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今回も更に人外が多く出ます。誰が誰なのかをわかりやすいよう頑張ります
2018,3,1 改行作業、加筆修正を行いました。
魔界、悪魔王の城城門前。
辺り一面ぼうぼうと生い茂った草むらや巨大な木が林立する林。紫色をした湖。そして、誰かが住んでいるのか石や木材で造られた家屋が建ち並ぶ。その至る所から鋭い眼差しがこちらに向けられていることは嫌という程感じられた。
現在、城門前に二台の馬車が止まっている。それに乗ってきた者達は皆馬車から降り、高く聳え立つ漆黒の城を仰ぎ見ていた。
彼らの先頭に立っているのは貴族然とした高齢の男だ。肌は既にシワが刻み込まれており、瘦せぎすの顔は苛だたしそうに顰めていた。
ここにきたのは彼だけではない。何かあった時のために三名の戦闘員を連れてきていた。
その中で一番頼りになりそうなのが、バトルランキング十七位という上位の男だ。彼は貴族にはなろうとはしなかったが、ヴァニラ王亡き後に王位に即位したルドニア王に腕を見込まれ、城の戦士長として迎え入れられた人物である。
魔界はどのような場所かはわかっているつもりだ。入った者は決して生きては帰れないと言われる地獄の釜だ。
ここではいつ何が起こってもおかしくないそんな危険な場所だ。その為の戦闘員だった。
そんな場所に好き好んで来る輩は一人もいない。それは老人にとっても同じこと。
しかし、今回ばかりは文句を言ってはいられない。
新たに即位したルドニア王からの申し出をこの場所を統括する者に伝えに来たのだ。
しかし、中に入ろうとしても目の前に立つメイド――メリーナによって阻まれてしまっている。
赤毛で日に焼けた肌が健康的な美少女だ。もう一度言おう。美少女だ。パッチリと開いた瞳に、ニッコリと微笑む顔はまるで天使のよう。年の頃は十六、十七ほど。平均よりも少し発育の良いぐらいの胸に、メイド服の上からうっすらとわかるボディーラインに老人は自然と生唾を飲み込んだ。
ただ、忌まわしきは頭に生える犬のものと思しき耳と殿部に見える尻尾だった。このメイドはどうやら獣人らしい。それさえ無ければ完璧だった。
しかし、待たされ続けているうちにそんな想いはすぐに霧散した。
もうここに来て二十五分が経っている。その間、この城の主人が姿を見せる様子は微塵もない。
「遅い。遅過ぎる。いったいいつまで待たせるつもりかね?」
苛立ちを隠そうともしない鋭い声がメリーナに放たれる。
たとえ他国といえど、どこに王家から遣わされた使者をこのような場所で待たせる者がいるか。
「申し訳ございません。悪魔王様は急ぎで準備をなされておいでです。ですので、もうしばらくお待ちください」
さっきからこればかりだ。何様のつもりだ、と胸中で何度も思う。メリーナとしてはこちらの台詞だと思ってしまうのだが。
確かに異形というものは恐ろしいものだ。人間をはるかに凌ぐ身体能力。人間にはない特殊な能力。
だがしかし、そのどれもバトルランキング上位者にはあまり意味をなさない。
彼らはその腕を買われ、猛獣であったり、中には巨大な化物を倒した者だっている。事実、老人が連れて来た十七位の男は下位悪魔を倒した経験もある。
そして、それ以上の実力者が他にもいる世界に住む彼らがいる以上、たとえそんな異形が数多く跋扈する世界を相手にしても、臆することを知らないのだ。
だが、老人達は知らない。
魔界において、下位悪魔は所詮は雑兵でしかなく、高位悪魔や同盟相手、悪魔王の元に集う人外にとっては肉壁にすらならない程度のものであることに。そして、少なくとも今目の前にいるメリーナも、下位悪魔程度は大して相手にもならない程の強者であることを、老人は知らない。
だからこそ、自分達の方が偉いと錯覚し、ある程度の警戒心は持ちながらも強気な態度を見せる。
「急ぎの準備だというが、今ここに来ること以上に何が重要だと言うのかね?」
嫌味を込めた老人の言葉に、メリーナは再び謝罪の言葉と共に頭を下げる。
だが、不意に耳に手を当て一度頷くと、
「大変長らくお待たせ致しました。悪魔王様の準備がお済みになりましたので、ご案内いたします」
ようやくか、と心の中で独りごちる。
すると、内側から重々しい黒光りする石の城門が開かれ、それがまるで冥府魔道へと誘うかのような印象を与えられた。
開かれた門の奥はここと変わらず暗く、ひゅうひゅうと鳴る風の音のおかげで自然と恐怖心が煽られる。
それで呆然と立ち尽くしていると、そうとは知らないメリーナは先導して中に入っていく。
「ナジェルマ殿。参りましょう」
「あ、あぁ……そうだな、クリード」
耳元で十七位――クリードに言われ、先に行くメリーナを追う。
城の中は広く、そして天井が驚くほど高い。煌びやかな装飾がそこかしこに見受けられ、思わず感嘆の声を漏らした。
