前編
魔法が主役となり、多くの破壊をもたらした三度の大戦から暫く。
各国はその力を畏怖し、管理するための組織を作り出していた。
魔法学園と呼ばれるその組織は、その設立時点から、多くの問題を抱える事となった。
アイク・ロイトにとっての学園生活は、概ね平穏な日々が続いている。
朝、男子生徒寮を出て、校舎への道すがら、女子生徒寮の方から来た妹のイーシャ・ロイトと世間話をする。
道はそれほど長く無いため、話も長くは話せない。それでも兄妹としての交流を欠かさず行う事が大切だった。
教室は別々のため、校舎に入れば一人でまた歩く事になる。
自らの席へ辿り着くまでもやはり日常だった。変わらない日々。変わらない時間。そうして、これも変わらない事として、朝から同じ教室の同期であるデギンス・フォードリーが刺々しい挨拶をしてくるのだ。
「おおっと、今日も不機嫌にしているな、才無し庶民。何かあったか? ああ、言わなくても良い。どうせ庶民の悩みだ。僕なんかには理解できない事だろうさ」
金色の髪を掻き上げながら話すこのデギンス。
彼は本人の言う通り、アイクを庶民と呼べるくらいには高貴な生まれの男である。
確かどこぞの国の貴族だと聞いている。いや、そういう曖昧な言い方は良くはあるまい。実を言えば良く知っている。大陸南方のセーダック王国の大貴族。その次男坊であり、家の財力は国家の方針すら左右できる程との事。
そんな男が、アイクに対して嫌味を言う。傍から見れば、仲が悪い関係に映る事だろう。なら、どうしてアイクが彼をこうも知っているかと言うと……。
「毎日、他人様に別の文句を考えられるっていうのは、一種の技能なのか? そりゃあこっちは庶民なんだが……会話の内容については本気で敵わないと思えて来る」
「敵わないだけか?」
「家柄に財力に顔も……まあそっちが良いよな。あとはその鼻もちならない態度。そこらへんから、才能か努力に寄るものかが分からなくなってくる」
「ふっ。貴族にはそういう神秘性が必要ってことさ」
「今上げた例のどこに神秘があるって?」
と、お互いに軽口を交わし合う。要するに、毎朝刺々しい嫌味を飽きもせずに言ってくるこの男は、あらゆる部分でアイクの友人なのだ。
学園にやってきた最初の頃は、それこそ嫌味を真に受けたし、向こうも最初から嫌味のつもりで話し掛けて来たのだろうが、人間関係とは不思議なもので、何故か親しい相手とお互い認識し合う事になってしまっていた。
(こっちの方がよほど神秘だ)
苦笑したくなるところであるが、この程度で笑っていれば、アイク達の事情は笑いが止まらなくなってしまう。
「魔法を扱う才。それだけで十分僕達は神秘的さ。おっと悪い。お前は違ったな」
「毎度毎度、確認させてくれて助かるんだが、時々、なんで俺がこの学園にいるか分からなくなるんだよな。魔法なんてさっぱりだって言うのに」
「確かお前が望んだって話じゃなかったかい?」
「ああ、そうだ。妹一人で行かせるのは心配だから、どうせ家も継がない三男坊が保護者代わりとして同行してくれたら安心なんて親の心配と、何故かその提案を飲んだ学園の意味不明さの二つが圧し掛かった状態で、選べる余地があったってのなら望んだ事だろうよ」
「大概、そっちも面倒な事情と性格をしている」
面倒で複雑なのはこの学園からしてそうなのだから仕方ない。
過去、何度か、幾つもの国を巻き込む戦争があった。
もうこの時点で複雑だと言うのに、そんな戦争を引き起こした魔法を、次世代の人間達には適切に学ばせ、管理させようなんて理由の元、各国から魔法の才能がある人間達を集めている。
それがこの魔法学園。各国の思惑が渦巻き、だと言うのに治外法権染みた各国からの不干渉が貫かれる学園。
だが、そんな世の中の思惑と学園に集められた生徒達は別……と言いたいわけであるが。
「面倒ついでに今日はもう一つだけ。そろそろお前の妹、目を付けられるよ。妹の方は庶民だが、才無しじゃあ無いんだろ?」
「……本当に面倒な話だよな」
学園が複雑なのと同様に、生徒にだっていろいろある。本当にいろいろあるこの魔法学園こそが、悩ましい事に、アイクにとっての日常だった。
学園である以上、時間の多くは勉学に費やされる。
既に名声と技能ある魔法使いや、もしくはおちぶれて自国に行き場の無い魔法使いが、教師となり生徒へ魔法を教える。
教えられる魔法についてはいろいろある。手から炎を出したり、地面からお湯を噴出させたり、空に浮かんだりできる魔法もある。
教師がそうである様に、生徒がそのすべてを覚えられるわけでは無い。学ぶ事についてもだ。
生徒達は幾つかの教室に分けられ、教室毎にその学ぶ内容を選択する。学ぶ内容については教室内の総意と、教室間の調整に寄って選ばれるわけだが、すべてが上手く行くわけでも無い。
「調薬なんてのは魔法と言えるのかな? アイク」
「俺にとっては、空から雷を落としたりする様なのより丁度良い魔法さ、デギンス」
「才無しだからな」
授業中だって嫌味を欠かさない小まめなデギンス。ただ、彼で無くとも愚痴は零したくなるだろう。
目の前にあるのは幾つかの葉っぱと木の欠片、きのこっぽい何か。それとすり鉢だ。教師から、ひたすらどれとどれを混ぜたらどういう効果があるのかを聞きながら、鉢の中で目の前の物体を粉にしていくのだ。
教師の声とゴリゴリと鳴り響くすりこぎの音。授業中はずっとそんな様子なので、無駄話でもしていなければやっていられない。勿論、授業としての人気はどん底だ。
「才能有るそちら様にとっちゃあ、どういう授業がお好みなんだ?」
「それは華々しく戦う戦場魔法の授業さ。3度あった大戦の英雄達を知っているかい? 輝く息吹のマインド・アーミー。復讐姫レイリア・ナスキート。真の貴族ナヘリア・グーラッツ」
「メッホ・ロッソ。ター・ヘング。キャサリン・トレンダース。あと10人は言えるが、それが何だ?」
「そのだいたいが戦場で魔法を使った活躍をしたって事さ」
「3度もデカい戦いがあったんだ。そういう事もあるさ」
すりこぎに力を込めて回す。こうしている限り、教師は幾らかの私語を許してくれる。きっと教師だって退屈なのだろう。
「次にそういう事があった時、英雄になれるのは戦場で活躍できる魔法を学んだ魔法使いだけ。僕はそうなりたいと言っている」
「つまり、本気で戦争になって欲しいって?」
「まさか。僕は貴族だぞ? なんで自分達の地位が揺らぐ戦いなんて歓迎するね?」
要するに派手な魔法を学びたいし、戦争で活躍できる魔法使いには憧れるが、そういう夢を見たいだけであって、本当に戦争を望んでいるわけでは無いと言う事。
「ま、そんな戦いは望まないし、望んだって俺達の教室は、人気のある授業を受けられない。ああいうのはもうちょっと力のある連中だろう」
別に、何時までも夢を見ているわけでは無いのだ。
ただ、学園である以上、大半の人間が学ぶためにここに居る。そして学ぶと言うのであれば、学ぶ価値のある物を学びたいと思うのが人情なのだ。
結果、人気の授業は取り合いになるし、そこには教室に所属する生徒達の、実家の権力や財力、または本人の純粋な力量が重要になってくる。
ちなみにアイクが所属する教室は、人気の無い授業を受ける程度の地位にある教室だと言えた。
「お前がもうちょっと才有りなら、僕も多少野心を覗かせたりするんだがねぇ」
「俺に才があっても無くても、そっちには実家に財力や権力があるんじゃないか?」
「こんな学校生活で、それらを利用しなきゃならないとしたら、僕は貴族なんてなれないさ。馬鹿な真似はしない」
怪しい事は言う癖に、妙なところで生真面目なのがこのデギンスだ。こういう男だから、友人関係を続けられている。あちらはどうか知らないが。
「馬鹿な真似……か」
「朝の話の続きをするかい?」
気になる話であった。こんな学園に、魔法の才能無く入った以上、大半の事柄は無視して過ごしているが、妹の話となれば話は別だ。
過去にどういう事情があったとしても、アイクは妹を守るためにいる。
「んで、馬鹿な真似しながら、自分とこの教室に人気の授業を受けさせる連中に、俺の妹が狙われてるって話だろ?」
「学園で力を持っている教室と言えば色々あるが、今のところ二大派閥として分けられているのが、シューリン・カリウス教室とマリアン・ファイアハート教室。それは分かるかい?」
教室の上に、いちいち個人名が付いている時点で分かる。だいたい、特徴的かつ中心的な生徒がいる教室は、その生徒の名前が付けられるのだ。
ちなみに、アイクが所属する教室であるが……アイクが付けるとしたら、ザ・没個性教室と言ったところか。
「学園の女王様二人。知らないわけが無いだろ? その二人がいがみ合ってるせいで、所属教室同士も定期的に抗争染みた事をしてる」
どちらも才能があり、その才能を暴発させている教室と言う認識がアイクにはあった。
「正に馬鹿な真似だ。だが、双方共に能力がある。だからこそ厄介で、お互い、有用な人材を自分のところの教室に引っ張る事にも積極的。困るねこれは。どこのチンピラ同士だと言わせて貰おうか」
「そのチンピラ同士の人材引っ張り合いに、うちの妹が目を付けられてなければ、別に放っておくんだけどな」
既にデキンスがこれから話そうとしている内容についても、アイクは大凡把握できた。
身内が言うのも何であるが、妹のイーシャは優秀だ。アイクより5つも年下だと言うのに、魔法に対する知識、技量、才能すべてにおいて、アイクを上回っている。
これについてはアイクが学園内でも底辺に近い才覚と言うのもあるが、少なくとも、学園内で上から数えた方が早い能力の高さをイーシャは持っているだろう。
そういう才能のある人間は、あちこちの教室からスカウトがあったりするのだ。
「生徒の質はそのまま教室の質さ。そして教室の質が良ければ人気の授業だって優先的に受けられるし、何より、卒業した時に拍が付く。確かお前の妹が所属している教室は、まだ平均的な、入学当初に配属されたところだったね?」
「本人は、穏やかな雰囲気だから好きなんだってよ。俺も、妹がそう言うのなら、そのままであって欲しい」
「そんなお前の妹を狙っているのは、シューリンの方だ。あの女は、一度決めると強引だぞ? 選ぶ手段の中では、怪我人を出す部類のものもある。気を付ける事だ」
「……忠告は聞き入れるつもりだ」
馬鹿な話だと無視はしない。この男がこんな話をすると言う事は、動くならそろそろ動いた方が良いという事だ。
アイクはとりあえず、今日の授業が終わってから行動を始める事にした。
「兄さんは心配し過ぎなんじゃない? 私、まだ子どもよ?」
「そういう事を言える人間が、魅力的に見る奴もいるってことだ」
授業が終わり、生徒達が寮へ帰るか、学園外にある商店街あたりにでも出掛けている時間帯。
そんな時間を使って、アイクはわざわざ妹のイーシャが所属している教室まで足を運んでいた。
教室自体はアイクの教室とそう変わらないが、時間が時間であるためか、既にイーシャとアイクしかいなかった。
「んー……ほんとに私、そのシューリンさんって人に狙われてるの?」
「本人に自覚が無いって事は、まだ始まっちゃあいないって事か。なら、今後は気を付けろって言えるな」
首を傾げているシューリンを見る。
黒く長めの髪を後ろで結び、まだまだ幼い顔立ちながら、女性としては整っている方(身内の贔屓目と言ってくれるな)。
年齢を思えば十分に子どもなそれであり、また、他の同世代よりかは小柄な方の身体。性格については、ちゃんと礼儀正しく、少しばかり引っ込み思案。
兄としては、彼女に降り掛かる不幸からは守ってやりたいと思える妹であった。
「兄さんは嫌な人だって思ってるの? その、シューリンさんって人」
「別にどうとも。お前が好きになったり、教室だって移動したいって思うのなら反対しないさ。お前の意思を無視して、無理矢理そうなったら嫌だって話でな」
「そんな無理矢理な人なんだ、シューリンさんって」
「お前な、学園内だと有名だぞ? シューリン・カリウスとマリアン・ファイアハートの二大女王は」
「女王。そんなのがいるんだね。そうなんだ……知らなかった」
守ってやらなきゃならない部分として、妹は世の中の機微に疎い。
妹は、才能云々を抜きにしても、魔法に関わる勉学が好きで、ひたすらに日々の時間をそちらに費やしているタイプなのである。
結果、人からはちょっと抜けていると思われているし、実際、魔法に関わらない事柄であればその通りだ。少なくともアイクはそう見ていた。
(ここが魔法学園なんだから、そうあるのが正しいんだろうよ。教室同士で余計な争いをしている連中が間違ってるってだけでな)
ただ、間違っている連中より正しい側が勝てる程、甘くない学園でもある。若干、無法な部分があるとすら思っている。
「一応、参考までに聞きたいんだけど? そのシューリンさんの教室ってどんな感じなの? 私、今の教室がちょっと気に行ってるから……」
