組手
長らくお待たせしてしまい、申し訳ありません。
2017,10,4 改行、多少の加筆修正を加えました。
池袋の街を、バイクを運転している男に、女性二人を乗せた三人の姿があった。若くとも大人とも言える体の大きさが三人、ぎゅうぎゅう詰めで狭そうな印象を与える。たまたまその姿を目にした通行人からすれば、女を二人も侍らせているように見えるので、嫉妬と羨望の入り交じった視線を運転手へ向け、その人物を見た瞬間には青ざめて視線をそらしていく。
そんな視線は凍てついた眼差しで、殺意すら滲ませて強制的に黙らせつつ、それでも事故しないよう運転をしている薫だが、その意識は背後に向けられている。
――尾けられている。
尾行に気付いたのはバイクを発進してすぐ。怪しい軽自動車があることに気付いた。中の様子はよくわからないが、なんとか運転手の姿は見えた。
西洋の顔立ちに口の端に傷のある男だった。その男のこちらを見る目は明らかにその筋の人間だとわかる。
――マフィアか……? それとも、軍人か?
薫の背後では二人の女性が楽しそうに談笑している。バイクに乗っているため、大声を出さなければ聞こえないが、まだ若い二人には問題ないだろう。しかし、二人とも尾行に気付いた様子はない。
――武器はガバメント一丁だけ。
弾倉は五つ持ってきてるが、全て収納スペースの中。走行中に使えるのは弾倉ひとつ。つまり、シングルカラムの七発しか使えない。
それに対し、相手の様子からこちらへの警戒心はありありと見える。
念の為に、乗っている車が防弾車の可能性も含めなければならない。
――試すだけ試すか……。
薫はポケットに手を伸ばしてガバメントを手に取る。
「レイラ! ここからは荒っぽい運転になる。後ろの奴と一緒にしっかり掴まってろ!」
大声を出して背後のレイラに忠告を飛ばす。
ガバメントには今は消音器はつけていない。一発撃てば、誰かが音を聞きつけて騒ぎになるかもしれない。下手をすれば、警察も出てくるだろう。それも致し方ない。
薫はセイフティを外し、口でスライドを引いて弾薬を装填する。ダブルアクションに改造しているため、撃鉄を起こす必要はない。
それを見て、レイラは双眸を鋭くし、篠原がレイラに必死にしがみつく。体に回された腕に触れ、離れないようにしっかりと掴んでやっている。そして、空いた右手で薫にしがみついてくる。
二人の準備が完了したと同時。薫はすぐさまアクセルターンで左足を軸にバイクの向きを一回転させ、回転の途中でガバメントの照準を運転席の男の眉間に向ける。
発砲。
乾いた音が響き、銃口が火を噴く。
篠原が発砲音と急なターンに驚いたのか、きゃあ、と悲鳴を漏らした。
だが、薫はそこで止まることなく微調整を加えて――
二発目。
一発目は何の狂いもなく男の眉間の位置。しかし、予想通り防弾車の様で、小さく蜘蛛の巣状の傷がついただけだった。そして、二発目はその傷の部分に――先ほどと全く同じ場所に命中した。だが、ガラスの亀裂がほんの少し広がっただけで、特にそれ以上の被害はない。
――やはりか。
そこで回転から戻り、アクセルを目一杯回す。けたたましいエンジン音を響かせ、とにかくその場から離れようと速度を上げていく。
ガラスは防弾、おそらくタイヤもそうだろう。今の持ち合わせている武器では破るには心細い。
それに対して、薫のバイクは防弾加工をしていない。そこを狙われると足がなくなり、絶好の的だ。何よりもこちらは二輪。搭乗者は外気にさらされており、直接狙われる可能性も高い。
レイラは薫が車に向かって発砲したのを見て意図がわかった様だ。日本だからと思って軽く見ていても、こういうことは稀にある。
特に薫といる時は。
カーブミラーの横を通る時、尾行している車を横目でチラと確認すると、窓が開き――銃口がこちらを向いているのが見えた。
――不味い!
「クソッ!」
咄嗟に毒づき、近くにあった裏道に入り込む。
直後、男の持っている銃が火を噴いた。
先ほどまで薫たちがいた虚空を弾丸が通り過ぎ、計三発の発砲音に人々がざわめき出し、道行く車が驚いて急停止する。
一番後ろにいた篠原は、銃の音に萎縮してしまい、ひしっ、とレイラにしがみついている。震えるその手をレイラが手を乗せて落ち着かせる。
――クソッ!
薫は咄嗟の判断でその裏道に入ったのだが、その裏道は入ってきた場所にしか出口がないのだ。あの男がこの周辺の地理を頭に叩き込んでいるならば、完全に追い込まれた形になる。
――考えろ。落ち着いて、考えろ……!
このままUターンして戻っても、鉢合わせた時に切り抜けられるかは運だ。
いつも通り一人で乗っていれば、切り抜けることが出来るのだが、現在はバイクには三人が乗っている。スピードも落ちてしまい、相手がプロならそこを撃たれる。
ここで待ち伏せして交戦する手もあるが、それでは二人の女に流れ弾が被弾するかもしれない。
――弾薬は残り五発。弾倉はケツの下……!
