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異世界のバーへようこそ  作者: 月島准
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第一話

 柔らかい日差しの感触。窓から差し込む光で朝が来たのだとわかる。ここには便利なアラーム機能も目覚まし時計もない。

 起き上がって伸びをした。ベッドの木枠が僅かに軋む。ここのところ晴天続きだが、今日も天気がよさそうだ。履物をつっかけると外に出た。桶を井戸に垂らして水を掬う。力を込めて引き上げると、透き通った新鮮な水が桶いっぱいになって返ってくる。手のひらでそれを掬って顔を洗った。冷たい水が寝ぼけ眼にちょうどいい。頭の奥からしゃっきりと目覚めたような気になって、空を見上げて息を吐いた。

 大きな鳥が滑空している。空は雲がまばらにあるのみで、美しい晴天だった。水を壺に注いで家の中に入る。食料棚にある籠の中から丸い大きなパンを取り出して食卓に持っていく。外はカサカサしているが、中は意外と水気があってしっとりと甘い。壺に入れた水をコップに注いで飲み干す。パンひとつで腹が膨れることなど今までなかったのに、ここに来てから不思議とこのパンひとつで満足できる。

 食後に食糧棚をチェックする。パンはまだストックがあるから大丈夫。野菜や果物もたくさんある。ここの果物は見たことのないものが多いが、どれも甘くて旨い。野菜は今まで食べていたようなものもあるが、ここで初めて出会ったものもある。見たことのないものがある代わりに、今まで食べていたものや似たようなものがあるのは幸いだった。

 今日は野菜のスープにしよう。ニンジンは元いた場所にあったものとそっくりだが、ここには橙色のニンジンだけでなく紫や緑、黄色、赤といった色とりどりのものがある。どれも味は同じだ。臭みがなくてさっぱりと甘いため、ここの人たちはよく生のニンジンをおやつがわりにしている。トマトも健在だ。これは見た目も味もほとんど変わりがない。ただ、市場に行くととんでもなく大きなトマトなんかも売られている。俺はやはり見慣れたもののほうが調理しやすいため、拳大のものを選んで買っている。あとはカブ。これもトマトと同じで、見た目や味は変わらないが大きさの幅が広い。手のひらに収まるほどの大きさのものもあれば、絵本に出てきた数人がかりで引っ張ってようやく抜けるような巨大なカブもある。今日はプチトマトほどの大きさのカブをいくつかそのまま煮ようと思う。葉物はキャベツがそのまま売られている。ただ、キャベツは畑で妖精の住処になっていることもあるらしく、その場合は大人しく妖精にそれを引き渡さなければならないらしい。キャベツ農家の人は大変だ、と思うかもしれないが、妖精が住み着いたキャベツにはご利益があり、何かしら良いことを運んできてくれるという逸話もあるからプラマイゼロ、ちょっとプラスといったところだ。

 こういう情報は全部市場で仕入れた。ここの住人たちは皆おしゃべりで友好的だ。こちらが少し物を尋ねると、親切に聞いていないことまで色々と教えてくれる。

 俺がここに来てもう一年ほど経つ。最初は何が起こっているのかわけがわからなかったが、一年も経てばもう慣れたものだ。

 そう、俺が元いた世界で気を失ってからもう一年が経ったのだ。

 俺はもともと日本の大学生だった。年齢は二十歳。都内の普通の大学に通い、普通に一人暮らしをして普通にバイトをして過ごしていた。その日はバイトの仲間と仕事終わりに飲みに行って、大いに盛り上がってしこたま酒を飲んだ。千鳥足でなんとか家に帰り着き、布団にダイブしたところまでは覚えている。

 目が覚めたらここにいた。ここ、というのは少なくとも日本ではないどこかなのだが、不思議と言葉は通じるし俺のことを誰も不審に思ったりしない。家があるのは緑豊かな田舎の町で、隣の家に行くまで五分ほど歩かないといけない。家々には広い庭がついていて、家庭菜園をしたり馬を飼ったりしている。俺の家はその中でも小さなもので、庭もせいぜい木が一本植わっているだけの質素なものだ。家の前には井戸があって、生活に必要な水はすべて井戸から調達する。この井戸がまた不思議で、それはもう美しい澄んだ水が滾々と湧き出ているのだ。井戸というものにお世話になったことは今までなかったが、こんなに澄んだ水が手に入るとは思っていなかった。

 とにかく俺はある日目が覚めるとこの不思議な田舎町で暮らすことになっていた。恐らくこれは、日本にいた俺の魂が急性アルコール中毒で飛ばされて見知らぬ世界まで来てしまったのだろう。これは夢だと思ったこともある。しかし、寝ても覚めてもここの生活は変わらない。もとの世界に戻る気配すらなく、気づけばあっという間に一年が過ぎてしまった。

 ここの生活も慣れてみればそんなに悪いものではなく、周りの人は親切だし飲み食いも問題ない。今ではもう一生このままでもいいか、なんて思い始めていたりする。

 ここにいる人々は皆それぞれ異なった見た目をしている。様々な人種が行き交っているのだ。そして皆それを気にしている様子もない。時折獣の耳や尻尾をもつ人を見かけるが、ほかの人たちと同様に暮らしている。ここにはどうやら人を人種で区別する習慣がないらしい。俺の見た目はどう見てもアジア系だが、ここにいても全く違和感なく過ごせている。

 初めて目覚めたのは今日と同じベッドの上だ。飲みすぎてガンガンする頭でスマホを探すが見つからず、重い瞼をこじ開けてようやくここが自分の家じゃないことに気づいた。そこからはとにかく家の周りをうろうろして、ここはどこですか、今は何年ですか、などを聞きまくった。ここは「ノーフィ」と呼ばれる国で、この町の名前は「オーニラ」というらしい。俺のただならぬ様子を見て、隣に住んでいる女性が色々教えてくれたのだ。頭が痛いと訴えると、きっと頭を打った拍子に記憶が飛んでしまったのだろうと都合よく解釈してくれた。

 オーニラは小さな町だが、一時間ほど歩いて市場まで行くと活気がある。様々な出店が軒を連ね、野菜や果物だけでなく香辛料やできたてのパンなども売られている。まずはそこで食料の調達を覚えた。しかし、金がない。金がなくては何も買えない。見かねた隣の女性、サーラが仕事を紹介してくれた。ノーフィの中心地にあたる「ウィア」という大きな街にある一件の酒場。そこのバーテンダーを募集しているということで、俺は仕事にありつくことができた。今はバーテンダーの仕事をしてなんとか日銭を稼いでいる。ここには月収という感覚はあまりないらしく、その日ごとに賃金を授受するのが普通だ。旅人や冒険者も多いことからきっとそうなったのだろう。

