嫌い
足の痺れで目が覚めた。
朧な視界には食べ終わった食事の容器がそのまま置いてあるのが映り、昨夜地べたに座り込んだまま寝てしまったのだということを理解した。
寝た場所が悪かったせいか全身の疲労が全く取れず、湯浴びもしなかったために全身がベタベタだ。
...どれくらい寝ていたのかがわからないし、そもそも朝起きたところでどこに向かえば良いのか。
まあ、階段を降りなければいけないということは確定事項だろうが。
隣の部屋にいるあの子に聞きにいきたいところではあるが、正直自分を嫌う人に自ら近づきに行こうとも思えない。
"さっさと消えてくれ、レヴァストの魔女め"
ぐるぐると頭を回る彼女の言葉に心が沈んでいく。
もちろん、こんなことはきっとこれからいくらでも言われてしまうのだろうけど、覚悟していたつもりが実際言われてみるとこんなにもきつい。
「とりあえず、準備しよう」
暗くなっていく気持ちを振り払うように、私は浴室へ足を運び身体を清めた。
*
「早いじゃない、ジネボラ」
準備を終え、覚悟を決めて階段で食堂まで降りてくるとシルヴィアさんと二人の男性が朝食をとっていた。
私にすぐに気づいたシルヴィアさんは、驚きながらも嬉しそうに微笑んで手招きをした。彼女の周りにいた二人の男性は、嫌そうな顔をする訳でもなくシルヴィアさんと同じような微笑みを私に向けてくれる。
緊張していた体がほぐれ、ゆっくりと三人の元へ向かうとシルヴィアさんが隣の席に座るように促してくれた。
「紹介するわね、この子は私が面倒を見ることになったジネボラ。ジネボラ、この二人は五番隊と六番隊の私の同期。こっちが五番隊のクリス・レンデラ、六番隊のスカル・バムハート。」
シルヴィアさんが、手で指しながら各々を紹介していく。
自分から切り出すのはどうにも難しいと考えていたために、シルヴィアさんが切り出してくれて助かった。
紹介されたふたりを改めて目に映してみる。目の前に座るクリスさんは茶色い髪に澄んだ灰色の瞳で冷たさを感じる印象ではあったが、微笑むとこれまた蕩けそうな甘い顔をする。
対してスカルさんはそんなに長くはない黒い髪を後ろで小さく結んでおり、人懐っこそうな翡翠色の瞳で私を興味津々に見つめてくる。
二人の顔をしっかり覚えたところで、ずっと二人の視線を浴びていることに改めて気づき私は慌てて頭を下げた。
「よろしく、ジネボラ。」
「おいクリス、口説くなよ。熟女も子供も見境ないからなお前。新入りなんだからな、自重しろよ。それはそうと、よろしく、スカルだ。」
「人聞きの悪いことを言うな、初対面なのに変なイメージが付くだろうが。ジネボラ、こいつの言うことは何も気にしなくて良い。」
「何をっ。女遊びがお前の生きがいだろ、この下半身男!」
「うるさいな、だいたいお前も無意識に女にフェロモン振りまいて部屋に連れ込んでんだろ、このド変態」
「なんだと、俺がいつ、」
「二人とも、耳が汚れるような会話を、しかも上司のふたりが新人の前で、なんの遠慮もなくするのはどうかと思うのよね。ねえ、そう思わない?ジネボラ。」
私が返答する前に会話をヒートアップし続けたクリスさんとスカルさんは、シルヴィアさんの氷のような冷たい声に制され固まった。
シルヴィアさんに同意を求められたが、彼女の目が怖すぎて、悪いことをしていないのに自分まで悪い事をした気分になってしまう。
恐縮していると、目の前のクリスさんとスカルさんは揃ってごめんなさい、と食台に頭を擦り付ける勢いで謝り始めた。
「まあいいわ。ジネボラ、こいつらが異常なだけだから上司が全員こんなもんだとは思わないでほしいわ。...とにかく、食べましょう。」
シルヴィアさんは冷めた目で二人を見た後、まだ口をつけていない食事を私の方へずらして、料理人がいるカウンターの方へと歩いていった。私が良いですという間もなく、彼女はスタスタと行ってしまう。
クリスさんとスカルさんはというと、ほっと一息ついて苦笑しながら私に謝罪し、食べかけの食事に手をつけ始めた。
想像と全く違う上司たちの実態に、私はただただ呆然とするばかりだ。隣の部屋の女の子のような反応が正しいはずなのだが。
昨日のこともありそれなりの覚悟をして部屋を出てきたつもりなのに、これじゃあ拍子抜けしてしまう。
数分後シルヴィアさんが戻ってきて全員が食事を食べ終わると、彼女は素早く立ち上がった。
