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5.正義の被害者

 八尋が言った通り、それからちょうど一時間後。


 夕飯の良い匂いが漂う神楽威家のリビングダイニング。そのダイニングテーブルに、アンジェリカと早苗が向かい合うようにして座っていた。車椅子歴八年にもなれば、自分一人で車椅子から普通の椅子に移るなど造作もないことらしかった。


「神楽威さん。私は本当に、お手伝いしなくて良いのですか?」


「お兄ちゃん。今日はお客さんもいるんだし、私も手伝うよ?」


 二人が口を開いたのは同時。


 その申し出を、八尋は配膳を続けながらとても良い笑顔で断わった。


「仮にも客人に手伝わせるわけにいくか。早苗は客人の相手をしててくれ」


 客人、の言葉を強調して八尋は二人にそう告げた。


 無論、八尋は二人の間に気まずい空気が流れていることを承知している。


 それも当たり前だろう。ついさきほど、早苗は初対面のアンジェリカに当たればタダでは済まないと理解した上で銃口を向け、敵意をむき出しにしたのだ。そのときの早苗は、敵意どころか殺意すらアンジェリカに抱いていた。


 殺されそうになった側と、殺しそうになった側。


 多少大げさな言い方ではあるが、今の二人はそういう間柄なのだ。


 精神的にも未成熟である二人が、内心はどうあれ表面上だけでも割り切ることなどできるハズもない。根底にある人間性が素直である二人にとって、そのような腹芸など最も苦手にするとことだろうと、八尋はそう思っている。


『今日はお酒が美味しいです』


 アンジェリカに申し訳なさそうな感情を向けている早苗と、自然体ではあるもののどう声をかけていいものか悩んでいるアンジェリカ。


 そしてその二人を、アンリは同じダイニングテーブルに座って一人ワインを飲みながら笑顔で眺めている。正に「他人の不幸で酒が旨い」と言うことなのだろう。実に悪神らしい酒の飲み方だと、アンリにつまみを渡しながら八尋は微苦笑した。


「相変わらず性格悪いな、お前は」


『性格の良い絶対悪など、肉食動物の血肉を啜り内臓を貪るウサギくらいありえないと思いますよ。それはそれで見難いものだとは思いますが』


「アルミラージという名前の肉食ウサギは存在しますよ。イスラム世界の神獣で、実際には皮膚病にかかった兎のことらしいのですけど」


「だ、そうだが?」


『…………も、もちろん知ってましたよ。千年前から知ってましたよ。アレですよ。幽霊の正体見たり、的な皮肉です』


「なんだ、その微妙な間は」


 アンジェリカの突っ込みにたじろぐアンリの姿に、苦みの色を強めて笑う八尋。


 そんな八尋達のやりとりも、早苗の耳には入っていないようだった。


 俯いたままアンジェリカの様子をチラリチラリと伺う早苗は中々言葉を発することができず、ただ時間だけが過ぎて行く。車椅子生活者には欠かせない、淡い色をした膝掛けをギュッと強く握ったまま、早苗は思いつめたような表情を浮かべたまま動こうとしない。


 やがて、性質の悪い笑みを浮かべたアンリがワインのグラスを一杯空けた頃、ようやく先に口を開いたのは早苗の方だった。


「あの……アンジェリカ、さん」


「はい。なんでしょうか?」


 やはり、言い辛いのだろう。


 アンジェリカと視線が合った途端に俯き、膝掛けを握る手の力を一層強め、早苗は続きの言葉を紡げない。何度も口を開こうとしてはいるのだが言葉は中々かたちにならず、静かなダイニングにつけっ放しだったテレビの音だけが響く中、時間だけが過ぎて行く。


 視界の端に早苗を捉えた八尋が興味がないフリをしながらも早苗の様子を見守り続け……やがて、一分ほど過ぎた頃だろうか。


 唐突に、意を決したように早苗は顔を上げ、アンジェリカに問いかけていた。


「あなたは私達の生活を邪魔する(わる)い人じゃ……ないんですよね?」


「それを見極めるために、私は今ここにいるのです」


 凛とした、一本筋の通った声。


 先ほどまでの抜けっぷりが嘘のような態度も、おそらく彼女の持つ一面なのだろう。


 ひどく間の抜けた姿と、世界中の誰もが認める聖人としての姿。奇妙な二面性が同居する彼女の性質はまるで二重人格のようだと、八尋はそんな感想を抱いていた。


「正直、なんですね」


「嘘をつくことは、悪いことですから」


「……どうして……」


 世界に十人といない聖人の中でも、救世主(メシア)とすら評される存在。


 天使を四柱も従える彼女に対して早苗は臆することはなく、しかし今にも泣き出しそうな震える声で、自分の気持ちを告げていた。


「私は、あなたに敵意を向けたのに……ことと次第によっては殺すつもりもあったのに。怒ったり、警戒したり、しないんですか?」


 あまりに弱々しい早苗の元に思わず駆け寄りそうになるのを、ぐっと堪える八尋。


 これはあくまでも早苗とアンジェリカのやり取り。自分が手を出してはいけないのだ。


「そんなこと、あるわけないじゃないですか」


 そんな、立場の違う二人の見守るような視線の中で。


 か弱い子羊のような、しかし確かに自分に明確な敵意を向けていた早苗にアンジェリカが向けた感情は怒りでも敵意でもなく、まるで早苗のことを祝福するかのような、心からの慈愛に満ちた笑顔だった。


「私はあなたに敵意と殺意を向けられました。それは確かに褒められない行為です。ですが、あなたはその行為を後悔しているのでしょう? その感情は懺悔の想いと一緒です。自らの行為をあなたは恥じ、自らに罰を課しているのです。そのように心善いあなたを、どうして責めることができるでしょうか。主は必ず、あなたのことを許してくださいます。勿論、私も」


「なら……私のことを、怒っていないんですか?」


「人は誰でも間違いを犯します。そのくらいのことで怒ったりしませんよ」


「……本当に?」


「はい。大天使ミカエルに誓って、私はあなたを許します」


 その言葉に、早苗はようやく安堵の表情を浮かべる。その表情に八尋もまた安堵すると同時に、心が締め付けられるような思いをした。


 恐怖から不安、不安から安堵。その表情の変遷は、早苗のような少女にさせてはいけないものだ。それほどの恐怖を、それが翻った安堵をさせてはいけないのだ。それなのに、自分のせいで彼女はあれほどまでに恐怖した。それも一度ではない。今日になるまで幾度も、彼女は恐怖した。何度も、彼女は涙を流してきた。他でもない。すべて自分が至らないせいで。


 だが、今日はアンジェリカに助けられたと八尋は思う。


 アンジェリカは早苗が向けた銃を本物だと思っていた。それなのに、自らに銃口を向けられておきながら恐怖を覚えるどころか早苗に対する怒りも、警戒する様子すら見せていないのだ。