レンストン城もその世界ではなかなかの大きさを持つものの筈なのだが、この城はそれを凌駕している。魔界という場には相応しくないと思われる美の数々が場内の至る所に設置されており、かと思えばやはり人間的でない不気味なオブジェや肖像があったりとよくわからないことになっている。
メリーナの進む先にはひとつの階段があり、その両脇に悪魔を象った不気味な像が立てられている。
階段を登り、これまた広く大きな空間に出る。周囲には扉が数多くあり、その中のナジェルマから見て左斜め奥の扉に向かう。そこにもまた、老人が思わず呻くほどの調度品があった。
「これは想定外ですね」
クリードが声をひそめて言う。
「う、うむ。異形にも王族、と言うものがあるのかもしれんな……」
「悪魔『王』と言っているぐらいですから。これはもしかすると、最悪の事態を想定することになるかもしれません」
「それでも、君がいる。他の二人もランキングは二十位代だろう? ここが敵の根城ということはあれど、脱出するくらいは出来るだろう」
「この場にいる敵を見ないことには。今の所、誰の気配も感じられません」
言われて改めて周囲に視線を巡らせるが、確かに人っ子一人出てこない。物寂しい空間が続いているだけだ。老人が知る中で最も広く大きい城だが、そこにはメイド一人見当たらなかった。唯一目にする人物は、先導するメリーナただ一人だけだった。
メリーナが扉を開く。すると、そこには大きな回廊が姿を現した。そして、その奥にはひとつの重厚な大きな扉があった。
「……とにかく、あまり相手を刺激しないよう穏便に」
「うむ、わかっている」
今回ここに来たのは、王からのお言葉を伝えるため。そして、それに加えて相手の戦力の調査も兼ねていた。
もし最悪の事態に陥った場合、ナジェルマ達が見て、持ち帰った情報を元に戦術を立てねばならないからだ。
そうなっても、多大な被害は出こそすれど、最後に立つのは我々人間だ、という強い思いは胸の内にあるのだが。
突如メリーナが立ち止まる。
ナジェルマ達の目の前には五メートルほどはある巨大な扉が鎮座している。その扉の右には悪魔が。左にはどうしてか天使が異様な細かさで彫刻が施されている。
──なぜ魔界に天使の彫刻などがあるのだろうか?
左右を見ると道があり、更に奥へと続いているようだった。
空間は沈黙によって支配され、静寂が音として聞こえてくる。誰もが声を発しない。誰もが音を立てない。
ただ黙って、呆然と目の前の光景を目に焼き付けていた。
「では、この先が玉座の間となっております。悪魔王様はそちらでお待ちです」
メリーナは扉の脇に立つと、これで自分の仕事は終わりだと言うように深くナジェルマ達に一礼をした。
すると、誰も手を触れていないのにも関わらず、まるで彼女のその言葉を待っていたかのようなタイミングで扉が開き始めた。ゆっくりと、その重厚な造りに相応しいだけの遅さで扉が開かれた。
そこは広く、そして高い空間だった。これまでと変わらない黒を基調とした壁に、血を連想させるような赤で装飾されている。
天井には赤々と輝く巨大な水晶があり、室内をまるで生物の体内に入り込んだかのような錯覚をさせる。
そして、そこから吹き付けてくる気配にナジェルマはおろか、クリード達までも顔面を青く、そして白く染める。
水晶の光によって見づらいが、中央には真紅の絨毯が敷かれている。そして、その左右には形容し難いほどの力を感じさせる存在達がいた。
悪魔、吸血鬼、龍、人の形をしながらも人でない不気味な生物、顔の見えない鎧武者。
大きさも姿もまちまちな、ただ、内包した力は桁外れな存在。
その数は百や二百なんてものではない。下手をすれば五百はいそうだ。
そんな彼らが無言のまま呆然と立ち尽くすナジェルマ達を見つめてくる。ただそれだけで圧迫されるような重圧感に蝕まれる。
そんな物理的な力のみの圧力を前に、誰一人として逃げようとはしない。寧ろ、面白そうだと言わんばかりに笑う者も中にはいた。その笑みもよく見れば引きつっている。
だが、ナジェルマは違う。彼は戦いに生きる者ではなく、政界において生きる者。武ではなく知で戦う者。暴力でなく弁舌で戦う者だ。そんな血生臭い戦いには無縁であるはずの彼でさえ、人間として潜在的な恐怖を感じてしまう驚異的な存在を前に、逃げようとしない自分を褒め倒してやりたかった。
ナジェルマの視線が絨毯の先へと動く。
そこには階段があり、左右に幾人かが並んでナジェルマ達を見据えている。この魔界を統べる、悪魔王と呼ばれている存在の側近なのだろう。
それは、黒い翼の天使、紫の髪の美少女、黒いローブのような装束を羽織っただけの美女、動きやすさを重視した黒い外套を纏う美女、銀毛の獣の尾を垂らし四肢に千切れた鎖が付けられた半裸の男、短髪で筋骨隆々の大男、着物をはだけさせた金髪の美女、そして多くの悪魔。
そして――
――あれが……!
