白日のもとに
持っていた備え付けのうがい用コップが、陽向の手から滑り落ちた。
「……はいっ!?」
「あ、その反応は当たり? いやさーほら、さっきも言ったけど入野くんよく使用済みのコンドームとか床に落ちてると恥ずかしそうにしてるからもしかしたらそうかなって」
「い、いや……あの」
「でも単純にシャイなだけかもって思ってたんだけど、ラブホ自体慣れてないってことはもしかしたらそうなのかなーって。あ、玩具とかみるのも恥ずかしそうにしてるよね」
突然なにを言いだすんだこの先輩は。そんなことありません、と嘘でいいから取繕わねばとか、いやまずはなんでもいいから否定の言葉をとか、とにかく場の切り抜け方が頭の中でぐちゃぐちゃに絡まり、うまく言葉が出てこない。
「いや……だからその……」
そりゃあ小さい頃から、叶うはずのない相手に恋してんだからドーテーでしょうよ! それのなにが悪い!
口には出さないけれど陽向の胸中は吹き荒れている。
ラブホだから当然ある、いわゆる『大人のおもちゃ』も、知識として知ってはいるけれど、陽向にはてんで触れ合う機会のなかったものたちだ。
バイブ、ローター、ローション、エトセトラ、エトセトラ……が、部屋によってはあまりにも無邪気に転がっている。その度に陽向は心臓が飛び上がりそうなほどドキドキするし、気まずいし、恥ずかしい。オナホがむき出しで転がっていたときなんて、泣きそうになりながらティッシュ越しに掴んで捨てた。
一人で『大人のおもちゃ』なんて、いつ使う暇があるんだよ。免疫なんてあるわけないだろ!
出会って二週間足らずの、恋人に不自由しなさそうな人に、俺は童貞ゆえに大人のおもちゃも使ったことがなく免疫もありません。なので恥ずかしいです、だなんてカミングアウトすると思うか!
きっと八木は真紘と同様にモテる。二人はどこかタイプが似ている。つまり八木も絶対に相手に困ったことがないはずだ。大人のおもちゃを前にしても、少しも恥ずかしそうな素振りは見せない。つまりあれらを使ったことがあるはずだ。そうに違いない。
偏見もあれど、そんな人に打ち明けても笑われて終わるだけだと判断する決まってる。
笑わないでいてくれる真紘が稀有なのだ。そもそも、真紘が笑わないのは、自分も同じく童貞であるからなのかもしれないけれど。
「やっぱ図星だった?」
「いやあの……デリケートな問題なんで……」
こんなの「はい」と言っているようなものだった。
「そっかそっか。んーでもさ、それって柳木くんのことが好きだから?」
はいぃ!?
顔がぼっと熱くなったかと思えば、すぐさま血の気が引いた。動揺して視線が定まらない。
「ははは、なんでまたそんなことを……」
「ん? なんとなく」
八木はけろっとした顔で言った。
フランクな性格は八木の美点なんだろうけれど、羽のように軽く突っ込んでき過ぎだ。とどめの威力がでかすぎる。エアリーな羽が、一瞬にして羽ペンのペン先ほどの鋭利さになる。
いや、冷静になれ。八木の言う『好き』はライクの意味かもしれない。
考えて、俺の頭。
この場合の最適解は言える範囲の事実のみを答えること。
「幼なじみなんで、もちろん好きですよ」
よそゆき全開で構成した表情のせいで頬が引きつりそうになりながら、あくまで家族的な意味で好きですよ、と柔和な笑みを心がけて言外に強調してみる。
「あー八木くんに聞いた。家が隣同士なんでしょう?」
「はい」
「幼馴染かー、いいな。いつのまにか大事な存在になっちゃうって感じかな。うーん、いいね、甘酸っぱい」
おかしい、なぜか話が進んでいる。
「や、やだなぁ。ただの幼馴染ですって」
「ほんとかなぁ?」
八木は探るように見てくる。
陽向と真紘の物理的な距離が近すぎるというのは、自分でも自覚している。けれどそれは、幼少期から積み上げた関係値があるからだ。……まぁ、陽向にとってはそれらは特別に嬉しいことであるものの。
しかし個人的感情を抜きにして考えたとき、距離が近いというだけで幼なじみ以上の気持ちを疑われるだろうか。
ほかにも八木が疑う理由があるのだろうか。
だめだ、余計なぼろが出る前に無理矢理にでもこの場を収めた方がいい。
「あ、ほら時間押しちゃいますよ!」
二人一組で清掃に入り、一部屋にかける清掃時間は約十五分と決まっている。
「おっと。ごめんごめん。でも入野くんわかりやすいよ。柳木くんを追う目が好きって言ってるから」
そう言い残して八木は抱えていたリネンを片付けに部屋を出ていった。
……はい?