「友達も多いって聞いてるぞ。兄さんとしてはすごく安心だ。だからこそ、シューリン教室はちょっとな。ガチガチの実力主義さ。有能なら優遇されるし、結果を出せない奴は教室を強制的に移動させられる」
「はは、入るのも無理矢理っぽくて、出される時もそうなんだ」
若干、引き気味のイーシャであるが、まだ抑え気味の表現をアイクはしている。
もっとキツい言い方をするのなら、無能な奴を見下し、有能な奴はそれらの上に立てると本気で考えている連中だ。
アイクなんて正に無能側の奴として、校舎や寮のどこかで出会えば、あからさまに蔑みの目線を向けられる。毎回そうなので、小まめな連中なのかもしれない。
「まだ困ってない様子だから、話はここまでだが、困った事があったら言ってくれよ。どれくらいの事ができるか分からないが、出来る限りの事はする。兄妹だしな」
「頼りにしてる。兄さん」
少々気恥ずかしい返答である。単純に、学内での能力で言えば、目の前の妹の方が余程高いのだから。
そんな感情を紛らわすために、自分の頭を掻こうと手を伸ばしたところで、どこからか高笑いが聞こえて来た。
「ん? いや? 何だ?」
『ハーッハッハッハ!』
ちょっと違和感を覚える低めの男の声。結構遠くまで響きそうなその笑い声が、アイク達がいる教室まで聞こえて来た。
音源はどうにも教室の窓から見える中庭からである。
「あ、ウルフマスクだ!」
イーシャが声の主を見るために、窓へと近寄る。一方でアイクの方はと言えば、本気で頭を掻きたくなってきた。
「お前なぁ。シューリンやマリアンの教室については知らない癖に、あれの方は知ってるのか」
アイクも妹が言うウルフマスクの様子を伺うために、窓から外を見る。
ウルフマスク。そう、ウルフマスクだ。
ウルフマスクと言うのだから、狼の覆面を被っている。正体は分からない。妙に白っぽい戦闘服と狼の覆面を被っている事と、中庭で急に高笑いを始める男……声からして恐らく男である事が分かっている、そんな存在。
「だって、こっちは有名よ? 有名人!」
「変人だ」
学園に何人かいる変人の一人である。いったい正体は誰だと囁かれているが、それ以上に、近寄りたく無い存在として嫌厭されている。
もっとも、幾ら嫌ったところで、ウルフマスクに接触される人間と言うのが存在する。
「なんか……戦うみたいだよ、兄さん!」
イーシャに言われなくとも、同じ光景を見ているのだから分かる。
石畳にいくつかの木々が生えたその中庭には、ウルフマスクと男二人が睨み合っていた。
「あいつらは……マリアン教室のテッド・カラスと……ラントリー教室のスザ・コウヤか?」
「兄さん、色んな人の顔と名前憶えてるんだね?」
「いや、あの二人は有名な方……っと、本当にやり合い始めたな」
最初に動いたのはテッド・カラスだ。彼はウルフマスクに向けて雷光を発した。そういう魔法である。
イーシャ教室の生徒らしい、見るからに精度の高い魔法。無駄な力は無く、最小限の規模で、まっすぐその光はウルフマスクが立っている方へと伸びた。
それは雷光らしく一瞬の事であり、雷光らしく衝撃が伴ったものであったろう。
ただ、ぶつかるのはウルフマスクでは無く、彼がいなくなった結果の、向こう側の壁だ。
黒い焦げが壁に残るその魔法は、相応に威力はあった事を思わせるが、当たらなければ意味が無い。
「わぁ、相変わらず人間離れしてるー」
イーシャの感想は、やはりウルフマスクへと向けられていた。
彼はテッドの魔法が届くより前。それこそテッドが構えを取ったその瞬間に、その場を移動していたのだ。
人間離れしているのはその移動距離であろう。足を一歩動かす程度の動きしかしていないはずだが、斜め前を移動する形で、一気にテッドの近くまで跳んでいたのだ。
中庭はそれほど広く無いとは言え、数歩程度で近寄れない距離にあったと思うのであるが、ウルフマスクは簡単にその距離を詰めていた。
テッドはウルフマスクのその動きに驚きながらも、二撃目の魔法を放とうとしている。そうして、そこで終わった。
「あの距離なら、魔法なんて意味が無いものなぁ」
ウルフマスクは二歩目を踏み込んでいる。テッドに対してさらなる接近だ。双方の距離は既にお互いの息が掛かりそうな程に近い。
(魔法を使うよりかは、殴り合った方が早いよな。実際、ウルフマスクの方がそうしてるか)
ウルフマスクの左腕は、テッドの腹部に食い込んでいた。
窓からはテッドの表情がいまいち分からないものの、恐らくは苦痛に歪んでいるはずだ。すぐに膝を折った事からして分かる。
「あのテッドって人、何か悪い事したのかな?」
「悪い事ねぇ。そういや、ウルフマスクは正義の味方……だっけか」
本人がそう名乗っているので、そういう事らしい。イーシャの発言通り、何か悪い事をしている生徒に対してウルフマスクはやってくるそうだ。
そうしてとても直接的な実力行使によって、その悪事を妨害してくると言うのが、ウルフマスクに関わる噂話である。
噂を飛び抜けて、実際、目の前で起こっている事でもある。
『危ないところだったな、少年! 強引な教室勧誘に困っているのなら、何時でも私の名前を呼びたまえ! 行ける時なら駆けつけようとも!』
やはり教室まで響くウルフマスクの声。向けられている方の生徒であるスザ・コウヤの方の声は聞こえないが、恐らくは戸惑っているに違いない。
さらにその後には、ウルフマスクがまたその身体能力でもって、その場から瞬時に消え去ったのだから、もっと混乱している事だろう。
一方で、離れた場所から眺めていたおかげか、アイクはだいたいの事情を把握できた。
「つまり、お前も一歩間違えばああいう事態に巻き込まれるってわけだ。分かったか?」
「全然分からないんだけど?」
困った表情を浮かべるイーシャであるが、そういう鈍いところがあるから、兄としては心配なのである。
「あのスザ・コウヤって生徒はな、良いところの出らしい。どこの国出身かはいまいち知らないが、そこそこの家だそうで、魔法の実力もあるって話。だから俺も、あいつの名前を知ってるんだ」
「んー……成績上位者なんだね」
目の前の妹も、そんな名前が知られている成績上位者である事はここでは言わないでおく。とりあえず、妹への忠告が先なのだ。
「基本、学内の実力者はシューリン教室に誘われるが、血統が良い場合、その生徒はマリアン教室にも誘われる。それこそ、ウルフマスクが悪事だと判断するくらいの方法でだ」
「つまり、私もウルフマスクに助けられる可能性が!?」
「なんで嬉しそうなんだ? 言っとくが、あんなのを頼りにするんじゃあない。あんなのは、本人も言ってた通り、気まぐれに決まってんだよ。肝心な時に助けに来ない奴でもあったりするんだ。だいたい、解決方法だって単純な暴力じゃねえか」
変人を見て喜ぶ年頃でもそろそろ無いだろうに。アイクは溜め息を吐きたくなるものの、妹が不機嫌になりそうだったので飲み込んで置く事にした。
「けど、助けてくれないと困るかもだよ? 私、教室を移動しろって詰め寄られたら、ちょっと反抗できないし……」
「だから俺を頼れって。ウルフマスクとやらよりは頼りになる人間だと思ってるぞ? 少なくともお前にとってはだ」
イーシャに対してだけは、意地だって張りたいとアイクは考える。それくらいには、目の前の少女とは家族なのだ。
ただ、家族だからと言って、出来ない事が出来る様になったりはしない。守り切れないものは守り切れないまま。
そんな事を痛感する出来事が発生した。
「どうしよう……兄さん……」
そんな風に妹が泣きついて来たのは、妹に忠告をしてからすぐ次の日の事であった。
その日も授業が終わり、学生寮に戻ろうかと足を進めていたアイクに、待ち構えた様にイーシャが話し掛けて来たのだ。
「急にどうした? 随分……深刻そうじゃないか」
雑に扱える話題ではないと、妹の表情を見れば分かる。彼女は今にも泣き出しそうなのだ。無下にできる表情ではない。
「友達が……友達がね? 大変なの。その、今すぐじゃないけど……その……私じゃなくて友達の方が……」
「んん……良し。大変な事になってるのは分かった。とても良く分かった。だから次は落ち着け? 俺はしっかり聞くし、聞き流したりなんかしない。だからまず、息を大きく吸って吐いてみろ」
「う、うん……ふぅ……えっと……やっぱり大変だよ!」
「分かった。分かったし悪かったよ。息吸わせる前に話を聞くべきだったな。反省してる。で、何があった?」
妹が何かに困っている様子である以上、何もしないという選択肢は無いものの、本題を聞かなければ対策の仕様も無い。
「昨日ね、兄さんが言ってたでしょ? シューリン教室の人たちに気を付けろって」
「……お前に直接じゃなく、友達の方が手を出されたか」
「て、手じゃなくて口。その……お前は同じ教室の生徒……私の事らしいんだけど、それよりずっと成績が悪い癖に、足を引っ張ってて恥ずかしくないのか。みたいな事言われたらしくて……それが、その……とっても酷い言葉だったらしくて……」
「なるほど、そういう手で来たわけだな」
特定の生徒に教室を移動させる方法として、本人を勧誘する以外にも、教室から孤立させるという手もあるのだ。
お前の居場所は俺達のところにしかない。そういう風に脅す事だってやってくる。
(そういう手も使う奴らだってのは聞いてるし、うちの妹はそういう手が通じそうだなんて思われてるんだろう。それにしたって手が早いな、くそっ)
もしかしたら、デギンスがアイクへ話を持って来るタイミングが遅かったのかもしれない。
だが、その事については彼を悪くは言うまい。兄のアイクの方が先に察するべきだったのだから。
そうして、悪く思うのは、妹に対してそんな手を使って来たシューリン教室の連中だ。
「イーシャ。まだ直接、教室に勧誘されたわけじゃあ無いんだな? お前が今、何か選択肢を突き付けられてるわけじゃあない」
「ま、まだ、そういう書類とかは渡されて無い……かな。けど、これからもしかしたら……」
「そういう事態にならない様に気を付けろって言いたいところだが、やられた事は、お前がどうこう出来る事じゃあないな。今日はショックだったろう? 寮の部屋に戻っとけ。まさかそこにまで誰かやってくるって事は無いだろ」
イーシャの肩に手を置いて、安心させるために笑ってみせる。今、妹に対して直接できる事はこれくらいなのだ。
「け、けど……これからもこんな事が起こったらどうしよう。私、みんなに嫌われちゃうんじゃあ……」
「余所の教室に嫌味を言われるくらいで、友人関係がすぐにどうこうなるって事も無いだろう? きっと杞憂に終わるさ。だから……今日は休んどけ。一寝入りするだけでも、気分ってのは良くなるもんさ」
実際のところ、シューリン教室の嫌がらせとやらは、教室内の人間関係を崩してしまいかねないものだろうと思われる。
妹が狙われていると言うのならば、そのやり口は執拗のはずだ。
(だから……そっちに関しては俺が何とかしてやろうじゃねえか)
妹を慰めた後にやる事は決めていた。これから、シューリン教室に向かわせて貰う。
既に夕暮れ時だ。教室に幾ら生徒が残っているのだろうと心配だったものの、幸運な事に、何人か生徒が残っていた。
そんな生徒達がいる教室に、アイクは挨拶もせずに入る事にした。
「おい。なんだ、お前?」
「なんだじゃねえよ。お前らこそ何してやがる」
アイクはドスを聞かせた声でその教室にいる全員。シューリン教室の生徒達に向かって言葉を返す。
「自分達の教室にいて何してるは無いだろう?」
最初に話し掛けて来た生徒。長身で眼鏡を掛けている男が席を立ち上がり、近づいてくる。表情を見るに、大層不機嫌なそれだ。もっとも、アイクにしてもそうである。
「何かしたはここに居る事じゃあねえ。何で他人様の妹にちょっかい掛けてるんだって言ってんだよ」
「妹? お前……もしかしてアイク・ロイトか?」
すぐに向こうもこちらがやってきた理由を察してくれて助かる。
その通りだ。自分はアイク・ロイトで、妹のイーシャ・ロイトに関わる一件で、シューリン教室へと文句を付けに来たのである。
「もしかしなくてもそうだよ。顔だって、俺を知ってる奴がいるだろ。ほら、そこのお前。学生寮なんかで結構見た顔だ」
眼鏡の男とは別の、また違う椅子に座っている男の生徒に声を掛ける。実際、アイクの方は知った顔だった。
「ふんっ。魔法の実力も無い人間の顔など憶えてるものか」
「しっかり俺の事知ってるじゃねえか。光栄だね」
椅子に座る男に笑い掛ける。挑発と取られたらしく、向こうは眉間に皺を寄せていた。
「若い内からそんな顔するなって。ただでさえ頭働かせる日々をお互い送ってるんだ。余計な事に悩んだり怒ったりするもんじゃあない。ああ、ただ、余計な事を先にしてきたのはそっちだよな?」
教室中を見回す。何人居るかを確認してみれば、話をした二人の男以外に、男と女が二人ずつ。
(全員で4人。まあ、いけるか?)
