飛び立てば
青色を薄めてのばしたような空に、ぽつぽつとある白い雲。
ギアをおもいっきりいれたペダルは重くて、でも踏みしめるたびに流れてくる風は気持ちよく頬を撫でてくる。
放課後―紅く染まった空を見上げながら、僕は…自転車をこいでいた。
小学校三年の夏。
僕の家に一台の自転車が届いた。大好きな青色がベースの配色に、プロが乗るのを縮小した様なかっこいいデザイン。今考えると毒々しいほどに派手な配色がされているが、当時の僕はそれに心を奪われていて、そしてひとつ勘違いをしていた。
家族はどこか、懐かしむような声をあげて自転車にさわり、最近のは派手だとか、今はこれぐらいが普通だとか好き好きに感想を述べる…しかし、そんな意見は僕の耳には届かない。
あーだこーだ言う家族が家に戻っていくのを見届けて、僕は来たての自転車に近づいた。
一本足で斜めに傾いた自転車。それがサイドスタンドという名前とすら知らない僕は、とりあえず外そうとした。だが、固定されているスタンドは意外に固く、おもいっきり蹴った足に痛みが走る。
「ッ!」
なんとかそれにも耐えて、僕はしつこく蹴った。蹴ること数回、土を跳ねてスタンドが上がり、今度は握っていたハンドルに手をとられる。タイヤが良いせいか、少し力を入れただけで自転車が前後に揺れて、僕の体をひっぱっていく。
それもなんとか制して、ゆっくりと家の前の車道に出た僕は、意気揚々と自転車にまたがって思いっきりペダルを踏みつけた。
その日。人生初体験の日。はじめて自転車に触って、乗った僕は……見事にこけた。
「始めから乗れるわけないでしょ」
そう言いながら消毒液をたらす母。はじめに転んですり傷ひとつ、も一度こけて切り傷ひとつ、横に倒れて打撲がひとつ…それぞれ左右のひざと右手にできていた。しかしながら、気温の高さもなんのそのといった感じでいつも通りに冷たい消毒液は僕をさらに痛めつける。それに耐えながら僕は答えた。
「…でも」
「毎日練習すれば乗れるようになるわ…よっ」
傷口に絆創膏を貼りつけて、ぐいぐいと背中を押してくる母。言いたいことは分かってる…自転車なんて、安いものじゃあない。
乗りたいから買って、と駄々をこねたのもよく覚えてる。でも、買ったら乗れるなんて誰もいってないじゃないか。
次の日。自転車に乗れる兄貴は僕を見下ろしながら、近くのコンビニへ行こうと言い出した。
まったく、優しさが足りない人間だなと思う。どうして、自分ができて他人が出来ないとなるとこうも人は得意になれるんだろう…何かを理解したように気取る僕の手を、兄貴はおもいっきり引っ張ってきた。
なんだ今度は暴力か…僕の気取りは変わらない。
すると入れていた力は急に抜けて、
「アイス買いにいこうぜ」
と、兄貴は笑顔でいった。
でも僕はその笑顔に裏があることを気付いていた。
きっと、僕が乗れない事を友達に言ってまわるんだ、絶対そうだ。そのあと、僕の友達にも言いふらすに決まってる。
僕が考え込んでいると、いつまでたっても返事をしない僕の手を、もう一回ひっぱる兄貴。もう一度、さっきの言葉を言って…付け足す。
「大好きなソーダアイスおごってやるからさ」
確かに今日は暑い。夏だから当たり前だと大人は言うが、雨の日なんて夏でも寒い。でも今日はかんかん照り。外出をさまたげる雨粒は落ちてこない。
なんで雨じゃないのかと悔やむ反面、きっとこんな日にソーダアイスを食べたらおいしいだろうと思って、僕は機転をきかせた。
「なら、兄貴が買ってきてよ」
どうだ、と心のなかでガッツポーズを決める僕。
これなら外に出ないで、ソーダアイスがこの暑さを忘れさせてくれる。きっとこのトンチに秀才の兄貴もまいっただろう。
そう思って兄貴をみると、兄貴は少しだけ残念そうな顔をみせて…今度は手を差し出して
「いっしょに行こう」
そう、真面目な声と目で言う。
まいった、僕はこの真っ直ぐと瞳を見る目が苦手でしょうがない。
まるで、全部が知られているようなこの目で見られると、自白してしまいそうになる。
僕はまだ乗れないんだ、そう告白してもいいんじゃないかと弱音をはく僕に、断固として反対する僕が現れて真実を話す愚かさを問いただす。
そうだ、ここで認めてしまうと僕の立場はどうなる?自転車さえまともに乗れない人間…冗談じゃない。
大丈夫、昨日きたばっかりなのに乗れないのは当たり前じゃないか。
だから、一応は乗れるってことにしておいて、こっそり練習して嘘を本当にしてしまえばいいんだ。
僕は解決方法をみつけて、どう兄貴に切り返そうかを考え、導く。