 朝起きて、井戸の水を使い、朝食をとり、昼飯の支度をする。これがノーフィに来てからの俺のモーニングルーティンだ。それから必要なときは買い出しに行って、昼食をとり、仕事に出かける。俺の勤務している店は夜だけではなく昼過ぎから開いているので、出られる日はできるだけ早い時間から出勤している。勤務時間は適当で、来た時間から帰る時間までで計算される。遅刻や早退といった概念はない。非常におおらかで、俺にとってはありがたい。

 多人種国家の田舎町に転生しただけで、あまり変わり映えのしない生活じゃないかと思うかもしれないが、しかしこのノーフィには日本にはないものがたくさんある。野菜や果物だけじゃない。ここは魔法の存在する国なのだ。

 ノーフィに住む人々はほとんど皆魔法が使える。それも、ごく自然に。例えば、サーラは魔法で俺の二日酔いを軽減することができたし、魔女のように薬草を煎じて薬を作ってくれた。実は今朝食べたパンや井戸の水にも魔法がかかっている。パンは焼き立ての状態をぎゅっと閉じ込める魔法がかけられていて、その分美味しいし長持ちする。井戸には守りの魔法がかけられているから汚されることがない。理屈はわからないが、俺はこのノーフィに来てからずっと魔法の恩恵を受けているということになる。

 ちなみに、俺は魔法が使えない。どうにかできないものかと見よう見まねで試してみたり、サーラにコツを聞いたりしたがさっぱりだ。どうやら魔法の力を持たない人も一定数いるらしく、だからといってどうということもないらしい。確かに魔法が使えなくても困ることはない。便利で羨ましい気はするが、こればかりはどうしようもない。

 ニンジンを輪切りにする。包丁にそっくりの道具はある。見た目はいまいちだが、これを作った職人が魔法をかけているので食材は驚くほど軽く切れる。なのに指は切れないという優れものだ。トマトとカブはそのまま鍋に放り込む。さて、次が問題だ。このジャガイモたち。ここの芋類は見た目こそ日本のものと変わらないが、やっかいな点がある。俺はジャガイモを手に取り、用心深く眺めて包丁を入れた。うん、これは大丈夫。皮をむいて鍋に入れる。もう一つ手に取り、包丁でつついた。すると、

「ギャハハハハハハ!」

 甲高い声がキッチンに響き渡った。これはジャガイモではない。ジャガイモにそっくりないたずら妖精のピクシーが化けた姿だ。なぜか奴らはジャガイモに化けるのが大得意らしく、こうしてたまに食材に混ざってこちらを脅かそうとしてくる。

「おい、こら、切っちまうぞ」

 ピクシーはジャガイモのような顔をむっと顰めてこちらを睨みつけた。にゅるにゅるとジャガイモの芽が伸びて人の手足のような形になる。最後にジャガイモがきゅっと縮んで妖精の顔の形になった。耳の先が尖り、手足の爪も鋭く長い。大きな目が吊り上がって意地悪そうに笑みを作った。

「キャハ」

 ピクシーは笑うと食料棚のパンを床に落とし、籠の中の野菜をキッチンいっぱいにぶちまけた。甲高い笑い声が響く。どうにかして捕まえようとしても、とても速くて捕えられない。結局ピクシーは気が済むまで暴れた挙句、窓から外へ逃げて行った。パンは床に転がり、つぶれた野菜のせいでキッチンはぐちゃぐちゃだ。これがあるからジャガイモを使うのはギャンブルなのだ。

 床とキッチンを片付け、一息ついた頃にスープが出来上がった。今日の昼飯はこいつだ。なんといっても質素だが、色とりどりのニンジンが非常にポップな印象を与える。塩コショウなどの調味料もそのまま市場に売っている。瓶に入った便利な仕様というわけにはいかないので、袋に量り売りしてもらって持って帰っている。今日の味付けはまあまあ良く出来た。ノーフィに来るまで料理なんてほとんどしたことがなかったのだが、ここに来たら生きるためにやらざるを得ない。そのおかげで少しは腕も上達した。

 昼食を食べたら、仕事に出かける。運よく馬車が見つかれば三十分ほど短縮できるのだが、見つからなければ片道一時間半の道のりを歩くことになる。魔法が使える人は箒で空を飛んでいくのが主流だ。こうして歩いている間にも上空を箒に跨った人が通り過ぎる。たまに手を振ると、気づいて手を振り返してくれる人もいる。

 ウィアまでは穏やかな田舎道が続く。馬車に乗るのもいいが、歩いて行くのも悪くない道のりだ。俺が歩いている姿をよく見かけるのだろう、箒に乗る人やすれ違う人が声をかけてくれることもあった。俺はこの辺では記憶喪失だということになっているので、みんな顔を覚えて親切にしてくれる。全くラッキーだった。魔法が使えないことで迫害されでもしたら、こんな生活は絶対にできなかっただろう。

 途中、大きな川があるので橋を渡る。この川を辿っていくと豊かな森林にたどり着き、そこの泉では精霊のニンフや水に住む美女ウンディーネたちが暮らしている。それはそれは美しい光景だそうなので一度お目にかかりたいとも思うが、彼女たちの噂はあまり良いものを聞かないし、それに森にはほかにも森の住人のパンや水辺の精霊ニクスといった厄介な生き物もいる。自然豊かなところは特に魔力が集まっているらしく、人間ではない生き物が多く住んでいる。街には人、森や海には精霊たち、となんとなく棲み分けができているようだ。まあ、その境界は先ほどのピクシーのように破られることもままあるのだが。

 今日も市場には様々な店が出ている。俺のお気に入りはこの果実店だ。中でも「サニー」と呼ばれる、手のひらに収まるほどの大きさの丸い果実が面白い。皮ごとその実を齧ると、中身はまるで冷たくないアイスのようにしゃくしゃくとしていて柔らかい。こいつの味を形容するのが難しい。なぜなら、こいつは食べるまでどんな味かわからないのだ。一つだけ分かっているのは「甘い」ということ。それがどういう甘さなのかは、見た目だけではわからない。今のところ三十以上の味が確認されているようだ。俺はこのわくわく感と、どんな甘さであっても結局美味しいのでサニーが大好きになった。少しお高いのが玉に瑕だ。

 野菜や果物、香辛料の匂いが入り混じって鼻腔を刺激する。あちらこちらで景気のよい声が聞こえ、客相手に商売人が一生懸命商品をアピールしている。

市場を抜けると、今度は海が見えてくる。すると、潮風に乗って歌声や笑い声が響いているのに気づく。人魚の声だ。海沿いの道から見える岩場には、高い確率で人魚たちが転がっている。男の人魚もいるはずだが岩場では見かけない。いるのは必ず人間の世界に興味津々な女の子たちだ。けらけらと笑いながらいつも遠巻きにこちらを見ている。元の世界で想像した人魚よりもずいぶん垢抜けていて、なんというか、強そうな女の子たちだ。

