19.
地面を削るような激しい雨音がする。
「……ト……ゼ…ト! ロゼット・ラヴァグルート!」
頬を無遠慮に叩かれてロッツがまぶたを開けると、見慣れた憎たらしい顔があった。
「……寝ぼけてないで、何か返事をしてくれるか?」
「何だよ伯爵、うるさいな。僕は寝ぼけてなんかいない。君がまだ目の前にいるということで、現実こそが地獄に違いないと再認識しているところなんだ。邪魔しないでよ」
脊髄反射ですらすらと憎まれ口が流れでた。我ながらあっぱれだ、とロッツは心の中で自分を褒め称えた。
「ところで、戦は? なんか勝ったみたいだけど」
死屍累々とした大広間を見回すと、ちゃんとエドロットもヤナルもキートも動き回っていた。自分一人だけ生き残りはしなかったようだ。内心とてもほっとする。
「危機一髪のところで神殿の助けが入ってこちらの勝利だが……」
「へえ、神殿が。まさに神の助けって奴だね。で、『だが』って何? 何か問題でもあるの?」
「戦ではなくて……いや、いい。なんでもない。気にしないでくれ」
うやむやに返事をして、エセルは立ちあがった。
ロッツは不審そうに眉を寄せて、気づいた。泣いている。自分が。
慌てて涙をぬぐうが、恥ずかしさまではぬぐえない。最悪だ。なぜあんな夢なんか見たのだろう。
「……くっそ、全部君のせいだ」
「は?」
「リンゴが赤いのも太陽が東から昇るのも猫がいたずら好きなのも全部君のせいだっていってるんだよ」
「……………」
当然ながら、わけがわからん、というのがエセルの率直な感想だ。ロッツのひねくれた心の構造を理解するには、まだまだ時間と経験値が必要だった。
「その様子なら大丈夫そうだな。俺は指揮に戻るから、お前もキートたちと働けよ」
「いわれなくてもわかってる」
あいかわらずの愛想のない応対にやれやれ、とため息をついてエセルがそこから離れようとすると、服の裾をつかまれた。
「なんだ?」
ロッツは答えない。思いがけない自分の行動に戸惑っていたからだ。とっさに何かいうのは得意なはずなのに、今はそれができない。感情がひどく不安定で、それを表にださないようにするのが精一杯だった。
「用がないなら行くぞ」
「あ……うん」
ロッツはゆっくりと手を離したが、今度はエセルがそこから動かなくなった。
「まだ何か用があるの?」
「いや……」
「用がないなら早く指揮に戻った方がいいんじゃない?」
「そうだな」
それでもどちらも動こうとしなかったが、お互いそれ以上、互いの行動を促がそうとしなかった。
妙な沈黙が落ちた。居心地が悪いような、いいような、なんともいいがたい沈黙。
先に口を開いたのは、エセルの方だった。
「本調子じゃないなら休んでいろ。ただし、俺の目の届くところでな」
「君の目の届くところで?」
ふしぎそうにロッツが聞き返す。
「セレスティアルの時のようなことがあると困る」
「なるほど、それはそうだね」
ロッツは表情を曇らせた。エセルの心配は自分を恨む人物がいるということの反証だ。
「ロゼット……」
「何?」
「いや、何といわれても困るが……その、だからな」
エセルはもどかしそうに口を開閉させた。何かいわなければいけないのだが、何をいえばいいのかわからない、といった感じだった。
当惑していると、ロッツが話題を変えた。
「伯爵は……伯爵はどうしてその名前で呼ぶの? ロッツじゃなくて、ロゼットって」
「どうしてもなにも、それがお前の名前だろう?」
ごく当たり前のことをいうようにエセルが答えると、ロッツは虚を突かれたような表情をした。
「何か妙なことをいったか?」
「……ううん」
ロッツは首をふった。
「まったくもって、その通りだよ」
まさかこの相手からこんな言葉をいわれるとは思わなかった。
