ……え、はい」
「そう。じゃあとりあえず体温だな。計ったら言ってくれ」
先生は近くに置いてあった体温計をあたしに渡した。
「ミケくんはちょっとこっちね。付添いの人に書いてもらいたいものがあるから」
ミケは「はい」と言ってあたしのそばを離れて、先生のところへいく。先生は耳としっぽがあるミケを見ても、何一つ驚いた様子を見せなかった。どうやらこの世界でもミケはただの男の子らしい。
ミケがそうしている間にあたしは体温を計った。体温計の先っぽが脇に触れると、ひんやりした感触が体中に沁み渡ってツンとなる。
話を聞くところによると、あたしは授業中に体調が悪くなって保健室に来たということらしかった。その辺りの事情が今のあたしにどう影響を及ぼしているかは分からないけれど、身体の感覚も徐々に戻って来ていて、べつだんしんどいということはなかった。
体温計がピピピッと鳴る。至って平熱だった。先生に熱がないことを告げると、次の授業から教室に戻ることになった。
壁にかけてあるブレザーを着る。胸のところに鳥をかたどったような校章が付けられていたけれどやっぱり見覚えがなかった。ふと、その部分に触れると、堅い感触があることに気付く。内ポケットに手を突っ込むと、中から生徒手帳が出てきた。
“新潟市立央名中学” と記されていた。
「次の授業まで少し時間があるから、お茶でもしようか。タマさんは紅茶飲めるかい?」
「あ、はい。好きです」
「ミケくんは?」
「あんまり熱くないヤツなら飲めます」
「猫舌?」
「そうです」
「なるほど。それはちょうどいい。昨日買ってきた茶葉があってね。これを一番おいしく飲めるお湯の温度が……」
養護の先生はいかにしてこの素晴らしい茶葉を手に入れたかという経緯を説枚すると共にお湯を沸かせ、カップを準備した。
あたしはベットから起きてミケの隣に座った。
間もなく先生の淹れてくれた紅茶ができあがる。ミルクかレモンかストレートかという質問にはあたしもミケも「ミルク」と答えた。
先生は紅茶と冷蔵庫の中に入ってあった通販で北海道から取り寄せたというチーズケーキを一緒に出してくれた。見ただけでふわふわ感が伝わってくる素晴らしいケーキだった。
「それにしても岡崎先生のクラスは色々大変だな」
「岡崎先生……ですか」
「そう。君のクラスの担任の先生」
なんとなくそうなんだろうなぁと思っていた。あたしとこの土地との関わりなんて、それ以外の何物でもないんだろう。この学校はあたしたちに会う前に、あの人が勤めている学校だ。
「今日って何年の何日でしたっけ?」
あたしはおもむろに先生に聞いた。
「二〇〇七年の十一月三十日だ」
「二〇〇七年……ですか」
向かいの壁にかけてある日めくりカレンダーもその日を指していた。今から三年前の日付だ。実際のあたしは小学校六年生でお父さんがいなくなって間もないころということになる。
「岡崎先生、最近またよく休むようになっただろう。早退も多い」
「え……」
あたしは思わず言葉をこぼす。どう答えていいかわからないでいると「そうですね」とミケが代わりに答えてくれた。
あの人がここの先生だと言うことはわかったけど、どういう先生なのかは知らない。特に興味があるわけでもないし、正直に言ってしまうと、知りたくもなかった。
あの人とは最初の食事を含めて全部で三回会ったことがある。二回目は一週間前だ。その時も外で食事をした。イタリアンのお洒落なお店だった。何を話したのかは覚えてない。というか、何も話さなかったんじゃないのかなぁと思う。相槌を打っていたこと以外はあまり覚えていない。三回目は今日だ。宮村団地へ行く前にあの人と会っていた。
「大丈夫だといいんだがな」
そう言って、先生は紅茶の入ったカップを置いた。
それから少しミケと先生とで他愛もない話をした。趣味はなんなの? とか勉強大変? とか進学の話とか……。先生は口調はとても優しくて、話していてとても心地が良かった。まるで初めて会った人だとは思えないぐらい落ちついて、何でも話せた。