折角持ってきた弾倉が無駄になってしまった。
薫はそこでバイクを止め、Uターンさせる。が、バイクを動かすこともなく、色眼鏡を外してバイクから降りた。
「薫?」
萎縮してしまっているアイドルを元気付けていたレイラが疑問の混じった声で名前を呼んでくる。
「バイクの運転は出来るか?」
「出来るけど……囮になる気?」
どうやら薫がいなくなってからの六年の月日は無駄ではなかった様だ。相手の考えを見定める程度の観察力はついた様だ。
共に育った身としては、その成長にはとても喜ばしく感じる。
「そうだ。奴が来ていれば、俺は奴と交戦に入る。その隙を見て、隣を駆け抜けろ」
「いなかった場合は?」
「俺が運転に戻る。合流地点は――」
その直後、薫とレイラの雰囲気が変わった。
隻眼と青い双眸が大きく見開かれ、弾かれたように上を向いた。堅気である篠原はその真意がわからない様だったが、二人には感じられたのだ。
その身に向けられた殺気を。
二人の視線の先、ひとつの人影が降り注いできた。暗くて顔がよくわからないが、体格や雰囲気から先ほどの男だと判断する。
「ッ!」
即座に一発発砲。排莢口から金色の空薬莢が吐き出される。
横っ飛びをしてその場から離れる。レイラもすぐにアクセルを回してバイクを発進させる。入ってきた路地の入り口でキキッと止めた。
男は銃弾をコンバットナイフで弾道を逸らし、全身のバネを使って衝撃を吸収して、ダンッ、と地面に降り立った。
がっしりと鍛えられて膨張した筋肉が浮き彫りになっている。身長も高く、薫よりも頭ひとつ分高い。無地の黒シャツに、迷彩柄のカーゴパンツ。
薫は男に銃口を向け、冷徹な眼光で見据える。
男はゆっくりと立ち上がり、こちらを睨む目は敵を狩る目だ。
男に隙と言えるものはない。鋭利な刃物のような鋭い殺気が男の身に纏われている。
「USBメモリを渡してもらおう。そうすれば、命は助けてやる」
男は向けられた銃口に怯えることなく、英語で警告を発してくる。この単語のひとつひとつが繋がってしまっているかのような聞き取りにくい訛り方はニューヨーク訛りだ。
だが、薫はUSBメモリなど持っていない。心当たりはあるが、それでも確証まではない。十中八九、それしかないが。
敵の獲物はコンバットナイフに、ベレッタM92FS。対するこちらはガバメント一丁に、弾丸が四発。なかなか厳しい戦闘になるだろう。
薫は落ち着いた態度で慣れ親しんだ訛った英語で言葉を返す。
「USB? 何のことだ」
「その女が持っているはずだ。ジャーナリストが探った米軍の裏情報。それを我々は探している」
「お前、合衆国の兵士か?」
「違う。貴様に答える必要もない」
──答えてんじゃねぇか。
男は淡々と言葉を発する。
どうやら、予想通り篠原がUSBを持っているのだ。それが原因で追われていることも。
だが、それがわかったからなんだというわけでもない。それで篠原が追われているのだとすれば、面倒であっても助けるだけだ。
そんなことをする資格があるかは薫自身にもわからない。だが、妹の好きなアイドルなら、薫にとって助ける理由としては十分だった。
――『女を愛し、女を助けよ』
煜が薫にした熱弁で、一番印象的だった言葉だ。
孤独である薫は誰かを愛することはない。おそらく、そんな感情もかなり乏しいだろう。それでも、誰かを救うことは出来る。
薫は力を持っている。普通の人間が持つはずのない力を持っている。それを、いつも自分の怒りに任せて相手を傷つけてきた。
だが、怒り以外にも、何かを救うためにその拳を振るうこともある。
それを知る者は殆どいないが、それでいい。世間が知る『魔王』は、暴力的で無慈悲な悪魔でいい。
自分がわかっていれば、それでいいのだ。
――『女を守るのは男の義務だ』
薫の師であり、育ての親の言葉だ。
その人物は人を大事にする人だった。戦争を起こし、大人数の命を奪った薫を実の息子として育ててくれ、更にはレイラも実の娘として育てた。更に、もう一人も……。
目の前の男はおそらく傭兵。それも、軍人崩れだ。それなりの訓練を受けてきた事は佇まいからわかる。男の発する空気感から、数多の戦場を踏破しているのも容易に理解できる。
「薫、合流地点は?」
背後から、レイラから確認の声がかけられる。
彼女は薫の家は知らない。だとすれば、池袋駅ぐらいしかない。日本に来たばかりで土地勘のないレイラでも、池袋駅ぐらいならわかるだろう。ここに来るまでの道にも見かけた。
「池袋駅で待て」
そちらを見ずに、英語ではなくオランダ語で告げる。薫が目の前の男を逃した時のための保険を取っておいたのだ。
それをわかってか、レイラはこくりと頷き、バイクを発進させた。路地から出て、来た道を戻っていく。
昔、彼女がオランダ語を必死に学んでいた事を覚えていたため咄嗟に口にしたが、無事に伝わってよかった。
――これで、もしもの時のための事は出来た。
ないとは思うが、この男はプロだ。そういう相手ほど、死に際の一矢はなかなかに強力だ。
「そこをどけ。あの女を追わなくてはならない」
「その前に、ひとつ聞かせてくれよ」
薫は底冷えのするような冷たい微笑を浮かべて男を睨む。その姿に男は思わず身構えた。男を見る眼差しが、色を失い、感情がごっそりと抜け落ちたような虚無となり、本能的な恐怖がその体を襲った。そんな男の様子を軽く無視して、一人の名を告げた。
「お前、元軍人だな? お前は否定していたが、おそらくアメリカの。だったら、『ウィリアム・A・ブラウン』って男の名を知ってるか?」
JR池袋駅。