 今にして思えば、あのとき一切の自衛の手段を取ろうとしなかったのも、そういうことなのだろう。それと同時に、なぜ早苗がアンジェリカに対して初見で敵意を抱いたのか、その理由について触れようともしていない。そんなことはどうでもいいと言わんばかりに。アンジェリカは早苗にすら隣人愛を抱き、彼女の善性を信じ、故に彼女の行為をすべて許しているのだ。


 それが、どれほど人間として異常な感情なのか。


 ただのアホの子なのか、それとも八尋の想像を超えるほどの大物なのか。


 そのどちらもが彼女なのだと、八尋はアンジェリカの普遍性をそう結論付けた。


「それどころか……私はあなたと、お友達になりたいと思っているくらいです」


「お友達……いいんですか?」


「はい。……ああ、敬語なんて使わないでください」


「え、でも、あなたは年上で……」


「関係ありませんよ。実は日本でも、本当の意味でのお友達というのはまだいないんですよね」


「そうなんですか? でも、アンジェリカさんならいくらでも友達なんて……」


「それが皆様、私のことを中々友達として対等に扱ってくださらないんですよね。なんと言うか、皆様私に遠慮していると言いますか……」


 頬に手をあてため息をつくアンジェリカに、そりゃそうだろう、と八尋は心の中で思う。


 実際アンジェリカは、入学式の頃からクラスの中では微妙に浮いた存在となっている。誰もがアンジェリカの存在感に圧されて、中々友達程度に踏み込んだ会話や、そもそも長時間アンジェリカの傍にいることができないのだ。


 例えるならば、急にクラスに転校してきた世界的な有名人と普通に仲良くなれますか、ということだ。ただでさえ気後れしてしまうのに、アンジェリカの放つ存在感は本物中の本物だ。一国の総理大臣のように、あるいはマフィアや極道の親玉のように、なんの変哲もない高校生が切っ掛けもなしに普通に接することのできる相手ではない。前提条件が違うとはいえ、そんな彼女と対等に会話のできる神楽威兄妹の方がむしろ少数派なのだ。


「ですが、早苗さんはそんなことはありませんでした。それどころか、初対面で私に剥き出しの感情をぶつけてくださりました。罪の意識の是非はともかくとしてそれは、私を良い意味で特別だと思っていないということです。そんな早苗さんなら普通のお友達になれると、私は思ったのです」


 感極まったのか、段々とアンジェリカの声が大きくなっていく。


「だから、早苗さん。私と、お友達になっていただけませんか?」


 そう問いかけながら、アンジェリカは身を乗り出して早苗の手を握っていた。早苗のことをじっと見つめる翠の双眸は活き活きとした生命力が輝き、弾む声は年頃の女の子のようで。


 感極まると相手の手を握ってしまうのは、アンジェリカの癖なのだろうか。


「……でも、お兄ちゃんとアンリが……」


 チラリと、様子を伺うように早苗が八尋達へと視線を向ける。


 どうやら彼女は、八尋達に遠慮しているらしい。


 可愛らしいものだと、八尋はそんな早苗の気遣いを微笑ましく感じていた。


「こっちは気にするな。良いじゃないか、友達が増えるんだぞ?」


『ですね。私としても、早苗とは契約を結んでいませんし。契約者の家族の動向まで干渉しませんよ。早苗がそこの天使娘とどういう関係になろうが、問題はありません』


「……そっか」


『……まぁ、仮に八尋が天使娘と友好関係になっても、問題はないのですが』


 アンリの予想外の発言に八尋は思わず表情を変えるが、その言葉はボソリと小さな声で呟かれたためか、アンジェリカと早苗の耳には届いてないようだった。


「では……あの、アンジェリカさん」


「親しい人は、私のことをアンジェ、と呼びますわ。できれば早苗さんもそう呼んでください。私もあなたのことをファーストネームで呼ばせて頂きます。構いませんか?」


「うん、分かったよ、アンジェ」


「はい。ありがとうございます。早苗さん」


『友達が増えますよ、やりましたね早苗ちゃん』


「やめろ。人の妹に不吉なフラグを立てるな」


 テーブルの上に身を乗り出して、手を握り合って微笑みあう早苗とアンジェリカ。


 どうやらこうして、二人の和解は成立したようだ。


 もし、これが相手を懐柔するための腹芸ならば、大した狸だと言わざるを得ない。


 だがこの少女の言葉の裏にはそのような意図はない。彼女は本当に好意から、早苗と友達になろうとしているのだ。彼女がどのような存在であろうと、そういうところは年頃の少女となんら変わらないらしかった。


『目出度いことで』


「どうした、アンリ。いつものお前なら『さすが聖人、説法が上手いですね。反吐が出ます』くらい言いそうなものなのに」


『いえ。言っても良かったのですが、このタイミングで言うと空気読めない人みたいになりますし』


「お前でも、空気読むんだな」


『読みますよ、空気くらい。私は〝絶対悪〟ですよ? その場に相応しい比喩を使うだけの語彙と知能を持たず、ただの下品な悪口を毒舌と言いきるような自称ドSの勘違い間抜け共と一緒にしないでください』


「……つまり、この場に相応しい言葉を思いつかなかったんだな」


『それより八尋。早く配膳しないと、せっかくの料理が冷めてしまいますよ?』


「……まぁ、いいけどな」


 確かにアンリの言う通りせっかく作った料理が冷めてしまうのはあまり好ましいことではない。それに、下手に突っ込んでも藪蛇にやりかねないので、八尋はそれ以上の追及をしようとはせず、配膳の続きに取りかかった。


 とは言っても、早苗とアンジェリカのやり取りの間にほとんど配膳は終わっているのだが。


 八人掛けのダイニングテーブルに並ぶ、八人分の料理。白いご飯とみそ汁を主菜として人数分の肉じゃが、ほうれんそうのお浸しと、ふたつの大皿にはポテトサラダが盛られている。なんの変哲もない、一般庶民の日本人らしい食卓だと八尋は思っている。