これから交渉を始めるのだから、その相手については確認しておかなければならない。
「お前、いったいここに何しにきた」
「交渉だよ交渉。こっちの要求はこうだ。妹に余計なちょっかいを出すな。妹の関係者にもだ。で、そっちの要求は何だ? 一応聞いて置こうか」
「喋るな」
「ん?」
眼鏡の男がこちらに顔を近づけて来る。勿論、体の方も近寄らせている。あちらの身長の方が高いため、圧力を感じた。
「何かを要求できる立場か? 何でお前の様な魔法の才能が無い奴に対して、時間を費やさなきゃならない」
眼鏡の男が人差し指をこちらの頬に近づけて来る。その人差し指の先には、小さな火が発生していた。
(溜めや特別な動作も無しに魔法を使ってやがる。しかも指先だけ。やるなら相当に技術がいるんだろうな)
アイクには出来ない。そんな才能も経験も学も無い。だいたい今はそれより頬が熱い。人差し指の先にある火を近づけられているのだ。頬が火傷しそうである。
「というか軽く火傷しただろ、こら」
「あ……がっ!?」
こちらに凄んでいた眼鏡の男が腰を折る。アイクがその腹に、勢いよく膝を喰い込ませたのだからそうなるだろう。
「お前! 何を!」
教室にいる残り3人の生徒達。全員が一斉に立ち上がって来た。さて、本当に残りの3人だ。どうやって片付けたものだろう。
「最初からさ、こっちの話を聞いてくれる奴らじゃねえってこっちも知ってるよ。だから全員、とりあえず叩きのめしてからお話をしようって、そう言ってる。今言った」
「ふっ……ざけ―――
何か言って来た様子だが、気にせず腰を曲げた眼鏡の男を、別の生徒の方へと無理矢理に押す。
さすがにそのままぶつかることは無いが、長身だから丁度良い壁になってくれるのだ。
あちらは才能豊かな魔法使い。こちらは妹の世話係として居るような身だ。
あちらの動きに合わせていれば、たちまち魔法の餌食になってしまうため、ペースはずっとこちらが握って置きたい。
「え!? 何をぐぇっ」
長身の男の影に隠れつつも、一気呵成に飛び出したアイク。
まだ蹴られたり殴られたりする様な距離では無いと思っていたであろうもう一人男だが、隠れながら近くの椅子を持ち上げていたアイクには反応できなかった様子。
教室は机と椅子だらけだ。武器になる様なものは幾らでもあった。あとはそれを振り下ろし殴り付けるだけ。
「お、おい! おい! 何して―――
「交渉しに来たっつってんだろう……が!」
3人居た男の生徒の最後の一人。発生した事態を飲み込めない様子だったので、今度は隠れずに正面から近づいて、やはり腹を蹴らせて貰う。
結果、教室に3人程倒れた男と、端の方で怯えている女性生徒が出来上がった。
「他の3人。暫く呻いてるくらいしか出来なさそうだから、あんたと話をさせて貰っても構わないかい?」
端にいる女子生徒に、出来る限りへらへら笑いながら近づいて行く。ゆっくり、先ほど起こった事なんてまったく気にしていない様に。ただ、椅子は持ったままだ。
「あ、あ、ああ……知ってる! 私だってあなたの事知ってるわっ。だからアイク・ロット教室なんて、そっちの教室はそう呼ばれてるんでしょう!?」
「俺の中じゃあ、そういう事実は無いんだけどなぁ」
何でも、アイクが所属している教室は、代表者としてアイクの名前が付けられているそうだ。
少しばかり、入学してから暫く。妹の才能が学内で発揮され始めた頃合いで、アイクが色々とやんちゃをした結果、そうなっている様子。
自分としては、妹にちょっかいを掛けて来た連中に対して、とりあえず危険かそうでないかの選別をさせて貰っただけなのだが。
「なーんか知らねえけど、気が付いたら魔法使いとの喧嘩に慣れてたんだよな。おかげで、周囲から引かれて、友達がいけ好かない貴族一人だけになっちまった。才無し才無しなんて呼ばれてるし、気落ちしそうだよ。もう慣れたけどな」
「ひっ……ひぃ!」
さらに一歩。女子生徒に近寄る。実を言えば、この状況で、警戒した女子生徒が魔法の一発でもアイクに放てば、簡単にやられてしまうだろう。
だが、怯える女子生徒はその判断が出来ない。自分もまた、他の生徒達と同様に、一方的な暴力に晒されると思い込んでいる。
こういうハッタリも、魔法使いと喧嘩をする時は大事だ。こっちは幾らだって向こうに劣っている。それを埋め合わせるには、手段を色々用意しておく事が重要だった。
「さて、じゃあ最初に戻るぞ? うちの妹にちょっかいを出そうとするな。その友達にもだ。平穏無事な学園生活を送るってのは、そういう風に気を遣い合う事が大切だろう? 違うか?」
「こ、こんな真似……して、どうなるか分かってるんでしょうね!」
「どうなるって? そりゃあほら、そっちがこっちの要求を飲んでくれれば、妹がお前らに泣かされる事は無くなったりするよな?」
「あんただって結構有名よ! だからこうなる事だって……ちょ、ちょっといきなりだったけど、私達は想定済み!」
「あん? うぉっ!?」
頭の中に警戒心が生まれる。それは直感に寄るものか、五感が何かを伝えていたからか。どちらにせよ、アイクは女子生徒に近づく足を止め、逆方向へ体を跳ねさせた。手に持って居た椅子だって、邪魔だから捨てて置く。
いきなりだったので、少々姿勢が崩れ、膝を床に突きそうになったが、今は目の前で起こった事の方が重要だ。
床に氷柱が突き刺さっているのである。しかも、先ほどまでアイクが立っていた場所に。
「ったく。当たれば怪我どころのさわぎじゃあ無いだろこれ」
別に独り言では無い。ちゃんとお前がやった事は危ないことだぞと伝えるための発言だ。
向ける相手は端で怯える女子生徒……では無く、新たに教室へやってきた別の女子生徒に対してだ。
「当たればそこまでの人間だ。早々に学園から立ち去れて本人のためでもある。この学園に無能はいらない」
「ああ、そう。考え無しで頭が固い。そういう印象は間違いじゃあ無かったな」
考え無しで頭が固そうな女。その女の顔をアイクは見る。
不自然な程に整った顔立ちと小柄な細身。その小さめの身体にあからさまに不釣合いに長い銀の髪。最後に、こちらをゴミでも見るかの様に見つめて来るその視線は、シューリン・カリウスに違いなかった。
「力の無い人間は、往々に周囲を僻んで見るものだ」
「力があったって、だいたいはあんたの事を怖い人間だって思うだろうよ」
教室の扉付近に立っているシューリンであるが、アイクは彼女と距離を測り続ける。
怖い女である事は間違いないのだ。躊躇なく魔法をぶつけて来ようとする女なのだから。
どの距離に居たところで、警戒しなければならない相手だと言う事。
(というか、ヤバいな。ここで一人増えるとは思ってなかったから……どうしたもんか)
今のところは睨み合いが続いているが、そう長くは続くまい。
シューリンの様な女は、冷静ぶっている様でいて気が短いのが相場である。すぐに次の魔法を放ってくるだろう。
そうなれば、相手の隙を突いて漸く魔法使いをなんとかできる程度のアイクには、どうしようもあるまい。
考える必要があるのだ。何時だって、アイクは考えて行動している。その結果が喧嘩を売る事であるのが残念であったが。
「そういえば来るタイミングが絶妙だったが……もしかして待ち伏せしてたか? 俺なんかを? だったら光栄―――
「誰が貴様なんぞを」
頬に氷の破片が掠る。シューリンの警告によるものだ。今日は火傷させられそうになったりしているので、頬にとっては災難だろう。
「だが、実際に待ってた。あんたが現れたのが何よりの証拠だろう? 俺の妹を教室に誘おうとする以上、俺がチンピラみたいに教室へ喧嘩を売りに来る事は分かってただろうからな? どうにもそこそこ、俺は知られているみたいだ」
「とびっきりの阿呆としてな!」
(やっぱり短気だな、この女!)
手を振り上げる様な動きをシューリンが見せる。その動作が見えた時点で、アイクは自身の横側へと跳ねた。
魔法が発生するより素早く移動しなければ危険なのだ。一度発生した魔法は、瞬く間にその結果を周囲にもたらしてくる。
シューリンからアイクがいる場所まで一直線に、氷の柱が立ち並んだりだってする。それをアイクが辛うじて避ける事が出来たのは、魔法の発生より早く動けたからなのは確かだろう。
教室の一部分を凍らせるその魔法は、今日行われた中では最大規模の魔法と言える。ただ、これで彼女の本気というわけでもあるまい。余力なら幾らでも残している女。そんな女が、こちらを涼しい顔をしながら見つめてきていた。
やはり正面から戦えば、勝てる相手では無い。だから、こんな状況であっても話を続ける事にする。
「あんたさ、他人様をそうやって見下してるが、そういうのは何だ……何かの信念の現れだったりするのか? どうにもこう……面倒くさいだろ」
「魔法は危険な力だ」
どの口が言うと反論したいところであるが、本当に危険が飛んで来そうなので、今は口を噤む。少なくとも、こちらに氷の塊が飛んで来ない限りは、喋らせ続けた方が時間を稼げる。
「私の故郷は北方の雪国だ。冬の間は碌に太陽が昇らず、夏になり、漸く暖かさを甘受できる季節になった時、皆が急いで大麦を畑に植える。すぐに次の冬が来るからな」
「そいつは……農家の出としては、多少は理解できるよ。大変な故郷だよな。だからって―――
「だから厳しい性格になったわけじゃあない。そんなくだらない話をしてはいない。ある日。そんな寒い故郷が暖かくなった。冬になり、皆、家の奥で暖炉を家族と囲んでいた日の事だ」
長話が始まりそうと見るべきか。それとも、いつ何時、爆発したっておかしくない火種と見るべきか。アイクは判断を決めかねていた。
「故郷が燃えていたんだ。国の馬鹿な領主とその馬鹿な手下が炎の魔法を使った結果、故郷が燃えた。私の家族は皆、必死に逃げたよ。何でも、遊びのつもりで魔法を扱い、大事になったんだそうだ」
「いや、その……思ったよりは重い話だ。ご愁傷様って言った方が良いかい?」
「いいや。それは私にとって単なる過去でしかない。そうして今、こう思う様にしてくれた過去だ。馬鹿が魔法を使うべきじゃあない。その才能があるのなら、正しく学び、鍛え、管理するべきだ。だから……」
シューリンが、再びこちらへ手を向ける。その手のひらから白い霧の様な物が見えるのは、きっと何かの魔法の前兆なのだろう。
「お前の様な奴は積極的に潰す。妹は見込みがある。そうしてお前は潰す。だからお前達二人に仕掛けさせて貰った」
「鼻っから喧嘩するつもりではあったんだよ、こっちもさぁ!」
教室全体が氷付く様な寒さが広がって行く。だが、これもまた魔法の前兆でしかないと知る。教室の端に居たままの女子生徒が、これから起こる事へ悲鳴を上げていたからだ。
きっと、この状況がもっと酷くなる事を、彼女は知っているのだ。だからそうなる前に、アイクは笑う事にした。
「やけにでもなったか?」
「いいや? ただ、俺が友人からひたすら才無しであるなんて言われるくらいの人間である事は知ってるみたいだが、曲がりなりにも魔法学園の生徒だって事は理解してないみたいだなと思ってさ!」
「っ!」
身構えるシューリンであるが、そのすぐ傍を突風が通り過ぎる。教室内の机や椅子を巻き込む突風だ。直撃こそしなかったが、その風圧を彼女は感じる事が出来たはず。
それはアイクが放った魔法に寄るものだ。
「才無しだって、これくらいは出来るもんだ。まさかそっちが圧倒的に有利で、こっちは既に何も出来ない状況だったなんて思っていなかったろうな?」
「ふん。多少は学んでいるみたいだな?」
大嘘だった。実を言えば、気を抜けば気絶しそうなくらい頭がくらくらとしている。
先ほどの魔法が、今のアイクが出来る精一杯の魔法であり、倒せれば良かったなとシューリンに向けて放った魔法でもあった。
しっかりと狙えるくらいの精度すら無い、アイクの魔法だ。
ただ、そんな外れた魔法だって良しとする。これで話を続ける事が出来るからだ。こちらの精一杯で、漸く相手の、ほんの少しばかりの警戒心を引き出す事が出来ていた。
「そりゃあな。妹が頑張って学校で学んでる。兄がそんな妹の足を引っ張るわけにも行かないだろ? 真面目に授業は聞いてる。魔法の練習だってそこそこかな。才能が無いから及第点以下なのが問題か」
「だから言っている。楽にしてやると」
「潰してやるってのと、妹の方は利用してやるって言葉しか聞いてねえよ」
「意味は同じだ。自身にふさわしい立ち位置を理解して叩き付けてやれば、誰だって安心できるだろう?」
話し合いの時間はそう長くは続かないらしい。こっちが引き出したせっかくの時間も、彼女が少しその気になれば、簡単に奪い去られてしまう。
再び教室内の気温が下がって行く。今さらながら、雪国出身らしく、シューリンは氷を発生させる魔法が好きらしい。
窓が曇り、あちこちから霜が降り注ぎ、急激な気温の変化でチリチリとあちこちで音が鳴っていた。
そうしてその次の瞬間には、アイクは凍り付くかもしれない。
ただし、アイクが待ちに待った別の瞬間が漸くやってきた。
「おい! お前達! 学内での私闘は禁止されているはずだぞ!」
教室内に、さらに人がやってきた。今度は複数人。学内の風紀を守る必要があるはずの、教師と警備員達だった。