「ねえ、そこのお兄さん」

 話しかけられた。人魚にじろじろ観察されることはあってもこうして話しかけられたのは初めてだ。岩場に目をやると、金髪の人魚が手を挙げてこちらを見ている。両サイドには髪の長い女の子二人が寝そべっていて、布陣は盤石だ。

「はい、何でしょう」

 答えると、「なんでしょうだって、ウケる」と三人で笑い出した。

「どこ行くの?」

「ウィアです」

「何しに?」

「仕事です」

「どんな仕事?」

「バーテンダーをしています」

 三人は顔を見あわせ、首を捻った。

「それって、なあに?」

 海の中にはバーテンダーはいないのか。俺はシェイカーを振る真似をして、三人に披露した。三人はきょとんとした表情でそれを見ている。

「お酒をつくって、お客様に出しています」

「お酒ってなあに?」

 これはまた難しい質問だ。海の中には飲み物の概念がない。うぅんと首を捻り、説明するのに適当な言葉を探すが見つからない。

「君たち、年はいくつ?」

 聞いてから、少々失礼かもしれないと思った。女性に年齢を聞くなんて、元の世界じゃご法度だ。

「二百六十歳」

 だいぶ年上だった。これは失礼なんてもんじゃない。俺は身なりを正して彼女たちに向き直った。

「今度持ってきますよ」

 彼女たちはきゃあきゃあ言って色めき立ち、手を振って海に帰って行った。とんでもない約束をしてしまった気がするが、二十歳以上なら問題ないだろう。あまり酔っ払いすぎて泳ぎに支障が出ないように気を付けなければならない。

 人魚は人間を恐れず、興味津々に近づいてくる。特に女性の人魚は顕著だ。中にはどうにかして人間の姿に化けて人間の世界に足を踏み入れる者もいるとか。彼女らは海の底の宮殿に住んでいて、唯一の王が海全体を統治しているという話だ。人間がそこへ行くには、海で溺れて死に、魂だけになるしかないらしい。

 しばらくはこの海沿いの道を行く。海には人魚だけでなく、セイレーンと呼ばれる生き物も住んでいる。セイレーンは人魚ほど頻繁には見かけない。頭部が人の女性で、身体が鳥の形をした生き物だ。彼女たちを見かけると、次の日は海が荒れることが予想されるので、船乗りたちは彼女たちの動向を注視している。その歌声は誰もが思わず聴き惚れてしまうほど美しいそうなのだが、船乗りを惑わす要因にもなっている。俺はこの一年ずっとこの道を通っているが、遠目にセイレーンを見かけたのは二回だけだ。どちらもひどい嵐の前の日だった。

 ここのところ晴天が続いている。セイレーンも今はどこかで身を隠しているに違いない。

海沿いの道をまっすぐ行くと、今度は建造物がどんどん大きくなってゆく。しばらくすればウィアに到着だ。

 ウィアという街は、街の真ん中にシンボル的な噴水があり、同心円状に建物が連なっている。住居だったり飲食店だったりする建物は三、四階までの高さがあり、店の上に住居を構えている建物もある。とにかく人が多くて賑やかなところだ。オーニラの市場とは比べ物にならないほどたくさんの種類の店があり、とても一日では回り切れない。俺の仕事場は、そんなウィアの一角にあった。

 ドアの上にひっそりと小さい蝙蝠の看板が出ている。ここが俺の職場、バー「レーヴ」だ。

 ドアを開けるとベルがカランと乾いた音を立てる。

「おはようございます」

 カウンターの向こうにいる女性に声をかける。頭の高い位置でポニーテールを結んでいる女性は、白くてふわふわの尖った耳をしており、その耳に長い三角形のピアスをさげている。オレンジ色のロングヘアーはゆるいパーマがかかっていて艶やかだ。

「おはよう」

 女性の名前はフルム。この店のオーナーだ。彼女はグラスを拭きながら鼻歌を歌っている。この小さな店の従業員はオーナーと俺だけだ。

 まず店に着くとバックルームで制服に着替える。白いシャツに黒いベストがここの制服だ。きっちりと着込まないと、フルムさんにデコピンをされる。次に外に出て掃き掃除だ。店の前に塵一つ残さないよう掃除をする。それから店内の掃除。窓拭きやら床掃除やらを済ませて、ようやくカウンターに立つことができる。

「空いてるか」

 ベルが鳴ってドアが開くや否や、背の大きな男が二、三人連れ立って店に入ってきた。一番前にいる男は特に体格が良く、二メートルはありそうだ。厳つい男に微笑み、フルムさんは「どうぞ」とカウンターの席に促した。

 席に座ったのは三人の男。仲が良さそうに談笑している、その声も見た目に違わず大きい。フルムさんは黙って俺にリキュールを指さし、俺はそれをグラスに注いだ。次の人はこれ、次の人はこれ、と順番にフルムさんは指さしていく。俺はそれを確かめてはグラスに注ぎ、氷とリキュールをくるくるかき混ぜた。

 ここでは客の注文は受け付けない。この店が特別なのではなくて、ノーフィにあるバーのほとんどがそうだ。バーのマスターは客の様子を見て、その客に合った酒を選んで提供する。それがノーフィのバーの醍醐味だというのだ。随分マスターの腕が試される場だと思う。俺はというと、オーナーの指示を受けたリキュールをかき混ぜることと、掃除なんかの雑用、あとはせいぜいグラスを冷やしておくことぐらいしかできない。

 俺からグラスを受け取ると、フルムさんは長い人差し指を出してグラスの上にかざし、輪を描くようにくるくると回し始めた。すると、その軌道に光の粉が現れ、フルムさんが指を動かすたびに色を変えて杯を満たしていく。一人目のお客さんのグラスには青、二人目には緑、三人目には紫の液体が注がれ、フルムさんはそれをカウンターに差し出した。

 三人は自分の目の前に置かれたグラスを取り、がぶりと一口お酒を飲んだ。グラスの中でまだ光の粉が弾けるように輝いている。

 そう、ノーフィのバーで提供するのはただの酒ではない。マスターが必ず最後に魔法をかけて、ひとりひとりに合った味に調合するのだ。しかもこの魔法のおかげで、本人はリキュールの強弱に関わらず、好きなように酔うことができる。手っ取り早く酔っぱらいたければそのように、じっくりと酒を楽しみたければそのように、魔法は体内で意思を反映して、思い通りに酔い方を変えることができるのだ。

 だから、バーで飲む酒の料金は普通の酒場で飲む酒の相場よりも相当高い。ここに来ることができるのはちょっぴりお金持ちか、普段しないような贅沢をしようと意気込んで来る人たちばかりだ。そのためか、酔っ払いが引き起こすトラブルもこの店ではほとんど起きない。