回廊で見た素材に加えて血を印象付ける赤の装飾を施された玉座に座し、黒い布で顔半分を隠した男。
しかし、布の隙間から感じる射抜くような鋭い視線は彼らが異形を統べる存在として相応しいと思える。
ナジェルマは完全に圧倒されていた。先ほどまでの勢いはどこに行ったのか、足どころか指一本ろくに動かせなくなってしまっていた。
そんな彼の肩にクリードの逞しい手が置かれる。それだけで、少し救われたような気分になる。この状況下でも普段の態度を崩さない彼には舌を巻く。
「行きましょう。我々が付いております」
「……あ、あぁ」
なんとか声を絞り出し、ゆっくりと足を踏み出す。
異形達の間を抜けるのが不気味に思える。いつ襲われるかわかったものではないその不安に、押し潰されそうだ。
それを奥歯を噛みしめることで必死に堪え、ようやくの思いで階段の下に辿り着く。
本来なら、こちらの身分を名乗るであろう者がいるのが基本なのだが、異形達の集団である彼らにはそんなものは期待出来ない。
化物に人間の常識というものが通用するとは思えないのだ。
なのだが――
「悪魔王様。レンストン王国辺境伯、ナジェルマ・ログ・マライア。御目通りがしたいとのことです」
玉座に最も近しい位置に立つ片眼鏡をかけた悪魔が身分を名乗った。
それに内心動揺していた。
通じないと思っていた常識はこちらにも共通して存在していたらしい。
悪魔王はそんな悪魔の言葉に、一度頷いただけだった。
それにムッとしたが、今は我慢しておく。
「ご紹介に預かりました、ナジェルマと申します」
念の為今一度名乗っておき、相手の様子を探る。しかし、悪魔王の態度は依然として変わらず、ただ黙して座っているだけだ。
「この度、ヴァニラ王がお亡くなりになり、新たにその弟君であらせられるルマンド王が即位されました」
広い空間に、ナジェルマの声だけが反響する。その他の誰も音を立てず、ただ黙って耳を傾けているのみ。
「そしてこの度、先代の国王と友好的であられる貴国に、現国王よりお言葉をお伝えに参りました」
異形の集団を相手に恭しくするのは癪に触る。なぜ、自分よりも階級の高い人間ではない者に、化物に対してこの様に敬わなければならないのか。
そして、ナジェルマが何より我慢ならなかったのは、誰一人として、折角の王のお言葉を授けられるというのにも関わらず、なんの反応を見せようともしないのだ。
苛立ちを必死に抑え、聞いていた言葉を伝えようと口を開こうとして――
「――待ちたまえ」
突如として、あの片眼鏡をかけた悪魔が口を挟んだ。
何だ、と思ってそちらを睨む。しかし、その視線を涼しい顔で流した悪魔は、
「悪魔王様、下等な生物である人間達は、どうやら貴方様とお話をする準備が出来ていない様子」
いきなりの思いもしなかった言葉に、激しい憤りを感じる。当然だろう。なにせ元々対等にすら思っていないのだ。
にも関わらず、口調を自分よりも階級の高い相手に話すのと同じ様に言葉を紡いでいるのだ。これ以上の何が不満なのか。
悪魔の言葉は続く。
「――跪け――」
それほど強く叫んだわけではない。いや、その口調は今までと同じように静かなものだ。だが、その言葉がやけに頭に響く。
直後、意図したわけでもなく、体が勝手に跪いた。
――なっ!?