 後はお茶を注いで、席に座って食べるだけだ。


「さて。それじゃ食べるとするか。アンジェリカも麦茶でいいよな? 箸が苦手なようなら、スプーンとフォークも出すが」


 席につき、沸かしたばかりの麦茶の入ったボトルを手に持って八尋が尋ねる。


「いえ、昔日本に住んでいたので箸は使えますが……それよりも、神楽威さん。私の目が確かならば、ここには八人分の夕食が並んでいるようなのですが」


「ん? それがどうしたか?」


「いえ。あなたと、早苗さんと、私と、アンリ・マユの分として……残りの四人分の料理は、一体誰のためのものなのですか?」


「誰って……お前の天使の分だが?」


「……はい?」


 なにを言っているのか理解できないという表情を浮かべたアンジェリカの反応に、八尋は首を傾げる。


 まるで、お互いの認識に決定的な齟齬が生じているような違和感。


 どうも、会話が根本の部分で噛み合っていないような気がする。


「とりあえず、お前の天使を召喚したらどうだ? 早くしないと冷めるぞ?」


「いえ、ですから、どうして天使を召喚する必要があるのですか?」


「えー、いやだから、夕飯の時間だし――」


 戸惑いながらも微妙に噛み合わないやり取りを続けて不意に、ハッと八尋とアンジェリカは気付いた。それから反射的に、二人同時にアンリの方へと視線を向ける。


 二人から視線を向けられた当のアンリは、ワインを煽りながら実に、心の底からの愉悦の表情を浮かべている。


 その表情が、すべてを物語っていた。


「なぁ、アンジェリカ。一応聞くけど、もしかして天魔や悪魔は食事をする必要がないのか?」


「……ええ。そもそも彼らは概念存在ですから。我々と違い、生命維持のために必要な食事を摂る必要がありません」


 アンリに視線を固定したまま会話を続け、ようやく誤解が氷解した。


 つまり八尋は八年もの間、アンリに騙され続けていたということだ。


「……アンリ!」


『くっくっく、あっはっはっは! いや、愉快ですねぇ。いつ気付くかと見ていましたが……まさか、八年もの間騙され続けてくれるとは! あまりに当たり前すぎて、私も騙していることを忘れそうになるくらいでしたよ!』


 ついに堪え切れなくなったのか、唐突にアンリが笑い始めた。


 その表情に不思議と悪意はなく、まるで見た目通り小学生くらいの少女が楽しくて笑い転げるのと同じような、純然たる楽しみの感情によって構成されていて。彼女にとってそれは悪意があったというよりは、子供の悪戯のような行いだということがありありと理解できて。


 そうだ。アンリ・マユという存在は、こういうやつなのだ。


 分かっていても――少しイラッとこずにはいられなかった。


「……アンリ。これ没収な」


『あ! それは私のお酒とつまみですよ!』


「うるせぇ。どっちにしろ、白い飯にワインは合わないだろうが。お茶にしろ、お茶に」


『むー……八尋はケチですねー』


 ワイングラスの変わりに湯呑を差し出した八尋に対して一転、不満を露わにするアンリ。


 とはいえ八尋としても本気で怒っているわけではないので、食事が済めば返してやるつもりなのだが。ジト目で恨みがましく睨みつけるアンリの視線を適当に流して、八尋はアンジェリカに再び視線を向けた。


「とりあえず、アンジェリカ。天使を召喚してくれ。残すのはもったいない」


「いくら実体とはいえ、天使って食事できるんですか……?」


「お前が知らないことを俺が知るかよ。まぁ、アンリは食えるから多分大丈夫だろ」


「はぁ。まぁ、召喚してみますが……」


 小さなため息の後、アンジェリカは天使四柱を実体化した。器用なことに、それぞれの空いた席に初めから座った状態で天使達は再び八尋達の前に顕現する。途端、ダイニングに満ちる圧倒的な存在感。正面から視線を合わせただけで意識が吹き飛んでしまいそうなほどの存在が、家庭料理を前にして席についている。


 まるであの有名な絵画『最後の晩餐』のパロディ画像のようなシュールな光景の中。その天使達の表情は、一様に複雑なものだった。


 その表情を見た瞬間、八尋は理解した。


 ああ。天使達も、アンジェリカの突拍子もない行動にいつも振り回されているのか、と。


「そういうわけなので、ミカエル。ウリエル。ガブリエル。ラジエル。色々ありましたが、あなた達は食事を摂れますか?」


『摂ろうと思えば摂ることはできるし、我々は基本的にはアンジェの意向に従うが……』


 天使達を代表してか、ミカエルが色濃い戸惑いを滲ませながらアンジェリカに答えた。自ら積極的に口を開いたりはしないものの、他の天使達も同じような表情を浮かべている。


 彼らの言う通り天使達は基本的にアンジェリカの意志に従うようではあるが。元は敵で、特に正義を司るミカエルなどはこのような状況にあっても、八尋達に未だ敵意とまではいかなくても、警戒心を抱いているのが分かる。そういった感情が自身に向けられることに八尋は敏感であり、彼らの態度こそが正しいと八尋は思っている。


 それでも、八尋はそう言わずにはいられなかった。


「心中察するそ、天使達。お前らも苦労してるんだな」


『まさか、〝絶対悪〟に同情される日が来るとはな……』


 肩を落とすミカエルの表情には、まるで年配の中間管理職のような哀愁が漂っていた。


『では、いただきましょうか。いい加減、料理も冷めてしまいます』


「そうするか。……では、いただきます」


『いただきます』


「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧としてください。私達の主イエス・キリストによって。アーメン」


 普通に「いただきます」と言う八尋達と、手で十字を切りながら祈りを奉げるアンジェリカ達。さすがにキリスト教圏に住む人間なだけのことはあって、その十字の切り方や祈りはそれだけで絵になるほど様になっていた。


 もっとも、その後に箸を使うアンジェリカはともかくとして、スプーンとフォークを駆使してなんとか日本の家庭料理を食べようと苦戦している天使達の姿というものは、中々に得難いものだと八尋は思った。


「……美味しい、です。神楽威さんは料理が上手なんですね」


「ん……まぁ、このくらいは家事をしてる奴なら誰でも――」


「当然ですよ。私の自慢のお兄ちゃんですから」


 八尋の声を遮り、早苗が実に嬉しそうに声を上げる。


 その瞳は爛々と輝き、まるで自分が褒められたかのように明るい笑顔を振りまいていた。


「料理が得意なだけじゃないんですよ! お兄ちゃんは他にも手先が器用でお裁縫とか編み物とか得意ですし、うちにはお父さんもお母さんもいないけど、アンリと一緒にいつも私のことを護ってくれて、それで――」


「早苗、止めてくれ。頼むから」


「えー。お兄ちゃん自慢、まだ他にもあるのに」


「……そういうことはせめて、せめて俺がいないところでやってくれよ……」


 頬を膨らませて不満を露わにする早苗に対し、項垂れる八尋の顔は耳まで赤く染まっている。


 例えそれが、血の繋がった実の妹からの感情であったとしても。


 真っ直ぐな好意というものに、八尋はとことん弱いのだ。


『はん。さしもの絶対悪も、妹には弱いのだな』


「うるせいやい。口元に飯粒ついてるぞ間抜け天使」


『な、なんと!?』


 到底信者達には見せられない間抜け面を晒すミカエルに言い返して少しスッキリしたが、それでも早苗に笑顔で褒められたことへの気恥ずかしさは変わらない。


 話を誤魔化すように八尋はリモコンでテレビのチャンネルを変え、堪えようともしないアンリの笑い声をかき消すために音量を大きくした。


『あと三日で、四三〇テロ事件から八年。今年度の追悼式典では、世界的に有名な聖人であり、この事件の被害者でもあるアンジェリカ・癒泉・ミナルディさんを中心としたカトリック教会の慰問団も参加することが決定されており――』


