13.
ロッツの傷は半日でほとんど治癒した。黒く焦げた足先も、焼けただれた手も、腹部の傷も。
「おはよう、ロッツ。気分はどう?」
意識を取り戻したロッツに、ヤナルは声をかけたが、なんの反応も返ってこなかった。澱んだ緑色の目で、虚空を見つめるだけだ。
「ロッツ、大丈夫? 気分はどう?」
ヤナルはもう一度声をかけたが、ロッツは返事をせず、目を閉じて眠ってしまった。額に手を当てると、熱っぽい。無理に起こすわけにもいかず、ヤナルはそのまま眠らせておいた。
「何があったんだろう……」
夜中に一度目を覚ましたときも、こんな調子だった。話しかけても反応がない。よほどのことがあったのだろう、傷がよくなる一方で、心の方は悪化の一途のようだ。何があったのかは誰も知らないから、なんといって声をかければいいのかわからない。
足や手の包帯を取ると、綺麗に治っていた。驚異だ。ヤナルは自分がした手当てに意味があったのかと問いかけたくなった。腹部の傷も塞がっているが、まだ生々しいピンク色をしている。
「……ロッツ……」
血のついた肌を拭きながら、ヤナルは固く目を閉じて眠るロッツに目をやった。体中に残る傷。一晩で黒焦げの足も焼けただれた肌も再生するのに、残る傷。治癒にも限界があるのだとわかったが、それほどまでに傷を受けてロッツが生きてきたのかと思うと、気が重くなった。
「ヤナル、そいつはまだ起きないのか?」
「いえ、さっき起きたんですが、すぐまた寝てしまいました。伯爵は、仕事の方は大丈夫ですか?」
「俺が仕事を放棄してこいつの見舞いに来るわけがないだろう」
「放棄はしなくても、暇を作ってきているようでしたから」
「作っているんじゃない。暇を見て来ているだけだ」
力説されたので、ヤナルは何もいわずに賛同しておいた。
「これがなければ――」
エセルはロッツの額に刻まれたいばらの刻印をなぞった。これがなければ、まともな人生を歩めたのだろうか。エセルはロッツの体に残る無数の傷を見つめた。
「ましな終わり方ができただけだな」
『いばらの冠』は名前通りいばらのようにその棘で持ち主を守りもすれば、その棘で持ち主を傷つけもしている。
「……………」
ヤナルは体を拭き終えると、席をエセルに譲った。
「僕はこれから大広間に他のケガ人を見に行ってきます。もし目が覚めたら、食事を取るようにいってやってください」
一般のケガ人は大広間や兵舎に寝かせてあるのだが、桁外れの治癒能力を持つ特異患者のロッツを一緒においておくわけにはいかないので、ロッツだけ城の客室で寝かせてあるのだ。
ヤナルが去ると、エセルは落ち着かないふうに椅子に腰を下ろした。ただ一人の話し相手が寝ているのではやることがない。
それでも来たからにはすぐに離れられないので、視線をさ迷わせていると、ベッド脇のナイトボードに置いてあった髪留めが目に留まった。紅珊瑚でできた小さな薔薇がついている、金の髪留めだ。
「あの兵士の贈り物なのか………?」
エセルは髪留めをもてあそんだ。一体あの兵士とどういう関係なのか、さっぱりわからない。剣を刺し、油を撒いて確実に殺そうとしたわりに、兵士は心底ロッツを憎んでいるふうでもなかった。
「……まさか思い余って心中を図られたんじゃないだろうな」
「どういう想像をしているんだ、君は」
独り言に返事があったので、エセルは驚いた。
「起きていたのか」
「浅眠りだったんだよ。まったく、人が寝ている間に下世話な想像をするな」
ロッツは上体を起こし、ベッドの背にもたれかかった。
「それ、そばにでも落ちてたの?」
髪留めを目にして、ロッツが尋ねる。
「いいや? お前の髪に飾られていたんだが?」
「僕の?」
ロッツは眉を寄せて髪留めを見つめたが、やがて何かに気づいた表情をして、笑った。
「なるほど……やっぱりそういうことなのか」
「ロゼット?」
片手を顔にあて、くつくつと笑うロッツの表情は泣き笑いに近かった。
「あの嫉妬深い王に気づかれないなんて、見事としかいいようがないな……適任だ」
うつむき、肩を震わせ無声で笑う。
「馬鹿だな……本当に馬鹿な奴だ……」
ロッツは深くうなだれて、完全に黙った。
「……伯爵、そこの机にある紙とペンを取ってくれるかな」
「俺を使うと高いぞ」
「病人をいたわろうよ」
エセルから紙とペンを受け取ると、騎士の名前を書いて一言書き添え、髪留めを留めつけた。
「これ、悪いけど誰か人をやって届けてくれないかな。住所までは知らないから、ラヴァグルートの人――できればこの名に心当たりのある近衛騎士がいいんだけど」
「それは構わないが……いいのか?」
エセルは文を読んで、気遣わしげに問いかけた。
「『ご家族の誰宛なのかはわかりませんが、最後の贈り物だそうです』、じゃ短すぎる?」
「はぐらかすな。これはお前が貰った物だろう。どういう経緯があるか知らないが、貰った物を他人にやるのは非礼に当たる」
「いいんだよ。送る相手は赤の他人じゃなくて、彼の家族なんだから。それに僕は使わないし」
「使えばいいだろう」
「髪が短すぎる」
「伸ばせばいいだろう」
「伸ばす時間がない。僕はもう死ぬから」
さらりといわれた言葉に、エセルは動きをとめた。
