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第3話

 セルジオのバールは、目抜き通りから一本またいだところにある。古くから回教徒の移民の多い街区で、バールの二軒隣では、水煙草(シーシャ)のパイプが並べられている。


 バールへ向かいながら、僕は街行く人々を眺める。軒先で本を読みふける古書店の老人、露店でバナナとゆで卵を売る商人、ジプシー、病院から流出したカプセルや錠剤を、バケツに括り付けて売る、路上の薬売り。――このときの僕の胸には、この街の誰かが自分に注意を向けてくれるのではないかという、ありそうもない期待がちらついていた。そして、人びとが自分の横を通り過ぎ、街の背景へと溶け込んでいくたびに、幻滅に近い感情を味わった。


 自分の苦しみなど、街の人には関係ないのだ――そのような結論が心に形成されかけたとき、僕の脳裏に、半年ほど前の、学校での記憶がよみがえってきた。


 その日、担任の先生が教室にやって来たのは、生徒よりも遅い時刻だった。担任は禿(はげ)頭で、眼鏡を掛けた、しかつめらしい初老の数学教師だったが、その日はいつにもまして眉間にしわが寄っていた。僕のサボり仲間たちは、かれの遅刻をここぞとばかりにからかったが、僕は、かれが眉間に寄せるしわの裡に、疲れや弱さのようなものを読み取ってしまい、からかう気にはなれなかった。


 実は担任は、未明に亡くなった父親を看取ってから、あわただしく学校まで来ていた。ただ、それを知ったのは、夏季休暇に入ってからだった。自分をからかった生徒たちに厳しく怒る権利が、担任にはあっただろう。しかし、かれはそれをしなかった。どうして怒らなかったのか? あるいは疲れ切っていただけなのかもしれない。しかし、こうして街を歩く中で、かれが怒らなかった理由が、僕には分かるような気がした。


 バールの正面に差し掛かったとき、僕は、いつもは開け放たれたままにされている入口が、閉め切られていることに気付いた。定休日であろうとなかろうと、セルジオはいつもバールを開けている。僕は違和感を覚えたものの、寝不足で気が散り、何かを深く考える余裕はなく、そのまま扉を開けた。


 店内の様子は、いつもと変わりがなかった。――カウンターの内側に、見知らぬ人影が立っていることを除いては。その人物は女性で、背が異様に高かった。街にいる並大抵の男どもより、頭ひとつ抜けていた。女性は痩せていて、色白だったために、腕も、指も、針のように細く見えた。その黒い装束から、彼女は東洋からやって来たのだろうということは明らかだった。


 僕が扉を開けたとき、女性は壁に寄りかかって、煙草を吸っていた。彼女は僕の存在に気付くと、丸眼鏡越しに目を細め(目は釣り目で、一重だった)、


「この店はやっていない」


 と言った。発音もアクセントも完璧だったが、今すぐ出ていけとでも言うような、圧迫感のある言い方だった。


 普段の僕ならば、女性の迫力に呑まれ、(きびす)を返していたかもしれない。言うことを聞かなければ、何かをされそうな気迫があった。しかしそのときの僕は、昨日の夜中から続く思い煩いのせいで、心が留守になっていた。また、寝不足のために、注意力が散漫になっていたために、かなり図々しい気持ちになっていた。


 結果として僕は、女性の指示に従って引き下がるのではなく、むしろその逆、ふてぶてしい態度で、一番奥の席に陣取ることを選んだ。


 店内に、僕は足を踏み入れる。


「この店はやっていない」

「クリケット仲間を待つんだ、この店で」


 とっさに嘘をつくと、バールの一番奥の席に、僕はどかりと座り込んだ。その間にも、あなたが何を言っているのかよく分からないです、という態度を示すことを、僕は忘れなかった。


 そんな僕を見て、女性も、ああ、と言ったきりだった。


 どうして居座ってやろうという気分になったのか。どうして女性は、僕をバールから引きずり出そうとしなかったのか。今となっては分からない。おそらくは、僕が気まぐれで居座ってやろうと考えたのと同程度に、こいつは店に残しておいても害はないだろうと、女性も気まぐれで判断したのかもしれない。


 いずれにしても僕は、一番奥の席に陣取ることに成功した。やがて、女性がサンドイッチを持ってきた。サンドイッチにはピクルスが挟まっていたが、それはセルジオの流儀ではなかった。ただ、そのときの僕は無性に腹が空いていたので、供されたサンドイッチを、むさぼるようにして平らげた。

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