コツコツと靴の音が聞こえる。高そうな革靴の音だ。
靴の主は部屋を動き回っていた。所在無さげで、落ち着かなさそうで、総じて気の弱そうな男であるというのが、靴の音から分かってしまう。
その音の主は、この魔法学園の学園長である。名前は確かラルフ・オズワイルド。入学の時だったり、学園内の行事なんかで、何度か顔を見た事があるとアイクは憶えている。
(つまりは、こうやって学園長室に呼び出されて、直々にお叱りを受けるのは初めてって事か)
動き回る学園長のラルフ。
顔立ちは良い方だろう。だが、優男と言うよりは優柔不断、卑しそうと印象を受けた。
服装は立場に見合ったきっちりしたものであるが、短い、少しばかり白髪混じった黒髪が全体の印象を、何か少しばかり欠けたものにしていた。
アイクは今、そんな男に叱られている。勿論、シューリン教室で暴れた一件での事だ。
「いやはや。私も、若い頃はやんちゃをしたものさ。隣の家にでぶっちょのコーズベイと言う子どもがいてね。何かあれば喧嘩だ。いや、主に私が負ける側だったから、喧嘩であったかも怪しいが、それでもやんちゃはやんちゃだ。若い頃はそういう事があるものさ」
長ったらしい話だ。しかも内容がいまいち分からない退屈な話。そんな話を聞かされ続けている。
(それも罰だって言うのなら、まあ納得できるさ。隣の奴はどうかは知らないけどな)
隣。学園長室に案内され、部屋の中央に立たされたままのアイクの隣には、同じく立たされているシューリンがいた。
お互い、禁止されている学内での私闘への罰として、この様に叱られているわけであるが、学園長からの口頭注意で済んでいるところを見るに、まだマシと言えるかもしれない。
ただ、そういう風に納得しているはアイクだけで、シューリンの側はそうでも無さそうだった。
「質問があります、学園長」
「な、何かな、シューリン君。君は真面目で優秀な生徒だ。意見があると言うのなら聞くが、ならばそもそも、問題なんて起こさないで欲しかったのだと思う……」
「私の教室に対して、攻撃的な行動を取って来たのは、彼の方です。しかも、より良い形で魔法の学習を行おうとしていた私達に対して、難癖を付ける形で」
言ってくれる。反論なら幾らでも出来そうな内容を、堂々と学園長へ告げて来る。
「そうなのかい? 随分一方的な物言いではあるが。弁解はあるかな、アイク君……だったか?」
「特には」
「特には!?」
驚いた様子のラルフ学園長であるが、こちらとしては、シューリンの言い分に反論できたところで文句は無い。大凡、事実ではあるからだ。
(彼女がうちの妹に手を出して来たのは問題だが……ここはこれで別に構わないしな)
私闘の罰がすべてアイクの方に来たとしても、まだ退学とまでは行くまい。重くて懲罰房にでも入れられる可能性はあるが、そこは安全圏でもあった。
(シューリン教室に喧嘩を売ったのは事実だ。けど、一番怖いのはあいつらから逆襲される事だから……暫く学内から離れられるのなら、それはそれで良いかもしれない)
無茶をする時のアイクの行動は、大半は打算的だ。
自分がやった事への理解があるし、その事に対して、どういう結果が待っているのかについても、ある程度予想している。
だからこそだろう。次にラルフ学園長が言い出した事は、アイクにとって意外な事であった。
「分かった。大いに分かったよ。シューリン君の方は、アイク君の話を聞く限り、あまり悪い事はしていなさそうだ。だから今回は注意に留めて置こう。そうしてアイク君の方だが……喧嘩両成敗という言葉があるとおり、君の方も注意だけにして置くと言う事で……」
「学園長、正気ですか?」
シューリンがそう言わなかったら、アイクの方がその言葉を発していた事だろう。
喧嘩を売って怪我人まで出した生徒に対して、注意だけで留めるのは、明らかに結果としては不釣合いだ。
「い、いやね? ほら、問題が大事になると私も困ると言うか、何かしら、穏便に済ませられる事が出来るのなら、積極的にそうして行きたいと言うか」
「分かりました。この学園がその様な方針で居るというのであれば、今後、我々の方も、相応の態度を取らせていただきます。それでは」
ラルフ学園長の返答を待たず、シューリンは部屋を出て行った。まだ話も終わっていないだろうに。
「……せっかち君だね、あの子」
「否定はしませんけどね。けど、大分、俺に甘い結果でしたよ。何でです? 本気で問題なんて起こさない方が良いと思っています?」
「勿論だとも。私は何時だって、問題なんて無い方が良いと、常々空にでも祈っているのさ。学園長としてね」
「……そうですか」
別にアイクの方はがっかりしていない。自分にとっては同感だからである。問題は小さくできるのなら小さくするべきだろう。だが……。
「火消しをしたい気持ちは分かりますけど、この学園、逆に燃料を注ぐ事が多いですよね」
「ん? それはどういう?」
「いえ、何でもありません。俺もとりあえず帰って良いですか? 気が変わって、もうちょっと対応変えたいって言うのなら、聞くだけ聞きますから」
この学園長と話を続けても意味が無い事。何故か、そんな話をしそうになったので、アイクは口を紡ぐ事にした。それはある意味、諦めである。
アイクはこの魔法学園について、諦観に似た思いを抱いていた。その点に関しては、あのシューリンと同様かもしれない。
溜め息を吐きたくなった。足も疲れていたのでどこかに座りたい。
そういう思いで学内をうろついていたアイクは、誰も居ない様子の、幾つかある中庭の一つへとやってきていた。
(あーあ、これからどうするべきか)
適当な壁に背を預け、地面に直接尻を突く。
今、この様に自由に動けている点で、既にアイクにとっては予想外だった。シューリン教室に喧嘩を売った事には後悔していない。むしろ狙い通りとも言える。
だが、その後をどうするべきか。早めに考えなければ、自分の身が危うい。だと言うのに、思考を乱す事が発生したのだ。
『悩ましい顔をしているな、少年!』
「あ? あー……あ?」
訂正しよう。思考が乱れるというより停止してしまっている。目の前に突然、狼の覆面をした男が現れればそうもなる。
しかも明らかにこちらへ話し掛けてきているのだ。大声で。元気よく。
「ウルフ……マスク?」
『おや、名前を知っているのかね? どうやら私の正義もこの学園に満遍なく咲き乱れつつあるらしい』
「それは良く分からないけども」
中庭の隅に座っているアイクは、何に自信があるかは分からないが、胸を張って立っているウルフマスクを見上げていた。
(学内一、二を争う変人。その癖、正体は誰か分からない。正義だとか言って……一応は学内の治安を守っているつもりの……変人)
兎角変人であるし、変態でもあるだろう。近寄りたくない存在であるが、向こうから近寄って来たとしたらどうすれば良いのだろうか。
「……ここで別に、悪さしてるつもりじゃあ無いんだけどな」
『だが、喧嘩をしたそうじゃあないか。喧嘩は悪いものだ。どんな理由があろうともな』
「そりゃあそうか。というか、耳聡いな。そんな恰好して、人の噂とかに敏感なのか?」
大凡、人間社会とは隔絶してそうな活動と格好している男であるが、こうやって話をしてみると、まだ会話は出来そうに感じてしまった。
『正義は世の風潮で決まる。つまり正義の男である私は、世の中のあれやそれをとても気にする男と言う事だよ!』
「大変だな、正義って……んん、いや、で、その正義の男は、俺に何かをしに来たんだろ? どうするんだよ。喧嘩した相手に対して、もう二度とするな。みたいな説教をするのか」
ウルフマスクはそういう活動も続けていたはずだ。
学内で持ち込みが禁止されている物品を持ち込んだ生徒に拳骨を落としたり、他の生徒からカツアゲをしようとしている生徒の尻を蹴り上げたりしている光景を見た事がある。
(正義ってのは暴力的だよな。何時でも)
持っている物が権力では無く徒手空拳なのだから仕方ないだろう。目の前の男みたいな変人を、庇っている様な考えで嫌であるが。
『喧嘩は良く無い。だが、一応罰は受けたのだろう? なら、私がどうこう言える立場ではないな』
「罰なんて受けれるのなら、こうやって悩んじゃあいない」
『ほう?』
何故か、興味深そうに顔を近づけて来るウルフマスク。その表情が見られないせいで、本当のところはどうか分からないが。
「なあ、参考まで聞かせてくれないか? あんたは何で、この学園で正義漢してるんだ? 根本的に面倒だろ」
『正義を背負う事に理由なぞ無いさ! 心に正義を持って居れば、多少の苦難など物の数ではあるまいて!』
「そうかい。もしかしたらあんたも分かってると思ってたんだが……いや、期待外れって言うのも失礼だよな」
何時までも変人と話を続けるというのも虚しいだけだ。腰を上げてこの場を立ち去ろうとする。
数歩歩き、ウルフマスクに背を向けた時、思いも寄らぬ言葉を向けられた。
『自分の妹を守るために兄が無茶をするというのも、それなりの正義ではないかと思うがね』
「あん?」
アイクだけの話なら兎も角、イーシャの事を知っているというのなら、聞き捨てはならない。
魔法学園の生徒としては何を言われたところで構わないが、妹を守る兄をやめるつもりは無いからだ。
『人間にはそれぞれ正義がある。君の場合は自身の妹を守るために動いている。突拍子も無い行動でだ。お互い、変人である事は変わりない……と言っている』
「こっちの事をどれだけ知っているつもりだ? 何でもない話題でも、人に寄っちゃあ挑発になるぞ?」
『色々知っているさ。正義のために風潮を知る事が大事と言ったろう? 君の方こそ、何を知って、どれだけの事をしている。無軌道な暴力だけでは、守りたいものも守れはしない。と、正義のウルフマスクは断言しておこう!』
この男をどうしたものかと考える。既に、この場を立ち去ろうとする気分では無くなってしまった。背中も向けず、正面に彼を捉えていた。
「俺みたい一生徒が他の生徒の身を守ろうとするなら、喧嘩を売るしかない。それだけの事だろ」
『そも、学園内で家族を守るなどと言う思考自体が問題だ。そういうものが―――
「学園が生徒を守れるだけのご立派な組織なら、こうも悩んじゃあいない!」
『おおっと。何かの尾を踏んだかな?』
「くそっ……」
悪態を吐いたのは、感情を乱してしまった事に対してでは無い。ウルフマスクに、どうやら乗せられてしまった様だからだ。
『君の言う通りだよ。この学園はどうしようも無く未完成だ。だいたい、生徒同士が教室で固まり、時にはいがみ合う組織構造に問題がある。ここは学び舎だぞ? 魔法を幾らか学んで、学ばせた後は卒業。それだけの場所のはずだ』
それは、常々アイクが考えていた事でもあった。
アイクはイーシャを守る。それは学園への入学当初、単なる親の言い付けでしか無かった。言われた程度に見守ろうとは思っていたものの、多くに干渉する事は無いだろう。ただ日常の面倒を幾らか見るだけで終わる。そう考えていた。
だが、実際は違っていた。相当に、この学園は厄介だったのだ。
「なあ、あんたは詳しいみたいだから聞くが、この学園はなんなんだ。組織構造に問題あるなんて言うが、それで生徒が馬鹿な真似をするなら、頭から抑え付ければ良いだろう。別に自由を尊重しているわけでもあるまいし」
ここは魔法を学ぶための場所のはずだ。過去にあった戦争を反省し、魔法を適切に管理しようとするべき場所のはずだ。
そういえばシューリンも似た様な事を言っていた。彼女の考えのすべてに共感なんて出来ないが、それでも、彼女の言い分には正しいところがあった。
(というより、彼女はこの学園の理念に沿って行動しているだけだ)
その結果、アイクの妹に手を出している。妹は傷つき、勉学に専念できずにもいる。そんな馬鹿みたいな話が、この学園にあった。
『それが出来ないから、きっと私の様なのがいるのだよ。分かり易い学園内での私闘なら、止める事も出来るだろうが、生徒間のいがみ合いに、おいそれと学園側は手を出せない。それは何故かと言えば……このお学園が、幾つかの国の思惑が重なり作られた上、碌な擦り合わせも無く、学園として稼働する破目になったからだな』
「治外法権の学園……だったか」
『その通り。馬鹿みたいな話と言うのなら、その言葉こそそれだ。この学園がどの国のどの領土に属しているか知っているかね? 誰も知らない。誰も決めていないのだ。決めようとすれば、もっと厄介な問題が起こるから、誰も彼もが蓋をしている』
そんな学園の状況が、学園そのものの態度にも影響を与えている。ウルフマスクはそう伝えて来ていた。
生徒達は時々間違った事をする。学ぶ側というのはそういうものだ。それは別に構わない。その間違いに対して矯正してやれば良いだけの話だ。
だが、それに対して学園は何事も出来ない。叱るくらいなら出来るだろうが、そこで止まる。それ以上を踏み込むのならば、生徒の立場を考えなければならないからだ。
その生徒は本国でどういう立場か? 各国はどういう思惑で学園に人を送り込んで来たのか? 明確な罰を与えた結果、学園や社会への影響はどれほどのものなのか?