レイラはバイクを池袋駅に止めて、怯えた篠原を必死に元気付けていた。彼女にとっては慣れない出来事だ。トラウマになってもおかしくはないだろう。レイラにもそんな経験があるため、気持ちは痛いほどわかる。
すると、篠原がおどおどとしながら口を開いた。
「あの……あの人は――」
「怖い?」
「えっ……?」
篠原はレイラの言葉に目を丸くする。
薫は世間では『魔王』と呼ばれ、世界中でその名が知れ渡っている。どれも恐怖の対象として。その為に、彼はアメリカで名前を変えたのだから。変えたと言うよりは、与えられたの方が正しいが。
そして、恐れられているのは日本でも同じだ。
薫を探して写真を見せても逃げられるだけ。レイラのように、彼を信頼している人間は、人々から異端者と呼ばれることだろう。
篠原は、寿司屋で初めに出会った時は震えていた。
薫が戦っていた組織の人間に攫われた――攫われている途中に結果的に助けられた――経緯を寿司屋で聞いた。
そして、薫が戻ると身体の震えが少し増した。薫は気づいていないようだったが、彼女は明らかに薫に怯えていたのだ。
「……は、はい」
「やっぱり、十年前の事?」
レイラの問いに、篠原はこくりと頷いた。
――『人類存続戦争の悪魔』かぁ。私も昔は怖がってたなぁ……。
レイラは懐かしい過去の記憶を思い起こす。が、今はそんな事は関係ないと、その考えを頭の隅に押しやる。
「じゃあさ、薫は何で一人で残ったかわかる?」
「……」
篠原は首を横に振る。だが、表情を見ればわかる。本当は気付いている。何故、囮になったのかを。
篠原は薫と襲撃者の会話はわかっていない。だが、それでも殺伐とした雰囲気だけはわかっただろう。
「薫はね、あなたがUSBメモリを持っていて襲われてると知ったの。それで、出会ったばかりのあなたの安全の為に逃がした。彼は疑り深いから、久しぶりに会ったばかりの私の実力はまだわかっていないと思う。それでも、私を付けた」
レイラの言葉に知らずのうちに熱がこもっていく。
「少なくとも、人一人守れなくてどうする、って師匠の教えと同じようなことなんだろうけど……それでも、少なくともあなたの為に彼はあの場に残った」
「……っ!」
「ふふ、意外? 予想と全然違う? 彼とは接してみないとわからないよ。本当は優しいところも多いんだから」
レイラは笑いかける。
薫は他人には冷たく、無口な為、そのような誤解があるのは仕方がない。だが、よく知らないくせに薫のことを悪く言う人がレイラは嫌いだった。そんな人物は、自分で殺したくなってくるほどに。
そんな自分の思いは払いのけ、すぐに先ほどの男について考える。
――薫が戦ってたあの男。多分、軍人崩れ……。
そして、思考を巡らす。
こちらはまだ敵の数、繋がり、武器など様々なことがわかりきっていない。それは向こうも同じ条件だろうが、おそらく一人ということはないだろう。
――敵の狙いはUSBメモリ。それさえどうにか出来れば良いんだけど……。
そもそも、USBメモリの中身はレイラは知らない。現在持っている彼女自身も中身はわからないらしい。
どうしたものかと考えていると、突如嗅ぎ慣れた臭いが鼻を突いた。
周囲に視線を向けてみると、屈強な体格の男たちがレイラと篠原を囲んでいる。全て西洋風の顔つきだ。
「……追手か」
おそらく、尾行されていたのだろう。そのまま動きがないことを確認し、接触してきたのだ。
この可能性は考えてはいなかったわけではない。ないことを願ってはいたが。
レイラの呟きを聞き、篠原が視線を周囲に巡らせる。そして、近づいてくる人物達を見て、身を小さくさせた。
「USBメモリを渡してもらおう」
一人の男が英語で告げる。こちらも母国語のため、日本語などのように色々と考える必要はない。
「嫌って言ったら?」
レイラの挑発気味の言葉に、こちらを囲んでいる男たちは、ハハハ、と笑い出した。
明らかにこちらを舐めている。ただそれだけで無性に腹が立つ。
――女だと思って調子に乗ってると、痛い目を見るよ……!
内心でそう毒づきながら烈火の如き眼光を輝かせる。同時に、呼吸を眠るようにゆっくりと行う。
強張った体をほんの少しの所作でほぐし、目の前の男に狙いを定めた。
「止めたほうが良い。君じゃ我々には勝てない――グゥッ!?」
直後、男が腹部を押さえてその場に倒れた。
その様子を見て、周りを歩いていた人々がギョッとした様子で我先にと距離を開け始めた。その方が、動きやすくてありがたい。
「貴様!」
相手の数は計八人。
そのうち一人はで左脇腹に研ぎ澄まされた突きを受けて戦闘不能。残り七人。
そして、それを見た男の一人が体当たりを仕掛けてくる。
レイラはそれを見て鼻で笑った。
「軍人崩れがそれで良いの?」
体当たりしてくる男を身軽な動きで躱し、すれ違い様に脇腹、右肩、左胸に次々と手を打ち付ける。すると、男がそのまま倒れ悶絶していた。
側から見たら、手で触れただけにしか見えなかっただろう。だが、これがレイラの使う暗殺術の真骨頂なのだ。
人間の体の脆い部分を叩き、意図的に狙った部分の骨、もしくは内蔵にダメージを与えるものだ。それを行うにはコツが必要だが、単純に拳での殴打や蹴り技でインファイトをすることも可能だ。
実際は剣術もあるのだが、それはその暗殺術の体術を組み込んで戦うもの。それも、そのほとんどの攻撃が居合のために、尚更体術の技術も必要とした。
レイラと薫が扱う暗殺術は、元は日本のとある武道がベースになっており、育ての母親から――薫と同じように――徹底的に仕込まれた。薫は日本の武道以外にも色々混ざってる、と昔教えてくれたことがあったが、それが何なのかはレイラにはわからない。
