ゴルゴーン戦②
戦闘シーンは後半です
2018,3,4 改行作業、微修正を行いました。
二十分前――
フェンリルの後を追い、薫とサリエルとスカアハは伸び放題の草が鬱蒼と生い茂る林の中を進む。
草を掻き分けるフェンリルの後にはスカアハの姿しかなく、その上方、天高くにサリエルと薫が疾駆していた。サリエルは翼を羽ばたかせ、薫は黒い馬の背に跨っている。
黒王という名の馬で、まるで地面の上を疾駆するように大気を蹴っている。天駆ける黒馬。一ヶ月前の傭兵集団との戦闘の際、移動手段として用いた愛馬だ。
薫としては別に構わなかったのだが、サリエルから汚れるからと空から後を追う事を言いつけられたのだ。
緋色の景色の中、冷たい風を肌に浴びつつその光景を目に焼き付ける。
地上とは違い、実におぞましい光景だ。
薫やサリエル以外にも空を飛ぶ者はいるが、それは二人とは打って変わった異形の姿をしている。地上でよく伝えられている化物の姿をした生物が其処彼処におり、ビルなどと言った建築物はない。
離れた場所には緋色に染まった湖や、ゆっくりと振動しながら移動を続ける巨大な山。正しくは、ヨルムンガンドという巨蛇の背中だ。
大地に視線を向ける。そこには人の姿はない。代わりに二本の足で立つ頭が羊や狼の混ぜ込んだような顔の生物や、蝙蝠の羽を持った悪魔。血色のない人の姿を形作った者などがいる。
幼い頃はここに住んでいる時期もあり、もう既に見慣れた光景だ。
災厄の世界とはまた違った化物が跋扈し、それらの多くは薫の――正確にはその側近の指示を受ける。その為、主人である薫に対して牙を向くような者はいない。皆、薫達に気づけばどれだけ離れていようとこちらに向き直り、頭を下げる。それを軽く手を上げて返事とした。
「この光景を見るのも随分と久しいな」
「この数年間、ずっと地上に。帰って来たと思っても仕事詰めで息抜きの時間はなかったものね」
薫の言葉を肯定するように隣を飛翔するサリエルが口を開く。
「何もあそこまで業務を請け負う必要はないのよ?」
「なに、偏に貴様の教育の賜物だろう。普段私がいない分、皆には苦労をかけているだろうからな」
「どうかしら。まぁ、あの女に似なかったのは心から喜べるけれど」
「聞かれているぞ」
「聞こえるように言ったもの」
「尚更タチが悪い」
どちらからともなく苦笑する。そして、ふとあることを思い出した。
「そうだ。先月九老に言われたことだがな。私も徐々に奴に染まりつつあるようだ」
ライオネル・ソウルのアジトに攻め込む前夜のことだ。九老と杯を酌み交わした際に言われたこと。
それを聞いた瞬間、サリエルは嫌悪の意思を込めて表情を顰める。よほどあの化物を嫌っているようだ。
「そこまでショックか?」
「あれだけ可愛かったのが、あんな風に成長しないように厳しくしていたのに……」
「確かに厳しかったな。そんな思いがあったとは知らなかった」
確かにサリエルは厳しかった。人間でも天使でもないのだから構わないだろうと思うことも酷く説教された記憶がある。
成長するとは言っても、薫は化物と同化しつつあるのだ。そんなものにどれだけ必死に教育したところで無駄な足掻きだと薫は思うが。
サリエルはしばらくこめかみの辺りに手を当てていたが、ひとつ小さくため息を吐くとその表情を改めた。
「まぁいいです。――先ほどの続きですが、ほとんどの者は苦労なんてしていないわ」
「何故だ?」
「ご存知の通り、彼らは基本自由奔放に過ぎます。ですので、皆自由に動き回り、業務に手をつけていない者も数多く存在します。地上の貴方の所に稀に足を運ぶ者もいるでしょう?」
「あぁ、あれはそういうことだったか」
稀にというより、月に十回以上顔を見る輩もいるが。先月の仕事が終わった後も三人に会ったほどだ。
『時折』の域を通り越して、『頻繁』と言っても過言ではないだろう。
足を運ぶ者の殆どは側近として知られる者達ばかりなのだが。
「アスタロトとベルフェゴールは特に酷い。指示されなくてはただ怠惰を貪るだけだもの」
「奴らは『怠惰』の体現者だからな。特にベルフェゴールは『怠惰』の権能を司る悪魔。それも仕方がなかろう」
「限度を考えてほしいものよ」
「我らは自由に過ごすものだ。私が地上に降りていることがその例でもあるだろう」
「それは器としての貴方が、地上での立場があるからでしょう? それがなければここから出ようともしないはず」
そうとも限らん、と薫は苦笑する。
確かに魔界にいれば地上ほど居心地の悪い思いをしなくてもいい。しかし、ずっとこの場にいるのは退屈で仕方がないのだ。
もちろん部下達との模擬戦なども行うが、時には娯楽も必要だ。それを薫はゲームセンターで楽しんでいる。
もし地上での立場がなくても、隙を見ては出かけたことだろう。
しばらく苦笑していると、サリエルが突然表情を改め、口を開いた。
「つかぬ事を聞くけれど」
「何だ」
「まだ、アレの殲滅などという荒唐無稽なことを考えているの?」
思わず薫も真剣な表情になる。
彼女の言うアレとは、間違いなく『災厄の世界』に蔓延るアンデットと変異体のことだろう。
「……本気でそう考えているのは奴らだ」
「彼らの目論見は聞いていない。わたしは貴方の気持ちを聞いているの」
サリエルの物言いに薫は口をつぐむ。
確かに彼女の言う通り、あの化物達を殲滅すると言うのは荒唐無稽なことだ。薫を含めた生き残りの五人だけでは何十年かかっても達成することはないだろう。しかし、それを為さねばならない。
そのための準備として、薫は時を見計らっては『災厄の世界』のある場所に弾薬を持ち込んだり、少ないがレーションなどを隠したりしている。
暫しの沈黙。サリエルは黙って薫の言葉を待ち、じっと無言の眼差しを向ける。
それに根負けし、小さく息を吐くと、己の考えを口にした。
「気に入らないのさ」
「気に入らない、とは?」
「我々以外の手によって世界が滅ぶのは、見ていて気に入らない。滅ぼすのは我々でなくてはならない! 細菌兵器なんぞという邪道は断じて認めん! だからこそ私は、あの世界に跋扈する屍人を、一匹残らず殲滅させる! これは決定事項だ!」
そこには何を言われても変えるつもりはないという強い意志があった。薫の体内に循環する呪力、魔力の双方に乱れはない。
それを感じたサリエルは、ふっ、と人知れず微笑んだ。
「傲慢ですね。そして、強欲でもあります」
「そうか?」
「はい。本当に、嫌なところが似てきたのね」