突然の出来事で、ナジェルマ自身も何でそうなっているのかが理解出来ないでいた。
必死に体を動かそうとしても、指一本、髪の毛一本すら動かせなかった。
背後からも小さく呻き声のようなものが聞こえることから、どうやら他の三人も同じように今の現象に襲われているのだろう。
そうさせたであろう悪魔はその様を眺めた後、
「悪魔王様。彼らも準備が整ったようです」
「御苦労。――よくぞ来た、ナジェルマ・ログ・マライア辺境伯。折角名乗ってもらったわけではあるが、私は貴様ら如きに我が名を聞かせるつもりはない。私のことを呼ぶのなら、皆と同じよう『悪魔王』と呼ぶがいい」
その言葉に耳を疑った。
つまりこの男は、言葉を発しなかったのはこちらが立ったまま話をすることが気に入らなかっただけだったのだ。そして、名を名乗るつもりもないと言った。
何と無礼な男なのか。王家からの使者を長く待たせただけに飽き足らず、このような態度を取られることは憤りを感じずにはいられない。
そんな嫌悪の思いを込めて悪魔王を睨む。しかし、そんな目を向けられても彼は臆面も気にした様子もなく、目の前に跪く四人をつまらなそうに観察している。
「さて、では要件を聞こうか」
挙げ句の果てには先ほど言った言葉をもう一度口にさせようとする始末。
しかし、貴族社会には時折こう言った嫌がらせをする輩もいる。それを思えば、まだ耐えられた。
「はい。先代の国王であるヴァニラ王がお亡くなりになり、新たに即位したルマンド王からのお言葉をお伝えに参りました」
「ほぅ。そのルマンドという王は、何と?」
「はっ。『我がレンストン王家の軍門に下られたり』と」
瞬間、空気が凍る。それは悪魔王配下の異形達のものだ。
軍門に下る、即ち従属となれということだ。
彼らにとって、悪魔王という存在は絶対であると推測出来る。いや、本来君主制の国は皆そうだ。
加えて、彼ら異形にとって人間とは大した力の持たない弱者でしかない。そんな人間が、圧倒的強者である悪魔王に対して傲慢な要求を示したことによって生じる憤怒だ。
「無礼者め……!」
そんな小さな声が聞こえ、その後に、ズン、という重い音が聞こえた。紫髪の少女が表情を歪ませ、黒いローブを羽織った女性が地面にまで届く長髪をわずかに揺らしている。
ナジェルマの動体視力では何が起こったのかわからないが、まるで女性が少女に拳打を放ったようだった。
そんな周りの反応を流し目に、ナジェルマは言葉を続ける。
「『もし拒否した場合、我々は武力行使を厭わない』とも」
つまり、戦争をすることになるということ。
確かにナジェルマから見てこの場にいる異形達は圧倒的強者であることは疑いようもない。しかし、十七位であるクリードが平生を保っているのだ。
それなら、更にその上にいる十六人も平静を保つことが出来るということの裏返しだろう。
――まだ、勝算はあるかもしれない。
「……軍門に下れ、か」
悪魔王の声にあるのは僅かな笑い。それを受けて、その横に立つ者達も微妙な表情で笑う。一人だけは腹立たしそうに睨め付けてきているが。
悪魔王は馬鹿にしたように少し笑った後、
「断る」
とハッキリ答えた。
それを聞き、周りの異形達は当然だというように頷く。
「私は人間の下につくつもりなどない。武力行使もやぶさかではないということだが、貴様ら人間程度に何が出来るというのだ?」
悪魔王の声には嘲笑の色がある。それは瞬く間に伝播し、周りの異形達からも巻き起こる。
悪魔王はそれを片手を上げることで黙らせた。
「では、戦争になってもよろしいのですな?」
「くどい。それほどに自信があるのなら、そこの男とこの中の誰かを戦わせてみるか?」
悪魔王の視線がクリードに向けられる。
あの男はナジェルマを含む四人の中で、誰が一番の実力者なのかを見極め、そしてそれと部下を戦わせようという。
それは自分の部下に対する絶対の信頼と、人間程度は恐るるに足りないという驕りからくるものだ。
悪魔王はすぐに視線を巡らせ、一人の少年に止まった。
「マモン。どうだ?」
髪は黄緑。一四〇前半で子供らしく幼い顔立ちなのだが、尖った耳に何やら小さく文字が彫られたピアスをつけている。ロングシャツにハーフパンツを履き、腰にはチェック柄のシャツを巻くという子供らしい服装だ。
しかし、纏う空気感は明らかに子供のものではない。子供がしてはいけない猟奇的なものに表情が歪められている。
「ボクがやっていいんです?」
少年の声は見た目通り子供特有の甲高い声だ。だが、その声にはどこか嗜虐心に取り憑かれているような雰囲気がある。
「まぁ待て。相手の返答を聞いてからだ。さぁ、どうする?」