その暗殺術に段位などはないが、母親は段位をつけるとすれば、レイラは八段の実力があると言ってくれている。
そして、裏稼業、裏社会を生きる者ならレイラの事を知らない者はまずいないだろう。実は、かなり有名人になってしまっているのだ。
レイラの能力から呼ばれた名が『青雷の舞姫』。
もしかすると、薫もその名前は知っているかもしれない。今はどうかは知らないが、以前の薫は裏の情報などは欠かさずに調べていた。
レイラは倒れた二人の男達を睥睨し、他の男達に意識を向ける。
男達は少し警戒心を高め、それぞれ頷き合うと攻撃を繰り出してくる。
その数々の攻撃の全てを捌くのは難しいが、出来なくはない。
だが、その中でもレイラは思考を巡らせていた。躱し、捌き、いなしながらダメージを与える術を考える。
その時、師匠であり――育ての母親でもある人物の言葉が浮かんできた。
――『レイラ、対多人数の戦い方は、瞬間的な反射能力と、柔軟な思考を必要とする』
教わった当時は何の事かわからなかった。
だが、今ならわかる。
レイラは手近な男の蹴りをすくい受け、相手の勢いを利用してその身体を宙に浮かせる。
その時、その男の身体が遮蔽物になり、敵の攻撃の手が止んだ。
「ハァァァアアァァッ!」
レイラは地面を強く踏みしめ、雄叫びと共に撃ち込まれた掌打はあばらを砕き、その身体を容易く吹き飛ばした。
そこで動作が止まることなく次へと意識を向ける。
「この女ぁッ!」
男が雄叫びを上げた。すぐにその男に向き直るが、その時にはその男が静かになっていた。
見ると、その鳩尾に肘鉄が叩き込まれている。そして、先ほど別れた男の姿も。
「――寝てろ」
薫だ。
いつの間にこちらに来ていたのかはわからないが、隙をついた重い一撃。それで屈強な兵士を戦闘不能にしたのだ。
男達は突如現れた闖入者に騒然となり、それでもすぐに落ち着いて薫も一緒に取り囲んだ。
薫は立ち上がると、周囲を睥睨してからレイラの肩に手を置く。その手がたくましく、がっしりとしていて、どれだけ鍛えられているかがわかる。
「よくやった。後は任せろ。お前らはすぐに出る準備を」
「わかった」
薫の指示に従い、フルフェイスヘルメットを被り、切っていたエンジンをかける。
薫は今一度周囲を取り囲む男達を一瞥し、一番手近にいた男に向かって間合いを詰めた。
そこからは一瞬だった。
薫は狙いをつけた男に突きを放ち、男はそれを何とか受けていく。
男も負けじと突きや蹴りを繰り出すが、薫はそれを右へ左へと捌き、左腕を取った。
その直後、薫が至近距離で人中に軽い突きを放つ。
思わず男が呻き、少し意識を削がれた瞬間、左手を取ったまま男に背を向け、一本背負い。そして、倒れた男の鳩尾に体重を乗せた下段突きを突き込む。
小さく呻き声を漏らし、痛みに悶える男の足を引っ掴み、向かってくる男二人に向かって放り投げた。
その男達は突然仲間が投げ飛ばされてきた事に驚き、そのまま倒される。
そして、その二人の顔面を蹴り飛ばし、強制的に意識を飛ばした。
投げ飛ばされた男は何とか立ち上がろうとして、薫に後頭部に無慈悲に踵を振り下ろされその意識を闇の中に手放した。
そのまま息を吐く暇もなく地面を蹴り、呆然としている男の鳩尾に肘鉄を叩き込み、蹲った顎に裏拳で横合いに殴りつけ脳を揺らした。
男は脳震盪に襲われ、そのまま意識が深い闇に落ちていく。
「この、日本人がッ!」
残り一人となり、男はコンバットナイフを取り出し袈裟懸けにする。それは明らかにナイフでの白兵戦においてしてはならないことだ。男自身、その行動を取った瞬間に僅かに平静を取り戻したらしく、しまった、と表情を強ばらせるのがわかった。
だが、それ以前にもう勝負は見えていた。
薫は攻撃をすくい受けると、腹部に回し蹴り。
「ゴフッ!」
そのあまりの威力に男は咳き込み、痛みによって体をくの字に曲げた。
薫は蹴った足を右足の付け根にかけ、そこを足場にして乗り上がり、後頭部に強烈な蹴りを叩き込んだ。
男の身体はその一撃により崩れ落ち、蹴りの勢いをそのままに額を地面に叩きつけられた。
薫は蹴り抜いた足でうまく着地しており、ゆっくりとした隙のない所作で立ち上がる。
そして一度足下で倒れた男を見下ろし、
「日系アメリカ人だ。間抜け野郎」
まさに疾風迅雷。殺しのプロである傭兵が形無しだ。
――流石だよね。
何人もいた傭兵達を撃退した当の本人は、ふぅ、と小さく息を吐くと、バイクに駆け寄ってきた。
「行くぞ。すぐにでも警察が来るだろう」
言うと、色眼鏡をかけ直しハンドルを回した。
薫の家は、周囲の家よりも大きい。更に、有している敷地も広い。庭の裏にある扉から出た場所にある山も、薫の敷地だ。
その家に薫以外の二人が足を踏み入れている。
こんなことは滅多にない。いつも家に来るのは氣櫻組の部下か幹部辺り、それに人外と四天王だけ。
客が来ること自体稀有なことなのだ。
薫の家に足を踏み入れたレイラが感慨深そうにその家を眺めている。篠原もおずおずといった様子でその後をついてくる。
家を開け、二人を中に招き入れる。
部下に頼んだ通り、玄関にレイラのキャリーバックが置かれ、一先ず安心する。
「ほら、入れ」
「お邪魔しまーす」
「お、お邪魔……します」
レイラは物珍しそうに家の中をジロジロと見ている。
特におかしいものはないはずなので、薫は泰然とした態度で二人の様子を静観する。
そして、レイラの視線がある一点に止まった。
例の写真だ。