「さて。そろそろ時間だ。体調が大丈夫そうなら教室に戻った方が良い」
「タマ、身体はだいじょうぶ?」
ミケが身体を傾けて、あたしの顔を覗き込む。あたしは少し考えて「うん。大丈夫」と言った。身体、というか正確にはこころの方だろう。
美味しい紅茶とお菓子のお礼を先生に言ってあたしは保健室を出る。
「しかしタマさんは不思議なことを聞くね」
最後に先生にそう言われた。
「へ?」
意味がわからなかったあたしはそう聞き返す。
「日付よりも西暦を気にしているようだったからさ。年の瀬も近いこの時期にはちょっと合わない質問だと思って。まるでたった今、この場所に流れ着いた人みたいだ」
「え、まさか。そんな……あるわけ」
「まぁ確かにそうだね。僕はミケくんに付き添われてタマさんがくるところをはっきり見ているわけだし。だから間違いなく君たちは向かいの校舎の二階にある二年三組の岡崎先生のクラスの生徒だよ」
そう言って先生はあたしたちに向かって、手を振った。
休み時間にはまだ早いのか、廊下はいたって静かだった。
「ねぇ、ミケ。あたしやっぱりあの人に会わなきゃいけないのかな」
半歩前を行くミケに話しかけた。
話し声は自然と小さくなる。
「……ラムプが次の行き先を示さないとここから出れないから」
「ラムプはどうやったら溜まるの?」
「わからない。でも……」
「でも?」
「ラムプは会ってほしいんじゃないのかなと思う」
「……あのさ、この世界を選んでるのはミケじゃないの?」
「違うよ。世界を選ぶのはラムプだから」
「でもさ、ミケはあたしのこと知ってるんだよね」
「うん。それは知ってる。案内人には案内する人の情報が与えられるから。だからオレがいなくなってからのことも知ってるよ」
「……そうなんだ」
「でもだいじょうぶだよ。ラムプの光の行く先には必ず幸せがあるから」
「ミケは行ったことがあるの?」
「……ないけど、でもだいじょうぶ。絶対あるよ」
「いったことないなら……わかんないじゃん。それに、会って話してみればわかるってもんでもないよ。ラムプがあたしにどう思ってほしいか知らないけど、それってちょっと勝手だよ」
途端、ミケが足を止めてあたしを振り返った。
そうして次の瞬間、あたしの両手を取って、あたしの目を真っすぐ見つめる。
「あのさ、じゃあラムプのことは信じなくてもいいから、ラムプのことを信じてるオレのことを信じてよ」
「へ?」
「だいじょうぶだよ。ラムプはぜったい、タマが幸せになるところまで連れて行ってくれる。だいじょうぶ、タマに悲しい思いはさせないよ。必ずオレがそばにいるから。ね」
そう言って最後にふっくら笑った。
ミケがそう言ってくれると、あたしはとても心が暖かくなる。そうだ。一人じゃないなら、ミケがいてくれるならがんばれるかもしれない。
「う……ん」
少し沈黙があって、ようやくあたしの心はその言葉を喉から創りだすことに成功した。
「よかった。じゃあ行こうか」
ミケがあたしの手を離した。
そこであたしはふと我に返る。ミケが握ってくれていた手をあたしは強く握り返していた。力いっぱい握っていたからミケはきっと痛かっただろう。そのことを謝らなくちゃと思うけど、考えたらすごく恥ずかしいことをしていたと思って、上手く声が出てくれなかった。どうにか「ごめん」と鳥が囁くみたいな小さい声が出た。聞こえてないかもしれないと思ってすぐさま言いなおそうとしたけれど、やっぱり恥ずかしくて言えなかった。
するとミケは「だいじょうぶだよ。タマの手って、あったかいね」と言ってくれた。
先生が言った通り、教室は向かいの校舎の二階にあった。
ちょうど休み時間が始まったようで、椅子をぎぃと引く音があちこちから聞こえた。