「悪かったな、奴に似てきて。別に手を貸せとは言わ――」
「――貸しますよ。わたしだけでなく、皆がきっと貴方の思いに賛同する。そうでなくても、貴方は統率者。それだけで、我々は皆従う」
「……統率者、ね。仮の頭ではなかったか?」
「えぇ。我々側近と貴方は立場は同じ。でも、下位悪魔や使い魔たちにとってすれば、統率者という頭を作らなければ、貴方には従わないやもしれないから。それに、人間との会談も、頭を作って応じた方がやりやすいのよ」
なるほど、と納得する。そんな考えがあったのは薫も薄々気が付いていた。
だからこそ、薫は公の場でなければ砕けた会話も容認しているのだ。
不意に黒王が上体を上げて足を止める。大きく嘶き、背に跨る主人に目的地の到着を伝える。
下を覗き込むと、確かにフェンリルのものらしい横穴が見え、その入口で二人が待ち構えていた。
「行くか。黒王、頼むぞ」
黒王は、ブルルッ、と鳴いた後、大気を蹴り降下していく。地に足をつけた時、薫はその背から降りた。
「御苦労だった。帰りも頼むぞ」
労いの言葉をかけ、フェンリル達に視線を向ける。その傍らにサリエルが降り立った。
全員が揃ったことを見て取ると、スカアハがフェンリルに切り出す。
「さて、皆揃ったようだ。フェンリル。おぬしの用とはなんだ?」
その時、薫達三人はフェンリルの動きに注目する。
フェンリルは寡黙な男で、基本的には喋らない。その為、皆はその行動を見て色々とその思いを読み取らなければならない。
細かいことまではわからないが、大雑把な理解は出来る。初めは何もわからなかったのだが。
フェンリルもフェンリルでわかりやすいように身振り手振りするのだが、そうするのならせめて話せというのは野暮なのだろう。
まぁずっと無口なわけではなく、時折口を開くことはあるためそこまで困ることはない。
フェンリルは顎を、くい、と彼の巣穴である横穴を指し示す。
「中に入ればわかるって言われてもね」
「どうする、坊?」
「ここまで足を運んだんだ。最後まで付き合うさ」
フェンリルはそれを聞き入れると、再び先導して横穴に足を踏み入れる。その後を追って横穴に入っていく。
光は入り口から差し込む緋色の光のみ。奥に行けばいくほどその光の恩恵も徐々になくなっていく。
横穴は天然のものらしく、壁の表面はゴツゴツとした岩肌がある。地面も整備されておらず、時折尖った岩などが見受けられるが、それは先導するフェンリルが先に察知し、薫が怪我をしないように履いている編み上げブーツの底で潰している。
しばらくその後に続いていると、広い場所に出た。壁際には食料らしき肉や魚が置かれ、壁の亀裂から流れてくる水が溜まり水飲み場が出来ていたりしている。
そして、草が幾重にも重ねられたベッドのような場所に、一人の少女が横たわっているのが目に入った。
「人間?」
サリエルが訝しみながらそれを眺める。
薫はそれに近づき、その前で膝をつく。サリエルの手がそれを止めようと一瞬動くが、それを自制して上げかけた手を戻した。
スカアハとフェンリルは特に動かないが、もしサリエル以外の悪魔達がいれば同じように止めようとしたことだろう。上に立つ者が自身よりも下等な種族の前で膝をつくのはあってはならないことだからだ。
しかし、サリエルがそれを止めたのは、彼女も医療の知識があり、堕天した今も善の心を忘れてはいないからだった。薫はそんな心はとうに捨てているが。
医療の専門が二人いるなら薫ではなくサリエルが行えばいいのだが、そんなことを考える前に無意識に足が動いていた。
普段女好きや優男達とおり、その状況で誰かが倒れたりした場合は無理矢理診せられる。それが積もりに積もって今では言われる前に診るようになっている。
今回の薫の行動は、その影響によるものだった。
薫はそのまま無意識に少女の手首に人差し指と中指を当て、少女の脈を取っていた。
少しの間そうしていたかと思うと、手を離し、少女の口を開き、開いた右手人差し指の先に小さな魔術の光を作り出し口内を覗き込む。
ここまでの動作を薫自身あまり意識していない。医者としての職業病だろうか。
「脈が弱い。それに、随分痩せこけているな。熱は……三十七度八分ほどか」
「坊、外傷は?」
薫は魔界での自室ではなく、地上にある家の洗面所にあるハンドタオルを一枚転送し、流れる水をタオルに染み込ませながら問いに答える。
「あるにはあるが、転んで出来た傷や草木で薄く切ったようなものばかりだ。が、足の筋肉が少し強張っている。泥も跳ねているところを見るに、余程長い間走り続けていたのだろう。目元にも腫れがある。大方、転んで泣いていたのだろう。だが、泣きながらも走り続けた。何故だ?」
「まるで何かから逃げていたと? いったい何から? 誘拐犯? 山賊? それとも魔獣や猛獣の類? 考えれば考えるほど謎が深まるな……」
「それ以前に根本的な問題がある。貴族の子供かしら?」
「恐らくな。筋肉のつき方やこの髪質、手の皮の硬さから農民ということはあり得ない。貴族以上の人間であることはまず間違いない。何よりの判断基準だが、服装は中世ヨーロッパの物に近いが、材質が良い。何より織り方が当時のものとは違う。異世界からの技法を取り入れた現在ならではの手法だな。そして、見てわかるようにドレスだ。貴族以上でなければドレスなんて高価な物は持ってはいないだろう」
そう言いながら少女の額に水で濡らしたタオルを当てる。すると、厳しい表情だったものが少しだけ楽になった。
「どうしてここに人間が? まさか、アスタロトが言っていた……!」
「その線が濃厚だろう。これほど幼い小娘だとは思わなかったがな」
少女の観察を続ける。気になることは多々あるが、特に目がいくのは首にかけられたペンダント。どこかで見覚えのある紋章が彫られている。
それを少女が起きないように外し、サリエルに放り投げた。
彼女ならわかるかも知れないという思いがあったからだ。
そして、その考えは間違いではなかった。
「これは……レンストン王家の紋章! 間違いありません!」
暗い洞窟内で目を凝らし、記憶にある物を導き出したサリエルが動揺の声を漏らす。
それを聞いたスカアハが呆れたように口を開いた。
「貴族どころか王族だった、というわけか。フェンリル、おぬしどこでこんなものを見つけたのだ?」
するとフェンリルは溜め息混じりに肩を竦めてみせる。
そんな動作ではわかるわけもなく、スカアハも嘆息を漏らすしかない。
「坊、あの国の内情はわかっているのか?」