(そんな面倒事になるくらいなら、厄介事は見て見ぬフリをしようって、そういう事なんだろうが……)
被害を受ける人間がいるというのなら、納得はできない。それが身内なら尚更だ。
だからアイクは、妹に余計なちょっかいを出す学内の人間に対して喧嘩を売り続けていた。そういう分かり易い暴力すら、学園側には無いのだ。
『君の行動には理由がある。そんなものは誰だってそうだろうな。理由無く何かをする人間の方が珍しい。が……君は君自身、そんな状況を良く良く理解しているというのが重要か』
「評価してくれてるところ悪いが、別にあんたみたいなのに納得して貰ったところでどうしようも無い。無駄話を続けるつもりなら、俺は帰る」
今度こそウルフマスクに別れを告げる。今度もまた、ウルフマスクは気になる事を言って来たが、無視する事にする。
『理性のある行動だとしても、単純な暴力だけで何もかもは解決しないぞ。事態はさらに深刻になるかもしれん』
そんな事は分かっている。だが、どうしろと言うのだ。
言い返したいところであったが、アイクはその言葉も飲み込んでおく事にした。
ウルフマスクから予言めいた事を言われてから数日。
シューリン教室に喧嘩売った甲斐があったのか、イーシャへの勧誘活動は見られなくなり、多少は安心していた頃。
けれども事態は、そんな隙を突いて変化する。
「ちょっと待て。シューリン教室を移動するだって? 今の教室、気に入ってるって言ってただろう」
朝。何時もの日常のはずの、妹と校舎へ向かう道の途中。そこでイーシャは突然、アイクに宣言してきたのだ。
「う、うん。心配してくれたと思うから……ごめん。けど、私、決めたんだ」
「その決めたって言うのは、シューリン教室からの嫌がらせに寄るものってわけじゃあ無いのか?」
「それは違うの。違うけど……多分、私が教室を移動するのが一番だって思う」
「……どう言ったもんか」
頭を掻きながら、本当にどう言えば良いのか考える。妹が決めた事である。それを兄として一概に否定するわけには行かないだろう。
一方、事情に悪意があるのなら、兄として何とか守ってやりたいとも思う。
ただ、それを直接聞くと言うのは、それだけでイーシャの決意に文句を付ける行為でもあった。
そもそも、何故急に、教室の移動を決めたのか。アイクが知る限り、シューリン教室からの干渉は、以前の件から殆ど無くなっているはずなのに。
「えっとね、前に兄さんに、周囲の状況に疎いみたいな事言われたじゃない?」
「そりゃあそう言ったが、お前だけが気を使って、何もかも解決するなんて状況は違うだろ」「だからそうじゃなくて……こう、私もさ、周りの環境に目を向けて見る事にしたの。そうしたら……やっぱり、私が教室を移動する事が一番良いって思う様になって」
どうにも、アイクの方から口に出せない決意をイーシャはしてしまっているらしい。
彼女は彼女で、この学園の問題に振り回され、自分なりの答えを出そうとしているのだ。
(けど、お前が犠牲になるなんて行為だろ。それは)
本当は、そう言ってイーシャの行動を止めたい。しかし、これはある意味、妹にとっての成長のはずだ。
自分で決めて、自分で考え出した答え。それが間違いに見えたとしても、アイクは兄として文句を付ける事が出来ずに居た。
「とりあえず、月末には申請書を書くつもり。その前に、兄さんには直接伝えたかったから。それじゃあね」
話している内に、校舎にまでやってきていた。学生寮から校舎までの道は短い。アイクには、何かを言い返すタイミングが無くなってしまう。
待ったの声を掛ける前に背中を見せ、去っている妹を見ながら、苦々しく表情を歪める事しかアイクには出来なかったのだ。
そんなアイクに対して、馬鹿にするかの様な語調で話し掛けて来る男がいる。
「どうした、才無し。妹に無下にされて悲しいみたいな顔をして」
「デギンス。他人の話を盗み聞きなんてのは、どうなんだ?」
憎らしく、親しみを感じる男。デギンスが妹と変わる形で話し掛けて来た。歓迎なんて出来ない心持ちではあったが、向こうが話し掛けて来たのならば答えざるを得ない。彼とはそういう関係でもある。
「悩んでいるはずの友人が、根本的な事に気付いていない恍けた状況なのでね。忠告くらいはしてやろうと思ったのさ」
「何か人の言動に言いたい事がある様子じゃねえか」
「実際そうだ。妹の気持ちくらい、兄ならもっと良く察しろと言いたいね」
耳の痛い話題であるらしかった。お前に何が分かると返したいところではあるが、こういう場合、本当に反省を促される話をしてくるのがこの男だ。
「あいつが……何を思ってるって?」
「兄の心配をしているに決まってるだろう。幾ら疎い性格だからと言って、自分の兄が自分のために無茶を繰り返しているとあっては、言動を改める。親しい兄妹であれば尚更だ」
本当に耳が痛くなって来た。心の方もだ。そういえばイーシャは、周りに目を向ける努力を始めたとか言っていたか。
「喧嘩については、常々自重するべきとは思ってたんだがなぁ」
「行動に移さなければ意味が無いね。そういう手段しか取れないというのも問題だろうさ。ま、妹が察した時点で、もう後の祭りかもしれないかな」
デギンスの言葉に、ますます顔を歪める事になった。
そうするくらいしか出来ない。妹のイーシャは、兄が自分のために喧嘩をするのを止めるため、いっそ納得して教室を移動するという選択肢を取り、兄の心労を取り去ろうとしている。そんな状況を、兄として他にどう表情を浮かべれば良いのか。
「傍から見て、そういう状況だったんなら、実際そうなんだろう。で、なら俺はどうするかだ。問題はな」
「反省するつもりは無いらしいね?」
「反省はしてる。だが、それはそれだ。兄貴としての威厳が傷ついたと言っても、兄貴を辞める事は出来ない。そういうもんだ」
「難儀な性格をしているな、才無しの癖に」
余計なお世話だ。才能豊かなら、もっとまっすぐ育っていたかもしれないが、そうも行かないだろうに。
何時までも立ち止まって話も何なので、教室へと足を運ばせて貰う。
「昨日な、あのウルフマスクと話をする機会があった」
「ほう。それはどういう風に興味を持てば良い話だい? 難儀な性格の友人が、難儀な状況に陥ってると理解すれば良いか」
「それでだいたい構わない。しかもそのウルフマスクに、喧嘩なんて事を繰り返していると、こういう状況になる場合もあるなんて忠告をされたばかりなんだ」
アイクの姿は、誰からも馬鹿らしい事をしている風に見えたらしい。そう思うと気恥ずかしくなるし、後悔だってしたくなる。
だが、それでもずっと心の中の誰かが叫び続けてはいた。
だったら、どうしていれば良かったのかと。
「悩む才無しに対して、酷な状況を一つ言って置こう。耳聡い僕が、わざわざとだ」
「性格の悪い友人がわざわざ何だって?」
憎まれ口はこっちだって叩く。向こうは向こうで、いちいちそんなものには反応しないのであるが、お互いの挨拶みたいなものだった。
「今の時期、シューリン教室に入るというのは、少々問題があるかもしれない」
「問題無い時期があんのか? あの教室は」
優秀な人間が集まっているのだろうと思うが、周囲と仲良くしようなんて考えが抜けている連中であるため、何時だって何かしらの問題を抱えていると言える。
「これまでは火が燻っているだけなのだろうさ。そうして何時かは炎上する。もしくは爆発かな?」
「……マリアン教室と遂にやり合うってのか」
「恐らく近々ね。お前の妹の移動とタイミングが合ったりしたら……事だぞ?」
茶化す笑みを消すデギンス。実際、笑っていられる状況では無かった。本当に、妹に危害が及ぶかもしれない状況だと言う事なのだから。
だが、ならばどうすれば良い? 単純な喧嘩だけで、何かを解決できる状況では無いと理解させられたばかりだと言うのに。
シューリン教室と対立しているマリアン教室。教室の名前にもされているマリアン・ファイアハートは、南方の国家における王族だと噂されている。
実際と言えば良いのか、その教室には、彼女を中心とする毛並みの良い連中が集まっていた。
彼女が集めたのか、それとも周囲が勝手に集まったのか、教室には学園に魔法を学びに来た貴族や王族。大商人の子弟と言った生徒達ばかりだった。
(それでも生徒は生徒。それぞれの立場は変わらない……なーんて事が言える学園なら、俺も悩んでいないわな)
マリアン教室から少し離れた廊下の曲がり角で、アイクは様子を伺っている。
勿論、マリアン教室をだ。
(シューリン教室の時みたいに、いきなり暴力に訴える事も出来ないしな。出来たところで碌な事になりそうにない)
ただ、何もしないままにも居られなかった。結果、やっている事が、離れた場所から様子を伺うだけと言うのは、間抜けな姿だと思う。
(直接手を出すって言うのは、ある意味シューリン教室よりもヤバいからな)
言ってみれば権力者に近しい人間達の集まりなのだ。もし害を与えた場合、学園内で収まらない規模で問題が拡大する可能性があった。
親族が学園の運営に出資している者もいるだろう。だからこそ、マリアン教室の生徒は、非公式ながら特権的な立場にいる。
受ける授業を優先的に選べたり、自分達の立場を振りかざしたりと言った事。
(ああ、つまり外から見りゃあシューリン教室と良く似てるわけだ)
だからこそ、二つの教室の仲は最悪なのだ。デギンスが言っていた燻る火というのは、そういう部分も指しているのだと思われる。
(となると、それが爆発するってのは―――
「貴様、ここで何をしている」
「ん? いや……そっちこそ何でだ?」
マリアン教室の周囲には、大凡居るはずも無い人間がそこにいた。
シューリン・カリウス。相も変わらず不機嫌そうな顔をした彼女が、その不機嫌さをアイクに向けて来ている。
「私がどこに居たとしても私の勝手だ」
「ここで勝手してたら、余計な問題が起こりそうに思うがね。っと、待った。もう喧嘩をするつもりは無いんだ。拳を握りしめるのはやめろって」
普通に話しているだけなのに、シューリンはこちらに対して臨戦態勢を取ろうとする。穏やかに話だって出来ない関係というのは厄介なものだ。
「学園長に叱られて、少しは反省したのか? いや、その様な性質では無いな、貴様は」
「どういう性質に見られてるか知らないが、俺は基本的に平和主義者なんだ。余計な事件なんて起こって欲しくないって常々考えているね。だからあんたも帰ったらどうだ」
このシューリンと、マリアン教室の誰かが出会えば、必ずいがみ合う状況になるだろう。それだけはアイクにも断言できる。
シューリンに対してシッシと手を振るアイクであるが、目の前の彼女はますます不機嫌になるばかり。どうにも彼女とは相性が悪いらしい。
「用があってここにいる。出なければ、わざわざこんな場所に近寄るものか。貴様の方こそ、特に用事でも無い限り、離れて置いた方が身のためだぞ」
「なーんで学園内で身体の心配しなきゃならないのか分かんないが、嫌な予感がしてきたな、おい」
具体的には荒事の予感だ。自分もつい最近まで、そういう事を起こしていた側であるため、察するのは早いのだ。
「関係無い立場なら黙って立っていろ。近くにいると巻き込まれても知らんぞ」
それだけ伝えて、シューリンは廊下を歩き始める。まっすぐ、マリアン教室の方へと。
(爆発するのはこのタイミングでかよ!?)
巻き込まれるのは御免なので、先ほどまでとは変わらず、遠くから見るしかないのであるが、明らかに雰囲気は剣呑な物へと変わっていた。
それは空気だけの問題では無く、人の動きからしてそうだ。マリアン教室の周囲に居る生徒は、当たり前ながらマリアン教室の生徒であろう。
その生徒達が、近くを歩くシューリンにぎょっとした動きをした後、彼女を睨み始めている。
それでもまだ教室に近づくシューリンだから、自身を睨む生徒達に囲まれる形になっていた。
(いや、考えてみれば、ここで一度爆発しておけば、イーシャが教室を移動する前に事が済むか?)