冗談はよしてほしい。
そんなことは今まで誰にも指摘されたことがない。冗談でなら、高校生のときに何度もクラスメイトから「おまえら付き合ってんの?」とからかわれたことはあるけれど。しかしそれは、ある意味クラス名物のようなものだった。真紘と一緒にてきとうに否定して終わる、一連のコントのような会話だ。だからいくら陽向たちがみんなの前でくっついてじゃれていても、陽向が実は真紘に恋心があっても、誰も八木が考えているような意味では捉えなかった。
吹き荒れる思考の嵐の中「ごめん、ちょっと無神経すぎたかな」と、トイレットペーパーを片手に八木が戻ってきた。
陽向の様子が八木にどう見えたのかはわからないけれど、さっきまでの揶揄うような態度ではなかった。
「デリケートな話っていうのはよくわかってるのにな……。いや、でもごめん。調子に乗りすぎたよ」
「……あ、いえ」
八木の変化についていけず、謝罪に対して随分気の抜けた返事になってしまった。
「すでに不快にさせてたら元も子もないんだけど、俺は入野くんの味方でいれると思う」
「味方?」
「うん。でも信じてないね、その顔は。まぁ俺が茶化しちゃったから悪いね。でも本当に入野くんの気持ちを肯定してあげられる側だから」
「それってどういう……」
意味を測りかねて尋ねた。
「俺は男の人が好きなの。だから気づくのかな、入野くんの視線がよく柳木くんを追ってるってこと。……入野くんも同じなのかな?」
「いや、俺は……。でも、初恋なので……どうなんですかね……」
自分のこととはいえよくわからない。陽向自身がゲイであるという認識よりも、陽向が好きになったのが真紘だったという認識だ。
「可能性はあるけど、まぁその辺はおいおいでいいんじゃないかな。ひとまずノンケ同士の恋、ってことかぁ」
八木は宙を仰いだ。
「ま、かけちがいで悩むよりはいいのかもね。いいじゃん、頑張んなよ」
と言われても、陽向がするのは頑張って恋を成就させることではなくて、頑張って気持ちを終わらせることだ。
「あの、このこと絶対に真紘には言わないでください」
「ああ、その辺は安心して。まぁでも……入野くんが頑張んないんだったら、俺が取っちゃうかもよ?」
「えっ」
本気か冗談かまるでわからない。いっさい心の隙が読めないような、なんだか胡散臭いような、鉄壁の笑顔だった。
「うそうそ、冗談だけどさ。でもほどよくタイプなのは本当。けっこう彼女とかえひっかえそうだよね、柳木くん」
「え、いえ……それはない、と思いますけど」
陽向がおずおずと答えると、
「そうなの?」
と、八木は大袈裟なくらいに目を白黒させた。
「真紘、誰とも付き合ったことないですよ」
「えぇ? うっそ、そういうこと?」
うん、わかるよ。
陽向もいまだに信じられない。
八木はしきりに「おかしいなー」「じゃあそういうことかー」と言っている。なにがおかしいんだ。なにを勝手に納得してるんだ。幼なじみの情報共有率を舐めないでほしい。
「え、もしかして入野くんさ。まさか柳木くんも童貞なんだーとか言う?」
「え? えっと……た、たぶん」
言いながら、あとで真紘に怒られるかもしれないと頭によぎり曖昧な返事になった。もれなく自分もそうだと肯定してしまったようなものだということは、後になって気づいた。
「えー、絶対おかしい、柳木くんが童貞? 絶対おかしいわ」
陽向だってもうすでに億万回と思っていることだ。嘘はついていない。
八木は、おかしいおかしいと首をひねりながら掃除機をかけた。陽向は洗面台を仕上げテーブルへ移動し、端から端まで素早く丁寧に拭きあげた。と、ここで疑問が湧く。
ん? 待って。なんで俺は童貞って疑う余地を持たなくて、真紘も同じだって言ったらそこは疑うの? おかしくない?
女子からは中性的な見た目や話しやすさから、男としては真紘には及ばないにしても、それなりに女子人気があった陽向だ。おそらく、顔も悪くはないのだろう。オシャレもそれなりに気を使っているし、彼女がいたっておかしくない人間に見える……はずだ。
……じゃあ、なんで!
落ち込んだ。今なら背中に哀愁を漂わせることができそうだった。