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0.プロローグ

 昼休み。同じ学校に通う女生徒に、一人で学校の屋上に来てほしいと呼び出された。


 その部分だけを切り取れば誰もが、特に多感な年頃である男子高校生ならばまず間違いなく心ときめく展開を思い浮かべるだろう。期待するな、という方が無理な話だ。


 だが、呼び出しを受けたその人物――神楽威(かぐらい)八尋(やひろ)の胸には、年頃の男子高校生らしいトキメキの感情など欠片も存在せず、大きな警戒と、青春のそれとは違う種類のわずかな期待と共に階段を上り、浅い深呼吸の後に屋上へと続く大きな鉄の扉を開いた。


「来て、いただけましたか」


 約束の時間の五分前に来た八尋へと向けられたのは、ふわりとした柔らかい笑顔だった。


 銀に近いブロンドの髪が風に揺れ、春の温かな陽光に照らされる翠の瞳はまるで宝石のように輝いている。肌の色は日本人に近く、進学校であるが故の地味なブレザーですら様になって見えるほどに、微笑みを浮かべる彼女の表情は美しい。


 そしてなにより八尋が気圧されたと感じたのは、その存在感だった。


 例え幾万の人混みの中にいたとしても彼女を見つけることは容易いだろう。その身体は中学生並に小柄でありながら、ふとしたきっかけで自分よりも大きく感じられ、相対的に自分の存在がひどく矮小なものに感じられてしまう。そう思わせるだけの、八尋曰く『尋常ではない』ほどの存在感を、彼女――アンジェリカ・癒泉(いずみ)・ミナルディはその小さな身体から放っていた。


「ほんの十分前まで野次馬が階段の周りにいたと思うんだが……いつの間にかいなくなってた。なにかしたのか?」


 だが、少し気圧された程度では八尋は動じない。


 表情を変えることなく鉄の扉を顎でしゃくりながら問いかける八尋に、少女は可憐な笑みを浮かべながら答えた。


「それは、もう。これから秘密の話をするのですから。彼らには申し訳ないとは思いますが、少し席を空けていただきました」


「なるほど。人払いの術式もお手の物ってことか。さすが、世界最年少の『聖人』だな」


 そう答えた彼女の表情を見て、八尋は小さなため息をついた。


 その腹に一物を抱えているのか、それともこれが素の表情なのか。


 判断のつけられなかった八尋はもう一度、彼女にも分かるようにわざとらしく大きなため息をついてから、話を促すことにした。


「それで、俺みたいなごく普通の男子高校生を捕まえて、一体何の用なんだ?」


「はい。あなたが現在履行している『契約』について、少しお話を伺いたいのです」


「……なんのことだ。さっきも言ったと思うが、俺はなんの変哲もない普通の男子高校生だ。契約なんてそんなこと、できるわけないだろう?」


「腹の探り合いなど止めましょう。我々の……バチカンの情報収集能力を、甘く見ないでいただけますか?」


 一拍だけ遅れた八尋の返答に、しかし少女はその部分について気にかける様子もない。それどころか、まるで嘘をついた小さな子供を諭すような慈愛に満ちた少女のその視線に、八尋はバツが悪そうに舌打ちをした。


