グループ展の後で
父のスタジオを訪ねたのは、グループ展が終わって一ヶ月ほどが過ぎた頃のことだ。
日差しは以前よりも強くなく、空にはひつじ雲が広がり、ぐっと秋らしくなってきた。
これまで大学卒業以来、私はスタジオに足を踏み入れることを避けてきた。
もしもそこに女の影があったなら、それを見つけてしまった時に耐えられそうになかったからだ。しかし、父にアシスタントができたと聞き、そこから何かを探れるかもしれないとう淡い期待があった。
冷静さを装い、入り口に立ち、息を整える。ドアノブを握る指先がかすかに震えるのを感じ、緊張が膨らんでいく。私は勢い良くドアを開け放った。
「お父さん、誕生日おめでとう!」
今日はちょうど父の誕生日で、家族のグループ LINEで父がスタジオにいることを私は知っていた。普段大きな声など出し慣れていないので、恥ずかしかった。
父は驚いたように目を見開き、その瞬間、スタジオの静かな空気に笑い声が生まれた。
ふと奥を見るとアシスタントらしき若い男性が、重そうなダンボール箱を抱えてふらふらと歩いている。周囲には、積み上げられた段ボールや商品が山のように置かれ、そこのはあの日、ギャラリーで見かけた二人組の男たちの姿もあった。
「剛くん、今日は誕生日だったの? いくつになったんだい?」一人の年配の男性がそう尋ねると、父は照れながら答えた。
「五十二になります。…いやぁ、まさかね。サプライズだなんて初めてですよ」
「だってこうでもしないとお父さんに会えないじゃないでしょう」
そりゃそうだ。と父がつぶやく。浮気というわけでもなく、仕事は本当にデスマーチを迎えていたようだ。
「あぁ、美咲…こちらはクライアントの田川一郎さん。今、彼のところのカタログに載せる商品の撮影をしているんだ。」父はそう言うと、もう一人の男性の方に目を向け、
「こちらが写真の加工を専門にしているレタッチャーの出口いさみさんだ」と紹介してくれた。
私は軽く会釈しながら名乗った。
「河原美咲です。どうぞ、よろしくお願いします。」
田川と呼ばれた男性は恰幅が良く、まるで往年のスポーツ選手のようだった。大きめのラルフローレンのシャツを着て腹回りを誤魔化していたが、正直言って、似合ってなかった。
彼は「黒が似合うね。どうぞよろしく」と微笑みながら、興味深そうにこちらを見た。服の品定めをしていた心を読まれたのかと思うくらい、絶妙なタイミングだった。
「オフィス・ラルの子だろう?剛くんから話を聞いてるよ。確か、白鳳堂がメインのクライアントで、定時帰りの土日祝が休みだとか。この業界にしてはなかなか恵まれた環境にいるね。頑張って!」と、レタッチャーの出口が言った。
「はい、ありがたいことに。毎日が勉強になることばかりで先輩にはお世話になりっぱなしです」
私は父の職場で自分が知られていることに驚き、どこか誇らしさも感じていた。
「あ、紹介しておこう。千葉くん、おぉい、ちょっとこっち来てくれるか?」
父が呼びかけると、若い男が大量の洗剤を抱えてこちらに近づいてきた。マウンテンパーカーにくたびれたデニムパンツ。背が高く、がっしりとした体つきをしているが、顔立ちはどこか女性的な美しさを持っていて、私は一瞬、その中性的な魅力に目を奪われた。
「千葉浩一です。どうも、はじめまして」千葉くんと呼ばれた男は挨拶をしながら、ごそごそとマンハッタンポーテージのショルダーバッグを探り、名刺を差し出した。私は受け取って名刺を見つめた。経歴を見ると同じ大学であることがわかった。
「大学、同じですね。でも会ったことはありませんよね。学科が違うとキャンパスも違うし…でも、なんだかどこかで…」
「剛さんと同じグループ展に参加していました。おそらく僕のプロフィール写真をご覧になったんじゃないでしょうか」
「ああ、なるほど」。私は頷きながら、思考の中で彼の作品を探ろうと試みた。
緑色のペイントが無造作に塗られていたが、写真はどれもモノクロームだった。工事現場で働く屈強な人々が楽しげに笑う瞬間、汗が滴る入浴シーンで捉えられた無防備な表情…すべてが人間臭く、彼が写した風景には確かに日常の一瞬が切り取られていた。
「谷口ゆりえさんってデザイナーさんがいたと思うんですが、そちらの紹介なんです。同じ大学のツテで」 彼が口にしたその名前に、私の胸の奥が一瞬にしてざわついた。
谷口ゆりえ――例の女性絡みなのか。ここでまた彼女の名前が出てくるなんて、予想だにしなかった。
彼は私の表情の変化に気づくことなく、続ける。
「普段はフリーランスで活動してて、Web系の写真やポートレートなんかをメインに撮っています。最近は動画も少し」
「千葉くんも新卒なんだよ、美咲と同学年だね」
「よろしく」と、彼の手が目の前に差し出された。一瞬言葉を失い、見つめ返す。こうして男性の手が自分に向けられること自体、久しぶりのことだった。松本先生とは映画や食事に行ったりこそすれど、手を握ったことすら一度もなかった。
「どうしたんですか?」彼は手を差し出したまま不思議そうに私を見つめる。
「…いえ、なんでもないの」
そう伝えると私はその手をそっと握る。確かな重みと温もりが掌の中に広がっていった。