「頭には入っている。二年前に一度調査をしているからな」
薫はサリエルにもう一度ペンダントを渡すように仕草をすると、側にまで歩み寄り、恭しい手つきで薫に手渡す。
――投げ渡してもらうだけでよかったが……。
そんなことを思いながら、ペンダントを注意深く眺め始める。サリエルが何処のものかを断定してくれたおかげで、どういったものかはすぐに思い出せた。
「間違いない。これは代々レンストン王家第一皇位に委ねられるものだ。実物を見るのは初めてだがな」
「そうなると、その娘は死んだ前レンストン王の実の娘、ということか!」
「そうなるな。奴はに一人娘しかいないと聞いていた故、まず間違いはないだろう。そういえば、夫婦共に銀髪だったな。……だとすると、解せんな」
その言葉にその場にいる皆が頷く。
ヴァニラ王が死に、その弟であるルマンドが王に即位したと聞いたときは何も思わなかった。
しかし、そうなるとその王女がこんな場所で、それも泥だらけになって倒れていることに説明がつかない。
「どうも話がきな臭くなってきたな。サリエル、おぬしはあの国の現状は何か知らんのか?」
「生憎だけど。わたしはもう天界にいるわけじゃないから、地上の現状をいちいち確認して、それを報告するなんてことはしてないの」
「何だっていい。だが、少し興味が湧いた。調べてみるか」
薫は不敵に笑いながらペンダントを少女の首にかけ直す。
そして立ち上がり、踵を返した。
「調べると言っても、どうすると言うのだ?」
「当初の予定通り私は地上に戻る。それから、表向きの立場を利用してあの国を訪れる。あそこにも顔見知りの情報屋はいる。そいつにでも吐かせればよい」
「お前、働かなさそうななりをしているくせに、恐ろしく多忙な男だな」
「我ながらそう思うさ」
自嘲気味に笑う薫の後にサリエルが続き、そしてスカアハもその後を追う。
しかし、
「……待て」
フェンリルがその日初めて声を出した。低く勇ましい声で薫達を制止する。
薫はそれに足を止め、半分だけ彼を振り返った。
すると、くいっ、と顎を少女に指し示した。それだけで何を言わんとしているかはすぐに察した。
再び少女に視線を向ける。苦しそうにしていながらも、小さい胸が弱々しく上下して生きていると主張する。
あれほど衰弱していれば、死ぬのは時間の問題かもしれない。それに、薫には見ず知らずの少女を連れ歩く理由はない。
「何故だ?」
フェンリルに視線を戻し、鋭い眼差しを向ける。凍土のような冷たい眼差しを正面から受け止め、フェンリルは自分の考えを紡ぐ。
「あれが王族というのなら、まだ使い勝手はあるはず」
「どうだかな」
少なくとも使者達の様子を見ている限り、先代の国王が死んだことを嘆いている体ではなかったことからあまり利用価値はないように思える。
確かにこの会談において消えた王女のことは気にしている必要はない。
それでも頭の片隅にでも王女失踪について気持ちを向けておく必要がある。だがそれはない。
それは何故か? いろいろ理由は考えられるが、確証がない以上簡単に口にはできない。
だが、もし薫の想像通りであるなら、少女に利用価値はない。どのみち最後に彼女を待つのは、『死』のみ。今ここで衰弱死するか、戻って殺されるかだ。
薫の言葉にフェンリルは言葉を続けられない。沈黙の中で少女の寝息だけが聞こえてくる。
そして、はぁ、とサリエルがため息を吐いた。
「先代の娘だからこそ知っていることがあるかもしれない。情報を得るなら、身内から聞き出せればこれとないほど有益なものでしょう。もちろん知らないと言う可能性もあるけど、もしそうならこんな場所にあの子がいる説明がつかない」
サリエルの言い分は尤もだ。
一度隣に立つ彼女を横目で見やり、そしてフェンリルに視線を戻す。フェンリルはサリエルの言葉を肯定するように頷くだけだ。
しばらくの間黙考していたが、外套を翻して振り返ると、少女の側に近づいた。
「確かに。布石は多いに越したことはないか」
それを聞いた面々が嬉しそうに微笑んだ。
そうとは気付かない薫は少女を抱き上げる。少女の体は思っていた以上に軽く、それですぐにピンときた。
「これは、目が覚めれば何か食わせてやる必要があるな」
「何だ、坊。お前はその娘が倒れた原因がわかるのか?」
「私どころか、サリエルもわかっているだろう」
確認の言葉にサリエルは頷く。スカアハは興味深そうにサリエルを横目で見やる。
「ただの栄養失調でしょう。この子を一目見たときから、ここ数日は何も口にしていないことはすぐにわかったから」
「どうしてそんなことがわかる?」
「肉付きもそうだけど、唇を見てみればわかるものよ」
「唇か……なるほど」
サリエルの言にすぐに納得の表情を見せるスカアハだが、そんな二人を急かして洞窟から出て行く。
「そんなことよりもすぐに戻るぞ。とにかくこの小娘は私の自室で眠らせる。その間にレイラ達を迎えに行く」
「良いのか? お前の床にそのような汚れた娘を寝かせて。せめて水浴びでもさせてやればどうだ」
黒王の背に跨りながら疑問の声に答える。
「私は一向に構わない。寧ろそれで不快がるのはメイド達だ」
「メイドが? どうしてだ?」
「知らん。大方、下等種族である人間が私の寝床に入るのが許せんのだろう」
「あぁ、あの子達ならあり得そう」
実際、レイラ達がこの魔界に来た初日、寝床をどこにするかでメイド達が騒がしかった。そんなメイド達の共通事項が、薫のベッドに触れさせない、というものだった。
徹底しているものだ、と感嘆した。
「どうだ、スカアハも乗るか?」
「遠慮しておこう。私は構わないが、そいつ自身が嫌がる」
「そうか。では一足先に戻らせてもらう」
手綱を握り、黒王を走らせる。瞬く間にスカアハ達の姿が小さくなり、十秒もしないうちに見えなくなった。
サリエルはすぐに追いつき、黒王を追走する。
随分と遠くに見えていた城がどんどんと近づいてくる。行きとは比べ物にならないほどの風を受け、髪が激しく暴れまわる。
城門に着くと、使者達のことを任せたメリーナが迎えとして近づいてきた。
「おかえりなさいませ、悪魔王様」
「あぁ。メリーナも使者の対応ご苦労だった。疲れたろう? 休んでいても構わんぞ?」
「いえ、そのお言葉だけで報われます」
優雅に一礼。その時、薫の腕の中に眠る少女に気づいたらしく、その動きがピタリと止まった。
「悪魔王様、それはいったい?」
「これか。レンストン王国前国王の娘だ」
「何故そのようなものが?」