クラスメイトらしき何人かの人とすれ違い、後ろの扉から教室へ入る。あたしたちに気付いた長い髪の女の子が「もう大丈夫なの?」と声を掛けてくる。一瞬、どきっとしてしまったあたしは、できるだけ平常心を保って「うん。もう大丈夫」と答えた。すると長い髪の女の子は「よかった」と笑ってくれた。あたしは「ありがとう」いう言葉を急いでお腹の奥から取り出して、どうにか声に出すことができた。
上手く言えた、と自分では思う。ほんとは解らないけど。最後の方は切れ切れになったり、妙に早口になっていて、その子に上手く伝わってないかもしれない。まぁ、その、あたしがこういうことに慣れてないのがわるいんだけど。
本来あたしのいるべき教室には、ああいう風に接してくれる人はいない。べつにいじめにあっているとか、無視されているからとかそういうわけじゃないけれど。お弁当だって、理科の実験だって、あたしは一人になったりしない。そういう役じゃない。でも、あたしとみんなの間には目に見えない境界線がはっきりと示されている。
あたしが今通っているのは地元の公立の中学だ。一年生の半年間は私立に通っていて、そこから転校したのだ。中学に入学した数ヵ月後にお父さんが飛び降りた。それがきっかけで精神的に参ってしまって、学校に行けなくなってしまった。学費の工面や出席のこともあって、協議した結果、あたしは公立に転校することになった。転校先の中学は地元だから、当然、お父さんのことも筒抜けだ。みんな、あたしがどうしてここにやってきたのか知っている。お互いそのことを決して口に出すわけじゃないけれど、それが次第に境界線を作っていくことになった。
あたしとミケの机は教室の窓側だった。一番後ろがミケでその一つ前があたしの席だった。あたしはその席に座ってぼうっと辺りを眺めていた。ミケは教室の後ろで男の子と何やら楽しそうに話をしている。耳と尻尾が生えた男の子と普通の男の子が話している姿は、それはそれで、面白かったのだけれど。
席の居心地は思った通りあまり良くない。
たとえあの人がいなくても、ここではあの人の息を色々なところに感じることができる。
壁に大きく貼られた「岡崎組」の文字、後ろに貼ってあるクラス写真、給食当番、掃除当番の表、そして机の中に入ってある学級通信、クラスメイトの皆の仲が良さそうなこと。そして千羽鶴。
それが思った通りで、だから、居心地はあまり良くない。
その時、チャイムが鳴った。
廊下にいた男子生徒がそそくさと教室に入ってくる。
そして小声で何かを呟いていた。それは瞬く間に教室中を這っていって、あたしたちの耳にも自然と入ってくる。
先生が戻ってきた
教室に入ってきたあの人はあたしが知っているあの人と違って、随分と痩せていた。やつれていた、という方がしっくりくるかもしれない。それ以外はあたしの知っているあの人とあまり変わりはないけれど、それだけが違うだけで随分違って見えた。
あの人の登場と同時に、教室は水を打ったように静かになった。ストーブがパチンという音や誰かが咳をする声、椅子をぎぃという音が教室によく響いた。あたしはあの人の顔を直接見ることができなくて、下を向いていた。視線を机の上のキズただ一点に集中させた。
「ここのところ休みや早退が多くて、みんなにはたくさん迷惑をかけました。そういうことが、まだ少し続くけど、もうその目途も立ちそうです」
あの人はそう言って、話を続ける。
「……だいたいみんなもう知っていると思うけど、昨日の夜、先生の奥さんが息を引き取りました」
その一瞬だけは、この世から音という音がなくなった。ストーブの音も、突然泣きだしたりする生徒はいなかったけれど、空気がなくなって何も伝わらなくなった気がした。
「お見舞いに来てくれた人、手紙を書いてくれた人、鶴を折ってくれた人。みんなみんな、ありがとう。妻は最後に笑って天国へ行きました」
しばらく沈黙が続いて、一人の生徒が泣きじゃくる声が聞こえた。それがきっかけで、ぷっつり糸が切れてしまった。切れた糸はほつれて、絡まっていく。声を上げて泣き出す生徒が、たくさんいた。