悪魔王の低くどこかワイルドな声音が、ナジェルマに重くのしかかる。
ここはその言葉を聞いた方がいいのかが悩みどころだった。今回敵状調査も命令に含まれている。その点で見れば、悪魔王の申し出は願ってもないことではある。
しかし、交渉が決裂した以上すぐに城に戻り、その旨をルマンド王に報告して、戦の準備として世界各地にいるランキング上位者を招集する必要がある。
そうしてどうするかをずっと唸っていると、
「受けましょう」
そうクリードが力強く答えた。
薫はその返答に頷き、一度指を鳴らす。パティンの呪いの含んだ言霊を解呪したのだ。いや、パティンのそれは言霊よりもワンランク上の呪言と呼ばれるものなのだが。
言霊とは言葉に宿るとされる霊的な力だ。それを呪術として薫達は扱う。方法としては命令したい言葉に呪力を込めればいいだけ。
たったそれだけのことで、先ほどのナジェルマ達のように言われた通りになる。
もちろん対策されていれば大した効果は見込めないのだが、魔術を知っている人間が少ないように、呪術――日本で言うところの鬼道を知っている者は限りなく少ない。現代では陰陽道に生まれた人間ぐらいしか知っている者はいないだろう。
よって、あまり対策されているということは少ないと思われる。
使者達は突如体が動くようになったことに驚いた様子だったが、すぐに薫が指名した男が前に一歩進み出る。
そして、腰に差されたレイピアを抜き、体の前で体と平行に構える。それだけで、王宮剣術を彷彿とさせる。構えに甘いところもなく、よく鍛えられていると認識させられる。
マモンに視線を向け、一度頷く。
「殺すことは断じて許さん。格の違いを見せるだけでよい」
「楽しんでいいんですかぁ?」
「構わんが、それほど楽しめるとは思えないぞ」
薫の言葉を聞き、マモンは不満そうに表情を膨らませる。
それでもレイピアを構える男の、前に躍り出る。
男は静かにマモンを見据え、マモンはゆらゆらと左右に体を揺らす。
「いつでもおいでよ。優しくしてあげるから」
マモンが男に無邪気な笑みを見せる。男はしばらく黙ったままだったが、
「……では、参る!」
意を決して地面を蹴った。
薫は知識としてあの世界のことは大体わかっている。まぁ、それも二年前の情報のためにその信憑性は著しく下がるが。
それでも、当時のバトルランキング上位者をベースにある程度強くなったと仮定しても、この魔界にいる面々にとっては脅威にはなり得ない。
それをわからせるための今回の提案だった。
「しかし、よろしいのでありんすか?」
キャルマタがまだナジェルマへの怒りを収めないまま問いかけてくる。その視線がナジェルマから離れないことを見るに、命令を下せば嬉々として殺すことだろう。
もしかすると、彼らのいる絨毯の左右に配置した彼女の部下の吸血鬼や眷属達を飛びかからせるかもしれない。
何にしても、薫はまだ彼らをここで殺すつもりはなかった。彼らにはまだ使い道がある。
「構わん。奴らは生かして返す」
「理由をお聞きしてもよろしいでありんすか?」
キャルマタがその真意を問いただそうとして、アスタロトがバカにしたように鼻で笑う。
「ばーか、なーに言ってんの〜。そんなの、ちょっと考えればパイモンでもわかるって」
「オレをバカって言ってねーか? 言ってるよな、よし表出ろ。テメーの肉を捻り潰してミンチにしてやる」
「よせ、人間の前だぞ」
「それにあまりこの場で騒々しいと、我が主も怒るであろぅな」
九老が静かに言った言葉に皆が黙る。例えそれが本当の主人の器であっても、現在の彼らの主人は薫だ。
部下の不手際は主人の責任。つまり、彼らが何か問題を起こすと主人である薫が辱めを受けることになる。
人間の前で恥辱を与えるのは何としても避けねばならないことだった。
皆が黙った時、静かに声が上がる。
「見せしめ、と言ったところでしょうか?」
キャルマタの隣にいる黒いローブを羽織った妙齢の美女。一七〇前半はある身長に地面に届くほど長く伸ばされた紫の髪。
肌は瑞々しく、まるでさっきまで入浴していたかのようだ。事実として、彼女が羽織っているローブの下は何も身につけていなかったりする。
彼女はゴルゴーン。またの名をメデゥーサと言い、目を合わせた相手を石に変える能力を持った化物だ。
彼女がこんな格好なのには理由がある。それは彼女に与えた部屋が原因だ。彼女に与えた部屋は玉座の間と同じ程広くて高い造りになっている。竜種という巨大な生物がいても尚あまりある高さだと言えば、その凄さは少しはわかるだろう。
彼女はそこ一面を改造し、部屋の半分ほどを毒々しい色の沼に浸け、毎日その中で身を隠している。