シューリン教室とマリアン教室の諍いがこの時点でひと段落するのであれば、アイクも願ったり叶ったりと言う状況だ。
実際、マリアン教室に近づいたシューリンは、その周囲に対して、何か大声で話し始めていた。
(要するに、お前達がいい加減目障りになった。これからは惨めに大人しくするか、潰されるか。どちらかを選べって事を言ってるよな。それでどうなるかなんて……)
分かり切った結果が待っている。マリアン教室がシューリンの言葉で大人しくなる様な連中なら、そもそもいがみ合ったりはしないのだ。
だから……口を出したのがシューリンなら、先に手を出したのはマリアン教室の生徒からだった。
(いきなり魔法かよっ)
始まったその爆発は、シューリンのやや斜め後ろに居た生徒が放った魔法だった。
相手を殺す……までのものでは無いだろう。衝撃を発生させ、相手を少し吹き飛ばす程度のもの。怪我くらいはさせてやろうと、そういう類のものだったろうが、シューリンには通じていなかった。
爆発はシューリンに至る手前で発生していたのだ。その爆発した手前には、氷の壁が出来上がっている。シューリンの魔法に寄るものだろう。
壁はただ聳え立つだけでは終わらない。爆発によって周囲に氷片を飛び散らせたと思うと、その氷片が周囲の生徒達に向かって襲い掛かったのである。
「うぉあ!?」
「きゃああ!!」
複数人の悲鳴が聞こえて来る。飛び散った氷片にぶつかり、何人かが既に怪我をしていた。そのすべてがマリアン教室の生徒……かどうかは分からない。
ただ近くを通りかかり、巻き込まれただけの生徒だって居るかもしれないからだ。
(いちいちそれを気にしない傲慢さが、あいつらにはある)
アイクとて、今以上に近づけば害が及ぶだろう。始まった教室間の戦いを見守る事しか出来ないし、介入する意味すらそこに存在していなかった。
戦いは数の多いマリアン教室にとって有利かもしれないが、シューリン個人の方が、圧倒的に魔法の技量は上だった。
似た者同士のシューリン教室とマリアン教室であったが、こと、魔法の技量や才覚については、そういう意図を持って集まっている以上、シューリン教室が上なのだ。
荒事が始まった時点では、マリアン教室の血統の良さなど役には立たない。複数人相手にしたうえで尚も有利に事を運ぶ、シューリンの強さを思い知らされる。
(なら、決着が付いてそう大事にはならない。そうかもしれない。心配する必要なんて無いかもしれない。けど……本当にそうか?)
各生徒がシューリンに魔法を放つも、シューリンは氷壁により阻み、すぐに次の手で生徒達の行動を潰して行く。
そんな状況であるからこそ、事態はすぐに収束する。そういう希望が持てるはずが、アイクには不安が残り続けていた。
恐らく、すぐ近くを知った顔が通り過ぎたからだろう。あちらの方は、アイクの顔を知っているか分からない。
アイクはその生徒の名前も知っている。マリアン・ファイアハート。今、シューリンに寄って襲われているマリアン教室の代表的生徒だった。
「暴れているみたいね。氷好きの小猪さんったら」
マリアンの高い声だ。女性らしさを感じる声であり、女性らし過ぎて常に挑発的だった。
挑発的と言えばその外見にしてもそうだろう。シューリンに対して彼女は長身でスタイルも良い。何時だって機嫌の良さそうに笑っているし、髪の色すらも煌びやかな赤毛だった。
共通する点は、顔立ちが整っているせいで、どちらも学園の女王などと呼ばれているところくらいだろうか。
(いや、それにしたって、お互いの性格の方もだよな。あれは)
睨み合うマリアンとシューリン。シューリンの方はますます不機嫌そうに顔を歪めているが、マリアンの方はそんな彼女をあざ笑っている。
「遅れて登場と言う割には現れるのが早かった。格好つけるタイミングでも待って居たか? それにしては焦っている早さだ」
「あなたの事情とか、わたくしあまり気にしていませんもの。ごめんなさいね? あなたみたいに人を型に嵌めたがる程、子どもでは無くって」
口を開けば互いの罵り合い。そういう事をするくらいに性格の悪い二人。女王などと呼ばれるだけの事はあるらしい。
ただ、言葉を交わしている間は、魔法を使うのを中止していた。
(そこまで器用じゃないのか。もしくは、これにしたって爆発する前の燻りか……どっちにしても、ここで終わるわけも無いか―――
熱風と涼風。そのどちらもをアイクは肌に感じた。マリアンとシューリンの間には、その二つの激しい風が発生し、アイクのいる場所まで届いているのだ。
マリアンの得意な魔法は炎だったはず。シューリンの氷と干渉し合い、今の状態があるのだと思われる。
二人の力は拮抗しているのだ。だから、完全な魔法として発生するより前に、お互いの魔法を打ち消し合っている。
(教室の中心人物になれるだけあって、マリアンもかなり才覚のある魔法使いなんだったか)
もし、マリアンが王族で無く、その才覚だけであったのならば、シューリン教室が誘っていたであろう。
そういう人物がいるからこそ、マリアン教室は学園内で大きな顔が出来ていると言えた。権力も権威も、実力が伴わないといまいちであろうから。
「うわあああ!」
そうこうしている内に、またどこかで悲鳴が上がる。拮抗し合っていた二人の魔法のバランスが崩れたのである。
あちこちに氷柱が発生し、その現象に巻き込まれる生徒が出始めていた。二人の実力に関して言えば、並び立つだろうが、それでもシューリンの方の分があると言う事。
一方、マリアンにはまだ数の優位がある。押され気味になってきたマリアンの後方から、教室の生徒が援護とばかりに雷を放った。
女王二人の魔法の規模にこそ劣るものの、シューリンはその魔法を自らの魔法で防がなければならず、その分、マリアンへの攻め手に欠けてしまう。
乱れ飛び続ける複数人の魔法。それらは本人への被害とならずに、周囲へと破壊を広げていく。
何時かは決着が付くだろう。それは必ずそうであるはずだ。だが、それは何時なのか。先ほどよりもっと、魔法による破壊の規模は広がっている。
これがどれだけ学園にダメージを与えれば、この状況に決着が付くのか。
教室が壊れるまでか、廊下がボロボロになるまでか、学園そのものが更地になるまで状況は進んでしまうのか。
(馬鹿だ……本当に馬鹿な状況だろうさ。これは……俺だって―――
アイクは隠れていた曲がり角から姿を現し、適当に、魔法の勢いに巻き込まれて尻餅を突いている生徒の一人に話し掛ける。
「おい。ちょっと良いか?」
「な、なんだ? あ、いや、た、助けてくれないか!? ちょっと腰が抜けて……」
「悪いが手は貸せない。ただ、ペンと紙……持ってないか?」
「え? いや……メモ用のなら持ってる……けど」
事態が目まぐるしく変わるため、混乱しているのだろう。尻餅を突いた生徒は、素直にアイクが要求したものを手渡してくる。
「ありがとう。ちょっと無茶してくるから、骨になったら拾って置いてくれ」
紙に二枚、文字を書くと、アイクは残りの紙とペンを返す。
その次にする事と言えば、渦中に飛び込む事であった。
「やはり、徒党を組まなければお前はその程度か!」
「あらあら。いざと言う時、手助けしてくれる仲間がいない事を、そう表現しちゃうのね、あなた。前から思っていたけれど、合わないわ」
二人の女王の声がすぐ近くに聞こえて来た。あちこちで鳴る破壊音もまた近く。
こちらから近づいているのだからそうなる。
「これ。そっちにも」
「は?」
「え?」
罵り合いと魔法のぶつけ合いをしていたシューリンとマリアン。近寄りたくは無かったが、近づいてみれば、紙を手渡し出来る程度には近づけたので、アイクはそれぞれに、先ほど文字を書いた紙を渡してみる。
唐突な行動だったので、案外、二人とも素直に受け取ってくれた。一応、アイクの存在も認識してくれたらしい。
二人とも、交互に手渡された紙とアイクの姿を見ていた。そうして二人して、顔を怒りに染め始める。
「冷血小娘だと?」
「この暴発済み女というのはわたくしの事かしら?」
「字、ちゃんと読めるな? 確認したくてわざわざ用意したんだ。ちょっと話でもしないかと思ってな。ちゃんと言葉を認識できない奴らに会話も何も無いだろうし。ただの蛮族の女王達じゃなくて良かったよ」
まるで二人を挑発する様にアイクは話し掛ける。しかし、実際は違う。
挑発する様にでは無く、挑発しているのだ。
だから当たり前の結果として、アイクの方に炎と氷が迫ってくる。いがみ合っていた割には、二人の女王の魔法のタイミングは見事だった。
「はっ! 息合ってるじゃねえか! 二人でコンビを組んだら、良い線行くんじゃねえか!」
「離れた方が身のためと言ったぁ!」
「聞いてたけどな!」
アイクへと迫る二つの魔法。こうなる事は予想できたし、分かり切ってもいた。本当に、この状況はあって当たり前のものだ。
だから、どう逃げれば良いかも分かっていた。アイクは魔法が発生するよりさらに前に、既に窓から飛び出そうとしていたのだ。
わざわざ窓を開く必要は無い。シューリンとマリアンの争いの中で、既に周囲の窓は壊れて吹き飛んでいた。
あとはアイクがそこから跳ぶだけである。それでも、かなりギリギリだ。まず、背後に凍える冷たさを感じる。
発生より早く逃げたつもりだったが、それでも掠りはしてしまう魔法の素早さ。間違いなくシューリンの魔法だった。
どれほど食らったか。追撃はあるか。シューリンの表情はどうか。それらを確認する暇は無いだろう。
まだ足は動いているのだから、窓から跳ね、外の中庭に降り、そこでさらにアイクは足を走らせる。
「逃げられるとでも思ったかしら?」
離れて居ろと言われたり、逃げるなと言われたり、アイクはとても悩ましかった。
ただ、マリアンが放ったらしき魔法は逃がしてくれないらしい。
それはアイクを狙った魔法では無かった。十分な速度がある大蛇の様に伸びる炎の塊が、アイクの両脇側から前方へと進み、進行方向を塞いで来たのだ。
「おおっと。炎に囲まれるってのはこう……気分の良いもんじゃあないな。知ってたか?」
「知っているわよ」
立ち止まって振り向くしか無いので、アイクは声の方を見る。
マリアンが、アイク同様に窓から中庭へと降りて来ていた。続きシューリンもやってくる。退路は炎に塞がれ、前には怖い顔をした女が二人いる。
今、アイクの状態を表現するならそんな様子だ。
「逃げる男は、そうやって炎に囲む事にしているの。だいたいが怯えているわ。あなたはどうかしら?」
「ふんっ。あれは狂犬だからな。怯えるより噛みついてくるかもしれんぞ?」
どうせなら噛みつかれろみたいな意思が込められたシューリンの言葉。
とりあえずの標的をアイクに決めたらしい二人であるが、それでもお互いへの敵意は失っていない様子。
(上手く争い合わせれば……って、それじゃあ駄目か)
事態は最悪だった。いや、最悪を通り過ぎて狂気的だ。
何と言っても、これからアイクが女王二人に嬲られる事は確定しているのである。
挑発し、自身を襲わせ、中庭に逃げ、そこで追い詰められる。ここまでは予想通りであり、きっとここからも想像した通りに展開が進むはずだ。
「で? 犬なんて言われた俺に、これからどうするって? とりあえず争いを止めて、頭を冷やそうとは思わないのか」
「貴様を氷漬けにしてから決めさせて貰う」
一歩前に出るのはシューリンである。多少なりとも冷静になるためには、アイクに怪我の一つや二つさせなければ満足できないと言った様子。
(まあ、それならそれで良いさ。最初からそのつもりだ。俺も大した馬鹿だよな?)
どうしてこんな状況を自分で呼び込んだのか。アイク自身にも、それが分からなかった。
この後を打開する方法なんて無い。そんな事、最初から分かっていたのに、やってやらずには居られなかったのだ。
最初に思った事は一つ。学内で暴れるから周囲に被害が及ぶのなら、せめて中庭に移動させてやろうと、そういう発想から行動を始めたのだと思うのだが。
「氷漬けじゃなくて、火傷する方が好みじゃないかしら、あなた。そうよね? そういう顔をしてる」
(どんな顔だよ畜生―――
覚悟を決め、飛んでくるはずの魔法を見つめる。が、それは何時までもやって来ない。
突然、アイクの予想が、大きく外れ始めたからだ。
『ハァーッハッハッハ!』
異質な男の高笑いが、どこからか聞こえる。
姿が見えぬこの声を、アイクは聞いた事がある。シューリンとマリアンの方はどうだか分からないが、アイクはこの声を知っているのだ。
ウルフマスクの声だ。
「な、何者だ!?」
どうやら、シューリンの方はウルフマスクを知らなかったらしい。
学内においては有名な輩ではあろうが、視界に入れたくないタイプの男であるため、知らない事も無理はあるまい。
『学園の平和と治安と穏やかさを守る正義の狼! ウルフマスクさ!』
本当にどこからか。それこそ空から降って来たかの様に、ウルフマスクはアイクの前に、背中を見せつけながら着地していた。
彼が見つめるのは、シューリンとマリアンの二人の方。どうにも馬鹿げた光景が目の前に広がっているらしく、アイクは眩暈がしてきた。
周りに火が広がっているせいで酸欠気味というのもある。
「ああ、あなた。わたくしは知っているわ。学園で馬鹿をしている一人。その癖、妙に魔法使いに対して強いらしいけれど……炎には弱いでしょう?」
強い生き物なんているものか。実際、アイクは炎に追い詰められている。そんな炎が、今度はウルフマスクへと迫って行くのだ。
ウルフマスクとて、その炎は脅威のはず。だが、聞こえて来るのは彼の高笑い。
『ハァーッハッハ! この程度、温いものだよ!』
ウルフマスクは何時の間にか背中に羽織っていたマントを、迫る炎に対して翻す。
(そういや、現れた時からそんなもん付けてたが……炎を割った!?)