「私にもわからん。単に面白そうだと連れ帰ってきた」
言うと、メリーナが難しい顔をしていることに気付く。
メリーナもその境遇から人間をあまりよく思ってはいない。そのため、そんなものが城に入ることに不快感を募らせているのだ。
出来ることならどこぞにでも放り出してしまいたいのだろうが、薫が拾ってきたためにそんなことが出来ない。それによって生じた苦渋の表情なのだろう。
「お前も含め、皆には不快な思いをさせることだろうからな。私はあの人間どもを連れ、すぐに地上に降りることにする」
「い、いえ、滅相もございません! 不快だなどと……」
「己の気持ちに嘘をつく必要はない。貴様らの気持ちはよくわかっているつもりだ」
「……」
メリーナは申し訳なさそうな顔で俯く。
従者として、主人に気を使ってもらうことはありがたい。ありがたいのだが、それ以上に不甲斐なさが胸中に募る。
薫本人は気づいてはいないが、メイドや下位悪魔達の間で、自分如きをも気に掛けてくれる慈悲深い主人としてとても人気だ。
だが、部下を大切にする反面、自分はこうしたいというものをあまり口にしない。
だからこそ、従者達の間で暗黙のうちに薫本人の役に立ちたいという者が多い。どれほど小さなことであっても、それが薫の求めることなら命を賭して取り組む所存だ。
喩えそれが本当の主人の『器』なのだとしても関係ない。絶対なる主人として仕えるのだと。
サリエルはそれを知っているため、薫に皆は手を貸すと言ったのだ。
だが、そんなことをあまりせず下々の者にばかり気に掛けていられてはありがたさ以上に申し訳なさ勝ってしまう。
それが不甲斐なくてならなかった。
そうとは知らない薫はメリーナに続いて現れた青髪のメイド──シュリエナに黒王を任せ、少女を抱えたままゆっくりと歩き出す。
「メリーナ。あの二人はどこにいる? 会談が始まる前はスカアハが闘技場に残っていると言っていたが」
「は、はい! 今も闘技場にいらっしゃいます。つい先ほど、アスモデウス様、ベルフェゴール様、ゴルゴーン様が闘技場に足を向けておられましたが」
名前を呼ばれ意識を目の前に戻したメリーナの言葉に薫がピタリと足を止めた。
「あの三人が? アスモデウスはともかく、ベルフェゴールとゴルゴーンが人間の下を訪れるとは珍しいな」
「会話されているのを漏れ聞いたところ、ゴルゴーン様が立ち合いなされるご様子でした」
「……なに?」
なんでもないと言った様子でメリーナは語る。
だが、それを聞いた側である薫からは少し余裕がなくなった。
ゴルゴーンは格下の相手はまだ慣れていない。即ち手加減というものがまだ出来ないのだ。薫が組手の相手を求める際も、いつも「手を抜くな」と言うため、それは尚更だ。
化物と契約し、悪魔王となった後ゴルゴーンと初めて戦った時のことを思い出す。その時はまだ契約し、意識を取り戻してすぐの事のために何も言わずに手を抜いてくれた。
だったのだが――
一撃だった。器となったのだからこのぐらいなら耐えられるだろうと思い平手を打ったらしいが、ただの平手に後頭部を金属バットでフルスイングされたような威力を放つのだ。
その後二回の組手を交わしてようやく理解した。
彼女にとっての加減とは力の加減ではなく、技術面での加減。本人にとっては力も加減してはいるらしいが、人間にとってみれば一撃で死んでしまうような威力を手加減しているとは言えない。寧ろ、力加減がまだ足りないほどだ。
下手をすればあの二人が死にかねない。
死んでしまえばその程度だったで済ます薫だが、今回の二人が死ねば後が怖い。主に母親と同僚と上司の彼女が。
「サリエル」
「直行ですね。では、それは私が預かっていましょう。貴方は久々にゴルゴーンと戯れてはいかがでしょう?」
口調を正したサリエルは名を呼ばれただけで薫の考えを先読み、薫の手から少女を抱き寄せる。
薫は頷くと同時に術式を構築。
「メリーナ。スカアハとフェンリルが戻れば闘技場に来るよう伝えろ」
「かしこまりました」
返事を聞くと同時に術式を展開。風景が打って変わり、血生臭く無骨な印象のする石段の上に立っていた。転移魔術だ。
転移対象にはサリエルも含まれていたが、その姿がないことから彼女はどうやら転移を拒んだようだ。ベルフェゴールがいるため、それも仕方ないことだろう。
眼前にはギラリと不気味に輝く刃物があり、視線を下げると聞いた通りの二人の姿があった。
「いつまで人間の姿をしているつもりだ?」
「なんだ、もう帰ってきたか」
「お早いお着きねぇ!」
アスモデウスとベルフェゴールが薫に気づき、気さくな態度で応じる。
闘技場に視線を向けると確かにゴルゴーンがレイラ達と対峙しており、怒涛の拳打をなんとか捌いている。その少し離れた場所でイリカが呆然と立ち尽くしている。
まだどちらも死んでいないことを安堵していると、ベルフェゴールが男勝りな口調で先ほどの問いの答えを口にした。
「いちいち姿を変えんのめんどくせーだろ? なんならそのまんまでいいや、ってな」
「なるほど。怠惰を司る貴様らしい台詞だ。私情を言えば、私はその姿よりも普段の方が好きだがな」
「……そうかい? うーれしいこと言ってくれるじゃんか! チッ、しゃーねえ! あんたの口車に乗ってやろうじゃんか!」
言い終えると、パンッ、と両手の平を軽く打ち鳴らす。すると、頭にふたつの捻れた角が生え、牛の尾が生える。肌が茶に染まっていき、腕と足に黒い線が走る。左足には呪術で施された刻印が浮き上がり、その瞬間押さえ込まれていた呪力が放出され始めた。
ベルフェゴールの本当の姿。尾と角が生え、肌の色が変わる程度の違いではあるが、人間の姿でいられるよりもこちらの方が薫は好きだった。
満足気に頷き、
「やはりその姿の方がいい。そういえば、あの三馬鹿はどうした?」
「そろそろ石化が解ける頃よね。そのうちひょっこり顔を出すんじゃない?」
どうやらあの後残りの二人も完全に石にされていたようだ。彼女の視線から逃れるのは至難の技なため、わかってはいたことだ。
玉座の間で派手に暴れるわけにもいかないという常識もあり、三人が捕まったのも当然のことだったろう。
「そろそろ降りようかと思っていたが、それまで待つ必要があるか」
「あぁ、そういや茨木童子は護法やってるんだっけか?」
「あの悪戯っ子で大丈夫なの? なんなら、私が変わる?」
二人は九老の実力に関しては疑問視していない。事実、初めて魔界に連れてきた際、アスモデウスの本気を相手に互角に戦ってみせた。
