15.絶対悪の天使様
病室の窓から見える空は、実に清々しい青色だった。
考えてみれば、なにも考えずにこうして空をじっくりと眺めるなど初めての経験かもしれない。日常生活に、あるいは非日常生活に忙殺され時間的にも精神的にも余裕がなかったが、時間的な余裕のできた今、暖かい風の吹く五月の空を頭を空っぽにして眺めるのも悪くはないのかもしれないと八尋は感じていた。
「現実逃避はいいですから、私の話を聞いていただけませんか?」
しかし無想に入ろうとした八尋の思考は、棘のある声に強制的に引き戻された。
「……だから、もう終わった話だと言ってるだろ」
「そういうわけにはいきません!」
心底どうでもよさそうな八尋の言葉に、アンジェリカは反論する。その手にあるのは、見舞い用の果物の盛り合わせ。それを八尋がいる個室のテーブルチェストに置いてから、改めてアンジェリカは声を張り上げた。
「まだ、肝心のあなたが救われていません。ですから、あなたが救われるまで、私は意地でもあなたの傍を離れません!」
あの事件が終わってから八尋が目を覚ましたのがおよそ一日半後、そして今日はその事件から更に三日が過ぎた五月一日。その間中、アンジェリカはずっとこうなのだ。
元から人の意見を聞かないところがあったが、どうやらあの一件からその傾向はさらに強まったらしい。それは果たして人間として成長したということなのか、それとも人としての歪みがより強くなってしまったということなのか。その答えを出すのは早計だとは思うが、少なくとも八尋にとって、アンジェリカがより厄介な相手になってしまった、ということだけは確定的なことだった。
「いいよ。俺はもう、十分救われてる」
「いえ。まだです。……左腕、なくなったんですよね。私のせいで」
悲しみに顔を歪めたアンジェリカの視線の先にあるのは、中身のなくなった八尋の患者着の左腕部分。たった十数秒の、業火の刃の強化。それだけのために失われた左腕のことを、八尋は少しも後悔していない。
「違う。お前のせいじゃない。これはあくまでも俺の責任。俺は俺のために左腕を対価として支払ったんだ。それを、勝手に責任を感じるな。迷惑だ」
実にうっとおしそうに、八尋はアンジェリカの視線を振り払うように言葉をぶつける。
必要だからそうしただけなのだ。
それは八尋にとって、アンジェリカが悲しむ理由にはなってはいけないことだった。
「俺の話はいい。それよりも……あの男の顛末はどうなりそうなんだ?」
本当は、もっと言いたいことがあるのだろう。
だが、八尋が明確に、アンジェリカの言葉を受ける気がないことを示したから、なのか。
しぶしぶといった様子で、アンジェリカは八尋の問いに答え始めた。
「……カトリック教会が集めた情報によると、どうやらあの男は軍人崩れ(エクスミリタリー)……元は自衛隊の特殊部隊に所属していたようです。ですが、思想や行動が苛烈過ぎたために結果として除籍され……それでもその意志に殉じるために天津甕星と契約を行い、同士を集めて組織を創り、自らの正義を貫くために〝正義〟を為していたようです」
『なるほど。つまり、私が言った正義の味方崩れ(エクスヒーロー)とは的を得ていたのですね。さすが私です』
「嘘付け。適当に言っただけだろうが」
いつも通り、前触れもなく実体化し、遠慮なく二人の会話に入り込む悪神。それから、早速アンジェリカの持ってきた果物の皮を剥いて食べ始める辺り、アンリは本当にぶれないし、変わらない。
なにが起こっても、誰が相手でも、彼女はきっと変わらないのだろう。
「……今は当然、関係者を含めて身柄を拘束されています。天津甕星を始めとした神々との契約も解除され、おそらく二度と世情には戻って来れないそうです」
「そうか。なら、それでいい」
アンジェリカが八尋に伝えた、八尋の世界を悪意なしに壊そうとした〝正義の味方〟の末路。
それを聞いた八尋の表情はなんの悪意も敵意もない、実にさっぱりしたものだった。
