1.ふたつの炎
おそらく、どう足掻いても激突は避けられなかったのだろう。
何故ならキリスト教の正義達が示すのは絶対正義であり、アンリ・マユが司るのは絶対悪なのだ。ある意味では、アンリ・マユと相反するゾロアスター教の〝最高善〟以上に両者の相性は悪いものだろう。
「アンリ!」
八尋の指示と共に、霊体から実体となったアンリ・マユが天使達の前に躍り出る。その身にまとうのは、拝火教が神聖なものであると崇める炎。その華奢な腕を前に突き出すと同時に、膨大な熱量を伴った赤紫色の炎がアンリの腕から放たれる。
「ウリエル!」
対して、少女を守るように盾を構えていたウリエルも同様に実体となり、剣を構えてアンリの前に躍り出た。神の炎の持つ焔の剣。浄化の炎をまとった大剣がアンリの放った火炎を薙ぎ払い、悪意の炎を跡形もなく打ち消した。
「ミカエル!」
『悪しき者に断罪の刃を!』
ここにきて容赦などする気はないと、そういうことなのだろう。
間髪入れず、八尋に向かってミカエルが長剣を振り上げ襲い掛かる。
人間よりもはるかに優れた能力を有する天使の、跳躍ではなく翼を用いた飛翔による強襲を、しかし八尋は事も無げに回避した。
『な……ただの人間に、天使の一撃が!?』
「来ると分かっていれば一回くらい避けられるに決まってるだろうが」
回避の勢いを殺さず地面を蹴り、小馬鹿にしたような態度を取りつつも一旦ミカエルから距離を取る八尋。対してミカエルは八尋に追撃をすることもなく、驚愕を顔に張り付けたまま長剣をその場で構え直すだけだった。
容赦はしないが、追撃の判断を下すことができない。
それはつまり、目の前にいる聖人と天使達は戦いに慣れていないということに他ならない。
そう分析した八尋は、その結論を元に手札を一枚切ることを決断した。
「アンリ。追加契約だ。今から五分間の身体能力強化と耐火性の付与。対価は、前から欲しがってた『酒神店』のビンテージワインでいいか?」
『いいでしょう。契約成立です』
ウリエルと炎をぶつけ合いながら、アンリが八尋に答える。
そのやり取りにミカエルも、少女も、その顔に浮かべていた驚きをより濃いものにしていた。
「対価の後払い……そんな、絶対悪とそれほどまでの信頼を!?」
『そこまで絶対悪と心を通わせるとは、度し難い悪め!』
吼える大天使が、再び八尋に向かって剣を振り下ろす。
人間の動体視力では認識不可能な速度で振り下ろされた長剣の、刃の腹を殴ることで八尋は軌道を逸らす。すでに契約は履行され、八尋の身体能力は防御に集中すれば天使に対抗できるまでに引き上げられていた。
『無駄な足掻きを!』
炎のドームに包まれた屋上で繰り広げられる、神の炎と悪の炎、大天使と絶対悪のぶつかり合い。アンリが炎を放てばウリエルが焔の剣でそれを打ち払い、ミカエルが長剣を振り下ろせば八尋は拳で刃の腹を弾いて軌道を逸らし受け流す。そのどれもが必殺の一撃であり、ただの人間が喰らえば一瞬で灰燼と化すほどの威力を有している。
だが、その中でも最も異常なのは天使や悪神の戦闘能力ではなく、八尋の判断だろう。
魔法ではなく契約によって身体能力を向上させたとはいえ、その肉体はただの人間のものだ。刃を逸らすタイミングが僅かでもずれれば死は免れない。それを理解しておきながら、危険を顧みず自ら対価を払って前に出る。
その判断ができるということが、人間としてはあまりに異様なことであり。
そして、ただの人間に対して打ち合いが成立しているということに、先に焦れたのはミカエルの方だった。
『……ならば、これでどうだ!』
ミカエルがそう叫んだ瞬間、ミカエルが持つ長剣がウリエルと同じように炎に包まれた。
元来、四大天使の一柱であるミカエルは火のエレメントを司っているのだ。神の炎と称されるウリエルと同様、炎を操ることに長けている。