「さて、それじゃあさっさと訓練場の整備を始めてしまいましょう。あ、そういえばジネボラ。見習いはこんな朝早い時間から起きなくて大丈夫なのよ。もしかして気を張って早く来すぎちゃったのかしら?」
「あ、いえ。どうすれば良いのか分からなかったので、早いことに越したことはないと思って、とりあえず降りてきてみました。」
「あら?エセルから何も話は聞いてない?」
「エセル?」
突然人名が出てきて不思議に思ったが、すぐに隣の部屋の彼女のことだとわかった。ケープや鍵をくれたのは彼女だったし、きっとシルヴィアさんは彼女に私に色々教えるよう頼んでいたのだろう。
嫌われてるとはいえど、彼女は部屋の鍵もケープも渡してくれたし、きっと上司から頼まれたことはやる主義だ。恐らくあの後、私が眠ってしまって、私に説明するタイミングを損ねてしまったに違いない。
「あー、その様子じゃ...まあいいわ。来なさいジネボラ。せっかく早く起きたなら手伝って。」
「はい。」
「そういえばまだ説明不足なことがあった。訓練所に移動しながらだけど、ごめんね。あなたの所属は、五番隊よ。私とクリスがいる隊ね。毎日の訓練は、一番隊と二番隊、三番隊と四番隊、と言ったように二つの隊がペアになって行うの。これは任務の時も同様だけど、まだ見習いだからそこら辺は正騎士になってからだから説明はまだしないでおくわ。それで、クリスや私だけでなく今日紹介したスカルともあなたはほぼ毎日顔を合わせることになるだろうから困ったことがあればクリスや私、スカルに言ってみて。」
「ありがとうございます。」
何番隊に配属になろうと、状況は変わらないだろうと思っていたけれど、シルヴィアさんやクリスさん、スカルさんが身近にいるとなるとなんとなく気が晴れた。彼らは私を偏見的な目で見ないのだと。
「それと、ほかの見習いの子たちだけれど、ひとつの隊に今四人ずつ配属させてるわ。あなたは急な配属だったから、五番隊だけあなた含めて五人になっているけれど。見習いの子達とはペアで訓練してもらうこともあるから、仲良くね。といってもお互いライバルという意識だけは忘れずにいてくれると向上心に繋がるから嬉しいわ。」
「...わかりました」
見習いの子達。その言葉を聞いて、彼女、エセルのことが思い浮かぶ。昨日、シルヴィアさんから見習いになるには厳しい試験があると聞いた。
きっと、エセル同様他の見習いたちも私のことは面白くないに違いない。そう考えると、これから対面するのが少しだけ怖くなる。といっても、それが当たり前なのだから、それはちゃんと受け止めなければいけないんだけれど。逆にシルヴィアさんたちが特殊なのである。それに慣れてはいけない。
隊舎を出て暫く歩き続けていると、昨日見たドーム状の訓練所が見えてくる。訓練所の外にはさまざまな運動器具があり、ちらりと見えた訓練所の入口からは射撃ができそうな的があるのも見えた。
「ここが、五番隊と六番隊の訓練所。ほかの訓練所はまたこことは離れた場所にあるから、まあ時間があれば案内するわね。」
「はい。あの、一つ質問なんですけど」
「ん?」
「シルヴィアさんたち...先輩方が朝早くから訓練所で整備って何をするんでしょうか。」
「ああ。訓練所には警備システム稼働の魔法石があるの。その魔法石に私たちが毎朝当番制で魔力を注ぎに行くのよ。ちょうどこの時間帯に昨日の朝注いだ魔力が切れてしまうから切れる前にまた補充するみたいな感じね。どの隊でも毎朝行っているの。どこか一つの隊の訓練所でその作業がされていなかったら警備システムは稼働しないから結構大事な役割なのよね。そうそう、警備システムって言うのは部外者の侵入を防ぐためのもので、一般の迷い込んだ市民を守るためのものでもある。まあ大体は前者なんだけど。後者は、ここが森に近いから森の近くに住んでいる子供や、動物が迷い込んでくるとかかしら。魔道騎士、あるいは通行証を持たない者が侵入するとその場で硬直状態になるの。部外者の侵入の目的は、大体魔力を持たない人間が魔法石を盗んで魔法を使いたいというのがほとんど。年に一回あるかないかくらいだけどね。で。そんな警備システムがなぜ訓練所にあるかというと、そんな大事なシステムが訓練所にあるとは誰も考えないだろうから、なんだって。そんなの、わかんないのにねえ。」
「そうなんですね。...先輩方がその作業をするのも、見習いでは魔力が足りないからですか?」
「まあはっきり言って、そう。普通、上司より、部下が早起きして色々進めておくべきなんだけど、こればっかりはしょうがないわ。」