「……意外です。てっきり、脅威は排除しなければならない、と言ってどうにかしてあの方を殺めようとするかと思っていました」
「まさか。そりゃ、思うところはあるが、奴が俺達の前に表れることはもうないだろう。俺達の脅威にならない相手になったんだから、気にする必要がなくなったわけだ。わざわざ報復とか復讐とか、そんな労力をかけるのも馬鹿馬鹿しい」
あれだけのことがあったというのに、八尋はあの男に対して恨みを抱いていない。それは八尋の心が広いためでも、彼らに同情しているわけでもない。
要するに、神楽威八尋と言う人間は徹頭徹尾、現実主義者なのだ。
「……やはり、理解できません。八尋君。あなたは確かに悪を為す人間ですが、自ら進んで人を苦しめたり、悪を為すことそのものを好む人間ではありません。善人ではありませんが、かといって〝絶対悪〟と言うほどの極悪人だとは、私にはとても思えないのです。一体何故、あなたが絶対悪でいられるのですか?」
「それは……」
『その問いには、私が答えましょう。構いませんね、八尋』
言葉を詰まらせた八尋に代わるように答えたアンリに、アンジェリカは訝しげな表情を見せる。
だがその表情をまったく意に介さず、今度はリンゴを齧りながらアンリは言葉を続けた。
『そもそも、前提条件として。絶対悪などというものは、この世界には存在しないのですよ』
「……はい?」
『辞書を引いてみてください。誰かに聞いてみるのもいいでしょう。あるいは、便利なインターネットで調べていただいても構いません。なんにしても、絶対悪という言葉の定義はひどく曖昧であると知ることができるでしょうから』
その言葉が信じられないと、目を白黒させるアンジェリカに、アンリは意地の悪い微笑みを浮かべて講釈を続ける。
『ではなぜ、私という存在がいられるのでしょうか』
「え、え、それは……え?」
『それは、必要だからです。もしこの世界から悪がなくなってしまえば、清流に魚が住めないように、この世界にはなにもなくなります』
「な、何故、そう言い切ることができるのですか……?」
『正義と付き合ってきたあなたなら理解できるでしょう。人間とは、常に自分だけは綺麗でいたいと思う生き物です。しかし、すべての人間が綺麗であれば、自分が綺麗だと認識することができません』
自分という存在を定義するとき、それは他人と比較することで為される。
あの人と比べて、自分はこうだから。自分は誰と比べて優れている、劣っていると、明確に優劣をつけようと考えていなくても、自分という存在を知るためには誰かと比べなければならない。人間という存在の独立性は相対評価、他者との比較によって初めて成り立つものなのだ。
『そして人間は、自分は綺麗であると知るために、あるいは自分が誰よりも綺麗であることを知らしめるために正義を行使します。だからこそ悪はなくならないのです。自分が綺麗であると認識するために、人間は無意識に悪を求めています。人が人である限り、綺麗でありたいと思う限り、悪は求められ続けます。悪がなくなれば、人は綺麗ではいられなくなるのですから』
「ならば……もし、あなたが言う通り〝絶対悪〟というものが存在しないのならば、〝絶対悪〟とは、一体なんなのですか!?」
『〝絶対悪〟である私が思うに、一種のセーフティではないでしょうか。悪という強大で、ひどく曖昧な概念の象徴、あるいは偶像としての、絶対悪。この世界から悪がなくならないように設けられた指針。逆に言えば〝絶対悪〟と呼ばれるものと自身を比較しなければ、人間という存在は自己を確立できないのかもしれませんね』
「……そんな考えに、賛同することはできません!」
『でしょうね。〝正義の味方〟の側に立つあなたは、そのような考えを……人が人である限り悪は絶対になくらないのだ、ということを認めることはできないでしょう。人間とはそういう存在です。自らが悪であると主張できる人間の方が少数派です』
憤るアンジェリカと、涼しい表情を浮かべたままのアンリ。
二人が言葉をぶつけ合う中で『そして』とアンリは半ば一方的に独白を続けた。