触れるだけで相手を一瞬で燃やし尽くす火炎を刃に纏わせるなど、容易なことだ。
『ハッ! いくら耐火性を付与しようとも、身体能力を強化しようとも、生身の人間では炎を纏う刃を直接殴ることはできまい!』
「確かに、それは無理だな」
事実、八尋はミカエルが刃に炎を纏った瞬間に後ろに跳び、間合いを再び空けている。
触れるどころか近付くだけで危険だと、瞬間的にそう判断したのだ。
『悪は正義に裁かれる定め! これでもなお、貴様は――』
「ほいっと」
炎を纏う長剣を掲げたミカエルに、八尋はなにかを投擲した。
それは筒状の、小型のボンベのようなものであり。
『なんだ、こんな物!』
ミカエルがそれを長剣で切り裂いた瞬間、それは轟音をたてて爆発した。
『むおっ!?』
突如として発生した予想外の爆炎に、ミカエルは思わず身を守る体勢を取る。
八尋が投げたそれは、アスリートが使用する携帯用酸素缶だった。炎を使うアンリを補助するために普段から携帯しているそれを炎を纏った剣で切れば、内部の酸素に引火して爆発するのは当然のことであり。
その爆発によって生じた隙を突いて、八尋は一気にアンジェリカとの距離を詰めていた。
「ひっ!?」
不意打ち気味の八尋の動きに、声を上げて驚くアンジェリカ。
おそらく、戦闘行為そのものに不慣れなのだろう。
混戦により援護しづらい状況だったということもあるが、概念存在と契約したことで得られる副次的な能力――魔法を戦闘行為に使わず、また八尋が最も簡単な部類の魔法であるハズの身体強化を魔法ではなく、追加契約によって発動させたことにもさしたる疑念を抱かず、アンジェリカはただ八尋達の戦いを見ているだけだった。
それだけで、勘の良いものなら気付いているだろう。
アンリ・マユと契約しているにも関わらず、八尋が魔法を使うことができないということに。
八尋が、魔法を使うことができないほどに脆弱な〝契約者〟であるということに。
しかし、それに気付けないからこそアンジェリカに生じている、絶対的な隙。
ウリエルは初めからアンリ・マユが抑えている。
ミカエルは事態に気付いてアンジェリカを守ろうと動き始めたが、八尋の拳が届く方が早い。
ラジエルにはそもそも戦闘能力が無い。
戦闘行為に不慣れであるということは、アンジェリカ自身にも不意打ちに対抗できるほどの戦闘能力は無い。
今のアンジェリカは隙だらけの、無防備な状態だった。
「くっ――ガブリエル!」
だが、このまま攻撃がアンジェリカに通るなどと、八尋は端から考えてはいなかった。
何故ならアンジェリカは世界最年少の『聖人』なのである。彼女が四体の天使と契約していることは世界的にも有名なことであり、そのうちの最後の一柱をこの場ではまだ顕現していなかったのだから。
〝神の人〟〝告知天使〟
正義と真理の象徴である剣を携えた女性の姿をした天使、ガブリエル。
「っと」
その顕現を認識し、八尋は即座に攻撃を中断して三度アンジェリカから距離を取る。
その距離が空いた頃には、三体の天使が実体となってアンジェリカを守るように彼女の前で剣を構えていた。
「ようやく守護天使三柱の登場か」
『ですね。敵ながら、中々に壮観な光景です』
そして八尋の傍らにも、ウリエルとの戦闘行為を一旦中断したアンリ・マユが八尋と並んで天使達と相対していた。
「天使四柱と契約しただけでなく、一度に三柱も実体化できるのか。さすが、世界最年少の聖人だな」
『有名すぎるというのも、情報戦という観点から見れば考え物ですがね』
「……天使三柱を前にして、随分と余裕ですね?」
「まぁ、今さら慌てても良いことはないしな」
改めて八尋のことを脅威であると警戒したのか、真剣な表情を浮かべたままのアンジェリカ。