あの人に奥さんがいたということは、なんとなくわかっていた。
あの人の奥さんは去年までこの学校で働いていた先生だったらしい。このクラスにも担任を持ってもらったことがある人もいるらしく、声を上げて泣いているのはたぶん、そうだった子たちだ。
奥さんはどんな人だったのだろう。お母さんに似ていて一人では何も決められないような、優柔不断で、弱い人だったのだろうか。
時間が経つに連れて、泣き声が教室を静かに包んでいく。ひとり、またひとりと泣き声を上げる生徒が増えていく。最初は女子だけだったのが、男子にまで波紋を広げていく。
顔を上げて後ろにいるミケを見た。するとすぐに目が合う。ミケは真っすぐにあたしを見ていた。ミケの頬が綻んだのがわかった。いつもみたいにまぁるい声で「だいじょうぶだよ」と言ってくれているんだ。と、思った。
前の教壇に立っているあの人は何も言わず、ただ黙っている。ただ、あの人も泣くのを我慢しているのか、視線をあちこちにやり、手を何度も握ったり開いたりしていた。
泣き声は、増えていく一方だ。そこだけ雨が降っているようだった。
いいひと、だったのだ。
奥さんも。そして、あの人も。
だから、やっぱり、よけいに腹が立つ。
新しいお父さんが駄目な人だったらよかった。
そう思ったことが何度もある。
例えばお酒を飲むと暴れるとか、ギャンブルにはまってるとか。そんな人だったらきっと、あたしの味方はたくさんできたと思う。「そんな人と一緒になったってロクなことがない」「もう一度考え直せ」とか。きっとおじいちゃんや親戚のおばさんだって、あたしの味方になってくれる。
でもお母さんが連れてきた人はそんな人じゃなかった。清潔で、真面目で、安定した職に就いていて、しかもお母さんをちゃんと大事にしてくれる人だった。「何も無理して独りで居ることはない」「いなくなってしまった人のことをいつまでも引きずることなんてないんだよ」お母さんの周りの人はみんな、お母さんの味方をした。
そして今日、宮村団地に来る前の出来事だ。
久しぶりにおばあちゃんが家に来て夕御飯をみんなで食べることになっていた。そこには、あの人もいた。
最初はいつも通りのぎこちない夕飯だった。箸が食器に当たる音しか聞こえない、時間。まるで壊れかけの家族の食卓のようだ。まぁ、まだ始まってもないけど。
そんな空気に耐えかねたのが、おばあちゃんだ。
――タマちゃんは新しいお父さんが欲しいと思わないのかい?
その言葉にあたしは耳を貸さなかった。
お母さんやあの人はおばあちゃんを止めようとしたけれど「一度きっちり話しあった方がいい」といい、それを振りきってあたしに話を続けた。
おばあちゃんはそれからいくつかあたしに質問を投げかけてきたけど、あたしはそれを全部無視した。質問のないようは覚えていない。でも、いくつかの質問の最後がこの言葉だったことだけは、はっきりと覚えている。
――その方が、タマちゃんのためにもなると思うの
次の瞬間、あたしは思い切り、両手で机を叩いていた。
「あたしのためなら、再婚なんてしなくていい。お母さんとお父さんは元を正せば他人だから代わりはいくらいるかもしれないけど、あたしと血の繋がってるお父さんは一人しかいないの! お母さんと違って代わりなんていないんだから!」
あたしは勢いよく家を飛び出した。
止まってしまうのが何より怖くて、とにかくとにかく、走って走った。宮村団地にいこう。あそこには三毛猫も、お父さんもいる。家なんかにいるよりずっと、ずうっと、あたしを暖かく迎えてくれる。
大丈夫、大丈夫
駅へ向かう最中、その言葉が頭の奥でずっと響いていた。お父さんの太くて、落ちついている、優しい声。ポケットの中に手を入れると、おまもりだってちゃんとある。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
小さく声に出して、呪文のように何度も唱えた。