昔の薫とレイラ、そして師匠の三人が写った写真。孤独である薫が心の支えにしている写真だった。
そして、それはレイラにも同じこと。その写真を見て表情を和らげている。
「本当に、薫も持ってたんだね」
「あぁ、俺が残している唯一の写真だ」
それは二人の心が繋がった瞬間でもあった。
二人にしかわからない記憶、心情、苦しみ。互いに共有してきたものが、一気にフラッシュバックした。
薫はコンバットブーツを脱ぎ、家に上がる。そのままリビングに入っていった。電気をつけ、ひとまずレイラの荷物をソファの側に置く。
「少し散らかってるが、まぁゆっくりしてくれ」
そう言って、二人をリビングに通した。
普段客が来ることもないので、あまり掃除もしておらず、ダンベルや本などが散らばっている。
中に入った二人は、やはり玄関と同じ様子で周囲を見回す。
レイラであっても初めて訪れた場所には警戒の念があるのか、ソワソワとしている。
と思ったのも束の間――
「この部屋は何?」
と隣の和室の部屋を開ける。そのまま家の中を駆け抜けていった。廊下を走る音が聞こえ、洗面所のドアが開けられる音が聞こえ、風呂場のドアが開かれる音が聞こえた。
「お風呂大きいね! ホテルよりも大きいよ!」
英語の興奮した声音が聞こえてくる。
どうやら、薫の思い過ごしのようだ。ただ見慣れない場所に興奮していただけらしい。
――俺の関心を返せ。
ふと、篠原がしゃがんだかと思うと、地面に転がっていたダンベルを両手で掴み、思い切り引っ張る。
だが、一ミリも浮くことがなく、虚しい呻き声が漏れるだけだった。
「ふ〜〜〜〜んッ!!」
顔を真っ赤にして持ち上げようと頑張っているが、それでも浮かない。
なぜ、これほど頑張るのだろうか。持てないのならすぐに諦めればいいものを。
そもそも、持てるはずがないのだ。何故なら、そのダンベルは――
「ん? 何やってるの? ダンベル?」
レイラが戻ってくると、必死に持ち上げようとしている篠原に声をかける。
篠原はぜぇぜぇと息を乱しており、汗を浮かんでいる。
「力をつけるために、つ……強く、なろうと……はぁ、はぁ……持ち上がらないんです」
何処か言葉足らずな返答を返した篠原は、もう一度勢いよく引っ張った。が、何も起こらない。
「ふーん、貸してみて?」
そう言って、レイラがそのダンベルを手に取ると、ふっ、と呼気を漏らしながらダンベルを持ち上げた。
「ほぉ」
「嘘……っ!? 全然、上がらなかった……のに……!」
薫もこの事には驚いた。
このダンベルはとても女が片手で持てるような重さではないのだ。だが、鍛えていなければ――先ほどの篠原よろしく全く動かない。
レイラは何事もないようにダンベルを持ったまま腕を動かし、少し考える素振りを見せた。
「んー、四十キロ?」
「いや、五十キロだ」
薫の返答にレイラが納得した様子で頷く。「圭子ちゃんが持てないわけね……」と言葉を漏らしたが、そもそも薫にはレイラが持ち上げられることに僅かながらに驚愕がある。
市販の物では薫には準備運動にもならない。
その為、千尋に特注品を作るように頼んだのだ。それ以来、この特注のダンベルを使って鍛えている。
「さて、それじゃあ聞きたいことがある」
それを聞くと、レイラが持っていたダンベルを置き、全く同じタイミングで二人は篠原に視線を向けた。
「――と、いきたいところだが……その前に」
薫は視線をレイラに戻し、微笑を浮かべる。
今の薫には確かめたいことがある。指をパキリと鳴らし、太々しい笑みへと表情を変える。
時刻は既に夜の九時半。窓から差し込む月がカーテンの隙間から顔を覗かせる。綺麗な満月だ。
レイラは不思議そうにこちらに視線を向けた。そして、薫の表情から内容を読み取ったのか、待ってましたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべた。
「久しぶりに、組手でもするか」
薫は先導して階段に向かう。だが、登ることはなく隣の空きスペースに足を踏み入れると、壁に手をかざした。
すると、僅かな振動と共に壁が沈み、ひとつの空間が姿を現した。
そこには階段があり、どうやら地下室に繋がっていることがわかる。だが、先は見えずに深い闇がその空間を支配しており、そこに足を踏み入れれば、もう戻ってこれなくなるような印象を与える。
薫は臆することなくその階段を下る。もともと自分の家だ。臆することなど何もない。
壁は重厚な作りだが、衝撃を吸収する素材に、防音設備を兼ね備えた空間になっている。
建物一個分の高さを下ると、奥にひとつの扉が姿を現した。まるで、地獄への入り口のような重々しい扉だ。
薫はその扉に手を当て、ゆっくりと押した。
ギィッと錆びた音を鳴らしながら扉が開かれる。だが、どこにも錆など浮かんでいないのだ。
これは、薫の魔術によるものだ。誰かが入って来たことをわかるようにするためである。
開け放たれた扉を抜けると、かなり広い空間が広がっていた。衝撃吸収用の素材で作られた壁で囲まれ、奥にはひとつの機械がポツンと寂しく置かれている。その室内の四隅には小さなボックスが置かれており、どこかが物寂しげな雰囲気がある。
「ここは?」
ようやくレイラが口を開いた。どうやらワクワクしているようで、先ほどからソワソワと落ち着きがない。
「俺のこっちの修行スペースだ。ここなら気軽に暴れられる」
薫は部屋の中央に立った。
ゆっくりと深呼吸をして、意識を高めると――レイラに向き直り、好戦的な笑みを浮かべた。
「武器の使用は?」
「あり」