「マスター、あんたも一杯どうだい」

 三人組がフルムさんに声をかける。フルムさんがこうしてお客さんに付き合ったりすることはしょっちゅうだ。俺はというと、もう酒で失敗するのは懲り懲りなので誘われてもお断りしている。

「いただきますわ」

 フルムさんは微笑み、俺にリキュールを指示した。魔法が使えない分、リキュールを注ぐのは完全に俺の仕事だと決めているらしく、どんなときでもリキュールを入れるのは俺だった。フルムさんのお気に入りは南国の果実のお酒かミントのたっぷり入ったお酒だ。今日の気分は果実の方らしいので、俺はそれを杯に注ぐ。フルムさん専用の杯は、グラスの淵に金細工が施されている背の低いグラスだ。氷とリキュールをかき混ぜ、フルムさんに渡す。彼女はそれを受け取り、魔法をかけずにそのまま口へ運んだ。自分の飲むお酒に自分で魔法をかけないのが、ノーフィの「普通」らしい。それにフルムさんは、魔法がなくともいくらお酒を飲んだところで顔色一つ変わらなかった。

「……で、どう思いますマスター、こいつ、そのへんでドラゴンを見たって言って聞かないんでさぁ」

 まだグラス半分も飲んでいないのにすっかり上機嫌になったお客がフルムさんに話しかける。フルムさんは杯をちびりちびりと舐めながら先を促した。

「本当なんだって。見たんだよ。夜だからはっきりとじゃあねえが、あれは間違いなくドラゴンだ」

「この、街中にですか」

 思わず口を挟んでしまった。ドラゴンという生き物がノーフィに生息しているのは知っている。ただ、それは滅多にお目にかかれるものではない。ここに来て間もない頃は、剣も魔法もあるのだからドラゴンが毎日空を飛んでいてもおかしくないだろうと思っていたが、実際はそうではないらしい。

 ドラゴンは全部でたった四頭しかいない。東西南北の最果ての地にそれぞれ棲んでいて、砦を守っているとのことだ。ドラゴンと言葉を交わせるのはそのドラゴンと命の契約をしたたった一人だけ。だから実際このノーフィに四人しかいない。ドラゴンは単為生殖だから、成熟すると卵を産み、砦で守り続けるのだそうだ。前代のドラゴンの命が尽きたとき、守られていた卵が孵る。そうしてドラゴンの系譜は脈々と受け継がれていくのだそうだ。ドラゴンはその生涯を砦の周辺で過ごすはずだから、こんな街中でドラゴンを見かけることなど絶対にあり得ないのである。

「そうさ。この街中にだ。俺だって最初は信じられなかったぜ。でも、あの姿はドラゴンに違いねえ」

 そんなことがあるのだろうか。フルムさんは「ドラゴンねえ」と言って杯を仰いだ。俺は渡されたグラスに、今度はミントのリキュールを注ぐ。

「一度お目にかかってみたい気はするわね。そんな機会ないでしょうから」

 何せドラゴンと言葉を交わせなければ、ドラゴンにとって人など餌も同然だ。どうやって選ばれし四人が決まるのかは、冒険者や魔法使いの間でこそこそと噂が流れているらしい。一般人の俺には知る由もないことだった。

「おっかねえよ。俺はごめんだね」

 男はそう言うと、最後の一滴まで酒を飲み干した。


 仕事が終わるのは夜が更けて次の日付が近づく頃だ。客が途切れたのを見計らって店じまいを手伝い、制服を着替えて家路につく。今日はフルムさんから手土産にオリーブをもらった。明日はこれをパンの上に乗せて食べよう。

 ウィアの夜は暗い。朝、五時頃から活動している街の住人たちは、もうとっくに夢の中だ。朝も夜も早いのがこのウィアの特徴だった。

 こんなに暗いのでは、ドラゴンが出たところで分かりやしないのではないかと思ってしまう。とはいえ妙なものに出くわすのはごめんだ。俺は足早に街を出た。

 海沿いを歩いていると、奇妙な声が聞こえるのに気づく。よく耳を澄ますと、それは女性の歌声だった。暗すぎてどこから聞こえてくるのかわからない。けれど、その歌声は恐ろしく美しくて蠱惑的だった。誰が歌っているのだろう。少し海岸沿いに身を乗り出してみるが、何も見えない。歌詞は異国の言葉なのだろうか。何と言っているのかも聞き取ることができない。ただただその旋律が美しく、聴いていると自分の身体が暗闇に溶けてしまいそうになる。

 ふと、岩場に女性の白い顔が見えた気がした。さては人魚が歌を歌っているのだろう。人魚の歌声はとびきり美しいと評判だ。鼻歌以外の歌声を実際に聴くのはこれが初めてだったが、期待以上のものだった。どんな人魚なのだろうか。顔をよく見たくなってもう少し身体を海へ寄せた。飛沫を含んだ風が顔に当たって冷たい。その声は凛とした中にも哀愁があって、時折泣いているように震えていた。もっとよく聞きたい。さらに身を乗り出したところで、首元がぎゅっと締まった。なんだこれは。苦しい。息ができない。

「危ない」

 振り向くと、フルムさんが俺の首根っこを掴んでいる。何が起こったのかと思えば、フルムさんが俺の襟を後ろから引っ張ったのだ。何だ……と、安堵しつつ眼下を覗いて寒気がした。俺は、もう少しのところで海に飛び込むところだったのだ。すんでのところでフルムさんに助けられた。

「ありがとうございます。助かりました」

「耳を塞いだ方が良いわ。これ、セイレーンの声だから」

 噂に聞く海の住人だ。俺は急いで両手で耳を塞いだ。人魚ではなかったのか。セイレーンの姿を見たことはあっても、声を聴くのは初めてだった。フルムさんは俺を連れて海を離れた。セイレーンの声だとわかっているのに、この場を離れるのが惜しい。ダメだとわかっていてももっと聴いていたくなってしまう。これがセイレーンの魔力なのか。俺は身を屈めて振り切るように足を動かした。

 海が見えなくなった頃、俺はそっと両手を耳から離した。セイレーンの声は聞こえない。俺はほっと胸を撫でおろし、そしてようやくフルムさんも俺の首根っこを解放した。

「危なかったわね」

 まさかセイレーンの歌声に惑わされそうになるとは。フルムさんは海の方を振り返り、ふうっとため息を吐いた。

「フルムさんは大丈夫なんですか」

「セイレーンの歌声は女性より男性に効き目があるのよ」

 セイレーンはああやって漁に出た男たちを海に誘い込んできたのか。今思い出しても身震いする。もしフルムさんが助けてくれなかったら、今頃俺は海の藻屑だ。

「それより、明日は荒れた天気になりそうね」

 セイレーンは荒天の予兆だ。俺は頷くと、フルムさんにつられて海の方を見つめた。真っ暗な闇の向こうでは、今も歌声が響いているのだろうか。また寒気を感じて腕をさすった。