 たまたま変えたチャンネルの先でテレビが映し出すニュース番組から不意に聞こえた、アンジェリカの名前。


 その名前と一緒に聞こえた単語の意味するところに、自然と八尋達の視線がアンジェリカへと注がれていた。


「……痛ましい事件でした」


 箸を置き、ポツリとアンジェリカはそう呟いた。


 そのトーンの落ちた声が端的に、その事件の凄惨さを表しているようだった。


「そう言えばお前も……この街の出身だったんだよな」


「ご存じ、なのですか?」


「お前が俺のクラスに来た時点で、お前のことを調べたからな。お前もあの事件の被害者だってことは有名だから……そのことは、調べる前から知っていたけど」


「……もしかして、神楽威さん達も?」


「ああ。俺達もあの事件の日、同じ場所にいたんだよ」


「そう、ですか……」


 八尋の言葉に、アンジェリカだけでなく早苗もまた、視線を伏せた。


 二人だけではない。


 聖人も、絶対悪も。次の言葉をすぐに紡げないほどにその事件は、八尋達に様々なものを思い出させてしまう。それは事件から八年が過ぎた今でも変わらない。


 誰もなにも言えず、ただアンリが食事を進める音だけが響く。


 いつもより人数の多いダイニングが、八尋はなんだか薄暗くなったような気がしていた。


「神楽威さん。早苗。私には、この街でお友達ができたら訪ねたかったことがあるのです」


 その落ち込んだ空気を最初に変えたのは、聖人の方だった。


 それからアンジェリカは二人の反応を待ってから、意を決したかのように口を開いた。


「あなた達は昔からこの街に住んでいるのですよね? ならばもしかして、昔の私のことを覚えていたりしませんか?」


「昔の、お前のこと?」


「はい。実は私はあの事件以前のことを、ほとんど覚えていないのです」


「覚えてないって……」


「言葉のままです。私は記憶喪失で、事件以前の記憶が抜け落ちているんです」


「らしいな。お前には、あの事件以前の記憶がない」


 それは、アンジェリカのことを調べた八尋も良く知る事実だった。


 アンジェリカは世界的な有名人だ。それは世界最年少の聖人として彼女が世界中から注目を集めているためであるが、有名であるが故にファンも多く、彼女のパーソナルデータというものはインターネット上に大量に転がっている。なにせ、カトリック教会の広報活動などで表に出てきた彼女の発言や経歴、個人的な趣向など、その一言一句がインターネット上のフリー百科事典にまとめられているほどだ。


 それらの雑多な情報の中では勿論、アンジェリカが八年前の事件に巻き込まれ、それが切っ掛けで聖人となったエピソードがカトリック教会によって積極的に紹介されている。


 それこそが彼女の生まれながらの善性を示す、ある種の証明とされているのだ。


「お前が天使と契約するために支払った対価は、それまでのお前が持っていた過去の記憶と関係性。それだけの対価を払って、お前は願ったんだよな。自分ではなく、あの場にいた大切な人々の無事と安全を。そうなんだよな? ミカエル」


 聖人とは、人間の側からではなく、天魔や悪魔の側から契約を請われた人間のことだ。


 その契約の在り方から、少ない対価でも聖人となった契約者が受けられる恩恵は極めて大きなものになる。だが、契約の性質上、あくまでも対価と恩恵のレートが破格に良いというだけで、聖人であったとしても何らかの対価を支払わなければならないことには変わらない。


『ああ。アンジェリカは契約を持ちかけた我々に第一声でこう言ったのだ。『私の命はどうしてくれてもいいから、私の大切な人達のことを護ってください』とな』


 そう。


 地獄のような光景の中で、アンジェリカは願ったのだ。


 自分のそれまでの記憶と人々との関係を対価にして、大切な人々の無事と平静を。


 極限状態に追い込まれたわずか八歳の少女が、なのだ。


 つまり、その想いこそが天使も認める少女の本質であるということに他ならない。


 緊急事態に自分の身を守ろうと自然と働く生き物としての本能にすら反して、彼女は願ったのだ。直前まで恐怖に震えていた少女がひとつだけ起こせる奇跡の内容として、その恐怖を押し殺して無事を祈ったのだ。


 自分の大切な人の無事と平穏を、自分の世界を構成していたすべてを後回しにして。


 だが、その行為は誰にも感謝されることはない。


 それまでの自分のことを、誰も覚えてはいないのだから。


 その行為は、誰にも認知されない。


 自分自身ですら、助けた人のことを覚えてはいられないのだから。


 その行為に、意味などない。


 何故ならそれは、誰の世界も変えていないことになるのだから。


 それでも構わないと、少女は天使達に向けて叫んだのだ。


 自分がどうなっても構わないから、と。


 自分がその世界にいられなくても良いから彼らを護ってください、と。


 だからアンジェリカは契約の通りに、すべてを忘れた。


 それまでアンジェリカを知り、愛していた大切な人々は、彼女の願い故にアンジェリカのことを忘れた。


 この広い世界にそれまでの自分のことを知る人間は誰一人としていなくなった。たった八歳の少女が、自分がそれを願ったからそうなったということ以外のすべてを忘れた状態で、壊れた世界の中で聖人として生きていかなければならなくなったのだ。


『アンジェリカが我々に支払った対価は、通常の契約であったとしても大きな恩恵を受けられるほどのものだった。だからこそ、年若くありながら人類最強クラスの能力をアンジェリカは有している。迷える子羊達を救うために、過剰な対価を払った尊い決意の副産物としてな』


「ですので、私は当時の友人どころか、私のことを育ててくれた両親のことすら良く覚えていないのです。事件の後、私のことを引き取ってくださったカトリック教会の方々に教えてもらったことしか、私は両親のことを知りません」


 そう語るアンジェリカの表情に、しかし悲しみはほとんど感じられない。


 強い決意が確かにそこにあったのだと、八尋にはそう感じられた。


「それで、その記憶をお前は取り戻したいのか?」


「いえ。それは契約に対する正当な対価です。私は、ある人を探しているのです。探しているとは言っても、私はその人の顔も名前も覚えていません。ただ、私と同じ年頃の、男の子だったと思うんです」


「どうして、そいつを探しているんだ?」


「一言、お礼を言いたいのです」


「お礼?」


 予想外に大したことのない理由に、八尋は眉をひそめた。


「はい。事件の日、私はその少年に護られました。その少年が自ら犠牲となることも厭わずに私のことを庇ってくれたから、私は今こうしてここに在ることができるのです」


 昔のことを思い出すために、アンジェリカは目を閉じてゆっくりと思い出を語る。


 その声はどこか嬉しそうで、アンジェリカが本当にその少年に感謝しているのだと、そのはにかんだような表情を見るだけで感じることができた。


「他のことは覚えていなくても、その温かい思い出だけは私の心に残っていました。その記憶があったから、記憶をなくした私がカトリック教会に引き取られてイタリアに移住した後も自分を保つことができて、今こうしてここに在ることができるのです。ですから、あのとき私のことを守ってくれて、事件の後も私の心の支えとなってくれた……私の心を救ってくれた彼に、どうしても私はお礼が言いたいんです」