その実力が評価され、鬼ということもあり煙たがられることもなく自由にやっていけている。
ただひとつ、彼女の悪戯好きの問題がある。
上記の通り腕っ節に疑問を持っている輩はいない。しかし、その性格から仕事面に関して疑問を持たれている。本当に薫を守護れるのか、と。
だが、その点に関しては薫はもう胸を張って答えることが出来る。
「ありがたい提案だが、今回は遠慮しよう。意外なことに、奴はしっかりと仕事をする。前回も何度か危機を救われた」
すると、二人が大仰に驚いてみせる。それだけ彼女は仕事をしないように見えていたのだろう。
薫自身あの時は驚いたのだから、彼女達にとってみれば予想だにしないことだった。
「へえ、あいつも護法の自覚はあったんだな。それなら安心できる。安心ついでにもひとつ聞いとこうか。悪霊はまだいるのか?」
その問いにコクリと頷く。
「底を尽きないからな。そもそも、悪霊を使わせるほどの実力者はなかなかいないのさ」
「あぁ、なるほど。言われてみりゃあそうか」
「確かに思い返してみれば、竜種と合成獣と魔獣以外には使ってるところを見ないわね」
アスモデウスが顎に人差し指を当ててなにやら思案を始める。
悪霊というのは、簡単に言えば人間に害をなす霊魂だと思えばいい。地上では薫は多くの人間の憎悪の対象だ。そんな人間達を殺し、殺された人間達の魂が悪霊となり、薫を呪い殺そうと薫の元に集う。
だが、そのどれもが薫を殺すに至らず、薫ではなくその周囲に影響を与える。だからこそ、薫の家ではよく怪奇現象が起きる。
そんな悪霊達は薫自身の力の糧となり、身体強化や身代わりとして利用されてしまっている。
そのことを知っているのは魔界にいる面々のみ。千尋達や母親達はそのことを知らない。
「これでしっかり安心できた。さあて、こっからどうすんだ?」
「ただ眺めているだけでは退屈だ。今の技量でどこまで奴の模倣が出来るか、試されてもらおうか」
それを聞き、二人が目を見開いた。そして、喜色の笑みが思わず溢れる。遂にそこまで、といった顔の二人だが、薫は肩を竦めてみせる。
魔界最強の存在であり、薫と契約した化物の体術。それを使いこなすために薫は様々な体術に手を出し、技術を底上げしようとしているのだ。同種の打撃系、投げ系関係なく、とにかく幅広く取り組んでいる。
しかし、それだけやってもまだ完璧にこなせるとは思ってはいない。自分自身それは痛いほどわかっている。要はただの現状確認といったところだ。
二人を流し目に、薫は石段を一足で飛び越え、全身のバネを使って地面に軽やかに着地。そのままもう一度バネを用いて地面を蹴った。
イリカが強かに蹴り飛ばされ、更にレイラが平手によって脳を揺らされたのを目にしたからだ。あれではゴルゴーンの次の攻撃を防げない。
唸る拳。それはさながら雷管を叩き撃ち出された弾丸を思わせる。
歪む視界の中、レイラが遅れて反応するが、どう見ても間に合わない。間に合ったところで意味をなすようには見えない。
目測三十五メートル。普段なら間に合わない距離だ。しかし、薫は現在三つの封印を解いている。
第一封印、動体視力。
第二封印、敏捷性。
第三封印、膂力。
魔界での戦闘においてはそれだけあればある程度は事足りる。
それによって解き放たれたうちの膂力によって飛び出す瞬間の爆発力を。敏捷性によって速度が跳ね上げられ、結果、その距離はほぼゼロに等しい。
開いた距離を瞬きほどの一瞬で詰め、突き出される拳の手首に軽く手を当て、その運動エネルギーを働かせ続けたまま、肘関節に開いた手を添えて腰を落とす。
次の瞬間、ゴルゴーンの体が掴まれた腕を軸に一回転。くるりという擬音が相応しいほど見事な回転を見せた。
驚愕に目を見開いたゴルゴーンの視線が薫を捉え、ハッと息を呑んだ。
「面白そうなことをしているな。私も混ぜてもらおうか」
言い、ニヒルな冷笑を浮かべる。
初めは呆然とこちらを見ていたゴルゴーンだが、ようやく頭の整理がついたのか、しかし動揺を隠せないまま口を開いた。
「お、お早いお着きですね」
「そうか? これでも長々と話していたのだがな」
ゴルゴーンは立ち上がろうという素振りを見せ、掴んでいた腕を引いてそれを手助けする。
ゴルゴーンは立ち上がると、薫に気づかれないよう顔を背けアスモデウス達を横目で睨む。しかし、視線の先に彼女達はいない。彼女達とて力はあろうと魔眼の脅威に晒されたくないのだ。
いち早く身の危険を感じ取った二人は即座に視線の届かない物陰――闘技場内への転落防止の壁下に飛び込んだのだった。
その間に薫はゴルゴーンに背を向け、レイラの具合を確かめていた。
見たところ、外傷はどれも打ち身。冷やせばすぐに良くなる度合いのもの。不器用ながらに手加減してくれていた証である。
「脳が少し揺れただけだな。休んでいればよくなる」
「ウィルが……二人に、見える。そう! ここはまるで、楽園!」
「精神科を紹介しようか?」
「勘弁して」
良くも悪くもレイラは普段通りだ。魔界は魔障粒子や魔力濃度が地上に比べて恐ろしく濃いために心配していたが、どうやらレイラは大丈夫だったようだ。
イリカは来て一日目に倒れ、一晩高熱にうなされていた。
それを思えば、レイラは随分と魔力濃度の耐性があるようだ。
薫は一度苦笑した後、レイラの肩に触れる。
「イリカを頼むぞ」
「オーライ!」
レイラの元気そうな返事を耳に、先ほどと同じように転移魔術を発動。転移先はイリカのすぐそばだ。
未だ忌々しそうに観客席を睨み続けるゴルゴーンに向き直り、静かに声をかける。
「そろそろ始めたいのだが?」
それを聞き、普段通りの無表情のまま首をこちらへ巡らせる。
「私は構いませんが、地上へ戻るのではないのですか?」
「そのつもりだったが、護法がまだ石になっていてな。どうしようかと思えば、珍しいことに貴様がここにいると知ってな。居ても立っても居られなくなり急いで足を運んだというわけだ」
「言われてみれば、確かに茨木童子は貴方の護法でした。なるほど、そういうことなら喜んでお相手します。あと五分ほどで石化も解けるようにしてありますので」
了承を示すように頷くと、ゴルゴーンが構える。拳を硬く握り締め、両拳を目の高さに掲げる。足を前後に開き、後ろ足の右足を僅かに沈み込ませた。
ゴルゴーンが構えた。この事実は即ち本気を出すということ。力加減も技術面でも手を抜かず、確実に屠らんと技術を見せることだろう。
――面白い!