 結局、心配だと言ってフルムさんが途中まで送ってくれた。これでは男として形無しだが、フルムさんほど頼りがいのある女性にならつい甘えてしまいたくもなる。フルムさんは背筋をぴんと伸ばし、モデルのようにてきぱきと歩いた。揺れる髪の毛が文字通り馬の尻尾のように見える。

 フルムさんの住まいはウィアの中だ。ずいぶん遠回りをさせてしまった。

「それじゃあ、また明日。気を付けて帰ってね」

「ええ。ありがとうございました。フルムさんも、お気をつけて」

 いつかフルムさんをエスコートできるぐらい頼れる男になる日が来るのだろうか。彼女は手を振ると、踵を返して夜の街へ消えて行った。先ほどのセイレーンの声がまだ頭の中で響いているような気がして首を振る。恐ろしい体験をした。明日は荒れるだろうし、今日は早く寝てしまおう。俺は暗い道のりを一人歩いた。この世界に不満はないが、夜の道がやけに暗いことだけは不便だと思う。「電気」というものが恋しくなる瞬間だ。

 家に帰るともちろん部屋は真っ暗で、こういうときどうするのかというと、まず窓から入る外の明かりを頼りに玄関に置いたマッチを探す。それから入口に設置してあるランプに火を点けるのだ。すると、ぼうっとした明かりが部屋全体を照らしてくれる。ランプは他に三か所あって、ダイニング、キッチン、それから寝室だ。取り外しもできるから、持ってうろうろすることもできる。最初は不便だと思ったが、慣れればこれも味があっていいものだ。

 風呂は室内に人一人入れるほど大きな桶を置いて入る。水は井戸から持ってきて入れた。この桶いっぱいにするには、何度も何度も往復しなければならなかった。このままでは井戸水で行水するだけではないかと思うが、この桶がまたすごい。これも職人が魔法をかけて作ったもので、この桶に入れた水は浄化され、温かいお湯になるのだ。一度水を入れれば綺麗なままを保つから、湯量が少なくなるまで入れっぱなしで良い。もちろん物には寿命があるから壊れることもあるだろうが、それまでは桶が勝手に風呂掃除と湯沸かしをしてくれるようなものだ。魔法ってのはすごい。

 ランプを持って浴槽へ辿り着く。服を全部脱いで湯に浸かると、ここが異世界だろうが何だろうが関係ないと思えてくる。風呂は全世界共通の癒しだ。

 薄暗い浴室でため息を吐く。もとの世界にいた頃は風呂に入るとき本を読んだりスマホをいじったりしたものだが、この世界ではすることがない。本は暗すぎて読めないし、スマホはいわずもがなだ。とても静かで、風と虫の声が微かにざわめいている音しか聞こえない。風呂の中で寝落ちしそうになったりもする。

 布で身体を拭いて、パジャマに着替える。パジャマといっても当然スウェットというわけにはいかない。少しごわつく布をポンチョみたいに被ってそれでおしまいだ。このポンチョもどきが、ここの世界のいわゆる「パジャマ」らしい。

 ベッドが俺の知っているものとほとんど変わらないのは幸いだった。おかげでよく眠れるし、変わらないものもあるのだと安堵できる。ふかふかというわけにはいかないが、固い床よりもずっと良い。点けたランプを消して回り、最後に持ち歩いていたランプを枕元の台に置く。これを吹き消して今日という日は終了だ。

 これが俺の一日。ここに来てから、毎日少しずつ変化しながらも過ごしている俺の日常だ。異世界に行っても、特に何をするわけでもない。冒険もしないし魔法を習得したりもしない。これが俺の、異世界生活なのだ。


 今日は予想通り朝から雨だ。それも、叩きつけるような土砂降り。昨日まであんなに晴れていたのに、だ。やはりセイレーンのお告げは半端ない。

 今日も食料棚から丸くて大きなパンを取り、ダイニングテーブルでオリーブを載せて頬張る。もうすぐパンを買い足しに行かなくてはならない。昨日の残りの野菜スープを温めて、パンと一緒に胃へ流しこんだ。ピクシーと格闘した甲斐あって、ジャガイモがうまく煮えている。フルムさんからもらったオリーブとの相性も最高だ。

 さて、ここノーフィの食生活は今とのころ日本と大差ないが、ひとつ大問題がある。

 肉がないのだ。鶏も豚も牛もここでは食べない。では他の生き物を食べているのかというとそんなこともない。魚は食べるようなのだが、陸上の動物の肉を食べる習慣がないらしい。市場にもウィアにも肉の店はない。では、貴重なたんぱく源(この世界でも同じ栄養素が存在するのか謎だが)をどこで補っているのかというと、きのみである。

 ここのきのみは種類が多く、大きさもでかい。炒って食べるだけでなく、焼いたり蒸したり煮込んだりして食べている。すると、不思議なことに味も触感も肉に似てくるのだ。今ではもうどのきのみがどの肉に似ているか、どう調理すれば旨く味わえるかわかるようになってしまった。

 というわけで、今日の昼はきのみを食べることにする。まず食料棚にあるラグビーボールほどのきのみを持ち上げ(これが結構重い)、キッチンへ持っていく。朝、井戸から持ってきた水を鍋に入れて沸騰させる。火は常に焚火の要領だ。枯葉や小枝を大量に集めて、石造りのキッチンで焚火をする。おかげで鍋は煤で真っ黒だ。マッチがこの世界にあってよかった。まあ魔法が使える人はひょいと指を動かして火を点けるのだろうが。

 きのみを一口大に切り、鍋に入れる。煮立たせているうちに、ソースを作る。市場で買った、果物や野菜を煮詰めたジャム状のものを使う。フライパンにソースを入れ、塩コショウで味を調えたら終了。きのみのゆで加減は適当だが、棒でつついて一番肉の触感に似ているところで火からおろす。皿に盛りつけて出来上がりだ。スープも全部食べてしまおう。

 フォークとナイフのようなカトラリーも同じように存在する。上手く使えるように魔法がかかっていればいいのにと思うが、これはただ木や金属で作られているだけだ。

 肉の煮込み風きのみの味は素朴だが、悪くない。噛めば噛むほど甘味がでてきて、コクがある。あんなに硬いものが少し煮込むだけでこんなに柔らかくなるのは不思議だ。今日はちょっと味が薄かったが、まあ合格点といったところだ。ラグビーボール大のきのみをすべて平らげ、俺は腹をさすった。

 さあ、仕事に出かけよう。今日はこの天気だから馬車に乗りたいが、うまく捕まるかわからない。この世界には傘がないかわりにレインコートっぽいものがある。見た目こそ普通の外套なのだが、魔法がかかっていて水を弾くようになっている。俺はそれを羽織り、ローブのように腰を縛って外に出た。空からのシャワーを浴びるような雨。外套にはフードがついていたが、それでも顔は庇いきれずすぐに濡れてしまった。