扉は魔術で沼の浸かっていないギリギリの場所へ移動させており、開いて眼に映るのは不気味な水面が広くあるだけだ。
今回キャルマタが連れてきた時も、彼女はその沼の中で静かにしていたのだろう。
薫は彼女の発した言葉に頷く。
「ムッ、どう言うことでありんすか、ゴルゴーン?」
「簡単なこと。このままここで皆殺しにしたところで結局は変わらない。しかし、仕掛けた時に人間達が準備を終えていない可能性が浮上する」
魔界からレンストン城までは馬車で一日と少しの時間が必要だ。それまでに帰ってこなくても、何か問題があった、として準備を進めるとは思えない。
少なくとも数日。それほど経たなければ人間達は準備に取り掛からないだろう。
「それは攻め入る側からすれば良いことではないか?」
「違うわ、スカアハ」
スカアハの疑問をサリエルが否定する。
「確かに、本来の戦争であればそれはこれとないほどチャンスに違いないわ。けれど、それは力の均衡が取れてる、または戦力差が微々たるものであるという前提の上のもの」
「人間と我々ヒトならざる者の戦力差は埋めようのない圧倒的なものよ」
「言ってしまえば、これは悪魔王様のご慈悲だ」
サリエルの言葉に九老とパティンが続く。
戦闘、戦争というものは彼らの言うように抗う力があって初めて成り立つもの。しかし、薫を含めた異形達には個と軍両方において人間のソレをはるかに凌駕する。
それはもう戦争ではない。ただの大虐殺だ。
その結果がわかりきっているため、せめてもの情けとして、準備だけはしっかりと整えさせてやろうという考えなのだ。
「手緩いな。ワシなら今ここで殺し、すぐにでも本拠をも破壊しに行くが」
二メートル以上はある巨大な男が言う。白髪を短くした筋骨隆々の体はとても大きく、ファーのついたコート越しにもその筋肉の形がわかるほどだ。双眸は鋭く細められており、手入れの行き届いた顎髭によって厳格な様相を見せている。
「わかってないな〜。バハムート、ゴルゴーンは何て言ってた〜?」
大男――バハムートはアスタロトにそう問われ、顎に自身の大きな手を当てる。
「……見せしめ、と言っていたが」
「そのとーり! この使者達を生かして返したら、奴らはその主人に今回のことを報告するでしょ? その説明が終わった時に――」
アスタロトがそこまで説明した時、バハムートとキャルマタが理解したように「あっ」と声を漏らした。
流石にこれ以上は使者達に聞かせることではない。元々彼らは小声で話していたが、今はマモンが戦っているのだ。
「――そこまでだ。今はマモンのお遊びの最中だぞ。折角あの人間が尽力して見せているのだ。その勇敢な姿をその目に焼き付けてやろうではないか」
そう言うと、皆が声を忍ばせて笑う。
先程から部下達の話し声に耳を傾けながら、視線はずっとマモンの戦闘に向けていた。
男の持つレイピアの基本は斬るための武器ではなく、突くための刺突用の武器だ。
それにより、男の攻撃は線ではなく点での攻撃。それは薫の槍での打突と同じく最短距離で敵を穿つためのもの。
そして、その男は使者が天狗になるであろう程の実力を兼ね備えてるのはその攻防でよくわかった。
幾重にも繰り広げられる男の猛攻。マモンはそれを見て軽やかなステップを踏んで躱し続ける。
マモンには掠りもしないが、彼に攻撃させようと思わせないのはなかなかに難しいことだ。
そう。マモンはまだ攻撃をしていない。興味深そうに男の動きを観察し続けている。
そのおかげで、元々の体力の違いもあるが、男の方ばかり疲労させられている。
これはナジェルマ以外の見ている者全員が気付いていることだが、マモンと戦っている男はまだ余力を残している。男の筋肉の機微や呼吸、足運びからもわかることだが、決定打になる行動は、刺突を躱される度、背に当てている手が無意識に動いているのだ。
男は間違いなく二刀使い。右手のレイピアに合わせ、左手にマンゴーシュと呼ばれる短剣を持って連続攻撃を仕掛けるのが男の戦法だ。
それを長く続けていたからか、レイピア一本だけの戦法はまだ慣れてはいないのだろう。
マモンもそれがわかっており、攻撃を避ける度に不服そうに顔を膨らませる。手を抜かれていると思っているのだ。
「おじさーん、手を抜いてちゃ流石のボクも怒るよ〜? 左手に持つ武器はないの〜?」
遂にマモンが不満を漏らした。彼は戦闘狂ではないのだが、薫の命令を達成するには手を抜かれていると出来ないと思っている。
だから、彼はムスッと表情をしかめてみせる。
しかし、男はそれに応えようとしない。護衛という任務において、男にとってはそれほどまでに本気を出すこともないのだろう。その為か、男は短剣を持っていない。