 その仕草を、果たして彼女はどう受け止めたのか。


 そんな八尋に彼女は再び、まるで聖母の如き慈愛をたたえた笑みを向けていた。


「ご安心を。私は、あなたのことを断罪しにきたわけではありません。事と次第によっては、あなたを救済するために……救うために来たのです」


 敵意など微塵も感じられない、温かな微笑み。


 老若男女問わず、それを目にすれば必ず心を奪われてしまいそうなほどに美しく、そして温かな笑みに、しかし八尋はより警戒を強めていた。


 事と次第によっては、自分を救済するつもりでいる。


 それは言葉を返せば、事と次第によっては自分を断罪する気なのだとそう宣言しているに等しいのだから。


「なるほど。それが、お前が契約している天使様の思し召しか」


「茶化さないでください。私は真面目に話しているのです」


 八尋の軽口に、アンジェリカはこの場で初めて不快感を露わにした。


「これは失礼」


「本題に入りましょう。あなたが契約しているのは〝絶対悪〟アンリ・マユ。あなたはこれと、不平等契約を結ばされているのではありませんか?」


「……いや。俺と奴とはきちんとした契約を結んでいる。支払った対価も、そこから得られた恩恵も、等価交換の成り立つ至極真っ当なものだ」


「〝絶対悪〟が人間を騙さず、正当な契約を結ぶなどありえない話です。悪魔、悪神に相当する概念を持つ彼らが、人間の魂を食い物にするのは当然のことです。あなたも、対価と恩恵の釣り合わない不平等契約によって不当に苦しめられているのではないのですか?」


「そう、言われてもなぁ……」


 苦い表情を浮かべ、八尋は頭をかいた。


 信じられないのも無理はないと、八尋自身もそう思うほどに〝絶対悪〟の悪名は世界中に轟いている。


 だからこそ八尋は、自身がアンリ・マユと契約を結んでいることを隠していたのだ。


〝絶対悪〟と正当な契約を結ぶなど、この世界の常識ではあり得ないことなのだから。


「嘘だと思うなら調べてもらってもいい。だが、俺は間違いなく絶対悪と平等で対等な契約を結んでいる。それは……気に食わないが、バチカンが信奉する大天使に誓ってもいい」


「そ、そんなことが……」


 その言葉は、彼女にとってそれほど衝撃的なものだったのだろう。


 八尋の返答に、少女は八尋から見て少し大げさなくらいの狼狽を見せていた。どうやら、感情が表情に出やすいタチらしい。彼女が置かれた立ち場の割にこの辺りの腹芸の程度は年相応のものらしく、彼女の人間らしい仕草に八尋は少しばかり安堵した。


「では……では一体あなたは何故、絶対悪と契約を結んだのですか!? 何故、一体どのような対価を支払えば、そのような存在と正当な契約を結ぶことができるというのですか!」


 ゾロアスター教の主神に匹敵するほどの神格を有する〝絶対悪〟アンリ・マユ。


 彼女のように天使……秩序側の存在を信奉し、その人間性が認められて契約を結んだ存在であれば、絶対悪と契約を行った八尋の意図は想像もできないのだろう。


「…………」


「答えては、いただけないのですか?」


 幾分声を荒げた少女の問いかけに、八尋は答えない。答えることができない。


 しかし、彼女に黙秘など通用しない。そんなことは、ここにくる以前から理解している。


 それでも八尋は、少女にそれを答えるための言葉を持てないでいる。


 故に、黙秘を貫く八尋に対して彼女がどうするのか、八尋はすでに予想がついていた。


「……ならば、仕方がありません。ラジエル! 彼が一体なにを対価に支払ったのか、その《秘密を知り尽くしなさい》!」


 なにも答えようとしない少年に業を煮やしたのか、少女が声を上げると同時にその傍らに天使が姿を現した。


 その姿は背中に白い翼を生やした中年の男性のようだった。実体を持たない、半透明の(エーテル)体ではあるものの、その存在感は絶大。契約の(パス)の繋がりを持たないために(エーテル)体を認識できない一般人ですら、目に見えずともその存在を感じ取ることができるだろう。大天使とはそれほど強大な存在なのだと、その姿を目の当たりにして八尋は改めて理解させられた。


 そして、事前に調べていたからこそ、八尋は知っている。


 その天使――〝神の秘密〟〝秘密の領域と思考の神秘の天使〟ラジエルの識能は《すべてを見聞きし、地上と天界のすべての秘密を知り尽くす》こと。同格以上の強度を有する秘匿の識能で防がない限り、大天使の前では隠し事など通用しない。