「ねえ伯爵、どうして君は僕を助けてくれるの?」
「どうしてといわれても、命は助けるというのが約束だっただろう?」
「ああ……そうだね」
質問を違う意味に取られてロッツは憮然としたが、
「どうしてこんなに構うかと聞かれれば、お前だからとしかいいようがないがな」
「なにそれ。全然理由になってないよ」
ため息混じりのエセルに笑いをもらした。
「本当に……どうして僕なんかに構うんだよ。なんの得にもならないのに」
ロッツはうつむいた。こんなに簡単に自分という存在を受け入れるなんて、どうかしている。
「お前こそ、どうしてなんの得にもならないのに俺に構って来るんだ」
「君が構ってくるからだろ」
「お前もわざわざつっかかってくるだろうが」
「そうかなあ……」
石床の上に、ぽたぽたと水滴が落ちる音がした。それと、かすかな嗚咽。事態を察して、エセルが身をこわばらせる。
「おい、人をからかおうと演技をしても騙されんぞ」
あまりに唐突な出来事に、エセルはどうしていいのかわからなかった。というより、理解不能だ。なぜこの場面で泣きだすのかわからない。よって、いつもの調子でいってみたのだが、駄目だった。おどけた返事も、人を食ったような返事も返ってこない。
「あ、伯爵が大人気なくロッツをいじめてる。サイテー。年上なんだから、もっと寛容になるべきなのにー。チョーサイテー」
たまたまその図を目にしたキートがやじを飛ばす。
「ひょっとしてどこか痛いのかな?」
ヤナルが治療セットを片手に近寄ろうとすると、エドロットが手で押しとめた。
「まあまあ、ほっとこうぜ。二人の問題なんだから、俺らが口を挟まないほうがいいって」
右手でヤナルを、左手でキートの背を押しながら、エドロットは仕事に戻るよう促がした。主人が頼むから行くな、という視線を送ってきたが、もちろん無視した。主人の精神鍛錬を思ってというのが半分、おもしろそうだったからというのが半分だ。
孤立無援になったエセルはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてロッツの前に片ひざをつき、恐る恐る肩に手を置いた。びっくりするほど薄い肩だった。
「あー……どうした?」
とりあえず月並みな言葉を向けてみるが、無意味だった。次にエセルは顔をのぞきこもうとしてみたが、拳が飛んできたので、慌てて避けた。
「お前な! その凶暴な性格を何とか――」
怒りかけて相手が泣いているということを思いだし、口をつぐんだ。なんとも分が悪い。
ぶつぶつと心の中で不満を唱えながら、エセルはもう一度ロッツの近くに座ってどうすべきか悩んだ。今だかつてないくらいの大問題を目の前にして、逃げだそうかと一瞬思ったが、プライドのせいでそれはできなかった。
悩んだあげくエセルはロッツの頭をなでてみたが、やってから激しく後悔した。苦し紛れの対処策、血迷った行動。『取り扱いに要注意。免許を要します』と貼り紙のされた猛獣になんという命知らずなことをしたのか。噛みつかれるかもしれない、と思って身構える。
だが、それはなかった。それどころか、ロッツは大人しくされるがままだ。
「……疲れたか?」
無意識に口から滑りでた言葉。ロッツがほんの少し、首を動かす。
「そうか。疲れたか。俺も疲れた。だから俺もしばらく休むとしよう」
棒読みするようにいって、エセルはどっかりと腰を下ろした。正直、この行動が正解なのかどうかなどわからない。
だが、なぜかそうせずにはいられなかったし、そうした方がいいような気がした。一人で放っておくのが危うく思えたのだ。大の男を片手で投げ飛ばすような相手なのに。
エセルはロッツの頭を自分の肩に預けさせた。ロッツは抵抗しなかった。思い切って落ち着かせるように背中を軽く叩いてみたが、これも嫌がるそぶりは微塵もなかった。