チラリと背後の三人に目を向けるが、彼らもレイピアに見合うだけの短剣を持っている様子はない。
男はしばらく黙っていた。額に浮かんだ大粒の汗を拭う素振りを見せず、ただ肩を上下に揺らしてマモンを見据えている。
その男が不意にレイピアを下ろした。
「もう充分です。今のままでは絶対に勝てない」
男の呟きを聞き、マモンがこちらを振り返る。
突如として負けを認めた男に対しての驚きもあるのだろうが、純粋に負けを認めた場合はどうすればいいのかと指示を求めているのだ。
普段ならそんなことは関係なしに、殺せ、と命を下すのだが、今回はそうは出来ない。
「ご苦労だった。マモン、退がれ」
言われたマモンは恭しく頭を下げ、元いたバハムートの隣へと戻っていく。
それを見送り、視線を眼下の四人へと戻す。
「では、交渉決裂とのことで貴様は上に報告しろ。その点でひとつ訊いておきたいことがある」
ナジェルマは今の戦いの結果に呆然としており、何度も口を開閉させている。それも、武器を収めた男によって意識をこちらに戻した。
「な、なんでございましょう……?」
その声には明らかな畏怖の色があった。
薫はそんなことには興味を持たず、訊こうとしていた事を続けた。
「貴様らが戦の準備を整え終えるのに、今からだとどれほどの時間がかかる?」
問われたナジェルマは傍らに立つ男を見やり、一度深呼吸をする。
「こ、九日ほどです……っ!」
「九日か。わかった。では九日後の昼に我々は蹂躙を開始する。貴様らの王にそう伝えるがいい」
今までと違い、その言葉には殺気が込められている。我々に牙を剥いた以上、貴様らは排除すべき敵である、とその身に嫌という程わからせる為に。
「フェンリル。使者を外まで送ってやれ」
薫にそう言われ、獣の尾を垂らし、長身痩躯の四肢に千切れた鎖をつけた半裸の男が無表情のまま頷く。
しかし――
「け、結構でございます! 我々は、急ぎ準備をしますので!」
「ほぅ、そうか。だが、初めて来たのでは城内は迷宮に近かろう。外に待機しているメイドに頼むがよい」
薫がそう宣うと、使者達は一礼し、逃げるようにその場から立ち去った。
その気配も充分に離れた時、アスタロトに目を向ける。
「アスタロト。後はわかっているな?」
「もちろん。奴らが主君に報告を終えたら、一気に吹っ飛ばしてくるよ」
そう言って、その場から姿を消す。
見せしめ、というのはそういう事だ。報告を終えた後、悪魔王直々の言葉として、使者達を目の前で殺させる。
「次にこうなるのは、貴様だ」
という謂わば宣戦布告だ。
薫は一度周囲の様子を観察した後、顔を隠していた布を解き、未だそこに残る部下達に向けて声を張り上げた。
「皆、ご苦労だった! 九日後、人間共に襲撃を仕掛ける。それまで、各々英気を養うがよい! 構成部隊はパティンとパイモンが話し合い、後日私の元へ報告せよ!」
「自室へと資料をお持ちすればよろしいでしょうか?」
「いや、私はもうすぐ地上へと降りる。地上の私の元まで持って来てもらいたい」
「畏まりました」
パティンとパイモンが恭しく頭を下げ、薫は眼下の異形達に向き直った。
「では、各々の業務へと戻ってくれ」
指示を下すと、皆が早々に立ち去っていく。
流れていく異形の波を尻目に腰を上げ、ゴルゴーンに声をかけた。
「今日はよく来てくれたな」
「キャルマタが煩かったので」
「悪魔王様がお呼びなら来るのが当然でありんす!」
「こんな感じでずっと煩かったので」
キャルマタはゴルゴーンに尚も忠義心を説こうと突っかかるのだが、当のゴルゴーン自身が軽くあしらう様を見て、薫は柔らかな笑みを見せる。
「なんであれ、来てくれた時は嬉しかったよ。また来てくれると、こちらとしてもありがたい」
「……考えておきます」
それだけを言いそっぽを向く。そんな彼女の返答にまたもやキャルマタが食いつくが、それを九老が止め、そして彼女の顔を覗き込む。
そして、ニヤリといやらしく笑った。
「ゴルゴーンが面を赤らめておるわ。これは脈ありといったところかのぅ?」
「えぇっ、マジで!? こいつは驚きだな!」
「ぐわはははっ! 怪物といえどやはり生あるモノ。色恋沙汰は必要か!」
「あなた達、石になりたいようですねぇ……!」
冷え切ったゴルゴーンの声音にイジリ三馬鹿の九老、パイモン、バハムートが距離を取る。
「いーぞ、いーぞ、やっちまえゴルゴーン!」
それを深緑の髪を持った露出の高い女が笑って囃し立てる。
殆ど水着と言っても差し支えない服だ。寧ろ、胸と下半身の必要最低限の箇所しか隠れていない裸体に近い服である。一六〇前半ほどの身長で、周囲の女性陣に比べたら控えめの胸。腕の筋肉はある程度ついているらしく、その筋が肌に現れている。
