紅蓮の義刃(ぎじん) ~夫を奪われし女傑・蘇三娘の痛快なる復讐録~
夜の帳が降りた広東の山間。県令・李徳栄の私邸は、贅の限りを尽くした酒宴の熱気に包まれていた。
食卓に並ぶのは熊の掌やフカヒレ、庶民が一年汗水流しても拝めぬ美禄。肥え太った腹をさすりながら、李県令は卑しい笑みを浮かべ、杯をあおる。
「あの蘇の農民どもめ、地代が払えぬと泣きついてきおったわ。払えぬなら力づくで奪い、文句を垂れる亭主は縛り首にして川へ捨てろと命じてやったわ! ははは、痛快、痛快!」
取り巻きの悪徳商人や護衛の頭領が諂い笑いを返す。
彼らは知る由もなかった。李県令が命を奪ったその男の妻が、今や近隣の山々を揺るがす「義賊の頭目」へと変貌を遂げていたことを。
ヒュン――ッ。
突如、夜風を切り裂いて一本の白羽の矢が梁に突き刺さった。
驚愕に静まる広間。矢文には紅い墨でただ一言。
**『借りた命と銀を返しに来た』**
「な、なんだ! 曲者だ! 出会い頭に斬り捨てろ!」
李県令が金切声を上げた瞬間、門扉が激しい轟音とともに吹き飛んだ。
闇を割って現れたのは、緋色の戦袍をまとい、両手に白刃を閃かせた一人の女――蘇三娘であった。
その背後には、同じく圧政に家族を奪われ、怒りに燃える百余名の精鋭たち。
「おい、女一人に何をもたつく! 殺せ!」と喚く護衛たちが刀を抜いて突進する。だが、蘇三娘の足さばきは風よりも疾く、軽やかであった。
キン、と澄んだ金属音が鳴り響いた刹那、先頭の護衛の手首から刀が跳ね飛ばされる。返す刃の峰が別の護衛の鳩尾を正確に打ち据え、男たちは為す術もなく崩れ落ちていった。彼女の武芸は天地を揺るがす天地会の真髄。私腹を肥やすことしか頭にない雇われ護衛など、物の数ではなかった。
わずか数分で広間は制圧され、床には呻き声を上げる無様な護衛たちが転がる。
残された李県令は腰が抜け、油汗を滝のように流しながら後退りした。
「ま、待て……! 命ばかりは助けてくれ! 金か? 金ならいくらでもやる! 倉を開けろ、好きなだけ持って行け!」
蘇三娘は血糊のついていない刀身を鞘に納めると、静かに李県令へと歩み寄った。
その瞳は凍てつく刃のように冷徹で、哀願する悪徳役人を射抜いていた。
「金だと? 勘違いするな。その金は、お前が民の生き血を啜って奪い取ったものだ。元より貴様のものではない」
「ひ、ひぃぃっ! わ、悪かった、お前の夫のことは知らなかったのだ、あれは部下が勝手に――」
「黙れ」
蘇三娘の声は低く、しかし屋敷中に響き渡る重みがあった。
彼女は懐から一枚の木札を取り出し、李県令の脂ぎった額へ容赦なく叩きつけた。それは亡き夫の位牌の写しであった。
「私の夫はお前の足元に這いつくばって命乞いをしたか? 否だ。民のために堂々と筋を通し、殺された。……泣き喚いて見苦しく命乞いをする貴様とは、魂の格が違うのだ」
蘇三娘は合図の手を上げた。
配下の義賊たちが奥の土蔵を破り、何十箱もの銀錠と米俵を庭先へ担ぎ出していく。
「お、俺の財産があぁぁ……!」
李県令が叫ぶと、蘇三娘は嘲笑うように口角を上げた。
「安心しろ。貴様の汚らわしい命など、ここで奪ってやったりはしない」
「え……? た、助けてくれるのか……?」
安堵の表情を浮かべかけた李県令に、蘇三娘は冷ややかに告げた。
「今宵、屋敷中の壁という壁に、貴様がこれまで着服した裏帳簿の写しと不正の証文をすべて貼り出した。明日の朝、蔵が空になったこの屋敷に、飢えた数千の民が押し寄せるだろうよ。……せいぜい、お前が踏みつけにしてきた者たちの手で、法の裁きを受けるがいい」
「な……ッ!?」
さらに蘇三娘の部下が、李県令の帯を切り落とし、下着同然の姿で庭の大木に頑丈な縄で括り付けた。
「やめろ! ほどけ! 誰か、誰か助けてくれぇぇぇ!」
暗闇の庭で醜く叫び続ける元凶を一瞥もしないまま、蘇三娘は堂々と馬に跨がった。
奪い返した糧食と銀を積んだ荷車が、夜明けを待つ貧しい村々へと次々に走り出していく。
東の空が白み始め、遠くから怒濤のような民衆の足音が地響きとなって近づいてくるのを、縛られた李県令は絶望の眼差しで聞き続けるしかなかった。
「行くぞ!」
蘇三娘が掲げた紅い旗が、朝焼けの風を孕んで力強く翻る。
夫の無念を晴らした彼女の視線は、もはや一介の悪徳官僚などではなく、腐敗した清朝そのものを揺るがすさらなる巨大な戦乱の空へと向けられていた。