 それを知っていたからこそ少年は、結果としてそうなることを予測していたのだ。


「神楽威八尋がアンリ・マユと契約を行うために最初に支払った主な対価は、両親の命……っ! ……まさか、《実の両親を対価に支払った》のですか!?」


 少女の声に、表情に、ここにきて初めて怒気が混ざる。


 その声が、まるで天の怒りのように周囲の空気を震わせる。まるでそれを自分のことのように憤るその声は、どこか彼女が悲しみに泣き叫んでいるように八尋には感じられた。


「絶対悪と契約を結び、自らの願望を叶えるために! あなたを産み、慈しんで育ててきた親を、対価に差し出したのですか! ……答えなさい! 神楽威八尋!」


 例え、予想外の衝撃によって少女が重要なことに気付いていなくても。


 仮に、やむを得ない事情があったとしても。


 八尋がそれを、どう思っていたとしても。


「……答えられないのですか?」


「いや。その通りだ」


 八尋の肯定に、少女は息を呑む。


 誰に誤解されても構わない。


 誤魔化そうなどと、自分の気持ちを理解してもらおうなどと今はまったく考えていない。


 こんな〝絶対悪〟の気持ちなど、正義の味方には関係がない(・・・・・)のだから。


「この契約の主な対価は、俺の両親の命。その対価を以ってして願いは叶えられた。……その事実に、なにひとつとして間違いは無い」


 なにより、両親の命を対価として八尋は今ここに生きている。


 その一点は、覆りようもない事実なのだ。


「……あなたは、とんでもない悪人です」


 キッと、常人ならそれだけで怯んでしまいそうな視線を八尋は向けられる。


 その視線を、そしてこれから自らに向けられるであろう罵倒の言葉を、八尋は甘んじて受け入れるつもりでいた。


「ああ。そうだな。俺は、とんでもない悪人だ」


 苦い笑顔に彩られた自嘲気味の言葉。


 その声が持つ自嘲の響きに、しかし目の前の救世主は気付かない。


〝正義の味方〟がそんなことを歯牙にかけるわけがないと、八尋はそう考えていた。


「自らの欲望のために大切な家族を犠牲にし、絶対悪と契約を結び……あなたの心は痛まないのですか? その悪意に満ちた心で、あなたは一体なにを為すつもりなのですか?」


「さぁ、な」


「今ならまだ、間に合います。悔い改め、犠牲としてしまった両親の魂を慰撫する気はないのですか? 自らの罪を懺悔し、悪意を(そそ)ぐ気はないのですか?」


「その意志があるなら、今こうなっているわけがないだろう?」


 感情を見せず淡々と答える八尋に対し、彼女は本気で怒りと悲しみを覚えている。


 それはちゃちな同情心や正義感でもなく、さりとて聖人としての義務感でもない。


 目の前の少女は誰かのために、本気で悲しみ、憤り、心から心配することができるのだ。


 それほどの善性を人間が有していられるのは、おそらく幼少期までだろう。


 つまり彼女は、幼少期の善性を維持したまま少女へと成長したのだ。


 天使に見染められるほどの善性と、両親を犠牲とした悪性。


 ある種の異常ともいえる彼女の善性は、同じ人間でありながらどうしてここまで違う在り方ができるのだろうと、八尋自信が不思議に感じるほどだった。


「どうして、そんな――」


『無駄だ、アンジェリカ。その者は救いようもない悪だ。言葉ではどうしようもない』


 震える少女の声を、驚くほどに綺麗な男の声が遮った。


 気付けば少女の傍にはラジエルと入れ替わるようにして、また別の天使が姿を表していた。白い翼を生やし、腰に長剣を携えた青年。だが、その表情は青年と呼ぶにはあまりに力強く、猛々しい。