 結局馬車は捕まらず、海道の入り口まで歩くと立て看板を見つけた。

『セイレーン出現中につき、通行禁止』

 誰かが気づいて立てたのだろう。海沿いの道は歩けない。ここから市街に入って、街道を行くしかない。いつもは活気に溢れているウィアも、今日は人気がなくひっそりとしている。この雨だ。今日はお客も少ないかもしれない。俺は足早に「レーヴ」へ向かった。

 いつも通り、蝙蝠の看板に挨拶して店のドアを開けようとしたときだった。

 妙な違和感に気づく。……何だ、これ。

 蝙蝠看板のすぐ横に、見慣れない影がある。鋭い爪、長い尻尾、飛び出た角に、悪魔のような羽根。

 まさか、ドラゴンか?と思い目を凝らすと、それはただの石像だった。雨樋の役割をしているのか、開いた口から水が噴き出している。

 しかし、こんなもの昨日はなかったはずだ。今までなかった石像が一晩にして現れるものだろうか。これも何かの魔法か。俺は首を傾げつつ店に入った。店にはいつも通りフルムさんがカウンターで暇そうにグラスを磨いている。

「フルムさん、表の石像、なんですか」

「石像?」

 彼女は眉を寄せ、「なんのこと?」と訝しんだ。

「看板の横にある気味の悪い石像ですよ」

 フルムさんはカウンターを出て、こちらに向かいスタスタと歩いた。雨が入らないようにドアを開け、隙間から看板のほうを見上げる。

「何もないわよ」

 そんなはずはない。俺はフルムさんの位置に代わって石像を見上げた。

 しかし、そこにはいつもの蝙蝠看板しかない。たった今あったはずなのに、あの奇妙な石像がなくなっているのだ。

「これもセイレーンの後遺症かしら」

 フルムさんは気だるげにため息をついてカウンターに戻る。そんな馬鹿な。俺は目をこすってもう一度石像を探した。どこにもない。先ほどあったはずの石像が、跡形もなく消えている。狐につままれた気分だ。本当に昨日のセイレーンの歌声を聞いたときから、何かおかしくなっているのかもしれない。

 俺は首を傾げながら制服に着替え、掃除を済ませてカウンターに入った。

「今日はお客さんも少ないだろうし、早く帰っていいわよ」

 フルムさんがカウンターに両肘をついて店の入り口を眺めた。ドアが開く気配はない。

「無理しないでたまには休みなさいな」

 無理をしているわけでも、休みたいわけでもないのだが、俺は大人しく頷いた。実感はないが疲れているのかもしれない。それに、本当にセイレーンの影響がないとも言い切れないし。

 ドアベルが鳴る。フルムさんは姿勢を正し、「いらっしゃいませ」と声をかけた。ドアが一瞬開いただけでも外の天気の凄まじさがわかる。

 入ってきたのは小柄な女性だった。黒っぽい外套に身を包み、風に持っていかれそうな身体を自ら抱きしめるように立っている。ドアが閉まると、彼女は息を吐いてフードを取った。爽やかな青い髪をしたボブカットの少女は、やっと人心地ついたようで笑みを漏らしていた。つられて笑顔で会釈する。

「ひどい天気ね」

 フルムさんが言うと、少女は「ええ」と肩をすくめてみせた。

「もう、ずぶ濡れで」

「イチ君」と呼ばれてフルムさんを見ると、大きな白い布を手渡された。すぐに察してカウンターを出る。

「これで拭いてください」

 布を少女に渡すと、彼女は安堵したように微笑んだ。

「ありがとう」

 黒々とした大きな瞳が柔らかく光る。少女は顔と服を拭き、俺は外套を預かった。

 フルムさんがその様子をじっと見つめ、俺にリキュールを指示する。指さしたのは真っ赤なチェリーのリキュールだ。俺はそれをグラスに注ぎ、氷と混ぜてフルムさんに渡す。いつものように、フルムさんが魔法をかける。きらきら光る粉がグラスの中に降り積もって透明な液体になる。真っ赤だったリキュールが魔法と中和されて鮮やかなピンク色になった。

「どうぞ」

 最後にチェリーを添えて差し出す。少女はそれを手に取ると、「うわあ」と感嘆の声を漏らした。こういう場所に来るのは初めてなのだろうか、恐る恐るといった具合でグラスに口をつける。白い喉が動いた瞬間、黒曜石の瞳が輝いた。

「おいしい!こんなに素敵なもの、私初めてです」

 フルムさんが満足そうに笑いかける。

「それは良かった。ゆっくりしていってね」

 もう一口、少女の喉が鳴る。うっとりと目を細め、液体を喉に流し込んでいく。本当においしそうに飲む人だ。マスター冥利に尽きるだろうなと感心する。

 強い風が吹き付け、ドアががたがたと鳴った。

「こんな嵐の日にお出かけ?」

 フルムさんが訊くと、彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。

「はい。色んなお店に行ってみたくて」

「この街は初めて?」

「いえ、初めてではないのですけど、その、初めてみたいなもので」

 途端に少女はしどろもどろになる。俺と同じように、田舎から出てきたのだろうか。彼女はチェリーを物珍しそうに眺め、その実を口に含んだ。

「おいしい」

 もぐもぐと実を食べ、にっこりと笑う。あどけない表情はまだ十代のそれのようだ。しかし、ここの住人の年齢は見た目では判断できない。

「この硬いのはなんですか」

 口から小さな種を出して彼女が訊く。ちょっと世間知らずにも程がないか。俺は戸惑いながら「種です」と答えた。

「それは食べられませんのよ」

 フルムさんがフォローする。少女は曖昧な顔をして紙に種を包んだ。

 変わった子だ。もしかして、果物の種なんか全部取り除いてもらっていたお嬢様なのかもしれない。初めての一人暮らしか、家出をしてきたか。いずれにせよ、ちょっと危なっかしい子だ。

「私、知らないことが多くて」

 彼女は肩を縮こめて、恥ずかしそうに俯いた。

「知らないのは当たり前よ。私も知らないことだらけだわ」

 フルムさんが少女に微笑んだ。少女は頬をかいて照れ笑いをしている。赤くなった顔を隠すように、彼女は一気にドリンクを飲み干した。

「おかわり、ください」

 いい飲みっぷりだ。やはりただものではない。今度はチョコレートベースのリキュールを指示され、俺はそれをグラスに注いだ。一人のお客さんに何種類ものお酒を提供するのは珍しい。何か考えがあるのだろう。今度の魔法はオレンジ色の液体に変わり、グラスの中でマーブル状になった。

「これも、おいしい」

 少女はにっこりと笑う。その笑顔を受けて、フルムさんも満足そうに笑った。

 俺が驚いたのはこの後だ。なんと彼女は計十二杯おかわりをし、フルムさんは十二種類のカクテルを作った。少女は顔色一つ変わらず、おいしいおいしいと言って全て飲み干している。