天使達も、今のような隙を生み出さないようにしているのだろう。あるいは、アンジェリカに仕える者としてすべての判断を任せたのか。余裕や嘲りの表情を捨て、口を開くこともなく、ただ八尋とアンリのことを警戒し続けている。
そんな彼らに対し、八尋は飄々とした態度を崩そうとしない。先程まで放たれていた天使が怯むほどの怒気も、戦いに対するあらゆる感情も見せず、ただ平然と相対しているだけの姿。
同じ場にいるというのに、ひどく対照的な姿だった。
「先ほどミカエルに言われたこと……もう怒っていないのですか?」
「…………暑いな、ここは」
「え、ええ。これだけ炎に囲まれていれば、暑いのも当然でしょう」
唐突な話題の転換に、アンジェリカは少しの動揺を持って答えた。
アンリが生み出した炎によって包まれた屋上は、八尋が言う通り気温がかなり高くなっている。それでなくても、ウリエルやアンリ、ミカエルの能力で炎を出していたのだ。アンジェリカも八尋も、全身からは滂沱のように汗が流れている。体感温度でおよそ四十度ほどだろうか。このままこの場に留まれば、そう遠くないうちに熱中症になってしまうだろう。
そこまで考えて、アンジェリカは気付いた。
「もしかして、高熱によって判断力や身体の動きを鈍らせるつもりなのですか?」
「いや。もっとシンプルだ」
「それは――」
どういう意味なのか。
そう言葉を紡ごうとしたアンジェリカは不意に、ひどい目眩に襲われた。
それだけでなく、ひどく息苦しく、頭が割れるように痛む。
思わず頭を押さえ、倒れそうになる身体をアンジェリカはなんとか立て直した。
「くっ……まさか、酸素を……っ」
炎を燃やせば当然酸素が消費される。通常であれば周囲から不足した酸素が取り込まれ空気中の酸素濃度は一定に保たれるが、今はアンリの炎によって空間が遮られているのだ。酸素供給が断たれた状態で、それでも炎を燃やし続ければこうなるのは当然のことだ。
人間が生存できる閾値以下にまで酸素濃度が低下し、酸欠の症状にアンジェリカは苦しみ始めた。
「ですが、条件はあなたも同じで……!?」
ふらつく身体を自制してアンジェリカは八尋に視線を戻し、改めて視線に収めた八尋の姿に目を見開かんばかりに驚いた。
ミカエルに投げたのと同じ酸素缶を、八尋は本来の正しい用途に使用していたのだ。
すなわち、付属の吸引器を使って中の酸素を吸っていたのである。
「そ、そんなのって……」
「実体を持たない天魔や悪魔が世界に物理的に干渉するためには、契約者の精気を使って実体になることが必要だ。なら、天魔や悪魔をまとめて相手にするには、契約者の意識を奪って精気の供給を断つのが一番手っ取り早い」
吸引器を使用しながら、八尋が語る。
だが、その言葉が中々アンジェリカの頭に入って来ない。
猛烈に酸素を求める身体は、気付いた頃には意識を保つだけで精一杯なほどに追い詰められていた。
『アンジェリカ、気をしっかり持て!』
『そうです! 私の識能で、水を操って――』
「水源ではなく空気中から水分を生み出すには、契約者の精気の供給があまりに弱り過ぎているな。それとも、契約の糸を辿って無理にでも精気を供給させるか?」
『くっ……!』
明らかに自分達を小馬鹿にした物言いに天使達が歯噛みする。
だが、精気の供給がほとんど断たれた今となっては、八尋に攻撃するどころか実体を保つことすら難しくなっている。
勝負は、すでに決したも同然だった。
「ああ、さっきの質問だけどな」
酸素を失い、薄れゆく意識の中で。
「怒っているに決まってるだろうが。窒息なんていう、とびきり苦しい方法で意識を奪う程度にはな」
天使達がとうとうエーテル体に戻り、八尋の感情のこもった言葉がいやに心に響き、平衡感覚を失って身体が傾き始めたことを認識したところで、アンジェリカの意識は途切れたのだった。