レイラの質問に即答する。
「人体の急所を狙うのは?」
「構わねぇよ。昔俺が兄貴とやってたアレだ。俺とお前がやってた組手のキツイ版と思え」
「わかった」
レイラはそう言うと、どこから取り出したのか腰に一本の日本刀を差した。
――転送系の魔術か。
レイラに魔術を教えたのは薫だが、それでも転送魔術は中々の技術を必要とする。分類上、第四位階の魔術である。
そもそも転送魔術は、唯一詠唱を必要としない――実力をつければどの魔術も基本的に詠唱は必要ではない――が奥が深く、その術式によって転送出来る大きさが違うのだ。
薫はまだ妖刀を出さない。泰然とレイラの動きを注視する。
レイラはドアの前で立っている篠原にチラリと視線を向け、危険だから壁際にいて、と目で合図する。
そして、ゆっくりと近づいてくる。
レイラが一歩、また一歩と近づいてくるにつれ、昔のことが思い出される。
共に仕事に出た事、共に笑った事、共に食事をとった事、共に汗を流した事、その全てが今では良い思い出だ。
レイラは薫と二メートルほどの距離に立つと、肩幅の広さで足を前後に開き、左手を開手に手の平をこちらに見せ、右手を軽く握って腰に添える。
――飛雪暗殺術、基本構えか。
実に懐かしい構えだ。
飛雪暗殺術は薫も使っていた暗殺術であり、現在も稀に使う。相手の弱点を即座に突き、相手に確実な死を与える暗殺術だ。
育ての母親の我流暗殺術で、合気道をベースにサバット、太極拳、グラヴ・マガの混ぜ込みだ。本人は自覚が全くなかったが……。
薫の知る限り、現在この暗殺術を使う人物は世界で三人だけだ。
対する薫も肩幅の感覚で足を前後に開き、後ろ足の膝骨がつま先と直角になるまで曲げ、前足は上足底を少し地につけ、曲げる。そして、体重を後ろ足にかけた。
テコンドーの構え、ティッパル・ソギ。
これは攻撃にも防御にも使える構えで、その中でも防御に用いられる事が多い。
先ほどまでとは打って変わったレイラの様子に――冗談抜きに、薫が気圧されそうになる。
裏社会ではその実力に恐れられ、そして世間では恐怖の化身として知られる筈の薫がだ。
目つきが鋭くなり、烈火の如く灼熱の闘志を込めた眼光が薫を射抜く。
それに対し、表情は笑って見せてはいるが、冷徹で、氷のように冷たい眼光がレイラを射抜く。そこに感情などはなく、ただ目の前に立つ標的を倒すという目的のみしか存在していない。
戦場を歩いてきた回数は、圧倒的に薫の方が多いだろう。だが、その分一回、一回の仕事の度に薫よりも多くの事を吸収してきたのだろう。
そうでなくては、たった六年の月日で薫と同程度の威圧が発せられるわけがない。
そして、レイラが一気に跳躍した。
風を切って唸る拳が薫に迫る。だが、薫はそれを片腕で受け止める。
「!」
薫の回し蹴りを咄嗟に気付いたレイラがバク宙で後方へととんぼを切り、躱す。だが、それを追いかける事なく次の動きに集中する。
――先ずは、いつも通り受けに回る。
正直、飛雪暗殺術相手に後手は分が悪い。相手のペースに乗せられると一気に勝負を決められるのだ。
だからと言って、飛雪暗殺術には先手を取られた時の対処法もある。それがうまく決まれば、相手にはとても苦しいものとなる。
だが、薫はレイラと同じく母親から徹底的に飛雪暗殺術の極意を叩き込まれたため、弱点も、何もかもを理解している。
レイラは薫の様子を探り、重心を下げる。
――動く様子はなし、か。
これ以上はお互い動こうとしない。
こちらの動向を探る視線は、とても鋭い。数々の死地を踏破しなければ出来ない目だ。
知らずのうちに、笑み酷薄さが含まれる。だが、内心ではとても誇らしい。
――ここまで強くなってるとは……もしもの時のために、俺を殺せる者が現れたな。
薫は指をパキリ、と鳴らすと一気に地面を蹴る。
――――ダンッッッ!!!――――
と地面を踏み鳴らして距離を詰め、強かな蹴りを繰り出す。
「疾っ!?」
レイラはそれに驚きながらも、目を離さない。右足を軸にその場で一回転。上体を低くして蹴りを潜り抜け、振り向き様に硬く握りしめた正拳を撃ち込んできた。
「桜衝!!」
ドンッ、というインパクト音と薫の身体が宙を舞うのはほぼ同時だった。
口からは大量の血塊が吐き出され、その威力に驚きを隠せない。
――こいつは予想以上だ。
薫は宙で身を翻し、軽々と地面に着地した。だが、肋骨が一本折れているのがわかる。身体の内側に響く痛みと、込み上げてくる気持ちの悪いものが薫の気分を害する。
そんな中でも口元の血を拭い、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる。
その時、ふと頭に直接声が響いた。その声はレイラのものでも、篠原のものでも、はたまた薫のものでもない。この場にいて、この場にいない存在の声だった。
透き通るような女の声は、相手を魅了し、虜にする声音だ。聞く者を自然と落ち着かせ、その声に耳を傾けさせる。
――なかなか、面白そうねぇ。懐かしい子もいるみたいだし……私を出しなさいよ――
声の主はとても好戦的な存在だ。その分、かなりの力を持ち合わせている。真っ向から戦えば薫に勝ち目はない。
戦うことがあればの話だが。
「お前が出れば殺すだろう。それに、お前は出さないと心に決めてある。いつか、俺にとっての強大な敵が現れることを願うんだな」
薫は小声でそう返す。声の主のつまらないといった感情が感じられる。
が、今の薫にはその力が強大すぎるために使いこなすことが出来ないのだ。そんな危険なものを出せという方がおかしい話だ。
