第十二話 婚約者はいない
「——何、この水」
シルヴァード様の声が聞こえて、わたしとラティウス様は同時にそちらを見た。
「シルヴァード。お前、なんてことをしているんだ」
「え、なんでラティウスがいるの」
「なんで、じゃねえ。お前今、セレフィア嬢に襲いかかろうとしていただろう」
「僕がセレフィアを襲う……?」
彼は目を丸くしている。記憶にないのだろうか、本当に心当たりがなさそうな顔だ。
「僕、そんなことしたの?」
シルヴァード様がわたしを見たので、曖昧に笑みを浮かべた。それで彼は把握したのか、しゅんと落ち込んだ様子を見せる。
「ごめん……」
まるで、飼い主に怒られた子犬のような姿だ。垂れ下がった耳と尻尾が見えそうなほどの落ち込みようである。
「お気になさらないでください、シルヴァード様。それよりも、あなたがよく眠れたようで、よかったです」
わたしは慌ててそう言って微笑んだ。ここで彼の気分が下がって、これから治療に来ないという状況になってしまうことがないようにしないと。
「お前、寝られたんだな」
ラティウス様がシルヴァード様を見ながら言う。シルヴァード様はこくりと頷いて、その紅い目をわたしに向けた。
「うん。セレフィアの膝枕があったから」
「膝枕!?」
ラティウス様も驚いたようにわたしを見る。そんなに大きな声で言わないで欲しい。恥ずかしいのだから。
「そんなことさせたのか、お前……。もしセレフィア嬢に婚約者がいたら、どうしたんだ」
「婚約者? セレフィア、婚約者がいるの?」
ラティウス様とシルヴァード様が話しているのを見ていたら、急にわたしに飛び火がきた。シルヴァード様はにこりと笑みを浮かべて、わたしを見ている。
「いませんよ。わたしはまだ、ひとり身です」
「そっかぁ」
にこにこ、とシルヴァード様は笑う。どういう感情の笑みなのか、読み取れなかった。
「だからといって、お前の行動が許されるわけじゃないからな。本当に申し訳ありませんでした、セレフィア嬢。後でちゃんと言い聞かせておきます」
「あの、そこまで気にしていないので大丈夫ですよ。あまり、シルヴァード様にきつい言葉を仰らないでください」
ラティウス様はわたしの言葉に頷いて、シルヴァード様を引きずるように治療室を出た。
「なんでラティウスがセレフィアのこと名前で呼んでんの?」
「急になんだよ……」
彼らが部屋を出る直前にそんな会話が聞こえてきたが、それよりもわたしは自分の鼓動を収めるので精いっぱいだった。
(あれは……かなり心臓に悪いです! それに、わたしに婚約者がいないことを知ったシルヴァード様の言葉……どういう意味なのですか!)
シルヴァード様の顔が自分の顔の間近にあったことを思い出して、わたしの顔は再び熱を帯びる。わたしは思わずベッドに仰向けになって、しばらくそのままぼんやりとしていた。