『そんな人間達の中で、八尋の両親は自分達を犠牲にして自分達のことを第一に考えた、極めて特異な悪を行使しました。それ自体も珍しいことですが、そうして生まれた繋がりを元に、八尋はそこにさらに新たな概念を付け加えました。〝絶対悪〟は〝絶対〟〝悪〟いのだと、そう主張した〝絶対悪〟など、紀元前から続く私の歴史の中でも八尋が初めてです』
そう言うアンリが浮かべた表情は、アンジェリカが思わず見とれてしまうほどに綺麗な、満面の笑みだった。
彼と出会えたことが本当に嬉しくてたまらないと、そう言外に主張する、ひどく澄んだ邪悪な笑みだった。
『故に私は、見てみたい。未だ答えには辿り着かないものの、自らが〝絶対悪〟であると命を削りながら叫び続ける八尋が最後に辿り着く〝絶対悪〟の答えを、私は見てみたいのです』
「そ、それを……あなたの考えを、八尋君は」
「知ってるさ。その上で俺は〝絶対悪〟で在り続けている。俺は〝絶対悪〟で在り続けなければいけないんだ」
「自らが〝絶対悪〟であると主張しながら、自分の大切な人達を護るために自分を犠牲にし、魂をすり減らす八尋君が! 本当はそんなに心優しい八尋君が、どうして〝絶対悪〟で在り続けなければならないのですか!」
「俺は優しくなんかないし、救われる必要もない。俺は〝絶対悪〟だ。これまで、誰も許すことのできない悪を俺だけのために為してきた。それはこれからも変わらない。俺は、俺の世界を護るためならば、どんな悪も厭わない。そんな俺に、救われる価値も資格もないし、そもそも。こんな〝絶対悪〟を、一体誰が救うことができるってんだ? そんなの、お前達カトリックご自慢の天使でも不可能だよ」
「ならば、私があなたを救いましょう。私でも、天使でも……誰にも救えないというのであれば、私が天使となりましょう。あなたを救う、あなただけの〝絶対悪の天使〟になりましょう」
「…………正気か?」
「はい。先日も言ったではありませんか。あなたがそうであるように、あなたがどう在ろうと関係がありません。私は私のために、あなたを救います」
あまりに真っ直ぐで、澄んだ視線だった。
〝絶対悪〟である自分が思わず目を逸らしたくなるほどの清い決意を秘めた瞳だった。
だが、八尋は視線を逸らすことができなかった。
そのあまりに強く、優しく、気高い想いを――自分のことだけを想った彼女を、八尋は〝絶対悪〟でありながら無下にすることができなかったのだ。
『なるほど。絶対悪〝の〟天使様、ですか。……面白いですね。実に、面白い。古今東西、〝絶対悪〟を排除しようと正義を振り撒いた正義の味方はいましたが、よもや絶対悪を救おうなどと主張した人間は、後にも先にもあなただけですよ、天使娘』
実に愉快そうな笑みを浮かべたアリカと、決意に燃えるアンジェリカ。
愉悦と、救済。
心からの悪意と、心からの善意を向けられた八尋は。
自分に向けられた悪意には強いハズなのに、自分に向けられた好意には弱いハズなのに。
その悪意を受け止めることも、その善意を否定することもできず。
「……勝手にしろ」
ただ視線を逸らし、そう答えることしかできなかった。
「はい。私は勝手に、八尋君のことを救わせていただきます」
『私も身届けさせていただきますね。〝絶対悪〟と〝絶対悪の天使〟がやがて辿り着く、その意志と決意の結末を』
ふたつの、違う種類の微笑みを向けられて、八尋は思う。
そのかたちがどうあれ、自分がどう思っていても。
誰かが自分のことを心から想ってくれることは、〝絶対悪〟である自分にとっても嬉しいことなのだと。
「まったく、物好きな奴らだな」
苦笑の裏側に心からの笑みを隠して、八尋はそう呟いたのだった。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。
絶対悪の物語、気に入っていただけたでしょうか。
もしよろしければ、次回作のために、貴方が感じたこと、思ったことを伝えていただけると幸いです。