「ほらっ今日、暑い…からさ…外、出たくないんだ」
やばい、焦った声が出てしまった。
気付かれたかな。そうも思ったが、どうやら杞憂と済んだようで、兄貴は自転車の鍵を手にとり、玄関から出て行った。
戸締りの音、ロックの外れる音、小さくなっていく車輪のカラカラという音。
体から力がいっきにぬけ、壁にもたれ掛かって溜息をはいた。
なんでこんなことになったんだろう。そう思いながらガラスの外を見てみると、装飾過多の自転車は雄々しく空色を映している。ボディーにかがやく太陽が、責めるように眩しい光を集めて僕を焼く。
そうかこれが原因か。後の祭りを感じながら、僕は昼寝に精をだした。
それからというもの、兄貴は以前にないほど僕を外へと誘ってきた。
野球にサッカー、釣りに買い物。アウトドアと思えるものの全てといっていいほど勧誘は続き、そのたびに僕は言い訳を考えては受け流している。
まったく…と思って僕は小さく溜息をついた。
あの夏の日、たぶん人生ではじめて溜息をついた日からこの行為は僕のしぐさになってい
る。
もうあれから二年もたっているのに、兄貴は今日も外出に誘ってきた。
中学校も終盤だというこの時期に外出しようだなんてやっぱり秀才は違うよな。そんな嫌味も喉まで出たが、言ってしまうと見放されそうで、僕は口にチャックをつけて気の無い返事でごまかした。
正直、なんで察してくれないのだろう…と、そう思う。
ガラスから見える天井は、突きぬける程に高い秋空。庭にうわった金木犀からは黄色の小花が風が吹くたびに落っこちて、今ではもう乗れない程に小さい自転車のカゴやらサドルを埋めている。
前よりも小さく見えるわけは、なにも僕の成長だけじゃない。放置しっぱなしのタイヤはしなしな、まるで乾麺だ。そんなみじめな僕のの横には入学祝で我が家にきた、どこか傭兵み
たいな雰囲気をもっている銀一色の通学用自転車。後輪の上にある荷物置きの塗装は少しはげて、車輪カバーには泥水がこびり付いている。
毎日の使用で、いたるところには小さな傷。だが、自転車はまるで、それすらも誇りと言わんばかりに堂々と胸をはって、主人が来るのを今か今かと待っている。
僕は、まったく…と溜息をついて、同時に、何やってるんだろうとも思った。
せっかくの休日なのに自転車とにらめっこしてる場合じゃない。
何か、このもやもやを鎮めれるような楽しいことを考えようとしたが、浮かんでくるのは自転車のことばかり。考えが巡っていくうちにどうでもいいような事でさえ、まるで重要かの様に僕の頭を染めていく。
そういえば、いつか兄貴は言っていた。
「風をきる感じが最高に気持ちいいんだ」と。
乗れない僕にそれを言ってどうしろっていうのか。未だにわからないけど、それを言ってた兄貴の顔は嘘偽りなんてつけそうにないほど澄んだ笑顔だった。
ごくり、期待が僕の喉を通って胃をたたく。
なんだか解らないけど、今なら乗れるんじゃないかな。心の中で、なにかが僕を押してる。
今の、この気持ちなら、できるんじゃないか。確信なんて無い。だけど、そう思う。
僕は弾道弾みたいなスピードで玄関を飛び出し、まるで旧友との再会を喜ぶように相棒に近寄った。黄金の覆い袋を丁寧に払いのけて、僕はサイドスタンドを吹っ飛ぶぐらいに蹴り上げる。
一発成功、もう後は僕次第。
鍵なんて初めっから刺さったまんまだ。
僕らをとめる壁は無い。ハンドルをとってアスファルトの戦場へ相棒をエスコート。よし!これならいける。飛び乗ってすわり心地を確かめる…さすが相棒、いざ出陣。
気持ってのは重要だと思った。
これまで一回転もしなかったサドルがニ回転もした。確かに僕は、零の記録が三メートルに伸びた。そして、こけた。
くそっ、なんてこった。
せっかく乗れると思ったのに、蓋を開けたらこれだ。
まったく、やってられない。これだから自転車なんてものは…。その時、僕は冷静さなんて失ってしまっていた。
第一、空気のぬけたタイヤで走ろうだなんて、どだい無理な話。
それを、なんとか二回転まで持っていったのだから表彰モノの踏ん張りだ。けれど、僕の頭の中には、再調整して再行動なんて考えてもいなかったし、第一さっきまでの熱い想いは、もう下火になっている。
そして、転倒の音は意外と大きかったのだろう。
不運なことに、後ろを振り向くと門で兄貴がこっちを見ていた。
僕の体が、冬眠にはいるんじゃないかってぐらいに冷たくなっいくのが解る。
なんで、なんで兄貴が。
その時、一つの思いが僕の頭を支配した。
もしかしたら、兄貴にはめられたんじゃないか?