シルヴィアさんはそう言うと、私たちの少し後ろを歩いていたクリスさんとスカルさんに目配せした。二人は了解、というと、ドーム状の訓練所の裏手の方へと走っていく。
「訓練所には三つの魔法石があって、入口一つと、裏手二つ。入口の一つの魔法石が三つの中で一番大きくて一番魔力を有するの。せっかくだから今回、あなたにも手伝ってもらおうかしら」
「え?私が?」
シルヴィアさんは頷くと、訓練所の入口のすぐ隣にある小さな窪みに手をかざした。途端に、その窪みが赤く染まる。
「この窪みが魔法石の位置。この窪みがなくなって平面になって赤い光が青に変わったら魔力が満タンになった合図よ。さ、あなたも手をかざしてみて。」
「はい...」
恐る恐る手をかざしてみると、手が窪みに吸い込まれる勢いで手が窪みにピタリと張り付いた。そして、自分の中の魔力が徐々に減っている感覚が私の中を支配する。
どれぐらいで終わるのかなんて考えていたら、いつの間にか窪みは平面になり、赤い光もいつの間にか青に変わっていた。
魔力が減った感覚はあるけれど、それも少しだけだ。シルヴィアさんの魔力が強力で私など必要なかったのかもしれない。
シルヴィアさんはどれほど強いのだろう。彼女の顔を伺うとシルヴィアさんは何故か私を見て驚いたような顔をしていた。
「な...いつも三分以上は...」
「シルヴィア!裏手二つはもう終わったぞ...ってもう入口終わったのか!?」
シルヴィアさんがぽつりぽつりと喋るのを遮るようにスカルさんがこちらに走ってきて、驚いた声を上げる。続いてきたクリスさんも同じ反応をしている。
そんなに早かったのだろうか。満タンになるまでにかかる時間の感覚が分からないために、何がどうなのか、よくわからない。
「ジネボラ、あなたの魔力の量は想像を超えてたわ」
「ヤベエってのは聞いてたが、シルヴィアが唸るってことは相当だな、お前」
「育てがいがありそうだな」
三人が感心したような表情で、私を見つめた。
何がどうすごかったのか、自分にはあまり理解ができていない。というか、あまり体感できなかったために実感が全くわからないのである。
スカルさんがよしよしと私の頭を乱雑に撫でてきて、私はどう反応を返すべきか迷った。こんなにも自分を認めてもらえると、すこし、いやかなり、心が舞い上がりそうになる。
「スカルさん!おはようございます」
しかしすぐに背後で聞こえた声に、舞い上がりかけた心は落ち着きを取り戻した。
女の子にしては低い声。聞き覚えがある声だった。
「エセル!相変わらずお前早いなあ。だが残念、今日のお前は二番手だ。」
エセル。やっぱり。
スカルさんは私の頭を撫でるのをやめ、私の体をくいっと後ろに反転させ、自分も振り返った。
そこには昨日見た彼女、エセルの姿があった。
彼女は私の顔を確認した途端、驚きの表情を浮かべそのあとすぐに目を鋭く細め、美しい顔を歪めた。
「お、まえ...なんでここに...」
「何ではこっちのセリフよ、エセル。昨日あなたにはジネボラに一から説明するよう頼んでいたでしょう。彼女は何もわからないまま、そのまま来てしまったのよ。」
怒りに震えたような彼女の声に真っ先に答えたのはシルヴィアさんだった。シルヴィアさんが出てくるとは思わなかったのだろう、エセルはビクリと肩を震わせた。
「それは...」
「じ、実は私が昨日眠ってしまって、恐らく彼女は私に声をかけるタイミングを損ねてしまったんだと、思います。」
あまりにも空気が悪くなってしまったため、思わずさっきの憶測が口から出てしまった。
エセルが私を見た時の反応を見るにおそらく意図的に私に何も言わなかったのは明らかなので、憶測は普通に外れていたんだけれど。
あまり場を乱して面倒なことにはなりたくはない。
「彼女?」
しばらくの沈黙の間、何故かシルヴィアさんはよくわからないところで引っかかっていた。クリスさんやスカルさんも疑問を持ったような表情をしている。
彼女、は彼女である。何かおかしい事でも言ったのだろうか。
上司三人が私の方を見つめるので、私はただ首をかしげる。
「え?あ、まってちょっと、そういうこと?」
シルヴィアさんがエセルを見てなにかに気づいたかのように表情をフッと緩めると突然大笑いしだした。
すると、スカルさんとクリスさんもシルヴィアさんが笑っている理由に気づいたのか肩を震わせ始める。
何が何だかわからない状況で私はひたすら置いてかれていた。
え?一体急に何に笑っているの?