「つまり、その少年の善行が今のお前となる切っ掛けになった……いわば恩人ってわけか」


「はい。その通りです」


 八尋の問いをアンジェリカは肯定した。


 有名人なのだからメディアに呼び掛けて探せば良かったのに――その言葉を、八尋は直前で呑み込んだ。


 アンジェリカはおそらく、そうすることを良しとはしないだろう。彼女は自分のためになにかを為そうとしない。わずかな間とはいえ彼女とやり取りを交わしたからこそ、八尋は彼女の本質を理解しつつあった。彼女はそういう人間であり、だからこそ誰からも慕われている。


 だからこれはきっと、聖人たる彼女が初めて見せるわがまま。


 自らのためだけに助けを求めるということに対して、彼女は極端に消極的なのだ。


「だから、お願いします。なにか知っていることがあれば、私に教えてください」


 そんな彼女が、自分のためになにかをしたいという意志を持つほどの想い。


「知ってること、って言ってもなぁ」


 アンジェリカの真摯な言葉に、しかし八尋は困った表情を浮かべる。


 八尋だけでなく早苗もまた、八尋のそれに良く似た表情を浮かべていた。


「私もあの頃は四歳だから、さすがに覚えてないよ。ごめんね、アンジェ」


「いえ。もう八年の前のことですし、物心つく前のことです。無理もないことですよ」


「だけど、アンジェ。なにか手掛かりはないの?」


「それが……私も正直なところ、良く覚えていないんです。覚えているのは、私と同い年くらいの男の子で……私のことを『アリカ』って呼んでいたことくらいなんです」


「アリカ?」


「はい。アンジェリカだからアリカだと、その少年は言っていました。それまで……今もそうなのですが、私と親しい方はみんな私のことをアンジェと呼びます。アリカと私のことを呼んだのは、後にも先にもその少年だけです」


「アリカ、ねぇ」


 アンジェリカの答えに、早苗は少し考えるようなそぶりを見せる。


 それと一緒にアンジェリカも昔のことをなるべく思いだそうとしているようだが、逆に思考の盲点となっているのか、どうやら二人は肝心なことに気付いていないようだった。


「……昔この街に住んでいたのなら、子供の頃のお前じゃなくてお前の両親のことを覚えてる人間が誰か一人くらいいるんじゃないのか? 商店街の人達とか、近所の人とか、仕事場の同僚とかさ」


「あ、そっか。さすがお兄ちゃん」


 人々の記憶から消えたのはあくまでもアンジェリカの存在だけで、彼女の両親の記憶が消えたわけではない。間接的な関係性を手繰っていけば、いずれ辿り着ける可能性は十分にある。


 八尋のため息混じりの助言に、早苗は嬉しそうな表情を浮かべてアンジェリカと向き直った。


「私達は手掛かりを持ってないけど、商店街のおじさん達ならもしかしたらなにか知ってるかもしれないよ!」


「はい! もしかしたらこれで、なにか手掛かりが見つかるかもしれません。ありがとうございます、早苗さん。神楽威さん」


 手を取り合い、手掛かりが見つかりそうなことを喜びあう二人。


 よほど嬉しかったのか、その言葉の矛盾にすら気付いていない。


 だが、そんな二人を見て、八尋は苦い表情を浮かべながら逡巡する。


 無論、自分の予測が正しいとは限らない。八尋の考えはすべて取り越し苦労の勘違いで、アンジェリカと早苗の希望通りに事態は進んでいくのかもしれない。いや。仮に八尋の予測通りに事態が進んだとしても、今笑い合っている二人の喜びを安易に壊すことは躊躇われる。


 この世界には、知らなくても良いことがあると八尋は思っている。


 知ってしまったがために、余計なことを考えなければならないことがこの世界には多すぎる。なにも知らずに生きていけるならば、それはそれで幸せで平穏であり、八尋自身もそういう生活を望んでいる。


『…………』


 ふと天使達に視線を向けると、彼らも複雑な表情で笑い合うアンジェリカと早苗のことを見つめている。


 おそらく、彼らも薄々気付いているのだろう。


 そうなった原因という意味では、彼らはその一部始終を把握していることは間違いがない。


 そしてだからこそ、彼らがアンジェリカになにも言うことができない。


 それを言う資格など、彼らは持ち合わせていないのだから。


『やれやれ。人間も、天使も……難儀なものですね』


「仕方ないだろ。人間も天魔も悪魔も、いろんなしがらみに囚われ、縛られるものなんだ。そういう制約がないのは、絶対悪を司るお前くらいのものだよ」


『果たして、そうでしょうか』


「どういうことだ?」


『その絶対悪に見込まれたあなたも十分、縛られなくても良い存在ですよ。八尋』


「…………」


 そう八尋に伝えたアンリは、珍しく神妙な表情を浮かべていて。


 その言葉の意味するところに、八尋は頭を振って答えた。


「なにかに縛られるからこそ、俺達は人間なんだよ」


『およよ。連れないですね』


「と言うかお前、自分でも分かってて言ってるだろ」


『てへぺろ、です』


 実にわざとらしく舌を出し、アンリはおどけた表情を浮かべる。


 その表情に、八尋は今日何度目かになるため息を吐かずにはいられない。

 このアンリ・マユという存在は八尋の本質を理解していてなお、敢えてそのような言葉を投げかけるのだ。まるで悪い誘惑のように。あるいは、そうしなければ自分が自分でなくなると主張するかのように。


「ところで、お兄ちゃん」


 アンリがいるにしては珍しく、真面目な空気が漂う八尋家の食卓。


 その空気を、不意に変えたのは早苗だった。


「さっきから気になってたんだけど……外のアレも、お客さん?」


 それは彼女にとっては、ごく当然の疑問だったのだろう。


 不安そうな表情を浮かべ、早苗は八尋にそう尋ねた。


「いや。アレは違うな」


「なら、いつまで放っておくの?」


「そんな心配するなって。実は、アンジェリカを連れてきて、ついでに天使達にも食事を振舞ったのはそういう意図もあったわけなんだ」


 会話を続けながら八尋は箸を置き、暗くなったというのにカーテンを閉めていないリビングに面したガラスの引き戸に向かって指を指す。


 まるで、それが合図であったかのようだった。


「絶対悪とその契約主に加えて、本物の聖人と天使が四柱」


 八尋が指差した瞬間なんの前触れもなく、庭に面した引き戸のガラスが音を立てて粉々に砕け散り。


「この中に単独で突っ込んできて……敵うやつは個人レベルではほとんどいないだろうからな」


 家の中に一人と一柱、一目で普通ではないと分かる存在が侵入してきていた。


「アンリ、フォーメーションF。早苗は待機。アンジェリカ、天使共。早苗を護ってくれ。狭いからミカエルだけでいい。他は(エーテル)体に戻せ」


『了解しました』


「は……はい! 天使達!」


 頷き、椅子から下りて前に出るアンリ。


 アンジェリカと天使達も驚愕の表情を浮かべ咄嗟に動けなかったものの、八尋の有無を言わせない声色に弾かれるようにして前に出て、ミカエル以外は(エーテル)体に戻した状態でそれぞれの得物を構えた。