〝大天使〟〝神の如き者〟ミカエル。


 それがその天使の名なのだと、八尋は一目で理解した。


「し、しかし、まずは言葉で……」


『言葉が通じる相手ならそれも良かろう。だが、この青年にはお前の言葉は届かない。救いようのない、唾棄すべき悪だ』


 吐き捨てるように、ミカエルはそう断言した。


「そうだな。お前達の言う通り、俺はどうしようもない悪なんだろうな」


 大天使から軽蔑の視線を向けられてもなお、八尋は態度を改めようとしない。


 どれだけの侮蔑の言葉を投げかけられても、痛くも痒くもない。


 その態度が、八尋の意志を言葉以上にミカエル達に伝えていた。


「だけど、俺を裁く前に聞かせてくれないか。お前達〝正義の味方〟は誰かを裁き、救う資格を持っているのか? お前達は一体誰のために戦い、誰のために救いを求めているんだ?」


『悪に答える必要などない』


 そしてミカエルもまた、八尋の問いを一瞬の躊躇いもなく一蹴した。


 まるで、その言葉に聞く価値などない、とでもいわんばかりに。


『大義もなく、ただ自らの欲望のために両親を犠牲にするなど、貴様はひどく矮小な人間だ。きっと犠牲となった貴様の両親も、貴様と同じ矮小な人間だったのだろうな』


「ミカエル。さすがにそれは言い過ぎでは……」


「……おい。今、なんて言った。そこのクソ天使」


 それは唸り声のような、ひどく底冷えのする低い声だった。


『矮小な悪人は理解力も無いのか? ならば何度でも言ってやろう。貴様のようなクズを生み出した貴様の両親も下らない人間だ。自らの子供に贄にされても自業自得。神から授かった御子を唾棄すべき存在にしか育てられない、所詮はその程度の人間だったということだ』


 心の底から、八尋とその両親を蔑んだ言葉。


「……ふざけるなよ」


 その、悪意に満ちた言葉に。


「ふざけるな、このクソ天使が!」


 次の瞬間、八尋が荒々しく振り払った腕と共に、屋上が爆炎に包まれた。


 音も無く、一瞬で発生した燃え盛る炎が、まるでドームのように屋上を覆い尽くす。


 その炎が放つ熱波の中で、八尋も少女も一歩もその場から動いていなかった。


 いや。それだけの火炎を目の前にしても、両者ともに動く必要がなかったのだ。


「あ、あなたは……」


『貴様、突然攻撃など……』


 少女の身を守るようにして新たに顕現した天使と、少女の傍らにいたミカエルの二柱に守られながら、少女が口を開いた。


 全身を重厚な鎧に身を包んだ〝神の炎〟〝懺悔の天使〟あるいは盾をシンボルのひとつとする天使ウリエルと、剣を抜いて構えるミカエル。


 ときに神と同列に例えられることもある天使二柱と、世界最年少の聖人と称えられる少女。


 その、誰もが。


「っ……!」


 屋上を包むほどの炎を背負い、感情を露わにした八尋の視線に、一瞬言葉を失った。


 憤怒。そう表現することも生温いと感じられるほどの、嵐のように激しい怒り。


 これまで高校生らしからぬ冷めた対応をしていた少年がそれほどまでに強い感情を携えていたことに、彼女達は驚きを隠せなかったのだ。


「人の親を散々罵倒しといて……覚悟はできてんだろうなぁ? この腐れ天使共が!」


『ええ。彼らのように高潔な〝悪徳〟を持った人間を侮辱することは、このアンリ・マユが許しません』


 そして感情を剥き出しにした八尋の傍らには、一人の少女が顕現していた。


 紫の瞳に、薄い茶色のショートボブ。身長は天使を従える少女以上に小柄で、良くても小学校高学年程度。目つきこそ鋭いものの、一見すると普通の少女に見えるその存在こそが、ゾロアスター教における〝悪神〟〝絶対悪〟アンリ・マユ。


 神楽威八尋が両親の命を対価として契約した、世界最古にして絶対悪を司る唯一の存在。


 それが今、ただ明確な敵意を以って、正義の味方と相対していた。


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