思わずニヤリと笑みを浮かべ、対して薫は脱力し、丹田に意識を向けつつ直立不動の姿勢を取る。
それを見たゴルゴーンが目を瞠った。
「それは……っ!」
ゴルゴーンが驚くのも無理はない。ゴルゴーンは薫はアスモデウスから学んだ体術を扱うと思っていたのだ。
だが、そんな予想を裏切り契約した化物の体術の構えをしてみせた。
「遂にそれを扱えるようになったのですか?」
ゴルゴーンの確認の言葉は気の所為か、どこか嬉しそうに弾んでいるように聞こえた。
「残念だが、まだ使いこなせない。今の技術力ではどこまで出来るのか、確認といったところだ」
どのみち、今の薫ではまだゴルゴーンには勝てない。白兵戦で何人かには勝ったことがあるといっても、スカアハやゴルゴーン、パイモンやアスモデウスなどといった者たちには未だ勝った試しがない。
それに、勝ったとはいっても相手はこちらの顔を立てようと若干手を抜いている様子だった。
その為、声を大にして喜べはしなかった。その反面、薫の確かな自信になったのも事実だ。
「なるほど、確認ですか。では、手を抜いた方が?」
「いや、本気の貴様を相手にどこまで出来るかを試したい。手加減は許さん」
ゴルゴーンはしばらくの間黙っていたが、了承したように頷いた。
それを見て、薫はアスモデウスの方へ首を巡らせ、声を張り上げた。
「アスモデウス! 制限時間は九老がここに来るまでだ。来れば貴様が止めろ!」
「わっかりましたぁ〜!」
恐ろしく甘ったるい声で返事を返される。それだけで頭の中が引っ張られるかのような感覚を覚えた。流石は『色欲』を司り、地上でもそれを象徴とする悪魔といったところだろう。
ゴルゴーンに向き直ると、呪力を練り上げ始める。充分に練りあがったタイミングでゴルゴーンが動いた。
弾丸の如き速度で間合いを詰め、唸る拳を突き出す。
が――
バチィッ、という乾いた音と共にゴルゴーンの拳が外に弾かれ、その勢いによって半回転し、薫に背中を見せていた。
「これは……っ!?」
ゴルゴーンの声に驚愕の色が浮かぶ。なにしろ、ゴルゴーン自身弾かれた際の認識がない。
その驚きは見ている皆にも共通のものだった。薫は直立のまま無造作に拳を叩いただけなのだ。
踏み込みが浅かったわけではない。それどころか、レイラ達との戦闘の際よりも力強く、充分過ぎるほどの冴えを見せていた。
しかし、それを軽々と弾き、悠然とゴルゴーンの様子を観察している薫の姿を見て、レイラ達は驚愕に目を瞠り、アスモデウス達は歓喜とも驚愕ともつかない微妙な表情で凝視していた。
薫は拳を弾いた右手を下ろすと、首を左手で弄り、
「どこを見ている? そこに私はいないが?」
頭の中で時折響く女の声で言葉を発した。声を高くしたわけではない。その声は男が声を高くしたと言うより、女性が口を開いたようにしか聞こえない。
これは薫が幼い頃から得意としている声真似だ。まだ呪術や魔術を教わり始めたばかりの未熟な時、適当に術式を弄っているとどういうわけか出来た初めて作った呪術。イタズラの際に使えると思い使っていたものだが、これが案外使い勝手が良く今でも稀に使っているものだった。
その言葉に別の術式を噛ませ、ゴルゴーンの耳に届くと同時にその感覚を麻痺させる。
その声を聞いた時、その場にいた悪魔達は再び驚きに目を見開いた。
まさか表に出て来たか、とも考えたが、よく観察するとそうではないことがわかる。
しかし、ゴルゴーンを術中に嵌めるための駆け引きとしては良い部類であることは間違いない。
普段の姿の彼女には意味を成さないだろうが、今の姿の彼女には効果が絶大だ。
ゴルゴーンにとって、薫と契約した化物は一種のトラウマのようなもの。普段の彼女ならなんでもない程度のものであるが、今の姿の彼女は普段と性格が変わり、抱くことのない恐怖心を植え付けられていたのだ。
「どうした。余裕がなくなってきているぞ?」
その証拠にゴルゴーンから普段の落ち着きがなくなり始めていた。呼吸が少しずつだが乱れだし、その表情から余裕がなくなっている。
ゴルゴーンは冷静に努めようと隙のない動きで振り返り、薫の一挙手一投足に目を向ける。
しかし、薫は直立不動の姿勢から動こうとしない。
しばらく睨み合う。誰も動かず、音ひとつ鳴らさない。静寂が空間を支配し、無音という音が聞こえてくるかのようだった。
ゴルゴーンは意を決して地面を蹴り突風となって肉薄する。繰り出される中段回し蹴り。
「ふん――」
それを下から手を添え、滑らかな動作で身を深く沈ませて回避。そのまま添えた手で未だ動いている途中の足を操り、ゴルゴーンの身体を空へと投げ飛ばした。
「っ!?」
突然の事に一瞬だけ全身が強張るが、すぐに理性で跳ね除けたゴルゴーンは体勢を整え優雅に着地する。
その次の瞬間、
「隙ありだ」
薫の横蹴りが脇腹に突き刺さった。
「が――っ!?」
ゴルゴーンの身体がくの字に折れ曲がる。
――やはり完全に扱えてはいないか。
これが実際の使い手の一撃だったなら、この程度ではすまない。まともに浴びてくの字に折り曲げさせるだけというのは、あまりに威力が乏しい。
――目下の課題は技術よりも威力か……?