ウルフマスクと、その後ろにいるアイクすら焼き尽くしそうな炎の球体。
マリアンの炎の魔法は、十分な威力を持っている様に見えたが、ウルフマスクのマントが触れた瞬間に、その輪郭がブレた。
さらに扇ぐ様にウルフマスクがマントを動かすと、その動き合わせて、炎がバラバラになって散って行く。
「んな馬鹿な!?」
『正義の熱は炎のそれに勝るのだよ、少年! そうして少女達よ! 他人様に危険な魔法を向けるなと、授業で習わなかったかな?』
「あらそう。聞き逃していたみたい……ねぇ!」
今までの光景にアイクは驚いているのであるが、マリアンの方は動揺していなかった。少なくとも、その片鱗を見せてはいない。炎の魔法をマントで散らされたとしても、二発目を放つ程度には冷静だろう。
(いや、むしろ頭に血が上り切ってんのか!?)
明らかに殺人的な威力だった。人に放つ魔法ではあるまい。それは最初に一発目がそうであったし、今度の二発目はもっとだ。
次に繰り出すは炎の幕。球体よりは熱量は低いだろうが、それでも炎は炎。それが膜状となってアイク達へと迫って来るのだ。
通常であればその光景に恐怖するだろうが、今はアイクの前にウルフマスクがいた。彼は再びマントを翻して、炎の幕すら無効化していく。
炎がどんな形であったとして、熱量が低いのであればそうもなるだろう。だからアイクも、ウルフマスクがそこに立つ限り、炎の魔法には恐怖しない。
「気を付けろ! 怖いのはその後だ!」
『知っているともさ!』
払われた炎の幕。その影から、シューリンが手に氷柱を持って、ウルフマスクへと襲い掛かった。
先ほどまでいがみ合っていた癖に、大したコンビネーションである。
『良い動きではあるがね』
ただ、ウルフマスクはそれに対処した。これはもう単純に、自らに迫るシューリンの氷柱を、手で掴んだのだ。
小柄なシューリンの力に対して、ウルフマスクのそれはあまりにも強大だ。変態染みたその姿に意識が向かうものの、彼は現れる度に、超人的な動きでもって、行動を始めるのである。
女子供の直接攻撃など、物ともしないと言った様子。
「くっ……!」
握られているのは魔法で作った氷柱であるからして、シューリンはすぐに氷柱を放して、ウルフマスクから距離を取った。
「どうやら、馬鹿みたいに笑うだけの力は持って居る様だな。だが……それで勝ったつもりか? お前は―――
『いや』
シューリンが何かを言っているが、聞く耳も無い様子でウルフマスクは首を横に振り、そうして今度はアイクの方を向いた。
『やはり多勢に無勢だな。逃げ出させて貰おう! 行くぞ、少年!』
「え? いや、ちょ―――
聞く耳が無いのはこちらに対してもらしい。
ウルフマスクは宣言するや否や、アイクに向かって走り出し、その首根っこを掴むと、周囲の炎を飛び越える高さで跳躍する。
着地するのは地面にでは無く校舎の壁。さらにそこを足場にして、校舎の上へと駆け上がって行く。
どうやら、中庭に現れた時も、こうやって校舎の壁を使って中庭へと降り立った様子。
(なんつう身体能力をぉぉ!?)
ウルフマスクに運ばれているだけなのであるが、アイクには考える余裕すら無くなって行く。兎に角ウルフマスクの動きは出鱈目で人間離れしているのだ。
そのマスクの向こうにあるのが、本当に人間なのか疑いたくなる程のそれ。
校舎を障害物どころか、自らの縄張りだと言わんばかりに縦横無尽に、かつ相当のスピードで駆け回り、アイクが目を回し始めた頃、漸くどこかの校舎の屋上へとやって来られた。
『ここらで良いかな? さて、そろそろ男なら一人で立ちたまえ』
「うごっ!? い、いきなり放り捨てるなよ……」
ウルフマスクに放り投げられたので、大いに尻をぶつける。相当に痛いわけであるが、それでも、女王二人の魔法に襲われるよりかはまだマシな状況。
それで納得して置くしかないなと諦め、アイクは立ち上がった。
『で、助けてやったわけであるからして、何故あの様な危険に突っ込んだと、私は質問させて貰おうか』
「なんだよいきなり。助けてくれた事は感謝してるって。これからは変人なんて呼ばねえ。良い……変人だ」
『呼んでいるではないか』
多少なりとも、尊敬の念が混じったのだから、大いなる進歩だと言える。
このウルフマスクが、どういう基準で行動しているかが、なんとなく分かって来たのだ。
「俺は……あの状況を何とかしたいと思ったんだ」
『で、何とかなったかね? 多少なりとも命を賭けたわけだろう? そういう自覚がある目をしていたな、あの時の君は』
「いちいち見てたのか? それで助けるタイミングを計っていたってわけだ」
『そう言うな。一応、確認したかったのだよ、君の事をな』
助けられた事で、アイクはウルフマスクに対して興味を持っている。それと同様に、どうにもウルフマスクの方も、アイクに何か気になる事があるらしかった。
「馬鹿な事をしたと思ったよ。けど、あのタイミングで、中庭にあの女共を誘導できれば、被害は少なくなる。そうして……状況だって過熱しないんじゃないかと」
『君を殺す勢いだった彼女らの何が過熱していないと言うのだろうね。だが、やりたい事は分かる。我慢ならなかった。そういう顔だったよ、君は』
結局、アイクの方だって興奮していたのだ。何もかもが馬鹿らしいと思っていた。
無茶な自分の行動も、争う二人の女も、そうやってどこかで致命的な事が起こり得るこの学園も、全部が全部馬鹿らしく、せめて一つくらい、そんな馬鹿らしさをどうにかしたかったのだ。
「結局、俺がこの学園にとって、正式な生徒じゃないって事が問題なんだろうな」
『ふん? 何か、特別な立場なのかね、君は』
「むしろ、他より低い。妹が優秀でね。その保護者……いや、面倒を見る程度の役目で、何故か学園に入学しちまった。だからなんだろうな。学園に変な幻想を持たない分、文句だってある」
『だから、少しくらいは、この歪な学園を何とかしたいと思ってしまった口かい?』
「違う。そんな傲慢じゃあない。だいたいここはただの学園だろう。魔法を学ぶ国を越えた組織とか言っても、入学して、何時か卒業する場所だ。問題なんてあったとしても、先延ばしにして、臭いものに蓋をするだけでも、何とかなる場所なんだよ。本当はな」
相手に恨みがある。思想が噛み合わない。相手の存在自体が不利益だ。そういう考えが、争いを生むというのも分かる。
そういう考えが、実際に戦争だって起こすのがこの世界だ。けれど、アイクがいるのはただ一定期間、魔法を学ぶだけの場所。そんな場所で、戦争も何も無いだろうに。
「女二人が気に入らない相手に対していがみ合ってる。あれはそれだけの事だ。なのに……何なんだあれは。周りを巻き込んで、誰彼構わずぶち壊そうとして、何でちょっとくらい、引こうと思わないんだ。たかが数年、在籍するだけの場所だろうに」
『引くための理由が無いからさ』
「……それだけか?」
ウルフマスクの返答は簡潔だった。簡潔過ぎて、拍子抜けしてしまう。
『それだけだよ。それだけすら、この学園は用意出来ないのさ。まだまだ未完成の学園と言う事だね。生徒に罰を与えたり、特定の生徒を守ったり、逆に特権を与える……なんて事すら、学園側はしっかり出来ていない。だから仲の悪い輩はより酷い関係になって行くしかなくなる。そういうものだ』
これだ。アイクがずっと考えていて、このウルフマスクも、どうにも同じ考えに至っているらしい。
問題を少しでも先延ばしに出来る何かが、この学園に欠けているという事を。
「あんたはもしかして……そのために行動してるのか? 正義や何だと言っているが、どうにもこの学園に無い……バランスを保つって言うのか、そういう事をしている人間に見えなくも―――
『相手の評価をどう決めるかは、君にしか出来ん。ただ、それが私の存在を定義するわけでもあるまい。君にとって重要なのは、これから、君はどうしたいかだ』
簡単に他人についての評価を決めるな。そういう忠告をさっそく受けてしまう。ただ、こちらが何をしたいかについては、アイクの中で決まっていた。
「また、何度も無茶する」
『それは意地からかな?』
「性根だ。あんたに助けられる事になったあの時。自分で自分が馬鹿な事をしていると思ってはいたんだ。だけど、あんな行動をしちまった。あんたの言葉を借りるなら、引く理由が俺にも無かったから……これからもするんだろう」
呆れながらも止められないとしたら、もうどうしようも無いと考える。どれだけの理由を重ねたところで、止められやしないという事なのだから。
『やれやれ。で、あるならば、これを受け取りたまえ』
「うん? なんだよこれ」
ウルフマスクの手から、手に収まる大きさの鍵が放り投げられる。
こちらに向けてのものだったので、アイクはつい、それを受け取ってしまう。
『魔法の鍵だ。具体的には、学生寮の東棟の端に、空いてる部屋があるだろう? その部屋にあるロッカーの鍵さ』
「魔法なんざ欠片も掛かって無さそうな鍵だな」
小さな鍵だ。その小ささ程度の機能しか無さそうな、ただの鍵。
『それは勿論、魔法はそのロッカーの中身の事だからだよ。次に君が……我慢のならない事が起こった時、開けてみると良い』
ウルフマスクは意味深な事を言っている様だが、格好のせいで、間抜けな事を提案されている気がしてしまう。
「開けてびっくり、あんたのその馬鹿っぽい覆面があるとかじゃあ無いよな?」
『はっはっは! さて、どうだろうな! それこそ、開けてびっくりだろうさ! さて、とりあえず、今はこれで収束した。あのやんちゃな少女二人も、水を差されて争いを一旦止めているだろうし……何時までかは分からんが』
まだ、問題が解決したわけではない。そもそも、目の前のウルフマスクとて、問題を解決するために動いているわけでは無いのだろう。
彼は本当に、ただ問題を先延ばしにすると言う、アイクが望んだ通りの事をしたのである。
この学園にとって、もっとも必要な事がそれなのだ。
「あんた……これからどうするんだ?」
『どうするもこうするも。何時も通りさ。正義を無駄に周囲に振り撒き続ける。それだけの存在だよ、私なんて言うのは』
「あー……そうじゃなくってな」
『何かな? まだ引っ掛かる事でも?』
「いや、この屋上、どうにも出入口の扉に鍵が掛かってるみたいなんだが、これから帰るつもりなら、連れて来た以上、降ろしてくれないか?」
ベッドに寝転びながら、アイクは天井を見ている。ごろごろと身体を動かしてみるも、どうにもそれだけでは落ち着かず、上半身を起き上がらせる。
映るのは、学生寮の自分の部屋だ。
世界各地から才能ある学生達を集めているだけあって、生徒一人一人に個室が与えられており、学生寮だけでも大規模な建物となっている。
そんな部屋で、アイクはどうにも落ち着かない状態が続いていた。
謹慎処分なんてものは、そんな風に落ち着かないものかもしれないが。
(というか、漸く明確な処分が出たんだよな、これ)
窓を見れば、まだ太陽が昇っている。他の学生達は校舎で魔法の勉強をしている頃合いだろう。
だが、アイクは自分の部屋にずっと居ろとの指示を学園から受けている。一週間程、食事の時間以外は部屋に居て、反省文を書けとの指示だ。
別に、その事が苦痛であるわけではない。いや、正直、ずっと部屋に缶詰と言うのは、精神的にキツいものがあるのだが、無茶をした自分への罰だと思えば、納得は出来た。
(そうだよな。悪い事したら、こういう事が待ってるべきなんだよ、うん)
事件の中心人物であった他の二人。シューリンとマリアンはどうだろうか。アイクと同様に、自室での謹慎が命じられていれば良いのであるが。
「そっちの方が、学園は平穏だ。真っ先にいがみ合う連中が、とりあえずは部屋にいて……ん?」
部屋の外から音が聞こえた気がする。
少しばかり、聞きたくない音だった。爆発音の様な、学園では到底聞く事が出来ないはずの音。若干、窓が細かく揺れている気がするが、それもきっと気のせいだ。
(まさかな。まさか……そういう事も無いだろうさ)
ベッドで再び横になろうとする。まだ悪い夢が続いている様な、そんな雰囲気なのだ。また眠って、もう一度目覚める必要があると、そう感じる。
実際、ベッドの方に足が向かっていたのであるが、眠る事が出来なかったのは、部屋のドアが開かれたからだ。
「才無し! まだいるか!?」
「あーくそっ。鍵するの忘れてたよな! 授業中なのにお前がここに来てるって事も、悪い予感しかしねえよ、デギンス!」
「ははは……兄さん、私も」
「イーシャ……お前までどうしたんだ」
学園内でアイクと数少ない友好的な交流のある二人。それがどうにも、二人して慌てているのだ。もうこれだけで、アイクにとっては普通の状況ではあるまい。
ちなみに、またどこからか爆音の様なものが聞こえて来た。これでは、気のせいにする事もできない。
「外の音が聞こえないのか才無し。シューリン教室とマリアン教室の全面戦争が始まったんだよ。他の生徒は避難をしているが……どうにも教室の連中以外にも、争いが広がっているらしい」
「なんだそれ。なんでそんな事になる。あの二つの教室の代表者は、今頃、俺と同じで自分の部屋で引きこもってる頃だぞ!?」
まさか部屋を飛び出して争い合っているのか。そこまで凶暴な輩だったというのか。あの女どもは。
「違うな。そうじゃあない。奴ら、もう中心人物が居ようがいまいが関係無いのさ。引き金は引かれた。後は何かしらの決着が付くまでは止まらない」
「先伸ばしにしたところで、そう長くは持たないって、そういうことかよ!」
アイクは部屋を飛び出し、窓越しに校舎側を見る。
そこには幾つかの黒い煙が上がっており、また、校舎の幾つかの場所で、閃光の様なものさえ見えた。魔法の光だ。それも攻撃的な。
「あ、あのね、兄さん。私も誘われた」
「シューリン教室の奴らにか。こんな馬鹿げた事をしろって!?」
「だ、だから、さすがに断ったって。けど……本当にこんな事をするなんて……」
もう既に、学園に対するテロ行為みたいなものだ。それを生徒側がするなんて、本当に最悪で馬鹿げた事態になってしまっていた。
「才無し。お前なら、多少は冷静に事を見れると思ったんだが……この状況、見れたところでどうしようもないか?」
「どこかの教室に素手で喧嘩を売ってなんとかなる状況なら、喜んでそうするさ。けどな……」
たかが生徒一人が何とか出来る状況を逸していた。教師達や警備員はどうしているのか。いや、そういう人間も動いた上で、この様な争いに発展しているのかも。
「もうこの学園は、駄目かもしれないな」
デギンスの言葉は、ある意味、今後の真実を語っていると思われた。こんな事態になった以上、学園はその機能を終わらせるしか無い。
そうなれば、集められた生徒達は故郷に帰る事になるのだろうか。その方が良いかもしれない。ここで争い合う生徒達も、故郷では多少なりとも魔法の才があるだけの、普通の人間なのだから……。
(いや……それも……)
「ど、どうしたの? 兄さん」
イーシャを見る。飛び切りの才能がある自慢の妹だ。彼女はきっと、この学園で魔法を学びきれば、大成する人間だとアイクは信じていた。
そんなイーシャの将来が閉ざされる。アイクは別に良い。故郷に戻っても居場所なんて無いだろうから、学園で手に入れた半端な学でもって、諸国を旅なんてする事だって出来るだろう。
けれどイーシャはどうだ。これから先、学園が無くなれば、半端な魔法の知識だけもって、故郷に帰り、農家の出らしく、どこぞの男の嫁に行って、その後は一生をただ終えるだけ。
(妹の将来が閉ざされるのを黙って見てろってか? 兄の俺が? 唯一、この学園に来た理由である妹に対して、無視を決め込むってか?)