 今日のお客さんは彼女の他に数人だけだったが、まあまあ採算はとれたのではないだろうか。何せいいところのお嬢様(多分)だ。会計の他にチップを弾んでくれるかもしれない。夜もとっぷり更けた頃、閉店時間を告げると彼女は立ち上がった。

「おいしかったです。また来ます」

 そう言って満面の笑みを見せ、外套に袖を通す。そのままドアに手をかけようとするので、慌てて大声を出した。

「お、お会計は」

 彼女は大声に驚いて振り返り、目を丸くした。一体何を言われているのかわからない、といった表情だ。少女は困ったように眉を寄せ、驚きの一言を言い放った。

「それ、何ですか?」

 眩暈がした。まさか、無銭飲食上等ということだろうか。顔に似合わずとんでもないことを考える子だ。フルムさんはじっと彼女を見つめ、そっと手招きした。少女は大人しくそれに従い、カウンターに近づく。

「お金、持ってないの?」

 少女は首を傾げ、フルムさんを見つめ返した。

「それ、何ですか?」

 嘘だろ。お金の概念すら知らないなんてことあるか。俺はフルムさんに「どうしましょう」と目で訴えるが、フルムさんは少女の目をみつめたままだった。俺のただならぬ様子を察してか、少女は黒い瞳を涙ぐませる。

「私、本当に何も持ってなくて。何か必要だったなんて知らなくて」

 彼女の言う通り、少女の持ち物は外套ひとつだけだった。薄いワンピースに何か入っている様子はない。嘘をついているわけではなさそうだ。

「買い物にはお金が必要なのよ。食べ物も飲み物もお金と交換で手に入れるの」

 フルムさんは落ち着いた声で辛抱強く少女にささやく。少女はうんうんと頷き、「それはどこで手に入れるんですか」と訊いた。

 フルムさんはようやく俺と目を合わせ、意味ありげに肩をすくめてみせた。俺はその意味を解し損ねて首を傾げる。

「おめでとう、イチ君。後輩ができたわ」

 フルムさんは少女の頭に手を置くと、そっと髪を撫でた。

「ここで働いて返してもらうわ。あなた、名前は」

 少女は眉を顰め、「名前」と繰り返した。

「ありません」

 フルムさんは「そう」とだけ言って腕を組む。

「帰る場所は」

「ありません」

 質問の度に謎が深まる。彼女はいったい何者なのだろうか。

「まあいいわ。しばらくここに住み込んで働いて、今日飲んだ分を返してちょうだい」

 少女がぱっと顔を上げる。よくわからないが許されたらしいということは理解したようだ。

「言われた通りにします」

 少女が頭を下げる。空色の髪がさらりと顔に垂れた。

「それにしても名前が必要ね」

 フルムさんが俺を見る。嫌な予感がする。

「イチ君、何か考えてあげて」

 俺ですか。まじですか。万感の思いを込めてフルムさんを見つめるが、もう彼女は少女の頭を撫でることに専念している。

 俺の次に店に来た子。二番目。俺が一で、あの子が二。俺がイチで、あの子がニ……。

「ニコ、はどうですか」

 二番目の子だから二子。ニコだ。安易すぎるが、これが俺の精一杯。これで勘弁してくださいとフルムさんに訴える。

「ニコ、ニコ……。うん。いいんじゃない」

 フルムさんが頷いて、「ねえ、ニコ」と少女に呼びかける。ニコと呼ばれた少女はわけもわからず頷き、「はい」と元気に返事をした。

 こうして嵐の夜、俺の初めての後輩、ニコが店に来ることになった。ニコはフルムさんの手を取り、「お願いします」と繰り返している。何でもない日常の中の、ちょっとした変化だ。

 次の日は曇りだった。セイレーンはもうどこかへ引っ込んだらしい。例の看板も下げられていた。俺はどこかほっとした心地でウィアへの道を歩いた。

 今日の俺にはミッションがある。この間約束した、人魚にお酒を持ってきたのだ。案の定、人魚たちは今日も岩場でたむろしている。

「はぁい」

 金髪の人魚が髪を梳かしながら手を挙げる。隣にはこの前会ったときと同じ顔触れの人魚が二人控えている。

「昨日はすごい天気だったわね」

「海の中なら関係ないけどね」

 言って、くすくすと笑い合う。どうも居心地が悪い。俺は鞄から酒を取り出した。

 昨日、人魚に渡すならどんな酒が良いかをフルムさんに訊いた。すると、蒸留酒の瓶に魔法をかけてくれたのだ。「特別よ」と言っていたが、本当に特別なことだった。コップ一杯に魔法をかけるのだってすごいことなのに、一瓶すべてに魔法をかけてしまうなんて。今度改めてお礼をしなくてはならない。

 鈴の鳴るような声で笑っていた人魚たちは、俺の手にある瓶に目を留めて表情を変えた。まるでおもちゃを見せられた子供だ。瓶を掲げると、人魚たちはきゃあと歓声を上げた。

「それが、お酒?」

「おいしいもの?」

「全部くれるの?」

 三人三様に質問攻めにされ、俺はたたらを踏んだ。瓶を口元に当て、飲むふりをする。

「こんなふうに飲むんだ」

 三人は頷き、待ちきれないというふうに目を輝かせた。金髪の人魚が岩場から降り、海水に入っていく。潜水したかと思うと、道のすぐそばで顔を出した。こちらに向かって両手を差し出すので、俺は屈んでなんとか瓶を手渡す。こんな距離で人魚と接するのは初めてだ。

 人魚は俺の手から瓶を受け取ると、さっと海に潜って岩場に戻った。仲間の人魚が今か今かと待ち受けている。瓶の蓋を開け、匂いを嗅ぐ。彼女たちは驚いた様子でお互いの顔を見合わせた。海中にはない匂いなのだろう。一体魔法で蒸留酒がどんな味や香りになっているのか、俺にはわからなかった。

 恐る恐る、人魚の一人が瓶に口をつける。少しだけ傾けてそれを舐めるように飲むと、ぱっと口元から瓶を遠ざけ唇をおさえた。

 大丈夫だろうか。俺は途端に不安になった。人魚は目を見開き、瓶を眺めたまま絶句している。地上の生き物にとって美味しいものでも、水中の生き物にとっても同じとは限らない。

 人魚は仲間同士で瓶を渡しあい、一口ずつ口をつけた。皆同じようにその味に驚き、顔も身体も強張らせている。

 最初に瓶を受け取った人魚がもう一度瓶を口に持っていく。今度は先ほどよりも大きく喉を鳴らし、濡れた唇を舐めた。こちらを向いた拍子に、金色の髪がさらりと光る。

「美味しいわ!」

「これがお酒!」

「もっとほしい!」

 そう言うなり、人魚はふざけ合いながら瓶の取り合いをはじめた。細腕の中で、酒瓶がくるくると回されていく。俺はとりあえず陸と海の国際問題にはならなかったことに安堵した。人魚たちはすっかり酒に夢中になり、俺のことは意識から外れているようだ。俺は気づかれないよう、静かにその場を後にした。