「やはり、後手必敗だな。テコンドーじゃ分が悪い」
薫は小さく息を吐くと、構えを変える。
顔に冷たい微笑を浮かべながら肘を九〇度に曲げ、脚を前後に大きく広げ、腰を落とした。
一切の隙のない、中国拳法――花拳の構えを取った。
レイラは腰を落とし、一気に薫の懐に入り込んできた。肌色の雨霰が薫を襲う。
神速の手刀が薫の肌を掠め、小さい傷をどんどん増やしていく。だが、それ以上のものはひとつもつかない。
――かなり腕を上げてるな……本気でやるしかねぇか。
薫の隻眼が禍々しい赤に染まる。それと同時に薫の禍々しさが跳ね上がった。
瘴気もどきの殺気と威圧、狂気を周囲に漂わせ、篠原がとても息苦しそうにしている。下手をすればすぐにでも意識を失いそうだ。
レイラもそれに気づいた様子で苦笑を漏らした。
薫は齢二十にも満たない世間から見れば若輩者だ。そんな薫だが、戦争や紛争、人生に一度あるかないかの殺しの経験を何度も体験した存在だ。
薫は、実は歳十一以降から滅多に本気を出すことがない。
戦いの中で敵として戦い、死んでいった者達に対して無礼極まりないが、本気を出せば――どれ程強くとも、貴重なひとつの命を儚く散る桜の花びらのように――本人が気づく間も無く、その一生を終えることがほとんどだったのだ。
それだけ、薫を鍛えた師匠は凄いのだろう。踏み越えてきた屍の重みを薫は一身に背負っている。
余談だが、そんな薫の周りでは不審なことが起こることも稀にある。和希が心配だ、ということで何故か霊能師を呼んだことがあるが、その時――霊能師が苦しみ出し、そして命を失いかけるという事態が起こった。
和希がそれを見て青ざめていたのを覚えている。
薫は雑念を振り払い、目の前の戦闘に意識を向ける。
薫がゆっくりと腰を落とした――次の瞬間には薫の姿はレイラの背後。残像すらも残りそうな瞬速。
これにはレイラも驚かずにはいられない。その動きに瞠目し、一瞬身体を硬直させた。
だが、その次の動作から再び柔らかい動きへと変貌した。
打ち出される拳、膝が跳び、肘が舞う。
ビリビリと大気が震え、怒涛の猛攻にレイラは苦虫を噛み潰したような顔になる。
それでも肉薄するひとつひとつの肌色を捌いていく。
時にはその肌を掠らせることはあるが、どうにか直撃だけは防ぐ。
薫はまだレイラに攻撃を当てていない。見事に全て受け流され、いなされるのだ。
それに比べ、たった一撃とはいえ重い一撃を薫に当てている。その一撃であばらを砕き、薫に血を流させている。
素人ならそれに焦り、どうしても無駄に攻めてしまう。
薫はそれを理解しているため、落ち着いて、攻め過ぎず――かといって相手に攻め入る隙を与えない。
そして、その怒涛の猛攻の間に攻め方を変えている。
中国拳法の攻めから流れるような動きへと変化し、人間離れした身軽な身のこなしが垣間見える。
薫にとっては無意識なことだ。
無意識のうちに、身体に染み付いた飛雪暗殺術が表に出てきているのだ。
だが、先ほどから放たれる突きや蹴りの雨霰を捌ききるレイラも称賛に値する。
実際、今の薫の本気と戦いここまで受け切った者は千尋達を置いて他にいない。
薫はかつてのレイラの姿を思い浮かべ、その成長に涙が出そうになる。
いつ死ぬかもわからない世界で必死に生きぬき、再び会えたことは奇跡に近い。
――やはり、ボスはスゲェな……。
薫はバックステップで一旦距離を取り、レイラがそれを追ってきた。
手は刀へと伸ばしており、柄をグッと握っている。薫はその刀の握り方、添えられた手によって向けられる角度、体の姿勢から即座にその軌道と技を見極めた。
「阿久根流飛雪抜刀術――豹閃!」
必殺の一閃、脅威の居合いが空間を切り裂く。
薫はスウェーで上体を後方へと倒し、剣線が鼻先を掠める。そのまま地面に片手をつき、弧を描くように足が地面を離れるのと、レイラの追撃の一薙ぎが動くのは同時だった。
ブンッ――と風を切る音が響き、薫が冷や汗を額に浮かべながら着地する。
――今のは危なかった。
あと一瞬身体を動かすのが遅ければ、今頃は足から真っ赤な血でできた水溜りが薫の足下に広がり、足も両断されていただろう。
心臓の鼓動音がどんどんと速くなるのがわかる。
薫が足を斬り落とされたとしても、特に問題はないのだが、流石の薫にも一瞬の隙は生まれる。
そして、今のレイラはそれを見逃すほど愚かではないだろう。すぐさま刃を振り下ろすはずだ。
あくまでこれは組手であり、ただの模擬戦。だが、二人にとってその模擬戦は殺し合いと同義。
もちろん、命を奪う箇所を刃で切り裂く時は峰で打つが、それ以外は全て実戦と同じだ。どれだけ深手を負っても相手を恨まない。どれだけ苦しめられても相手を憎まない。
全て、その組手の中で返す。やられた分の痛みはそっくりそのまま返す。
そのようにして、二人は強くなったのだ。
時には血反吐を吐き出しながらも戦いの状況を見てとったこともあった。激しい目眩の中で肉を裂かれたこともあった。
だが、そのおかげもあって今の攻撃に反応出来た。それが無ければおそらくは今頃は地に這い蹲り、レイラを見上げていただろう。
薫はゆっくりとした動きで立ち上がる。
レイラの視線から推測するに、狙いは首。
それに対し、薫はカウンターを狙う。
レイラも隙のない動きで刀を下段に構え、足にグッと力が込もる。
――一気に終わらせる気か。
薫は足を前後に開き、左手を自然に突き出し、右手を軽く握って顎を守るように添える。
これはレイラも見たことがない構えだ。この構えを見て生きていた者は四天王と赤崎と蒼坂のみ。
