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嵐の前

 終電間近の圧迫空間を耐え凌ぎ、ようやく陽向(ひなた)は我が家に辿り着いた。


 週末のラブホは客室の回転率が平日よりも良く、とても忙しかった。清掃が終わった部屋から順にみるみるうちに新たな客で埋まっていき、清掃待ちの部屋を確認するためにモニターを見ただけで目眩がしそうだった。


 さすがの真紘(まひろ)も同じだったようで、陽向の部屋に入るなり、ベッドに倒れこんでしまった。

 一度自宅へ寄る気力も残っていなかったらしい真紘は、直接入野入野(いりの)家に泊まりにきた。現在は深夜の一時半を回ったところだ。


 真紘は陽向の枕に顔をうずめ、「あー疲れた」としきりに唸っている。


「寝ちゃう前にお風呂入ってきて。あと俺と真紘が入るだけだから」

「んー……陽向先入って……」

「だめだよ、真紘いつも寝るから」

「明日休みだし朝入っても問題はない」

「問題はないけど、そのままベッドで寝るのは俺がいや。いっぱい埃かぶってるんだから」


 真紘じゃなきゃ、服のままベッドにダイブなんてそもそも許していないと思う。


「じゃあ一緒に入ろ」

「なんでそうなんの。早く入ってきて」


 一緒に入ろ、は真紘が睡魔に負けそうになったとき、風呂をぐずる際に言うお決まりの台詞だ。

 真紘はとくに深い意味で言っているわけではないけれど、陽向としては素直に心臓が跳ねてしまうので、つい冗談はやめてと強めに言ってしまう。


 自分を落ち着かせるためにも、陽向は一度軽く深呼吸して心を落ち着かせた。次に、いも虫みたいにお尻を突き出し、往生際悪くベッドから離れまいとする真紘を引っ張り上げ、真紘の分のスウェットを押し付ける。


「はい、いってらっしゃい」

「……ん」


 真紘はだるそうに部屋を出て行った。


 今日はいつにも増してぐずっていた。よほど疲れたのかもしれない。頼むから階段で落ちないでよと念を送る。

 ぐずったところもかわいいなんて思うのは、恋の末期症状だ。

 明日は日曜で学校は休みだし、バイトのシフトも入っていない。ゆっくり寝かせてあげようと陽向は思った。 





 真紘と入れ替わり入浴を済ませた陽向は、風呂に入って目が覚めたという真紘の手指に丹念にハンドクリームを塗り込んでいく。

 バイトで水に触れる機会が増えたこととシャンプー練習のダブルパンチで、真紘の手は以前に比べて随分と荒れることが多くなった。


 真紘が頑張っている証拠だし、格好いい勲章ではあるけれど、だからといってなにもせずに放っておくと悪化する一方になる。

 だからこうして時間が合うときは、真紘の手指に丹念にクリームを塗り込んでいる。陽向にとってもハンドマッサージの技術の向上になるし、真紘の手も守れるしで一石二鳥だ。


「おんなじバイトしてんのに陽向の手は綺麗なままだな」


 クリームを塗り込む陽向の指先を見て真紘が言った。


「あー……それは姉ちゃんに監督されてるから」

「さすが真由(まゆ)ちゃん」


 ネイリストになると決めてから「じゃああんたはまず、なにがなんでも自分の手を綺麗に保ちなさい」と姉に言われてきた。

 ガサガサの手の奴に施術なんてしてほしくないわと一喝されて以来、逐一姉のチェックが入るようになったのだ。だから自分の手のケアを怠るわけにはいかない。

 女王の機嫌を損うべからず。入野家の常識だ。


「ほんと姉ちゃんこわいよ、ちょっと指先が荒れただけでも気づくもん」

「そんだけ陽向がかわいいんだよ」

「関係ある? それ」

「夢を叶えてほしいんだよ」


 女王のように一家の中心に君臨し、踏ん反りがえっているあの姉が、そんな殊勝なことを思うだろうか。陽向がネイリストを目指したきっかけは姉だったので、応援してもらえるのはありがたいけれど。


