1-9
戻ってきたキリエと宿の部屋へ向かう。
窓の他はランプとベッド二つだけ。簡素だが典型的なファンタジー宿屋の部屋ではなかろうか。
真綾は入って右、キリエは左のベッドを確保した。
「ところで“鋼入り”って?」
「聞いてたのか」
「や、聞こえちゃったというか」
「……俺の通り名だ。前にああやって絡まれた時、体に鋼でも入ってるのかと言われたんだ。実質十年前だから忘れられてると思ってたんだが」
そうじゃなかったと。
「ん、どうした?」
言えない。某漫画のせいで“鋼入り”がセコい糞野郎の印象だって言えない。
「ううん、なんでもないよ」
どうしよう色々思い出してきた。なんで某氏はある意味裏技の以外で生存エンドがないんですか。
「おい、本当に大丈夫か?」
推しに思いを馳せているだけなのだが、キリエにはそんなことは分からない訳で。真綾は完全に心配されてしまっていた。
「えーっとえーっと、この辺りってお風呂の習慣はないのかな」
「オフロ?」
強引だが話題転換にはなったようだ。
「そう。故郷だとお湯で身体を洗ったり、入浴って言って熱々じゃない温めのお湯に浸かったりするの。銭湯とか温泉とか、後テルマエ(共同浴場)とか言ったかな」
「風呂? 主は貴族、が居ないなら王族だったのか?」
「いやいやいや平民だよ」
皇族の方々と同列とかなんとなく恐れ多いじゃないか。
「だが、湯を浸かれる位用意するのは相当大変だろう? この辺りでやるとすれば魔法が使えて、かつ余裕のある貴族以上か裕福な商人だ」
この世界だとそうなるのか。
「そっかぁ……故郷だと科学っていう技術が進歩してたから、それくらいのお湯でも簡単に沸かせたんだよね」
「……凄いな」
「流石に科学が発展する前は薪を燃やしてたって聞くよ?」
「それでも、だ」
そういえば、風呂文化が一般的じゃないらしいこの世界の人々は、体を綺麗にするのにどうしているんだろう。
「そうだな、水浴びをするか濡れた布で体を拭く。後は魔法だ」
「どんな、」
「プロプル(清潔にせよ)」
聞き終わる前にキリエが呪文を唱える。瞬時に身体を爽快感が包んだ。
「えっなにこれ」
「どうだ?」
「凄くスッキリした……」
湯船に浸かるリラックス効果と同じくらいの気分の良さ。シャワーを浴びるだけなら……個人差はあるだろうけど、時短でプロプルの方が良いっていう人はいるだろう。
キリエは自身にも魔法を使った。
「大体はこれで事足りる」
「そうみたいだね」
この世界で風呂文化を発見するのは難しいかもしれない。
そんな一幕を経て、二人は眠りにつく。真綾にとっては長い異世界二日目の終わりであった。
そう思ったのだが、まだ続くらしい。
不意に真綾はそう思った。
気づけば永遠に続きそうな白い空間に浮かんでいて、見知った顔を見つけて声をかける。
「シンくん、」
「悪かったぁあぁぁぁぁっ!!」
それは。
勢いも姿勢も素晴らしい。
土下座であった。
「……えーっと、顔、上げて?」
「はい」
なんとなくで真綾も正座してみる。
「どうしたの。いきなり土下座して」
「その、本当は神域である程度教えてからこの世界に送り出す予定だったんだよ。それがちょっと色々あったからって、いきなり真綾を放り出すようなことになっちまって……。しかも、せめて案内にって付けた聖霊が真綾の嫌いな物に化けるしよ」
「あー」
そういえばあったなそんなこと。
あれ、遠因シンくんだったのか。
「それでよ、とにかく謝りたかったんだけど、ここまで遅くなっちまって、」
「うん」
「その、怒ってるよな……?」
「えーと」
虫は怖かったけど、怒っているかと言われれば怒りは沸かないのが実情だった。ただ、キリエに着いていくのに集中し過ぎてシンくんのことが頭から抜けていた。なので気まずい感はある。
「その、怒ってても良いんだけど、や、ホントは許して欲しいけど、それよりも、俺のこと嫌いになんないで欲しいっつーか」
「うん」
「怒らせた俺が言うことじゃねーかもだけど、やっぱ惚れた女に嫌われるのは堪えるっつーか、」
「うん」
どうしよう。犬が見える。
耳もしっぽもぺちゃんってなってる大型犬。
その頭に手を乗せた。
「大丈夫。怒ってないよ」
「ほんとか……?」
「うん。まぁ、最初はびっくりしたり不安になったりも、ちょっとあったけど今は怒ってないし、シンくん謝ってくれたでしょ。だからいいよ」
言いながら頭を撫でるとシンは目を細めた。
「ん」
そのまますりすりと頭を真綾の手に擦りつけるので、真綾は暫く両手でシンの頭を撫でる。
その時だった。
『いっっつまで見せつけてくれるんですかこのリア充が!』
空間に何者かの声が響く。しかし見えない姿の主にシンが立ち上がって噛みついた。
「ああ゛ん!? てめぇ部下の癖にナマ言ってんじゃねぇぞ!」
『うっさいですよバカ上司!刻限切ったんだからさっさと仕事戻りやがれ!!』
「おーぅもうちょい真綾といちゃついたらな!つか部下なら代わりに仕事できるようになれよ!」
『アホか!上はできても下は肩代わりできないってどっかの漫画で言ってましたよ!』
「俺が戻るまで持たせらんねぇのかこれだからメガネは!」
『全異世界のメガネに謝れーッ!』
(そのどっかの漫画って読んだことあるかもー。言ってたの小説版だっけ?)
言い合いをよそに真綾の思考は呑気である。現実逃避とも言う。だがそういつまでも意識を飛ばしておくわけにもいかない。
真綾はそっとシンの袖を引いた。
「シンくん、シンくん」
「この駄メガ……おぅ、なんだ?」
「その、またこうやってお話できる?」
「勿論」
『嘘つけ!仕事ごがッ』
ぱちん、とシンが指スナップした。
「……えっと」
「問題ねぇよ。仕事はちょっぱやでやる。ただ、どうしても日数は空いちまう。そこは勘弁してくれ」
「わかった」
シンが真綾の頭を撫でる。先程とは逆だ。
徐々に辺りが目映くなっていく。
「後な、服とか変わってただろ? その中に鞄があったの、分かったか?」
「えっと、肩掛け鞄のことかな」
「それだ。あれインベントリになってんだよ。色々先立つもん入れとくから、起きたら確認してくれ。それから──」
そして、真綾の意識は光に呑まれた。