 そして最後に八尋がゆっくりと椅子から立ち上がりながら、ようやく乱入者達へと視線を向けた。


 ガラスの破片が散らばった十二畳のリビングと、そこに仁王立つ一人と一柱。


 そのうちの一人は体格から見て身長一七〇センチほどの、おそらく日本人男性。狩衣に烏帽子を被り、尺を手にしたその古風ないでたちの中でなにより目を引くのは、顔を隠すために付けた童子面――能で用いられる男を表す面――だった。


 そしてその傍にいるのは、人の身体と同じ太さほどの胴を有し、その胴体の半分程度の長さの太刀を頭から生やした大蛇。全長は胴体だけでおよそ三メートル。その特徴的な姿は、八尋のように知識を持つ人間ならは一目で正体を看破できる。


 まつろわぬ神、夜刀神(やとのかみ)


 その一人と一柱は八尋達を睨みつけたまま、しかしその場から動こうとしない。


 その姿は、慎重に様子をうかがっているようにも見える。


 しかし八尋には、不意打ちも可能だったというのにダイニングの様子を見て何もできなかった能面の男の態度からも、そしてその傍らにいる夜刀神の表情からも、まるで予想外の珍客に驚き、戸惑っている様子が手に取るように感じられた。


「どうした、正義の味方。俺とアンリ以外にも天使が四柱もいて驚いたのか?」


 アンジェリカや早苗に向けるそれとはまた違う、乱暴で挑発的な言葉を八尋は投げかける。


 図星だったためか、八尋の煽り言葉に能面を被った男の肩がビクリと震えた。


 その態度だけでも、その男が実戦にまだ不慣れであることが簡単に見て取れた。


「しかし、一体いつからそこに……?」


「気付かなかったのか? あいつ、商店街くらいからずっと俺達のことをつけてたぞ」


 八尋の言葉に、アンジェリカの表情が驚愕に染まる。


 そしてそれは、能面を被った男達も同じだった。


 どうして気付いている――そんな動揺が、能面の上からでも分かるくらいに滲みだしていた。


『それで、向こうもこちらをつけていながら、通常とは違う戦力に気付けなかった、と』


「気付けなかった、のですか?」


「そういう識能を常に発動させているからな。アンリくらいの格になると、近付けば分かる奴は分かるだろうが……尾行するような距離にいたら、普通の子供に見えるだろう。顕現していてもそれなんだ。お前の天使達のように、(エーテル)体化もしてない状態だと上位の看破の識能がない限りその存在には気付けないだろうよ」


『私自身も、そこの天使達と違って普段から力は抑えてますから』


 高位の存在になればなるほど強力な識能を有する傾向にある天魔や悪魔との戦いにおいて、その識能を知っているか否かで勝敗は決まるといっても過言ではない。


 例えば、天魔や悪魔の中にはヤドリギの枝でしかダメージを与えない存在や、見ただけで死ぬ魔眼を持つ存在がいるのだ。極端な例ではあるが、それを知らない限りその存在を倒すことはできないだろう。逆に言えば、識能さえ知っていればどのような相手でも対処は可能であるということは神話でも証明されている。


 故に八尋は常に識能によって、自分達の情報を秘匿するようにしているのだ。


「ですが、彼は一体どうして八尋さんのことを――」


「興味ないな。どうせ、どこかの正義の味方気取りの阿呆だ」


 興味がない。どうでもいい。


 その一言で、八尋はアンジェリカの疑問を両断した。


『ですね。自分の行いが正しいと、正義であると、世界の常識であると、そう信じて疑うことのない……下手な悪よりもタチの悪い正義の味方(おろかもの)です』


「俺は絶対悪と契約しているわけだからな。正義の味方に襲われる心当たりがあり過ぎて今さら興味も浮かばないし、相手の立場がどうあろうと、主義信条がなんだろうと、俺達がすることは変わらない。抵抗する気が起きなくなるまで叩きのめして、情報を引き出すだけだ」


『まぁ……強いて言うなら、彼が夜刀神と契約したのは割と最近でしょうね。加えて、正義の味方面して俺達を襲ったはいいものの、事前の調査が甘かったのか。私達の戦力が予想以上に過剰で、そこの素人君は戸惑っているのでしょう。間抜けですね』


 やれやれ情けない、といった様子でアンリはわざとらしいため息をつく。


 それから、改めて相手を蔑むような視線を向けて。


『隠れているつもりが自分達の存在に気付かれて衝動的に突撃する。それなのに、相手の戦力が予想以上だったから直前になってたたらを踏む。随分と優柔不断ですね。そんな中途半端な覚悟の正義気取り、厨二病にも劣る安い正義感を、みっともないとは思わないのですか?』


 心の底から楽しんでいると分かるほど悪意に満ちた笑みを浮かべて、アンリは相手のことを侮辱している。無論、相手を挑発しリズムを崩すという思惑もあることは間違いない。


 だがそれ以上に、純然たる悪意によってアンリは能面の男達を馬鹿にしているのだ。


 その隠すつもりもない心からの嘲りは、実に愉快そうに口元を歪ませたアンリの表情からも漏れていた。


「き、貴様……!」


 肩を震わせ、能面の男の喉から絞り出すような憤怒の声が漏れた。


「この、私を愚弄するなど――」


「御託はいいからかかってこいよ」


 その言葉を、八尋は自身の声で遮った。


「お前のくだらない正義感は、俺達の悪意には敵わないからさ」


「――夜刀神!」


 激昂。


 感情のままに腕を突き出した男の声に合わせ、頭の太刀を八尋に向けて夜刀神が飛び出す。


「アンリ。その蛇を叩き出せ」


『了解しました』


 その攻撃の前に躍り出たアンリが無造作に、迫りくる太刀目掛けて腕を振るう。夜刀神の頭から生える大太刀と、普通の少女のそれと変わらないアンリの華奢な腕。そのふたつがぶつかり合った瞬間、夜刀神の頭の太刀がまるで砂糖細工の如く粉々に砕け散った。