「伯爵、取引は終わりだ。『いばらの冠』を持っていくといい」
ロッツはエセルの目をひたと見据えた。鮮やかな緑の目は強い決意を秘めている。
「……なぜだ?」
「僕は最初から神様が許してくれるなんて思ってない。でも、どうしても復讐したかったし、少しでも長く生きたかった。だから取引を申しでた」
ロッツは手元の髪飾りに視線を落とした。
「……だけど、別にもう生きたいと思わない。終わりの見えた人生を生きるのは嫌だ」
今までも死という恐怖と向き合って生きてきたが、もうこれ以上は辛すぎる。
「そう早まるな。神が許すか許さないか、まだわからないだろう? 最後まで可能性にかけてみたらどうだ」
「はかない希望に?」
「はかなかろうがなんだろうが希望は希望だ」
「……悪いけど、僕は淡い期待を抱けない。伯爵のいった通り、僕は王子様が現れるのを信じて待っていられる眠り姫じゃないから。僕の場合、まずそうやって信じて待っていられる自分に憧れるようになることからはじまるね。絶望的な性格なんだ」
「だったら今からその性格を矯正しろ」
ロッツは剣呑な目つきでエセルを睨んだ。
「伯爵、君はそうまでして僕を最後まで馬車馬のごとく働かせたいわけ? 最初から、用がすんだら殺すつもりだったくせに」
エセルは椅子から立ちあがると、ロッツの頭に拳骨を食らわせた。
「いい加減にしろ」
「本当のことだ」
エセルは二発目を食らわせようとしたが、避けられた。
「俺が怒っているのはそっちじゃない。自分から遠ざけるために、わざと人を怒らせるのをやめろといっているんだ」
「……………」
ロッツは黙ってエセルを見あげた。
「本当は、お前は誰より救いの手が欲しいんだろう? だが、いつその手が離されるのか不安だから遠ざけるんだ」
「……そうだとしたら、どうなの? 君が助けてくれるとでもいうの? 僕はもう、同情も哀れみもうんざりだ。迷惑なんだよ」
「同情や憐れみでなければいいんだろう?」
「好意で助けてくれるっていうのか?」
鼻で笑った。
「信用できないと?」
「当たり前だ。僕は自分が、人に好かれるようなことをしていないって自覚してる。僕が信頼しているのは、自分と槍だけだ。絶対裏切らない」
ベッドカバーを握りしめるロッツを、エセルは冷めた目で見た。
「そのわりに、お友達の姿が見えないな。逃げられたのか?」
「うるさい! それより伯爵、『いばらの冠』を外せよ。取引は終わりだ」
「取引を一方的に破棄するのはルール違反だと思わないか?」
「なら、これをやるよ!」
投げつけられた枕をエセルは難なく受けとめたが、投げ返そうとして静止した。
「何のまねだ」
「なんてことはないよ。君の首を掻き切るだけだ」
喉に冷たい物があたった。いつの間にやったのか、枕の下に短剣を隠していたらしい。
「さあ、契約違反だ。早々に僕を殺すといい」
「……そうするとしよう」
エセルは短剣を突きつけられた状態で指輪をはめ、ロッツの頭をつかんだ。
「『結実の指輪』よ」
指輪が青い燐光を放つ。ロッツはその光に安堵感を覚え、力を抜いた。
「この大馬鹿者を眠らせろっ!」
「――!」
無防備だったため、ロッツは腕一本でベッドに沈み込まされた。
「騙したな!」
「お互い様だ」
眠気に抗おうと、エセルの服を指先が白くなるほどつかんだが、睡魔には勝てなかった。短剣がやわらかな音を立ててベッドの上に落ちる。
「俺もお前を信じてみるから、お前も俺を信じてみろ」
無理だ。もう他人を信じられない。騎士にすら裏切られたのに。
――いいや、騎士は裏切ってなんかいない。僕が勝手な期待と好意を寄せただけだ。
誰の好意も期待しないといっていながら、心の奥底で望んでいたのだ。復讐する自分を許して、受け入れてくれることを。叶うわけがないのに。
結局、自分のことは自分で助けなければいけないのだ。そうしなければ、自分はいつまでたっても救われない。
「疲れたな……」
大きく息を吐くと押し込めていた感情があふれだした。それは涙となって、ゆっくりと頬を伝い落ちた。
涙を止めたくて腕で目を覆ったが、止めようとすればするほど、涙があふれだした。
こんな自分は無様で、惨めで、嫌いだ。もう泣いてもどうにかなるわけじゃない。慰めてくれる師匠はいないのだし、一人だということを思い知らされるだけだ。
「師匠……」
泣くといつも慰めてくれた師。
もし今、師がここにいたら、果たして自分を慰めてくれるだろうか。
優しく頭をなでて、そっと背中を叩きながら、泣き止むのをそばでずっと待っていてくれるのだろうか。
教えに背く愚かな弟子を、それでも受け入れてくれるのだろうか。
ロッツは無意識に手を脇に伸ばしたが、手は空をつかんだだけだった。槍は傍にないのだという事実に気がついて、虚ろに口だけで笑った。
「何が欲しい?」
空しく宙をさ迷う手が、大きな手に包まれた。
「……何も」
何もいらない。眠たくて何もかもどうでもいい。何も考えられない。何も考えたくない。
ただ、自分の手をつかむ手の冷たさが、熱を帯びた体にとても心地よくて、ロッツは軽く握りかえした。
「これで充分だ……」
だから、その手を離さないで欲しい。
ずっと。