父の浮気
初めて投稿します。小説は読後感の良さが醍醐味だと思っています。最後まで読んでいただいて、いい話だったなと思えるような話にしていきたいと思っていますのでよかったらコメントをお願いします。
「松本先生、今日も遅くまで講義お疲れ様」
その年の初秋は妙に蒸し暑く、眩しい陽光の日々が続いていた。
私はいつも通り正門の前で彼に声をかけた。
「出待ちなんて、芸能人にでもなった気分だよ。どうした、悩みごとか何かかい?」
「父の浮気のことでちょっと…」
「穏やかじゃないねぇ」
彼はカーハートのパーカーにペインターパンツとラフな格好だった。どうやら今日の講義は塑像制作の類で軽装である必要があったようで、パーカーの紐をいじる癖は相変わらずだった。
「浮気…、浮気ねぇ」
呟くように私のセリフの一部を復唱する彼。
複雑な表情で、私の表情を確かめる。それも無理はないことだなと、私は思った。
最初、父の不貞らしき証拠を見つけた時、私は複雑な想いだった。なぜなら父と同じように私もまた、禁断の恋に落ちていたからだ。目の前にいる彼、松本先生は妻帯者であり、薬指には指輪がある。4℃のちょっとリングが太いタイプのものだ。
「夕飯でも食べながら聞こうか?」
「じゃあ、最近できた美味しい定食屋さん…。そこで食事でもしませんか」
私はそう答えた。
今年の春に卒業した今も、松本先生との逢瀬はあいまいながらも続いている。
よく一緒に食事に行き、飲み、映画を観て心を通わせた。ただ父と違うところは、彼の妻はもう長いこと病床にあり、意識もほぼない状態だということだ。
「私、銀鱈みりんが好きなんです。鱈のあの、ふっくらとした身。あぶらがのっていて…」
教授と教え子という関係から、晴れてただの男と女になった今でも、身体の関係は何ひとつない。
恋人というよりは、もっと複雑で少し歪つな関係かもしれない。どちらからともなく次の約束をし、時間を共有し、そして彼もまた、私を遠ざけることはしなかった。
「今度の日曜日、時間があるようだったら父のグループ展に行ってみない? 浮気相手もそこにいるらしいの」
魚の身をつつきながら、私は思い切った提案をしてみた。
「いいね、僕は構わないよ」
にっこりと笑うと、くしゃっと笑い皺が出た。私の一番好きな彼の表情だ。
父は商業カメラマンをしている。彼の仕事は主にチラシの商品撮影で、時折、旅行雑誌などの撮影依頼も受ける。出張の多い仕事だ。撮影現場での父は、常にプロフェッショナルで、レンズ越しに被写体を見つめる目つきは鋭い。
そんな父だが、最近になって商業撮影とは別に、グループ展で写真作品を展示するようになった。これまでの商業活動とは違い、彼自身の「芸術的な表現」を追求するための試みらしい。販売もする。初めてその話を聞いたときは少し驚いた。彼はいつも冷静で、シャッターを切る職人のような男だったからだ。
しかし、その活動が始まってからというもの、父の傍に女の影が見えるようになった。
「父がほとんど家に帰ってこないの」
「そうは言うけれど、コロナが明けて、単に忙しいだけじゃないの?」松本先生は店の名物らしい・茄子みそ定食の半カレーセットを頬ばっていた。
父が怪しい。そう思うようになったのは打ち合わせと称して、女性と二人で会っている写真がSNSに投稿されるようになったからだ。それも父のアカウントからだけではなく、彼女のアカウントからもだ。
「またあの人と一緒か…」と母が呟いたのは、ある夜のことだった。その不穏な空気を助長するように、テレビからは海外の紛争の様子が報じられていた。私もうすうす怪しいと感じていたが、母には言えずにいた。スマートフォンの画面を見つめる母。母の声には怒りも哀しみも感じられず、ただ虚無感だけが漂っている。
「いつからなんだろうね」私は母に寄り添った。テーブルには母が飾ったコスモスが揺れている。母は視線を上げ、私の顔をじっと見つめた。そして答える代わりに苦笑いをする。
彼女との関係が始まった時期は定かではないが、父の変化になんとなく気づいたのは、その芸術活動とやらを始めだした頃だ。父は私が幼い頃から泊まり込みの仕事も多く、夜遅くまで帰らない日も多々あった。ただ、ちょうどグループ展に参加するようになってからその頻度が増えてきたのだ。父は、なぜそのような関係を選んだのだろう?
母に対しての裏切りだけでなく、家族全体の不信感が、私の胸に渦巻いていた。