とある悪魔直伝の格闘術。
主に蹴り技が主体となる格闘術だが、その威力や速度、緻密さは驚くほど高い。
もちろん、氣櫻組の二人には手を抜いていた。が、四天王相手に手を抜いて勝てると考えるほど自惚れてはいない。
そんな本気の薫を千尋は力業でねじ伏せた。無論、細かな駆け引きもあったが――結果的には千尋は力で動いた。煜は動きで翻弄し、和希は組技で向かってきた。ちなみに、千尋との模擬戦での薫の勝率は、六割だ。
正直、薫には苦手な相手はいない。力が強い相手なら搦め手で。力が弱い相手なら力業で。攻守共に優れている相手なら持ち得る技術を駆使して。攻守共に優れていない相手ならひと思いに。
その全てをこの格闘術は可能としているのだ。
薫の構えを見たレイラは様子を変え、攻める手を止めた。
見たことのない格闘術を見て、危険だと判断したのだ。
――いい観察眼だ。
薫はゆっくりと摺り足で距離を詰める。
レイラの刀の射程距離内へと入る。が、レイラは下段に構えた刀をピクリとも動かさない。
が――
「!?」
レイラが弾かれたように視線を背後へと向けた。
まるで何かに怯えたように、何かに狙われているかのように背後を凝視し、キョロキョロと視線を動かしている。
しかし、そこには何もない。ただの空間があるだけだ。
側から見れば、頭のおかしい行動。殺し合いの場なら命を落とす行為だ。
だが、レイラのこの行動は少なからず当たりでもある。ここで立ち位置を変え、背後と正面の両方を見える位置取りに立てば言うことは何もない。
レイラが振り返った背後――何もない空間には、実は今は姿を見せてはいないが、ある生物がいる。とても大きく、とても強力な。
薫にとって、ソレは恐るるに足りない相手――というわけではないが、今のところは無害だ。
ソレの存在は、千尋たちも知らない。誰にも知られていない薫の味方だ。
ただの組手に何故威圧を飛ばしてきたかはわからないが、それを感じたレイラは萎縮してしまっている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
そして、本当の死合いと同じ扱いのこの組手では、今のレイラにある数少ない隙だった。
「『色欲』の大罪の一撃、受けるがいい!」
地面を大きく踏み鳴らし、豊満な胸の下――胸骨下から潜り込ませるように左拳を唸らせた。
突然の抉るような強烈な拳。
「──ガハァッッ!?」
レイラにとっては完全に蚊帳の外――突然の威圧に対して警戒していた為、完全に現在の状況を放り出していた時に受ける衝撃と激痛に、目を見開き――それでも咄嗟の判断で身体を捻り、威力を軽減させている。
だが、薫はそれを力で殴り飛ばした。
その時、ほんの一瞬。瞬きほどの一瞬だけ、レイラから青白い雷が漏れ、薫の左拳を焼いた。
皮膚の焼ける灼熱の痛みと筋繊維が壊死する身の毛のよだつ恐怖が薫を襲った。
「……ッ!」
見ると、焼かれた皮膚が黒く焦げており、パリパリッと小さな雷が未だに薫を仕留めんと停滞し、どんどんとその身を抉り続けている。
「不味い! 喰らえッ!」
薫のその言葉を合図に、薫の左腕上腕から先が何かに喰われたように無くなり、無くなった腕から血の瀑布が流れる。
――青白い雷……!? 青雷……?
薫の仕入れた情報に、青白い雷を使う殺し屋の女がいると聞いた事がある。
その能力から呼ばれた異名が、『青雷の舞姫』。
――まさか、レイラが……?
毒々しい血の水溜りが薫の足下に作られ、ガンガンと腕が痛む。
薫は尋常じゃない苦痛に奥歯を噛み締めて堪える。
「……!?」
その様子を見ていた篠原が息を呑むのがわかった。
レイラも同じ様子だ。
仕方がないことだろう。何事か薫が叫んだ直後に上腕から先が無くなったのだ。
氷のように冷徹で無ければ出来ない判断。それを実行するのにもかなりの覚悟が必要とする。
が――
薫にそんな覚悟は必要ない。
普通ならば、腕を失う恐怖やその身を襲うであろう激痛に対して恐れることが多いだろう。しかし、薫はそのうちの痛みに対する恐怖しかない。いや、もう痛みに対する恐怖もそれほど残っていないかもしれない。
薫は悪魔に魂を売った身。肉体は元は人間と同じものだが、体質は完全に化物だ。そんな身である以上、痛みに対する恐怖に怯えていては、魂を売り渡した相手に笑われてしまう。
瘴気に必死に堪える篠原が、壁にもたれかかりながらもその目から仕入れる情報に唖然とし、痛みに悶えながらもこちらを見るレイラの視線も驚きを隠せないようでいる。
違う点を言えば、篠原は薫の腕が無くなったという突然の現象に対して驚いているが、レイラが驚いている対象はそんなことではない。
レイラの驚きの対象は、薫の腕を奪った主だ。
彼女は見逃さなかっただろう。薫が腕を失った時に生じた巨大な空間の揺らぎを。
明らかに何かがいた。しかし、いったい何が?
全てを知らなければ到底理解出来るはずのないことだ。
薫の意識は既に腕の痛みから組手の結果へと移行している。
片腕となりながらも悠然と立つ薫に対し、左胸――正しくは左胸の下を押さえて苦しみながら薫を見上げるレイラ。
そして、今は気配を消しているソレ。いや、もしかしたら既に立ち去った後だろうか。薫にもそれはわからない。
しかし、その現象にレイラは戦意を失っているだろう。
即座にうつ伏せで倒れるレイラに馬乗りを取り、拘束。思考の停止していたレイラもハッとした様子で身体を捻るがもう遅い。片手ではあるが――完璧に極められた関節技にレイラは成す術もなく――
「……私の、負け」
レイラが降参を認めた。