 半信半疑でいると、「口とんがってんぞ」と陽向の突き出した唇を真紘がむにっと摘んだ。


「んん!」


 驚いた反射で真紘の手のひらを親指の腹で強く押してしまった。


「いてぇ!」

「急になにすんの!」

「それはこっちのセリフだ、痛ぇよ」

「……ごめん」


 でも、仕方ないじゃないか。真紘の些細な動作や気まぐれに、いちいち心が一喜一憂してしまうのだから。

 膝枕みたいにだいたい予測できる触れ合いならまだ制御できるのに、いきなりはだめだ。

 甘苦しく身体に広がって、つい真紘への恋の終わりを遅らせてしまいたくなる。


 自分の技術の向上と真紘のためだと正当化し、もっともらしい理由を付けて真紘の手に好きに触れる。諦めなきゃと思う度、行動は矛盾していく。


 こんなんじゃだめだってば。

 音にしないようにそっと息をつく。浮き足立った心を平らにするよう意識し、背筋を伸ばした。


「真紘くん、反省しているので手を離してください」

「けっこう痛かったので無理です」


 なぜか手首を掴まれている。離してと言っているのに、真紘はさらに陽向の手首を掴む力を強くした。やめてほしい。


 離して。

 嫌だ。


 視線でやり取りする。


 掴まれている手首に全神経が集中しているかのように、生々しく真紘の手の感触がわかる。

 真紘の熱が陽向の中に入り込んでくるような、陽向の熱が真紘に入り込みたがっているような、熱と熱のぶつかり合い。


 しばらく無言での語り合いは続いた。

 二十面相なんて生ぬるいんじゃないかと思うくらい、自分の表情がころころと変わってはいないかと心配になる。

 そんなときだった。真紘が少し言いにくそうに陽向から視線を外して言った。


「……あのさ、今日八木八木(やぎ)さんとなんかあった?」

「……へ? 八木さん?」


 いきなり手首を掴んだかと思えば、今度は脈絡のない問い。どうして急に八木が出てくるのだろう。


「いや、なんていうか……陽向って八木さんと仲良いなと思って」

「そうかな? それ言うなら真紘の方じゃない? いつも八木さんが煙草休憩に行くとき着いてくじゃん」


 真紘は未成年だし、遊びでも一度も煙草を吸ったことはないのに、八木が煙草を吸いに行くと必ず着いて行く。二人ともノリが良くコミュニケーションが取れる者同士なので、特別に気が合うんだろうなと思っていた。


「あー……いやなんていうか、ちょっと話すことあってさ。待機所じゃみんないて言いにくいからさ。喫煙所だとあんま人いないから」

「なんか悩みでもあんの? 俺にも話してよ」

「いや、たいしたことじゃねぇから」


 ちくりと胸に小さい痛みが走った。

 たいしたことじゃないなら、なおさら俺でもよくない?


 なんでも話せるのが陽向と真紘なのに、真紘は八木には話したくて、陽向には話したくないらしい。直接お前には話したくないと言われたわけではないけれど、今の濁し方はつまりそういうことだ。

 これから、少しずつこういうことが増えていくのかもしれない。幼なじみの情報共有率も下がっていく。


 これも真紘を諦めるためのステップの一つだと思えばいい。

 陽向の打ち明けるつもりのない恋心だって、ある意味隠し事だ。

 そう思うのに、自分のことは棚にあげ、自分に都合のいい考えばかりが浮かぶ。


「俺のことよりさ、陽向のことだよ」

「なに」


 不機嫌が声に乗ってしまった。やばい、と思ったけれど、言い直しはできない。


「だから八木さん。陽向あの人になんか言われたんじゃないか? ……たとえばさ、俺のこととか」

「真紘のこと? べつになにも言われてないけど」


 真意がまったく見えてこない。さっきから真紘はなにを言いたいのだろう。


「そっか、なんもないならいいんだ」


 あからさまにほっとしている。真紘の挙動からなにか後ろめたいことがあるというのが透けて見える。

 陽向はどうしても確かめたくなった。ほのめかすことができる程度の隠し事なのに、それを隠されるのは嫌だった。

 そんなのは俺たちじゃない。


「真紘のことはなんもなかったけど――」


 どうやら八木との会話が気になるようなので、ひとまず今日あった八木との会話をダシにして様子を伺うことにした。



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