そう考えながらも次の動作に移る。
蹴りつけた右足を脇腹に当てたまま飛び、同じ箇所に左足を当てて右足をどかし、その場で円を描くように足を回し後頭部に足刀蹴りを叩きつける。
ギロチンを彷彿とさせる重圧感を伴った蹴りだったが、それは反射的に出された腕に阻まれた。その際、激突の瞬間に僅かに腕を下げられ、衝撃を吸収された。
その時、
「――あぁ、そういえばその髪は蛇だったか」
幾本もの髪の束が蠢き、薫の足に絡みつき、ガチリと固定される。拘束は時間が経つごとに強くなり、ギチギチと骨が軋み出す。
「捕まえましたっ」
言うと、更にふたつの髪の束が薫の腰と首に巻きつき、玄翁じみた強烈な一撃が繰り出され――
「驕るなよ」
一瞬の脱力。そしてその次の瞬間、拘束されているはずの左腕が動き、ゴルゴーンの右拳を側面から叩いて軌道を逸らす。
ごう、という音が聞こえ、思わず額に冷や汗が浮かんだ。難を逃れたようにも見えたが、拳が通り抜けた付近の外套に切れ目が走る。
「まったく。相変わらず恐ろしい拳をしている」
同じ要領で今度は左足を動かし、膝裏を強かに蹴りつけ体勢を崩させる。小さな呻き声と共に膝をつき、薫の身体がようやくまともに地面に降りる。
だが、まだ優位ではない。拘束は緩む様子がなく、より一層強く締め付けられる。
骨が軋み痛みがあるはずだが、それ以上に首を絞められており、その所為で息苦しいと言う思いが上回る。
その筈だが、薫は慌てず急がず己の首を絞める髪に優しく触れ、そこから直接呪詛を流し込む。
「――っ!!」
「気付いたか。だが、もう遅い。――離せ――」
それまで以上に言葉に呪力を注ぎ、強制力の増した呪言を言い放つ。
ゴルゴーンは本来呪言の抵抗力は高い。そんな彼女に呪言を力業で効かせようとすれば、人間を呪い殺すための必要量の十倍、薫自身の保有している呪力の八分の一程の呪力を必要とする。
それはつまり、彼女を八回も呪言を効かせることが出来ると捉えられがちだが、裏を返せば八回しか効かせることができないのだ。
では、八回の呪言を効かせるうちに倒しきることが出来るかと問われれば、答えは否。彼女はそこまで脆弱ではない。
そして、呪力の大部分を消費して一時的にしか効果を発揮できないのは割に合わない。
だが、それも小手先でなんとかなる。
事実、今の呪言には彼女に効かせるための必要量の半分しか使用していない。
その理由としては、ふたつある。
ひとつめの理由は、戦闘開始からの薫の言葉だ。言葉というよりは、声が正確だろう。言葉自身には特に意味はない。そこに込められていた呪力にこそ意味がある。
微量だが紡がれる言葉のひとつひとつに込もった呪力がゴルゴーンの耳に入り、徐々にその身体機能を阻害していき、同時にその呪言に対する抵抗力を弱めるためにひとつの小さな呪的爆弾を形成する。
しかし、言葉を発した時間が短いがために、その土台となる爆弾はまだ完成していなかった。
そこでふたつめの理由となる髪の毛を経由して流し込んだ呪詛だ。
彼女の呪詛に対しての抵抗力を示す壁は、その土台だけでは崩れないほどの頑強なもの。だからこそ、どこかに脆い部分を作り出す必要がある。
そして、それは薫の発する女性の声で完成していた。僅かな動揺、今の姿の彼女の性格、その奥深くに根強く残るトラウマを利用してほんの小さな亀裂を作っていた。
流し込んだ呪詛は形成途中の爆弾を一気に完成させ、同時にそのほんの小さな亀裂を拡げたのだ。
結果、呪的爆弾の起爆によって壁は決壊。必要量の半分ほどの出力で呪言を効かせることに成功した。
薫を縛る髪の毛はその束縛を緩める。
だが、彼女は呪言に完全に屈した訳ではない。崩れた抵抗力の壁の修復速度は尋常ではなく、瞬く間に損傷箇所の修復を完了させる。
その為、効果を発揮するのは瞬きほどの一瞬だけ。その証拠に、緩んだ髪が再び薫を拘束しようと牙を剥いた。
しかし、それだけの時間があれば今の薫が脱出するには充分だった。
薫は拘束が緩み始めた瞬間に身を屈めて首の拘束を逃れ、身を捻り、舞うように飛び上がってその拘束から逃れることに成功していた。
呪言から解放されたゴルゴーンの髪はすぐに敵を搦め捕ろうとまっすぐ向かってくるが、それを見越して強く飛び上がっていた薫は射程外にまで跳び退っている。
優雅に地面に降り立った薫の鼻先に毛先が迫り、ぴたり、とその挙動を止める。そして、逃げられたことを悔いるように力なく毛先が下りる。
刹那、パチンッ、という乾いた音が闘技場に響き渡る。
見ると、ゴルゴーンが両頬に手を当てていた。己の頬を叩き、雑念を振り払ったのだ。
――ここからが本番だな……!
もちろん完全に振り払った訳ではないだろう。だが、自身の感情が利用され、自分の戦術の足を引っ張るのであれば、それを排するのが今の姿の彼女だ。
先ほどと同じ手段はもう通じないと見ていい。
そして、ここからが本当の戦闘だ。
「随分とやってくれましたね……」
「使えるものは何でも使うのが奴のやり方でもある故な」
恐ろしく冷え切ったゴルゴーンの声に戦々恐々としながら言葉を紡ぐ。
「だが、課題点は湧き水のように出てくる。奴の模倣はまだまだ不可能といったところ……」
だな――と言葉を続けようとした刹那、左頬に激痛が走り、天地が逆転した。
殴り飛ばされたと本能的に理解した。視界がぐるぐると回転する中、瞠目するレイラ達の姿が映った。その距離がやけに近く、そしてどんどん離れていく。
随分長く飛ばされているものだ、と他人事のように苦笑した直後、今度は腹部に――次いで地面に強かに打ち付けられた背中が軋み、少量の血塊を口から吐き出した。
ゴルゴーンが殴り飛ばされている最中の薫に追いつき、蠱惑的な曲線を誇る右足を、獰猛な唸りを上げて振り下ろしたのだ。
だが、それで事が終わってくれるはずがない。それを本能的に理解していた為、薫の次の行動は早かった。
傍らに立つゴルゴーンが拳を高く振り上げ、躊躇いもなく薫の胸部めがけて振り下ろした。
対し、薫は感覚的に周囲の空間を察し、奥歯を噛み締めて体を蝕む激痛を堪え、右手を頭の横の位置で地面につける。そして、踵で地面を蹴ってその勢いを利用して体を跳ね上げた。
直後、それまで薫の体があった場所をゴルゴーンの拳が貫き、地面に大きなクレーターを作る。
それを見ていたレイラとイリカから絶叫に近い驚愕の声が漏れる。
薫は今度は腕力を使って身体を宙へと逃し、直後、ゴルゴーンの下段蹴りがその場所を通過。ぶんっ、という空を切る音がやけに鈍く、ぞわりと背筋が凍った。
息つく暇もなく視界の端に放物線を描いて迫るゴルゴーンの髪が映り、身を捻って殺到するそれらに向き直る。