 音を立てて宙に舞うそれは、明確な敗北の証。


 リビングに散らばった窓ガラスの破片と共に、砕けた鉄の欠片が床に散らばっていく。


『脆いですね。この程度ですか』


 鱗で覆い尽くされた顔を驚愕に歪める夜刀神に向けてアンリは失望の言葉を投げかける。それから間髪入れず、その太刀を砕いた華奢な腕で夜刀神の鼻面に向けて拳の一撃。ごう、と鈍い音を立てて夜刀神は床とほとんど水平に吹き飛ばされ、神楽威家の庭に叩き出された。


「な……馬鹿な、日本の神が……古錆びた宗教の〝悪神〟如きに一撃、だと……!?」


 庭に投げ出されたまま、打ち上げられた魚のようにピクリとも動かない夜刀神。ぐしゃりと潰れた頭をアンリは一瞥することもなく、能面を被っていても隠しきれないほどの驚愕の表情を浮かべる男と改めて向かい合っていた。


『私の持つ十六の識能のうち、代表的なものは破壊と無知と毒です。故に、あなた達が私のありがたい説法に聞き入っている間に仕込ませていただきました。そうなるまで私の説法を聞いてくださるとは、あなたは随分とお優しいのですね。ありがとうございます』


 ペコリと、アンリは慇懃無礼な言葉と共に頭を下げる。


 それだけで。


 たったそれだけの仕草で、男は目に見えて分かるほどに狼狽していた。


「ここは日本なんだぞ! 日本の国土の中で、日本の神が他宗教の神に負けるなど、ありえるものか!」


 ドンと、能面の男は苛立ち紛れに床を踏みつけた。


 それは信じられないのではなく、信じたくないという意志の表れ。


 今や世界中に知れ渡る常識を覆したアンリへの、非難にも近い悲鳴だった。


『はい。良い子ですから、現実を受け入れましょうねー?』


「素直に降参して情報を吐けば、命は助けてやるぞ? ……あと、お前はもうちょっと真面目にやれ」


『んもう、いけずですね』


 契約側の存在を失った能面の男に余裕を見せる八尋。


「いや。お前達の負けだ」


 しかし、新たに背後から聞こえた否定の声に、八尋達はほとんど同時に振り向いた。


 果たしてその視線の先には、般若面を被った大柄な男と。


「お兄ちゃん……」


 その男に動きを封じられ、首元に短刀を押し付けられた早苗の姿があった。


「早苗さん!?」


「裏取り、か……!」


 震える早苗の声に、八尋の表情が歪む。


「そうだよな。いくらなんでも、一人で襲撃するわけがないものな……」


 吐き捨てるように、八尋はそう一人ごちた。


 目の前に現れた方の男が一目で分かるほどの素人だったためか。


 それともアンジェリカがいるからと、意識しないうちに油断していたというのか。


 いや。原因など今はどうでもいい。すべては自分の詰めの甘さが招いた事態。これだけの戦力差があるからと、そこで思考を停止させていた自分の責任。一人が自分達の気を引いているうちにもう一人が背後を取ることも、経験の薄いアンジェリカや天使達が不意打ちに対応できないことも、車椅子のため動きの自由度が低い早苗が人質として真っ先に狙われることも、すべて予測できたことだ。


 だからこそ、心の底から腹が立つ。


 早苗を人質に取った正義の味方にも、早苗を人質に取らせた自分自身にも。


 絶対悪をわざわざ討伐しに来るほどの正義の意志に、遅れを取ってしまったことも。


「ごめんなさい、お兄ちゃん……」


「すみません、神楽威さん。私達が未熟なばかりに……!」


「気にするな、早苗。アンジェリカ」


〝悪い〟のはすべて、自分なのだから。


「早苗。少しの間、目を閉じていてくれ。その間に、全部終わらせるからさ」


 そう早苗に伝えた八尋の表情は、こんな状況にありながら異質なほどの穏やかで、優しいもので。妹への――家族への愛情に溢れた、八尋の本質を知らない人物にはありえないと思わせるほどに慈愛に満ちた微笑みだった。


「……うん、分かった」


 素直に言うことを聞き、早苗が目を閉じてくれたことに八尋は安堵する。


 こんな自分を、早苗はまだ信じてくれている。


 そんなことが、なんだか無性に嬉しくて。


 そのときの八尋が浮かべていたのは、場違いな安心に緩む穏やかな微笑み。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸するその様子は、まるで山頂に辿りついた子供がめいいっぱい息を吸おうとしているかのように邪気がなく、悪意の微塵の欠片も感じられないもので。


 しかしその優しい表情は、八尋が閉じた目を再び開いた瞬間、豹変した。

「っ……!」


 それは、本当に突然の変遷だった。


 八尋が放つどす黒い〝悪意〟に般若面の男も、未だリビングに突っ立ったままの童子面の男も、八尋の傍にいるアンジェリカですらも声にならない悲鳴をあげた。


「覚悟はできてるな?」


 黒い。思わずそう形容してしまいそうなほどの低い声。


 それは、怒気などという生易しいものではない。


 激怒という表現でもまだ足りない。


 八尋の放つ悪意に周囲の空気が変質し、まるで冷えたコールタールのように肌に絡みつく。神経に氷が直接触れてしまったかのように身体が震え、その視線を向けられるだけで冷や汗が流れ落ちる。その視線は膨大だと思えるほどの熱量を持ち、それなのにひどく寒いと感じてしまう。


 それほどまでに巨大な悪意を持ちながら、八尋の表情は驚くほどに無表情。


 故に、その場にいる誰もが理解した。


 八尋が、早苗を助けるためならば手段を選ばないということに。


 今の八尋は、殺しですらも厭わない。


 心を少しも痛めることもなく、眉ひとつ動かすこともなく、八尋は人を殺すことができる。


 だがその身体を突き動かすのは怒りや恨み、憎しみに類する感情ではない。


 ただ必要だから、八尋はそうすることができるだけだ。


「く……だが、どうするつもりだ? 人質はこちらにあり、頼みの綱の悪神も天使も俺とは距離がある。(エーテル)体の天使の接近も俺は感知することができる! 仮にそいつらが動いたとしても、俺がこの娘を傷つける方が早い!」


 声を荒げ、般若面の男が早苗を自らに引き寄せ短刀の刃を小さな悲鳴をあげた早苗の首筋に押し付ける。その薄い肌がわずかに切れ、赤い筋に血が滲む。


 それが、引き金だった。


「――ドゥルジ!」


 空気が震えるほどの声量で、八尋が声を張り上げる。


 その咆哮と同時に、般若面の男の背後に突如として実体化した悪神が召喚される。その存在に男が気付いた頃には、その悪神は短刀を握る男の腕を掴みあげていた。途端、その悪神に触れられた腕がジュッと音を立て、短刀を握ったままボトリと腐り落ちた。


「――――ぎゃあああああああ!?」


 男の叫び声と共に、肉が腐る嫌な匂いが八尋達の鼻孔を突く。だが八尋はその悪臭にも、生きたまま腐り爛れ落ちた男の腕の惨状にも眉ひとつ動かさずに般若面の男に素早く近寄り早苗を保護、呻く男を背後から思い切り蹴り付けた。