「ね、ジネボラ、ふふ...エセルは、ふふふっ...エセルは、男の子よ。」
「え?」
シルヴィアさんが告げた驚愕の事実に、私は固まった。
と、同時に昨日の一人称の謎が解けた。女の子にしては低い声も。
あまりに可憐な姿をしていたために、すっかり女の子だと思い込んでいた。乱雑な男の子のような口調もてっきりただ男勝りな子なのだと。
「エセル、いや、エセルバートと呼んだ方が良いか、ハハハ!お前確かに女みたいな面してはいたがまさか本当に間違えられていたとは」
「まあ仕方がない、髪を結んでいる上に、華奢で声変わりも途中となれば初対面で間違っても、ハハハ、仕方が無いだろう。俺達が愛称で呼んでいたせいもあるな。ジネボラ、こいつの名前、エセルバートつうんだよ」
クリスさんとスカルさんが声を上げて笑っている。
一方の私はまったく笑える余裕がなかった。というか、余裕があったにしても笑える話じゃない。
エセル...いや、エセルバートの顔をちらりと見ると彼は俯いていた。じっと彼を見ていると、やがて彼はほんの少しだけ顔を上げ、殺意むき出しの目で私を睨んだ。
嫌いな相手への嫌がらせも失敗した上に、女に間違われていたことを上司の前で嫌いな相手にカミングアウトされる。
これほど屈辱的なことは無い。
「これからはエセルちゃんって呼んでやろうか」
更に火に油を注ぐように、三人は笑い転げている。
どうしようかと、その場を打開する策を考えてはみるがもはや何も思い浮かばない。
「はーあ、笑わせてもらったわ。そうだ、まだ訓練開始まで時間はあるし、せっかくだから二人とも今話してみたらどう?部屋も隣なんだし。...クリス、スカル、ちょっと中の確認に行くわよ」
そんな状況下で、シルヴィアさんがとんでもないことを言い出した。
こんな状態で置いていかれたらどうなるかわからない。私はシルヴィアさんの方を見て必死に目で訴えようとしたが、その努力も虚しく彼女はスタスタと訓練所の中へと入っていく。
クリスさんとスカルさんも、面白がっているような視線をこちらに投げてからシルヴィアさんの後をついて行ってしまった。
残された私はと言うと、正面から放たれる凄まじい殺気に身体が震え上がりそうになっている。
そんな私にお構い無しにエセルバートは私の腕を強く引き、訓練所から少し離れた場所に来ると私の腕を掴んだまま地面へ投げ飛ばした。
「おい」
あまりにも低い声に私は尻餅をついたまま顔をあげられないでいた。
もう、女の子だなんて勘違いをしていた自分が馬鹿らしい。自分を嫌う相手と必要以上に仲をこじらせたくはないのに。
「誰が女だ、誰が。」
髪を引っ張りあげられ、無理やり上を向かされる。
彼の目は驚く程に冷たく、細められている。目が合うと、彼は忌々しそうに、乱暴にさらに強く私の髪を引っ張りあげた。
途端に私の体は震えだし、ただひたすらに恐怖に陥った。
「これ以上余計な事言ってみろ。今度こそ潰す。敗戦国から来たなんの身分も持たない殺人狂いの娘が、こんな所にいていい訳がないだろ。穢れた血で、穢れた魔法で、この国に堂々と居座るなんて一体どんな脳みそしてんだお前?いくら力を父上に見初められたからと言ってお前にあるのはその穢れた魔法だけだ。人を殺すしか近い道のない、穢れた魔法だ。上がいくらお前に関心を持っていたとしても、それはお前じゃなくて、お前の穢れた血と、穢れた魔法に、だ。お前自身に存在価値なんてこれっぽっちもない。父上が何を言ったかは知らないが、勘違いをするな。認められたなんて馬鹿みたいな希望を持つな。この国にお前の味方なんかがいないし、これから先もできない。お前がどれだけ努力をしようと無駄だ。居場所なんて、存在しない。できたと思ってもそれはただの幻想に過ぎないし、父上の命令だから周りがしている事だ。レヴァストの魔女がなんの苦労もなく、名声を手に入れてこの国の一部になろうなんて吐き気がする話だ。このドブネズミのような髪も、薄汚れた瞳の色もその面も全部忌々しい。僕がどれだけ...」
彼は息を吸うように私の存在を否定し続ける。