僕の頭に疑問がよぎる。
そうだ、きっとそうだ。
僕が自転車に乗れないのを知ってて、冷やかしの為に自転車を見せびらかしたりしたんだ。 そうだ、おかしいと思ったんだ。普通なら僕が自転車になんか乗ろうとするわけないじゃないか。きっとこれは兄貴が謀ったことなんだ。
半狂乱になる僕の心も知らず、兄貴は側に来て、右手を差し出して言う。
「大丈夫か?立てるか?」
僕はなんだか、その手にむしょうに腹が立っていた。なんだこれ、見下してるのか?とも
思ってしまう。それと同時に、この手に助けられたら負ける、とも思った。
薄っぺらい意地を消費して、なんとか起き上がり、手を無視して僕は自転車を押して家に向かおうとする。その時、兄貴は実に不思議そうに僕に聞いた。
「練習は続けないのか?」
僕はそれにカチンときて、思わず声を荒げ
「いいんだよ!自転車なんて使わなくったって社会に出れば自動車があるんだから!」
と、叫んだ。
一瞬、自転車に乗れない…そう言いそうになった自分を抑えるのが精一杯で、僕は自分の
言ったことなんて特に考えてもいなかった。ただ、兄貴の発言の全てが「乗れる奴」側か
らの意見としか思えなくて、どんなことにも噛み付いてやろうと決意し、僕は兄貴を睨みつ
ける。
けれど、今日の兄貴はいつもと違っていた。
僕の煮えたぎる瞳に臆することなく、その目に僕の怒りを映す。兄貴は、至極冷淡に
「逃げるな」
と、言ってきた。
まったく、呆れてものも言えない。僕が何から逃げてるって言うのか。それに、僕は気付いていた。
兄貴の体が小さく震えていることに。
僕がそれを指摘しようとすると、それを遮り、兄貴は続けた。
「もしかして、いきなり乗れるとでも思ったか?」
なんだ。なんだってんだ。
兄貴の変貌ぶりに僕はすこし戸惑った。
今日の兄貴はどうしたっていうのか、さては学校での憂さ晴らしを僕にぶつけようって言うのか。そうだ、きっとそうだ。
さっきと比べて、震えが増している。まったく小さい男だ。
でも、言われっぱなしは性にあわない。ここはガツンと出鼻を挫いて、兄貴の勢いを殺そう。
「…そ…そんなわけない。っていうか、今日は…調子が悪いから、乗れないだけ…」
どうしたことか、声が全く出ない。季節の変わり目だからだろうか。
すると兄貴は笑い
「自転車に乗れる人は、体調が悪くてもバランスを崩したりはしないんだよ」
と、余裕をかまして言ってきた。
なんなんだオマエはっ!さっきから震えっぱなしのくせに、口ばっかりじゃないか。「い
いかげんにしろ」そう言いかけた時、兄貴はまたも僕を遮って
「乗りたいって素直に言えば、手伝ってやる」
と、さっきまでの顔を棄て、笑顔で言い残して物置の方へと歩いていった。
まったく、さっきから僕の反論を邪魔しまくって…そんなに指摘されるのが怖いのか。
だが、おかしなことに、震えていた兄貴がいなくなると今度は周りが震えているような気
がする。
理解したとき、僕の手はじっとり汗ばんでいた。
午後・五時。
見上げた校舎は淡い赤に染められながらも、地に根付き、流れをせき止める堤防みたいに来る日も来る日も生徒を受け止めて、そして押し出していく。
すこしぼーっとしていると最後のチャイムが今日もなった。
あぁ、下校か…駐輪場へ赴き、見渡す。
そこには一面すべてが銀の自転車の中で、もっとも年季のはいった相棒。前カゴに鞄を入れて、鍵を差し込みロックを外す。サイドスタンドを足で解除し、ハンドルを握って操る。
ゴムの手にひっつく感触が、昔の、残暑だった秋の特訓を思いださせた。
雨対策の戸板をくぐり、出てみると夕日が差し込んでくる。今日も晴れ、たぶんだけど明日も晴れる。僕は、すこしばかりある雲が機嫌を損ねないことを祈りながら、サドルに体をあずけて、ペダルをゆっくりと踏み込む。
臆することなんて何もない。
右足がでて、左足がでる。
それだけでタイヤは回り、僕は進む。
追い風がつよく吹く。足に力をこめてギアを一気に重くした。
はやく、はやくなっていく僕。そのぶんだけ向かい風は強くなるけど、そんなものは気にならない。
今なら世界だって回れる気がした。
(完)
いやー、なんかもうアレですね。脱力ですね。
水のないヒヤシンス、使い終わりのジェット風船。そんな感じです。
でも、まぁ楽しかった。やっぱ楽しいですわ、書くことが。