ボロを出さない父親
「お父さん、彼女、いるでしょう?」
「ふふふ。俺は…モテるからな」
否定も肯定もせず、冗談で切り抜けようとする父。
「はぐらかさないで」
「いや、彼女とはただの仕事仲間だよ」
「本当に?」
しかし父と彼女のSNSには、打ち合わせの様子や仕事の進捗状況がアップされており、その二人の写真やコメントの距離感には、単なる仕事仲間以上の何かがあった。
そして彼女と父の写真が投稿されるごとに、何かが少しずつ壊れていくのを感じていた。
ギャラリーに着くまでの間の道を自転車で走る。金木犀の香りが漂いはじめていた。その甘やかな匂いは、どこか懐かしく、父のことで鬱々とした気持ちだった私にささやかな喜びを添えてくれた。
件のギャラリーは商店街の中にある。三階建てで、どうやら父たちのグループは二、三階を利用しているらしい。
急で狭い階段を上がっていく。ポストカード兼案内表示には『河原剛・谷口ゆりえ・坂田泉・千葉浩一・大津玲央』の連名で〈緑展〉とあった。
緑をテーマにしたグループ展のようだ。中の様子を伺うとどうやら父は三階にいるようだった。
父の声がする。
「ご来場、ありがとうございます」
「こんにちは。いつも父がお世話になっています」
明るい嬌声にも似た周波数で彼女は不意に私に話しかけてきた。
若い女性の声。もしかしたら…。私は狼狽した。
「え!ひょっとして河原さんの、娘さん?!」
「私、谷口ゆりえといいます。たぶん同じ学校ね。もちろん私がかなり上の先輩なんだけど」
そう言って私に笑いかける。
口下手なのでこういう時は助けになる。
別府美術大学のデザイン科って河原さんから聞いてたから…。私は田尻ゼミだったけどまだいらっしゃるかしら」
「…はい、います。先日も研究室でお会いしました」
父の彼女らしき人だということはSNSで顔を見ていたのですぐわかった。アイボリーのジャケットにシアー素材のラップスカートがよく似合う、思ったよりも小柄な女性だった。
彼女は雑誌やカタログを専門とするグラフィックデザイナーで父とチームを組んで仕事をしているのだそうだ。私は同じく駆け出しのグラフィックデザイナーとして、彼女と共通する話題があった。デザインソフトの最新の機能や、色彩の扱い方、クライアントとのやりとりなど、表面的な会話は自然に進んだ。
時折、私たちは笑い合い、技術的な知識を交換しながら、同業者同士としての親しみを感じる瞬間もあった。しかし、その一方で、私はどうしても心のどこかに引っかかる感情を抑えきれなかった。私がデザインの話題で彼女と打ち解ける度に、父との関係をどう捉えるべきか、自分自身に問いかけるような気持ちになる。ひょっとしたら彼女は不倫などではなく、私と松本先生と同じように精神的な結びつきだけで一緒にいるだけなのではないかと。
「あ、そうだ、お父さん、学生時代にお世話になった先生」
「松本眞太郎。桐谷美大の准教授をしております。ユニークな作品が揃っていて楽しいですね。これ、差し入れです。在廊時間が長いと昼食もままならないでしょうから…」
そう言って松本先生はとんかつ・まい泉のヒレかつサンドを差し出した。
白いパンと分厚いとんかつのコントラストが見事で、それは彼の好物でもあった。
「いやぁ、ありがとうございます。とにかく今は娘の就職が決まってホッとしているところです。先生のおかげです」
「彼女はポートフォリオもしっかりしてましたが、何よりもプレゼンテーション能力に優れてましたから。大手代理店との取引もあるのでハードだとは思いますが、期待に応えてくれるでしょう」
こういう形で松本先生に褒められるのは初めてだ。頬がじわりと熱くなり、次第にその熱が耳へと伝わる。私の体温が一気に上がるのがわかった。
松本先生もまたデザイン工学を教える身だった。この空間にいる全員がーーー商業カメラマンである父を含め、同じ世界に生き、なんとなく通じ合えるものがあった。とりあえず父には私たちの曖昧な関係を悟られないよう、振る舞った。