しっかり結んだと思っていた糸はほつれていて、それが知らないうちに広がって、切れてしまった。あたしとお父さんを結んでいた絆という糸は、あの日を境にぷつっと切れてしまった。結べば修復はできるけれど、誰も切れるなんて思ってないから、結び方を知らない。だから、切れた糸はもう元には戻らない。
気付いた時にはもう、あたしは机を力いっぱい叩いて、席から立ち上がり、教壇に立つあの人の目をじっと見つめていた。さっきまで教室を包んでいた鳴き声や鼻をすする音は一瞬にして消えてしまった。
「どうかしたか? タマ――」
あたしは名前が呼ばれるのが嫌で、言われる前に言葉を被せた。
「あなたはこれから先、どうするんですか? 別の人を見つけてもう一度結婚するんですか?」
教室は静けさを保ったまま、あたしに注がれる視線だけが突然温度をなくし、鋭くなる。
「何聞いてんだよ! おまえ!」
次の瞬間、クラスの男子がそう言った。
「そうよ。不謹慎よ!」
近くの女子が言った。
あたしはそういうのを全部振りほどいて、真っすぐあの人を見た。
あの人の視線も、あたしを真っすぐ捉えていた。
あたしはポケットの中のおまもりをぎゅっと握った。唾を飲み込んで、込み上げてくるものを必死に抑えた。
そうして、あの人の口が微かに動いた。
瞬間「いこう」という声が後ろから飛び込んできた。
次の瞬間にはもうミケはあたしの手を掴んで、教室の外を目指して駆けていた。
ミケがあたしの手を引いて、誰もいない廊下をただひたすらに駆けていく。ミケの手を握る力が強くなる。あたしが「ちょっと待って!」と言うと、ミケは「遠くへ行こう。ここじゃないどっかがいい。こんなところ、タマのいる場所なんかじゃない」と言った。その時のミケの声はいつものまぁるい声じゃなくなっていたけれど、芯がしっかりしていてなんだか頼もしかった。
一階に下りて、中庭を抜けて、教室と十分に距離のある昇降口までやってきた。登下校の時間は人で溢れるこの場所も授業中の今の時間は何の気配もしなかった。ここにきてミケはようやく走るのを止めて、あたしの手を解いた。あたしは膝に手をついて肩で息をしながら切れた呼吸を整える。
「……こんなところまで……来ていいの?」
目の前にいるミケもあたしと同じように、切れた呼吸を整えていた。
「……だいじょうぶ、……だいじょうぶ。どうせこの世界で何したって、現実が変わるわけじゃないから」
「……なんかもう、どうしたらいいのかわかんないよ」
そう言って、あははっと小さく笑ってみる。あぁ、あたしこんな状況でも笑えるんだ、なんてことを思って、それが以外に気持ち良くて、それでもしばらく続けていると出てきたのは笑い声じゃなくて、なんでだか涙だった。
あははっ、あははっ、
中身のない笑いがこぼれていく。
悪いのは誰だ?
自殺をしたお父さん?
そのお父さんを追いこんだ会社?
お父さんを忘れて再婚をしようとするお母さん?
嫌がっているあたしの父親になろうとしているあの人?
それとも、現実を受け入れられないあたし?
わるものは、だれ?
気持ちの処理の仕方が、感情の持って行き方が、わからない。身体の中をぐるぐる回って、胸がいっぱいになって、途中から考えるのも嫌になってくる。
笑い声はだんだん薄れてきて、鼻をたくさんすするようになった。そうして「ははっ」という声は「あぁ……」という呻き声に変わっていく。体中に溜まったモヤモヤが涙になって溢れ出た。
「ごめんなさい」
ミケが下を向いて申し訳なさそうにして、そう言う。
「オレのせいだよね。オレがタマを連れてきたから、幸せに連れていくって言ったから……」
本当は「それは違う」と言いたかった。でもそんな言葉をかける余裕もなくあたしはただ泣きじゃくっていた。
「本当にごめん。こんなはずじゃなかったんだ」
次の瞬間、ガシャンという音が昇降口に響き渡った。
ミケがラムプを勢いよく地面に叩きつけた。
目の前が真っ暗になった。