「……全部終わったな」
「うん……」
「これからどうするんだ?」
迷うような長い沈黙があった。
「さあ……わからない」
「そうか。自由になってみると、案外やることが思いつかないものだからな」
「それ、自分のこともいってるの?」
「当たりだ。俺も島という束縛がなくなって自由になったはいいが、気が抜けた。しばらく無気力状態になりそうだ」
短く切られた赤金色の髪は意外と柔らかく、手触りがよかった。その感触を楽しむように、エセルは何度もロッツの髪を指先で梳いた。普段なら絶対にこんなことはしないのだが、このときは気がどうかしていたとしかいいようがない。ロッツが気持ちよさそうに、さらに肩にもたれかかってきたせいもある。
「……行くところがないなら、一緒に大陸に来るか?」
髪を梳く手をとめて、エセルが尋ねる。
「無理にとはいわないが、働くところがないならまた護衛としてでも雇ってやる。怪力がなくなっても、お前は技があるからな。お前のことを心配するわけじゃないが、せっかく命を助けたのに野垂れ死にされても目覚めが悪いというか……」
早口にまくし立てるエセルとは対照的に、ロッツはゆっくりといった。
「いいね……悪くない」
「……そうか。悪くない、か」
心なし口の端があがったが、本人も周りの者も気づいていない。エセルは髪を梳くのを再開したが、突如としてふってきた声に手を止めた。
「へー、ロッツも大陸に来るのか。いいなあ、楽しくなりそうだ」
視線をあげると、キートがいた。
「ああ。どうせ行くところがないだろう、と思って誘ってみた」
エセルはできる限り平静を装った。第三者が現れたことで、自分のやっていることをやっと自覚した。こんな人前で一体自分は何をしていたのだろう。なるべくさりげなくロッツを肩から離し、立ちあがる。
「そっか、ロッツも大陸に来るのか。大陸はこことは違う物が多いから、きっと楽しいよ。あちこち案内させてもらうね」
ヤナルはにこにこと嬉しそうだった。
「ふーん、こりゃ刺激的な毎日になりそうだな。特に伯爵が」
エドロットがエセルの心情を見透かしたように、にやにやと笑う。
「ロッツ、頑張れよ。俺はお前の伯爵に対する小生意気な一言が楽しくてしょうがない」
「エドロットの期待に沿えるよう、頑張るよ」
にっこりと、満面の笑みを浮かべる。
「伯爵も頑張れよー。陰ながら応援してやることがなきにしもあらず」
キートがエセルの肩を叩いた。
「お前らな……とっとと仕事に戻れ!」
「へーい!」
護衛たちは笑いながら、主の命に従った。
「お前も動けるなら仕事に戻ってくれ」
「動けるに決まってるよ。大丈夫」
ロッツは明るく答えて戦場の後片付けに向かったが、アヌシュカの王を生け捕りにしている神官たちの姿を目にすると、ふと立ちどまってエセルをふり返った。
「伯爵、僕は、本当は自由になんてなれなくても良かったんだと思う」
近づいてくる足音を意識しながら、ロッツはつづけた。
「たぶん、ロゼットもロッツもひっくるめて存在を認めてくれれば、それでよかったんだ」
ロッツは笑った。幸せそうに。誰もを魅了しそうなほど美しく。エセルが動けなくなるほど。
その笑顔に、影がかかる。ロッツより一回り大きな神官の体の影が。
「だから伯爵――」
顎を神官につかまれ、無理やり上を向かされた。
「ありがとう」
神官の乱暴な扱いに眉を寄せながらも、ロッツはなんとかエセルのほうをむいて穏やかに笑んだ。
「ロゼット・ラヴァグルート」
前髪の下に隠された『いばらの冠』を露にすると、神官はおごそかに宣告した。
「あなたにも生贄になってもらいます」
雨と風がいっそう激しさを増して砦を打った。