諦めに似た境地から、ふつふつと、怒りに似た何かが飛び出しそうになってきた。
「どうした? まさかこの様な状況で、まだ何かするつもりか? 才無し」
「お前、ここに来たってことは、一旦は頼ったんだろう。そりゃあ俺にだって無理な事ばかりだが、まだ何か……出来る事をしていない気がするんだよな」
怒りと共に、やり残しがあるのではと言う引っ掛かりまで飛び出して来ていた。
これは単なる焦燥感に寄るものか、もしくは……。
「デギンス、イーシャ。とりあえず二人とも、ここで待っててくれ。校舎の方は危険だろうし、学生寮も危なくなったら、それはそれで逃げろ。安全な場所にだぞ?」
「分かってはいるが、今はお前がどうするかが気になるね」
「私も! 兄さん、また危ない事をする気じゃあ」
「いや、どうだろうな。危ない危なくない以前に、アホみたいなもんに頼る事にしたんだよ」
それだけ言って、返答を待たずにアイクは廊下を走り出した。
場所は確か、学生寮の東棟の端。空いている部屋だったか。
ある一人の生徒、テルモード・ロックウェンにとって、今日という日は運が無い日であった。
食堂で出て来たスープに嫌いなオクラが入っていた事から始まり、午前の授業は苦手で退屈な歴史学。
気になる同じ教室の生徒であるミリエ・ランデが、授業中、こっそり気に入らないボンズ・クートと仲良く話をしているのを見た事も、運の悪い内に入っている。
(今日は厄日だ。ずっとずっと、厄日が続いていた。けど、こういう最悪が待ってるなんて事は無いだろう!?)
最悪は、授業がそろそろ終わる頃に発生した。
廊下から、大きな音が聞こえて来たのだ。魔法による爆発音だとすぐに知った。何人かの生徒が、何があったのかと廊下に顔を出したのは、迂闊と言えば迂闊だったろう。
そんな迂闊な生徒の一人には、テルモードも含まれていた。
廊下には、全力で、必死の表情をした女子生徒が走っていたのだ。まあ、それだけなら、季節に寄る何がしかの影響を受けた生徒なのだろうと思うところだったが、その女子生徒の後ろで、別の男子生徒が、躊躇なく雷電を放ったのを見れば、それだけで話は済まない。
男子生徒の魔法は、走る女子生徒どころか、その周囲すら巻き込む大規模なものだった。
実際、何人かの生徒が魔法の影響で気絶していたと思う。そうして、魔法を逃れた生徒達は、いっせいに逃げ出す事になった。
廊下の様子を伺っていた生徒は、必然的に廊下へと逃げ出す事になった。これもまた、テルモードにとっての不運だった。
(どうなってる!? 本当に、どうなってるんだ、これ!?)
廊下で走っていれば、嫌でもそれらの光景を目にする事になった。学園のあちこちで、生徒達が、どうしてだか魔法を使って争い合っているのだ。
何人かは、優秀かつ問題の多いシューリン教室の生徒で、もう何人かは何時も偉そうで問題の多いマリアン教室の生徒である事は分かったが、今回はそれ以外の生徒達も、どうしてだか争っている姿を見た。
まるで学園全体で、燻っていた火薬が遂に爆発した様な、そんな印象を受けた。実際問題、あちこち爆発しているからそう思ったのだろう。
そうして今度は、テルモードが爆発に巻き込まれる番なのだと。
「ま、待って。待ってくれ。お、俺は別に……何も……」
目の前に3人の生徒が立っている。そうして何故か、テルモードに目を付けたらしい。自分は何か恨みを買ったのだろうか。
そうかもしれない。誰だって、どこかで、誰かの怒りを向けられている。問題は、それらが顕在化するかどうかだ。
普通はしない。誰もが自分の中の怒りを抑え付けて生きている。けれど、それがもし、抑え付ける必要が無くなれば?
目の前の生徒の一人……見覚えがある気がしてきた。確か廊下ですれ違った時、足を踏んでしまった事がある気がする。その時は謝ったが、今はその時の怒りをぶつけようと―――
『そこまでだ』
突然、声が聞こえて来た。まるで地獄の蛙が合唱している様な、異質な印象のある、しかしはっきりと聞こえる声。目の前の生徒達ではない。勿論、自分の声でも無い。
その声の主は、廊下の窓から、突如として廊下側へと入って来たのだ。
「え……ええ? だ、誰!?」
その姿を見て、そんな事を言ってしまったテルモードを、誰も攻めたりしないだろう。
現れたそれは、黒かった。
上から下まで、黒色に染まった革服らしきものを着込んだ男。きっと男だろう。体格からそう思う。
ただ、顔を見て判断は出来なかった。その男は、覆面を被っていた。黒い……まるで狼をモチーフにしたような、覆面を被っていたのだ。
生徒が生徒を襲っている。そんな光景に対して、アイクは廊下へと飛び込んだ。
その行動について、後悔が無いわけではない。
むしろ、後悔ばかりが先立つ。ただし、その後悔は、自分が怪我をするかもと言った、そういう部分に対してでは無い。
(何やってんだか、俺)
自分が今、着込んでいる服装の奇抜さにこそ、アイクは後悔していた。
アイクはただ、最後の頼み。もしかしたらと思い辿り着いた、ウルフマスクより鍵を預かったロッカーを開いただけなのだ。
そのロッカーの中にあったものは、黒い革服と革手袋、安全靴。そうして、狼を模した覆面。
(説明書と一緒に入って無きゃ、ロッカーごとゴミとして出してるところだよ、これはな!)
アイクは走り出す。とりあえず他の生徒を襲っていた3人の生徒へだ。
その速度はひたすら速い。普段のアイクとは比べ物にならない程の瞬発力だった。
瞬時に生徒の一人へと近づく事を可能にする速度で、まず生徒の一人を押し倒す。
「ふげっ!?」
顔を掴んで、床に向かって押したのだ。それだけの動作で、生徒の一人は廊下の床に叩き付けられ、気絶する。
速さと力。そのどちらもが、普段のアイクのそれよりも高いものになっていた。
それこそが、この変態的な服装の力に寄るものなのである。
(マギテック……って言うんだったか?)
学園の授業で習った事がある。物品に、特定の効果を発揮させる魔法を仕込む技術は、ずっと前からあったらしいが、それを実用レベルまで底上げしたもの。
三度あった大戦の内に、一度目の大戦でその力を発揮し、二度目の大戦で主役となった技術……と聞いている。
詳しくは知らない。二度目の大戦にしたところで、アイクが生まれる前の話なのだ。
その技術が使われていると、この服装と一緒に置かれていた説明書には書かれており、着込んだ人間の身体能力を増幅させる魔法が仕込まれているらしいとの事だった。
(効果はそれだけじゃあ無いが……今、こいつらを相手にするには、それで十分!)
今度は、近くにまだ立っている別の生徒の腹を蹴り上げる。
「なっ……ごぐっ」
少し動かした程度ではあったが、それだけで生徒は身体を曲げ、少しばかり身体を浮かせた後、白目を向いて倒れた。残り一人。
『お前は……どうする? どうされたい?』
「ひ、ひぃ!」
最後の一人は懸命だったらしく、脅せばすぐに背中を向けて走り出してくれた。これでもう、誰かを襲おうとは思うまい。
そうして廊下に残るのはアイクと……そんなアイクを見つめる、襲われていた方の生徒のみ。
「だ、だから……だからあんた誰なんだよ!」
『ん? ああ、そっちはそういう話だったか』
と言っても、今のアイクの格好については説明するのが面倒なので、しない事は決まっているのである。
この様な変態的な格好をしていると周囲に思われたくないし、丁度良く、覆面と、どうにも声もまたマギテックにより変声しているみたいなので、正体を隠す事が出来ている。
ただ、名前を名乗るくらいはしても構わないだろうか。
『ブラックウルフとかでどうだ? こう……新しい正義の……使者みたいな感じだ』
「そんな投げやりな!?」
いちいち注文の多い男である。だいたい、現在の状況に対して、アイクの方とてしっかり整理出来て無いのだから、答えられる内容だって限度がある。
『良いから、助けられて運が良かったって思え。校舎内はどこも危険みたいだから、さっさと出た方が良いぞ。学生寮はまだ安全そうだった』
「そ、そうか? っていうか、あんたは……誰かを襲ったりしないのか?」
『さっき、あんたに魔法を使おうとしていた生徒には襲い掛かったぞ』
「いや、そうじゃなくて……そうなんだけど、その……誰彼構わず襲い掛かったりとかは……」
『何でそんな事をしなきゃならない? 俺は……あー、正義の使者だから、そんな事はしない』
正体をバラしたく無いし、何かしらの内心を吐露するのも面倒だった。
なるほど、どこぞの同じマスクを被った変人もまた、だから正義だの何だの名乗っていたのかもしれない。
「な、なるほど……正義の使者……だからか」
助けてやった生徒は、なるほどなどと言っているが、こちらを変態的な奴と言う目で見始めた事は見逃していない。
ただ、自分でもおかしな格好をしているとは思うので、文句は言わない事にした。
『ほら、正義の邪魔だ。さっさとどこかに行っちまえ。俺はこれから……正義を続けるんでな』
手をシッシと振ると、怯えていた生徒は、怯えている分だけ、そそくさとこの場を立ち去って行く。そんな後ろ姿を見て、アイクはどうしたものかと腕を組んだ。
(ほんと、何でこんな事してんだろうな、俺)
本当は、アイク自身、これから何をすれば良いかは分からなかった。
今、着ている服とその使い方はロッカーの中にあったが、自分が何をすれば良いのか、その指針は同封されてはいない。
今、こうやってアイクが襲われている生徒達を助けているのも、ただアイクがそうしたいと言うだけの事。
(力だけやるから好きにしろって、そういう事か。ウルフマスク)
何か、あの変態に乗せられている気もするのであるが、今はこうやって、事態を収束する事だけに専念しようと考える。
例え力を手に入れたとしても、問題を先延ばしにする事しかアイクには出来ない。それが出来るだけでも、この学園はずっと良いものになるはずなのだ。