そして、未だ空中に身を躍らせたまま毛束を手の平で受け流し、地面に柔らかに着地。
転瞬、薫が地面を蹴ってゴルゴーンに肉薄する。
それを阻もうと髪の毛が薫を囲み、怒涛の猛攻を見せる。四方八方から殺到する毛束。動きを止めるために足や腕、首や腰などの至る所にその猛威を振るう。
直進すれば捕まるのは自明の理だ。
「――チッ」
本来ならば舌打ちなどしてはならない立場である薫だが、今回ばかりは仕方がないとアスモデウス達も黙認。なにより、一番うるさく言う教育者もこの場にはいない。
即座に薫は滑らかな足運びでその猛攻をいなしていく。脱力を心掛け、側面から、下から、上から、あらゆる方面から優雅に捌いていく。紙一重で躱し、すくい、払い、捌く。
その動きは『武』と言うよりも『舞』。舞を踊っているかのように華麗に、淀みない静かな動作で見る者の視線を引き寄せる。
あるものは魅了され、あるものは嘗て一度は対峙した君臨者を思い出して。
しかし、それは本来の使い手に比べればやはり何処か見劣りする。そして、脇が甘い。
「――ッ」
毛先が薫の頬を掠めた。それを呼び水に、毛束の勢いが激しくなっていく。
それでも薫は捌き続ける。時が経つごとに傷は増え、それでも確実に致命傷を避けていた。押されつつも足を止めず、俯瞰していてようやくわかるほど、ゆっくりとゴルゴーンとの間合いを詰めていた。
ゴルゴーンはそんな薫の姿を見て、記憶の中の薫の姿を重ねていた。
動きが実に不甲斐なく、奴の器になったとはいえ肉体は人間であるにも拘らず、どれだけ虐げられようと、傷つけられようと、歩みを止めないその姿。
脆弱でありながら、孤高であろうとし、それでも引き際や己の為せることを正確に見極める事の出来る確かな強さを持った愛しい器だ。
ただただ軟弱なだけだった男が、今では自分を相手に全く引かないその勇敢な姿に、誇らしいと言う気持ちを強く感じた。
それは髪の毛――蛇達も同じ気持ちなのだろう。今日はいつにも増して、薫の求める要求に応えようと躍起になっていた。もしかすると、薫の要求を破り少し手を抜いているゴルゴーン自身に呆れているのかもしれない。
薫自身も手を抜かれているのはわかっているだろう。捌きつつも時折、こちらに何度も一瞥をくれるのだ。「どうした、来いよ」と視線で訴えかけ続けてくる。
確かに薫は今は手一杯。徐々に押されてはいるものの、このままでは決め手に欠けるのは双方よく理解している。
普段の自分の全力は今のように蛇達が特攻するような戦法ではない。あくまで主導権は自分自身。蛇はサポートだ。
それがわかっているからこそ薫は訴えてくるのだ。「来い。全力を出せ」と。
いいだろう。そこまで言うのならもう手加減はすまい。
なにより手を抜かれるのは自分がやられて不快なことだ。それを誇るべき我らが器にやるのはなんと無礼なことだろう。
地面を蹴る。蛇達が主人がようやくその気になったことを悟り、嬉しそうに躍動する。
必死にその猛攻を右に左にと逸らし、それでも傷だらけになっていく薫にとどめを打つ。
薫もいち早くそれを察知し、足運びを優雅なものから複雑なステップに変え、待ち構えた。
元々距離はそれほど離れていない。髪がいくら長いからとはいえ、ゴルゴーンを中心に一メートルと七、八十センチ程の距離しかない。その程度、二人なら一歩で充分だ。
薫は静かに右手を下げ、左手を肩の高さまで上げる。両方共に脱力。ステップで右に左にと動き、毛束の直撃だけは避けながら待ちの姿勢を保つ。
ゴルゴーンは右手に魔力を込め、身を捻った。己の魔力を使って破壊力を増幅させた、まさに一撃必殺といっても過言ではない脅威の一撃を放とうという思惑だ。
徐々に二人の距離が近づく。
たった一瞬のはずである距離が、やけにゆっくりに感じる。その間も待ちの姿勢は崩さない。
緊張からじわりと手に汗が浮かぶ。わかっていても、それを拭う余裕はない。
両者が間合いに入った。
ゴルゴーンは全体重を乗せた必殺の一撃を放ち、その瞬間に薫の腕がピクリと動いた。
「──そこまでよ」
突如かけられた制止の声と共に、ズドンッッッ、という重い重量感を伴うインパクト音が闘技場内で響き渡る。
その衝撃の強さたるや地面に触れてすらいないのに大地を揺るがし、拳の圧力に煽られ、放たれた直線上の砂塵が吹き上げられた。
その光景を見た人間二人が絶句する。
明らかに人間の為し得る範疇を超えた出来事に慄然とするしかない。
だが、それ以上に絶句しているのは、拳を放った張本人であるゴルゴーンだ。
何故なら、自他共に認める必殺の拳打が何の強化も施していない何者かによって阻まれたからだ。
それだけではない。インパクトの瞬間、ゴルゴーンの髪が何かに絡みとられていた。
「……あぁ、そういうことですか。あなたなら、この拳を止めることも納得です」
ゴルゴーンはゆっくりと視線を巡らせ、何が起きたのかをようやく理解した。
「アスモデウスに吾が来た時に止めるよう命を受けていると聞いておった故な」
ゴルゴーンの拳を止めたのは、ついさっきまで石になっていたはずの九老だった。
太々しい笑みを顔面に貼り付け、平然とした様子で立っていた。
やはり、鬼という種族はその膂力は全種族で一番高いらしく、魔界でトップクラスの怪力の持ち主であるゴルゴーンをも圧倒してみせるようだ。
だが、それもただでは済まなかったらしく、何の強化も施されていない代わりに全力に近い状態まで力を引き出したのだろう。彼女の内包する瘴気――鬼気が噴出されていた。
「蛇の方は謂わば保険。止められた次の瞬間に襲い掛かられてはたまったものではないのでな。貴様のことよ、そんなことありはせぬだろうが、吾も護法という面目上仕方あるまいな! しかし、相も変わらず、なかなかの拳を打つものだ」
開き直りに近いことを言うが、その言い分も分からなくはない。そんな彼女の左手には、ゴルゴーンの髪の毛が一纏めで無造作に握られている。
茨木童子という名は伊達ではないらしい。
ゴルゴーンはそれまでの興奮を抑える為に息を整える。すると、九老は手を離し、握っていた髪も開放した。
「アスモデウス。其の方は大事ないな?」
九老の視線が砂塵の中――ではなく、ゴルゴーンを挟んだ向こう側に向けられる。つられて見ると、薫の体を抱き締めているアスモデウスの姿があった。
「ちょっと待ってて。ん〜……うん。大丈夫ね。この程度なら自然治癒ですぐに治るわ」
「我が主、息災か?」
九老が改めて薫に尋ねる。それに頷き、いつかの時の九老と同じ事を応えた。
「案ずるな。息災だ」
そして、どちらからともなく笑った。
結局、その戦闘は引き分けで終わったのだった。
ようやく次回から地上(予定)ですよ。長いですね。えぇ……ホントに。




