第5話
外からの物音に、僕は目を開ける。このときになって、僕は自分が眠っていたことに気付いた。
取っ手に渡し込まれていたフライパンが外されると、戸棚が開けられた。僕は眩しさに目を細める。立ちはだかっていた警官が、僕が戸棚から抜け出るのを助けてくれた。
「ハリド」
セルジオがやって来た。厨房の入口付近では、別の警官相手に、シドロが身振り手振りで何かを証言している。
「あの女性は?」
「もういない」
セルジオが答える。
「国外から暗殺者が来ているという話は、本部から聞いている」
そばにいた警官が言った。暗殺者という語感は時代錯誤に聞こえたが、上着の内側に隠されていた大きな鉈を思い出すと、僕は何も言うことができなかった。
しかし、不思議なことがあった。もしあの女が暗殺者だとすれば、誰かを殺そうとしていたにちがいない。しかしセルジオは死んでおらず、シドロも僕も死んでいない。
「標的が来るのを待っていたんだ」
僕がぶつけた疑問に、セルジオが答える。
「だけど、そいつが来なかったから、しびれを切らして出て行ってしまった」
「誰?」
「シルバだよ」
シルバの住む部屋の、開け放たれていた鎧戸のイメージが、僕の脳裏をよぎる。
「シルバなら、僕の家の隣に住んでいる」
僕は言った。
「行ってみるよ。無事かどうか」
「お前はここにいなさい」
セルジオが言ったが、僕は首を振った。
「行ってみる」
バールを出ると、僕は家の方角まで引き返していく。
昼下がりの、暑い時間帯だった。普段はバールの手伝いで忙しい時刻だったから、この時間帯の外は新鮮だった。いつもの街のはずなのに、初めて見るような感覚だった。この街には暗殺者が潜んでいる。彼女は異国からやって来て、一人のボクサーの首をはねようとしている。もしかしたら、顔を見た自分のことも殺そうとしているかもしれない。――そんな想像が、僕の感覚をさらに鋭敏にした。
僕はアパートにたどり着いた。歩きなれているはずの道なのに、いつもの倍以上の時間が掛かった。背後を警戒しながら、僕は少し回り込んで、アパートの裏手を見る。鎧戸は開いていた。
扉の前に立つと、僕はそっとノックする。返事はなかった。ノブに手を掛けると、扉はあっけなく開く。息を殺して、僕は室内の様子に目を細める。台所を抜けた先の部屋には、照明がついている。何かが動いていた。
僕の心臓は、張り裂けそうなくらい高鳴っていた。扉を開け放ったまま、僕は台所を抜け、部屋をのぞき見る。部屋の中央では、シルバが僕に背を向けて、トランプをいじっていた。
「シルバ」
僕は声を掛ける。シルバが振り向いた。背後から急に声を掛けたというのに、シルバは落ち着き払っていた。鈍重といっても良いくらいだった。
「ハリドか」
裸電球に照らされたシルバは、眼が落ちくぼんでおり、疲れているようだった。
「どうしたんだ」
「あなたの様子を見に来たんだ」
そう答えると、僕は扉を閉め、鍵を掛ける。
「あなたの命を、暗殺者が狙っている」
「そうか」
「東洋人で、危険だ」
「そうか」
シルバの淡白な反応が、僕には気がかりだった。
「このアパートを出た方がいい。警察にも連絡した方がいい。事情を知っているようだから」
僕の言葉に、シルバは首を振った。
「どうして?」
「もう助からない」
トランプをシャッフルしながら、シルバは言う。
「連中は氷みたいなもんだ、ハリド。一度触れたものを、氷は決して逃さない」
「ならば、どうするの?」
「そのときが来るのを待つよ」
机の上に、シルバはカードを並べる。ペイシェンスに興じているようだった。
「そのときが来るのを待つ」
シルバは繰り返した。自らに言い聞かせるような口調だった。いま僕が質問したようなことを、シルバはすでに、何度も自らに尋ねていたのだろうと、僕は思った。
「バールに戻るよ」
僕は言った。ほかにもっと、かけるべき言葉があったかもしれない。ただ、そのときの僕には何も思い浮かばなかったし、今も思い浮かばないし、これからも思い浮かぶことはないと思う。
「それがいい」
あのとき、シルバはそう答えた。シルバの視線は山札に注がれていて、僕の方は振り向きもしなかった。
僕はアパートを出た。