レーヴのドアを開ける。

「おはようございます」

 最初に飛び込んできたのはフルムさんではなくニコの元気な声だった。エプロン姿で箒を片手ににっこりと笑っている。

 ニコは世間知らずだが働き者だった。俺よりも早く出勤し、気が付けば外の掃除と窓拭きを終えている。掃除なんて誰にとっても面倒くさいものだと思っていたが、ニコにとってはそうではないらしい。せわしなく動き回る彼女に、大変ではないか聞いたところ、掃除が楽しいと返ってきた。そんなふうに感じる人もいるとは、新たな発見だ。

 掃除を終えてカウンターに着く。ニコはとりあえず俺の手伝いというかたちで雇われることになった。仕事はグラスに氷を入れたり、氷を砕いたり、洗い物をしたりだ。リキュールは変わらず俺の係らしい。フルムさんはぼんやりとドアを眺め、煙草に火を点けた。

 ノーフィの煙草は葉巻かパイプだ。フルムさんはお気に入りの葉巻があるらしく、いつも同じ匂いをさせている。焦げた匂いの中にどこか甘さのある香りが、少し美味しそうに思える。一度吸わせてもらったころがあるが、なんともゴージャスな味がした。何種類もの燻された香りが鼻を通り抜け、苦みと甘味のある深い味が口いっぱいに広がる。旨いコーヒーやウイスキーを飲む感覚と似ていた。しかし、これらの嗜好品はとにかくお高い。俺にはとても手が出ないので、葉巻の味とはそれっきりだ。

「そういえば、あの話はどうなったのかしら」

 ふうっと息を吐きだす。白い煙が宙を舞い、薄い雲が散り散りになって消えていく。

「あの話って」

 尋ねると、思い出したようにフルムさんが喉の奥で笑った。

「ドラゴンよ。街中にドラゴンが出るって話。本当なのかしら」

 あのお客さんが言っていた話か。俺は「さあ」と曖昧に笑って首を傾げた。

「考えにくいですけどね、こんなところにドラゴンが現れるなんて」

 フルムさんは煙草を咥え、「そうよねえ」と肘をついた。

「ドラゴンなんて、見たことないです」

 ニコが目を丸くする。フルムさんは咥えた煙草を指で挟んで、「そうよねえ」と煙を吐いた。

「実は私、ドラゴナイトには会ったことがあるのよ」

 ドラゴナイトとは、ドラゴンと言葉を交わせる者のことだ。この世にたった四人しかいない、選ばれた者。フルムさんはどこか遠い目をして煙草を吸った。

「この店に来たんですか」

 フルムさんは頷きながら煙を吐いた。揺蕩った白い煙が甘い匂いを漂わせる。

「私一人で切り盛りしていた頃ね。夜遅くに一人の男性が現れたの。話を聞くと、幼い頃にドラゴンと契約を交わしたドラゴナイトだったってわけ」

「どんな人でしたか」

 ニコが目を輝かせた。フルムさんがお客さんの話をするのは珍しい。俺も興味津々に先を促した。

「髪が短くて、眼鏡をかけていたわ。がたいがよくて背が高かった。ドラゴンの話もしてくれたわ。彼は西のドラゴンと契約をしていて、所用でこのウィアに来たらしいの。その所用というのがおかしいのよ」

 ニコと俺が顔を見合わせる。こんなに楽しそうに話すフルムさんを見るのは初めてだ。ドラゴナイトが持ち場を離れて繁華街へ出てくる理由はなんなのだろう。

「なんと、ドラゴンの鱗や髭を売りに来たって言うのよ。高値で売れたからバーにも来られたって笑ってたわ」

 ドラゴンの鱗は防具に、髭は魔法の杖に使われる超高級素材だ。滅多に手に入れることができない。鱗は鋼よりも固いし、髭は強力な魔力を宿している。ドラゴンの体から離れた際に若干劣化するらしいが、それでも並の素材の比ではない。

「そんなもの、売っていいんですか」

 パートナーを金づるにするなんて、契約したドラゴンへの裏切りにはならないのだろうか。フルムさんはくすくす笑って頷いた。

「それが、ドラゴン自身が許可すれば構わないらしいのよ。もちろんドラゴンが嫌がればそんなことさせてもらえないのでしょうけど」

 ふふっと笑って吐き出した煙が震える。

「信じられないわよね、あの大きくて強い、規格外の生き物とそんなやりとりをしているなんて」

 フルムさんは夢見るような瞳で自ら吐き出した煙の行方を見つめた。俺とニコはまたもや顔を見合わせる。

 これは、例のドラゴナイトと何かあったな。

 お互いの目がそう言っていた。ニコが何も言わず頷く。フルムさんの知られざる過去の一ページを覗き見たかんじだ。何しろ、こんな表情の彼女を今まで見たことがない。

「そのドラゴナイトさん、また来てくれますかね」

 フルムさんは煙草を灰皿に押し付けて肩をすくめた。

「それはどうかしら。基本的にドラゴナイトは契約したドラゴンのいる都から遠くには行かないでしょうし。まあもしまた金欠にでもなったら来るかもしれないわね」

 ドアベルが鳴って入り口が開いた。女性二人組が入ってくる。

「いらっしゃいませ」

 フルムさんの背筋が伸びる。ニコも元気に挨拶をしてお辞儀をした。遮られるように、フルムさんの話はそこで終わってしまった。俺は外套を預かりにカウンターを出る。

 ドラゴンは体長十メートルにもなる巨大な生物だと言われている。高温の火を噴き、固い鱗と長い尾を持ち、鋭い爪や歯の持ち主だ。主食は他の生物。もちろん肉食で、なんでも食べる。ドラゴンはただの狂暴な生き物ではなくて、その髭や目玉に強大な魔力を宿している。ドラゴナイトと契約を交わし、この国を人間とドラゴンで守っているというのだ。

 なぜドラゴンが国を守ってくれるのかというと、この国の誕生に関わっているらしい。おとぎ話レベルの壮大な昔話だが、みんなそれを信じ、今もドラゴンと人間の関係を神聖なものとして扱い続けている。俺は実際ドラゴンがいるのかどうかも怪しいと思っていたが、こうしてドラゴナイトが現れたという話を聞くと、ドラゴンも本当に存在するような気がしてきた。

 そしてそのドラゴナイトとフルムさんのロマンスについても気になる。いつか話してくれる日が来るのだろうか。俺は指さされたリキュールを注ぎ、フルムさんの煙草の香りを思い出した。


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