父上、という言葉と、フォーサイス国王と彼の容姿が似ていることが重なり、彼が王子なのだということがぼんやり、理解出来た。しかし、今の私にはそんな事実を気にしている暇などなくて。
彼の綺麗な顔、薄い唇から紡がれる罵倒の言葉の数々が私の心をえぐり続ける。
自分がこの場にふさわしくないことくらい最初からわかっていたのに、その上で少しだけ希望を抱いてしまっていたのも事実で。
けれど、彼の言葉の一つ一つが私の僅かに残っていた希望を絶望へと変化させた。だって、きっと彼の言葉は全て正しいのだ。
例え違ったとして、今の私には言いかえせるほどの勇気も考えもない。
父が殺人狂いだと言われて腹が立たなかったわけでは無かったが、父に少しでも恐怖を抱いていた自分に、果たしてそれを完全に否定する言葉を発する権利はあるだろうか。
...自分は一体、なんで、何がしたくて、流されて、何のため侮辱されて言葉で殴られて、こんな所に。
そう思った瞬間、えぐられ続けて空っぽになった心は冷えきりじわりと全身に広がった。
色づいていた全ての世界を遮断した。
涙さえ失って、元から乏しかった感情は欠乏した。
もう気を使う必要はないのだと、思った。
「...そうですか。」
私の髪を掴む彼の腕を掴み、私は立ち上がった。
表情を変えた私に、彼は僅かに戸惑いの色を見せたがもう関係ない。
私は、もう、揺らがない。
「私も、殿下が嫌いです。」
彼の私の髪を掴む力は緩まり、私はその隙に彼の腕を振り投げた。
そのまま私は彼を振り返らず、訓練所へと向かう。
「ジネボラ!どうだ、エセルと話は」
「ありがとうございました。充分彼のことは...殿下のことは理解できました。自分のことも。」
向かってきたスカルさんは、期待をしているような目をしていたが私はそれに応えることができそうになかったために目を合わせずにただ静かに返した。
そんな私にスカルさんは少しだけ眉を潜めたあと、そのまま通り過ぎようとする私の肩を掴んだ。
「ジネボラ?」
「...何でしょう」
「...エセルバートが何か言ったか?」
「いえ。全部本当のことを言ってもらったので、むしろ、感謝しています。」
目を伏せながらそう答えると、スカルさんは無言で私の肩を離して先ほど私とエセルバートがいた方へと走っていった。
平然とした態度で訓練所に戻ると、シルヴィアさんとクリスさんが慌てたように飛んでくる。
「ジネボラ?大丈夫?」
「大丈夫もなにも、ありません。話してきただけです。お時間くださったこと、感謝します。」
「...」
クリスさんが困ったようにシルヴィアさんを見たが、シルヴィアさんは、そう、と小さく返事をして私の肩に手を乗せた。
恐らく、私の中の魔力の流れで感情を読み取ろうとしているのだろう。
空っぽになってしまった今では、魔力になんにも反映されないだろうけれど。
シルヴィアさんもそれに気がついたのかは分からないが、私の肩をから手を離して小さく息をついた。
「朝から急に色んなことあって疲れちゃったのね。まあ、いいわ。もう少しで訓練開始時刻だけど、それまでどこかで休んできなさい」
「はい」
シルヴィアさんに背中を押され、入ったばかりの訓練所から出ると向かい側からスカルさんに肩を組まれたエセルバートが向かってきていた。
スカルさんが口を開きかけたのを遮り、私は冷静に口を開いた。
「すみません、少し川の方で水分補給してきます」
エセルバートとは目が合うはずもなく、私はスタスタと川が流れる方へと向かった。
自分でも驚くほど心が冷めてしまっているが、もしかしたらこれが本来の私なのかもしれない。
王都に来てから感情が右往左往していたがきっと、これが私だ。
脳裏に父とレンと自国の風景がちらつき、私の曖昧だった目的が確固たるものへと変わっていく。
もう余計なことは考えず、国王の取引のことだけ考えれば良い。
正騎士になるまでの過程でこれから起こる人間関係も環境も、何もかもすべて、関係ない。期待もしない。
エセルバート、彼が、この国がそういうことなら、私は彼らに心を開かず、絆されるなんて事がないように自分の目的と自分のことだけを考えればよいのだ。
そう、最初からこうすればよかった。
本来のジネボラ・ローズブレイドが、これだ。