「ドゥルジ。やれ」


 そう告げる八尋の瞳が、般若面の男の腕を一瞬で腐らせた悪神へと向けられる。


〝不義と偽りの神〟ドゥルジ。


 アンリ・マユと同じゾロアスター教の中でも不義、虚偽、不浄を司る、髪の長い女性の姿をした悪神は八尋の指示に従い、微笑みを浮かべながら床へと転がった男へと再び手を伸ばす。


 しかし、触れた者を生きながらにして腐らせるその腕は、浄化の力を持つ一振りの剣によって阻められていた。


「……どういうつもりだ、アンジェリカ」


 早苗の身体を抱きかかえたままの八尋が向けた、一介の男子高校生が浮かべてはならないほどに冷酷な視線にアンジェリカは怯み、一歩後ずさる。その瞳が伴うのは、八尋が男達に向けていたものと同じ漆黒の悪意。


 だが、アンジェリカはそれ以上は引こうとはしなかった。


 八尋の前で瞳を閉じ、深呼吸をひとつ。


 それからアンジェリカは八尋の目を真正面から見つめ、臆することなく語りかける。


〝年頃の少女〟から〝聖人〟への変遷。


 その瞳には確かに、八尋の悪意に負けないほどの意志が込められていた。

「それは、ダメです。例えどのような理由があろうと、人を殺めることは許されない大罪です。私の目の前でそれを……あなたが罪を重ねることを、赦すわけにはいきません」


「違う。例えどんな理由があろうと、そういう奴らを生きたまま逃がせば禍根が生まれる。そいつらは今ここで、俺の手で殺さないとダメなんだ」


 八尋もアンジェリカも、自身の主張を曲げようとはしない。


 絶対に混じり合うことのない、聖人と絶対悪の信念。


「何故、殺すことにこだわるのです?」


「話し合いで済むならば、それもいいだろう。だがこいつらは話が通じるような相手じゃない」


「まだ、会話らしい会話もしていないのにですか?」


「する必要もない。どう言葉で取り繕うとも、和解などありえない。〝絶対悪〟を倒そうとする正義の味方は、これまで例外なくそうだった」


 表情を変えず、平行線の議論を二人は繰り広げる。


 その隙を、手負いの相手が見逃すハズがなかった。


「……ぅあ、あああっ!?」


 不意に立ち上がった般若面の男は悲鳴に近い呻き声を上げ、左手で腐り落ちた右腕の傷口を押さえ、腐敗した黒い血を流しながら八尋達に背を向けて走り出した。気付けばいつの間にか童子面の男も夜刀神を(エーテル)体に戻し、リビングから通じる庭に躍り出ていた。


「逃がすかっ!」


「させません!」


 八尋の意志に呼応し、ドゥルジが背を向けた般若面の男に向かって腕を伸ばすも、その腕は先ほどと同様ミカエルの刃によって阻まれた。


「アンリ!」


「ウリエル! ガブリエル!」


 アンリの放った火球がウリエルの炎を纏った剣により打ち消される。追撃をかけようと足を踏み出した八尋もまた、その背後に召喚されたガブリエルによって羽交い絞めにされていた。


「くそ! アンジェリカ! 邪魔をするな!」


 人間の身体能力ではどう足掻いても天使には敵わない。


 それを知っていてなお、八尋は激しく抵抗を続ける。


 それは八尋らしくない、非合理的で無駄な行い。


 分かっていても抵抗せずにはいられないほど、八尋の頭には血が登り切っていた。


「いい加減にしなさい! あなたは早苗の前で、罪を犯すと言うのですか!」


「っ……!」


 怒気のこもったアンジェリカの声に、八尋はアンリから視線を逸らした。


 必要ならば人を殺すことなど厭わない。


 目的のためならば手段を選ばない。


 そのためならば、他人がどうなろうが関係がない。


 それが、八尋が持つ悪意に基づいた信念の在り方。


 しかし、どうしても。


 それでも早苗の前だけでは、八尋はそう在りたいとは思えなかった。


 早苗には、そう在らなければ生きられない世界に可能な限り関わらせたくない。


 それは、自身の悪性を自覚する八尋の明確な弱点にして、悪であり続ける理由。


「……すまん。つい、頭に血が登ってた」


「いえ。それよりも、八尋さん」


 不意に、八尋の自由を奪っていたガブリエルの拘束が解かれた。


 天使の意外な行動に戸惑いを見せる八尋にアンジェリカは近付き、八尋の頬をそっと撫でた。


「私にはあなたが、泣いているように見えます」


「……俺は、泣いてなんかいないぞ」


「いいえ。あなたは自分は悲しくないと、平気なのだと……自分が悲しんでいると分からないほどに、苦しんでいます」


 真っ直ぐに、ハッキリと、アンジェリカは八尋の言葉を否定する。


「あなたはすべて〝自分が悪い〟のだと、そう思っているのですか?」


 アンジェリカの言葉に、八尋の心臓が跳ね上がった。


 心を見透かされたと、八尋はそう感じた。


 これまで誰にも打ち明けたことのない、魂が契約の糸で繋がったアンリしか知らない自身の本質を指摘されて八尋はこれまでにないほどに動揺し、ただ茫然とすることしかできない。


「八尋さん」


 しかし八尋の心の奥底を見透かしたアンジェリカが次に出した声は、八尋を糾弾するでも責めるでもなく、むしろ労いのような、ひどく優しい感情が込められていて。


 その表情に、自分に向けられた八尋が苦手な感情に、八尋の顔がほんの一瞬だけ泣き崩れそうに歪む。だが、泣いてはいけないと思った。自分の感情をぶちまけてはいけないと思った。ぐっと唇を噛み、なんとかして表情を固定する。


 何故なら自分は、〝絶対悪〟なのだから。


「ずっと一人で、抱えてきたのですね」


 アンジェリカは八尋の身体を自分の胸へと引き寄せ、優しく抱きしめた。


 まるで母親が、哀しむ子供を慰めるように。


 抵抗は、できなかった。


 抱きしめられた温かさが、自分の心を溶かすようだった。


 たったそれだけで自分のすべてが赦されたような、そんな気がした。


 そんなこと、あるわけないと分かっているのに。


「話してください、八尋さん。あなたがご両親の命を対価に奉げてまで絶対悪と契約を繋いだ、その理由を」


 アンジェリカに抱かれたまま、八尋は考える。


 いずれはそうなるかもしれないと、可能性だけは考えていた。


 そこに、世間知らずの聖人の同情を誘うつもりがないと言えば嘘になる。


 打算的な感情が、それ以上の追及を逃れるための策が少なからず心の中にある。


 今の自分が、決して平静ではないことも分かっている。


 だが、それらすべてを考慮に入れたとしても。



 八尋はこの少女にそれを聞いてほしいのだと、確かにそう感じていた。


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