そして、そんな格好には不釣り合いな右肩に担がれた巨大な鎌。
「アスモデウス〜! あんたも入ったらどうよ〜?」
「嫌よ。あたしは器様以外には興味がないの。それに、ベルフェゴールと違ってあたしは体という武器もあるし」
女性――ベルフェゴールに己の想いを吐露するという見当違いの返答をするのは頭の右に牛の、左には羊の角が生えたグラマラスな体つきの女性だ。
一七〇半ばの長身に、腰にまで届く赤髪。胸は大きく、そして尻も大きい。くびれはキュッと引き締まっており、それでいて筋肉も見事なほど引き締まっている。チューブトップに右は膝下に、左はホットパンツの丈に切り落とされたジーンズを履いている。
「体が武器? ケッ、やっぱり体術で戦う女は言うことがチゲーや」
「でしょ〜〜?」
おそらく言われていることが嫌味だと気付いていないのだろう。アスモデウスは誇らしげに胸を張ってドヤ顔して見せている。
そんな彼女の反応を見て、ベルフェゴールは苛立たしそうに頭を掻きむしっていた。
そんな外野のことなどつゆ知らず、ゴルゴーンの凍てついた眼差しを向けられる三人は、
「その姿ではワシらを捉えることは出来まい!」
「出来ますよ。眼は追いつきますので。それに、バハムート。その姿のあなたが一番鈍足なので、あなたから石にして差し上げましょう!」
「よっしゃ、バハムートのジジイを囮にオレたちは逃げるぞ、茨木童子!」
「鬼事など何百年ぶりか! 懐かしいのぅ! マモン、貴様もやらぬか?」
「地下で人間の体をいじりたいから、パース!」
マモンの返答を聞いたパイモンと九老がつまらなそうに唇を尖らせる。
「何だ、ノリわりー奴め。このマッドサイエンティスト!」
「ボク何も作ってないし、人間が啼き喚くのを聞くのが好きなだけだから!」
「“さでぃすてぃっく”な童よの……」
「あっ!? そんなこと言ってる間に動けなくなった!!」
「ぬぉ!? 吾もよ!」
二人が慌てたように暴れる。まるで今の自分の体がどうなっているかに気付いていない。
そんな二人を見かねたスカアハが呆れ混じりに声をかける。
「おぬしら、既に足が石になっておるぞ」
「はぁ!? バハムートはどうした!?」
「バハムートなら目の前で石になってるだろう」
「一瞬でやられてて笑えたぜ」
パイモンの疑問にパティンが、それを見ての感想をベルフェゴールが答える。見ると、本当に二メートル近い石像が出来上がっており、その表情は微妙に愉悦に歪んでいる。
実にあっさりと視界に捉えられたようだ。
「早過ぎるだろっ!」
「もっと時間を稼がんか! このうつけめ!!」
「――捕まえました」
二人が、ビクッ、と身を竦める。ゴルゴーンの冷え切った声音は薫でさえも寒気を感じずにはいられなかった。
長い髪は不気味に揺れ動いており、捕まってしまった二人も表情を恐怖に歪めてしまっている。
まさしく、名前の通り『恐ろしいもの』だ。
「お覚悟を」
その様は、一匹の大きな蛇だった。地を這い、その低い姿勢のまま滑るように二人との距離を詰め、二人の首筋にしなやかな指先が当てられている。
苦し紛れに腕を振るう二人だったが、まるでそこに来るのがわかっていたように全てを避け、その手も動かないように石にされる。
彼女が二人へと近づいた時の這う姿勢は通常の戦闘時にも見せることがあるのだが、今あのローブの下は何もない裸体だ。
物を身につけている普段ならいいが、今は見えてはいけない部分まで僅かに見えてしまい少々申し訳ない気持ちになる。
「わ、わわ我が主――」
「自業自得だ。潔くお縄につけ」
「許可も出たようですし、お覚悟を」
「ご、後生だ!! お、オレが悪かった!」
「許しません」
「わ、吾が悪かった! 吾と貴様の仲に免じて――」
「そこまで仲が良かった記憶がありません」
「良いであろぅっ!?」
パイモンと九老の必死の説得も虚しく、ゴルゴーンの髪が不気味にたなびく。その手が再びゆっくりと二人の首筋に当てられた。
「ほどほどにな。パティン、アスモデウス。後のことは二人に任せる」
「畏まりました」
「承知致しました」
薫はそれだけを言い置き、その光景に背を向ける。
パティンに地上に戻るとは言ったが、まだ仕事がひとつ残っている。
「さて、サリエルとスカアハはこのまま私についてきてほしい。なにやら、フェンリルが話があるようだからな」
そう言い、先程から黙って眼差しを送り続けてくる側近に目を向けた。
フェンリルは一度頷くと、先導して扉に向かう。ついて来い、ということらしい。
薫は一度二人と目配せをしてからその後を追った。




